第5話 唯一の特技ですからね

 机と椅子を廊下側の壁に寄せて広く取った教室内の床には、あちこちに生地が広げられて海に浮かぶ島のようだ。

 作業の手を完全に止めて皆が視線をこちらに向けている。


 巻いた漆黒ベロア生地を100センチほどだけ引っぱり出した周りを「絶望」の衣装メンバーが囲んでいる。パーツを隙間なく配置した設計図を脇に置いて、型紙がマチ針で留められた生地は裁断の直前だ。恭しくハサミを握る「絶望」の手も止まっている。


 言われてはいなかったが、本当は作業を手伝って欲しかったんだと思うと、申し訳なくなって頭を下げた。


 大丈夫大丈夫、と「絶望」たちは頷いて見せてから、揃えた指先を左織と飯田の方に順に向けて、稽古をするよう促す。


 こっちは粛々と作業を進めるだけさ、と言いたげに爽やかな笑みを見せる「絶望」。

 頑張れよ、という顔を私に向けてから集団に歩み寄る春雨のために、声枯れメンバーたちは身を寄せて床にスペースを作った。縫丸ヌイマルは彼の背中で眠そうにしたままだが、両手の使えるようになった春雨のことを喜んでいる。彼の変化を祝福しているのだ。

 

 火照った頭が急速に冷静を取り戻してゆく。


 私は春雨とも左織とも、まあ一応は降秋くんとも今はふつうに喋ることができる。人形劇と同じように掛け合いしながらでないと他人と会話はできなかったはずだが……。

 

 パペタ氏、あなたは喜んでいるのか? 進む変化を私より先に気付いていたのか?


 無言で問いかけるうち。


 ぴんと伸ばした「絶望」指先の向こうの左織、さらに先で何かが輝きはじめた。

 プロジェクターから放たれる光の束がスクリーンで像を結んでいる。

 過去の稽古動画のサムネが並んでいたが、カチっ、と音を鳴てて飯田が操作すると、画面はブラックアウトしてから、白抜きで大きな数字が現れる。


 +03:23・932


 何かの予感が働き、私は顔のハンカチを取り去って周囲を見渡して警戒する。


 みんなはきょとんとした表情をしているだけだ。


 末尾の3桁が急激に動いている。左隣の「・」を挟んだ4桁目が今一つ減った、カウントダウンは進んでいる。通し稽古の開始まで3分と少し。


 台詞は覚えている。

 でも、野外劇のステージ部は、教室の5倍の大きさはある。

 生地を囲む幾つもの島が散在して今は真っすぐに歩くこともできない。


「踊りはなしで。台詞と歌だけ。朱背さんと私と二人で通すので、他の人は作業止めて見てて」


 教卓を両手で持ち上げ、スクリーンの脇に移動させながら左織が言い放った。


 劇の登場人物は20人、台詞のない追っ手二人組と「希望」、それから公女プリンセスを除けば16人。


 左織の手招きに呼ばれてスクリーンと教卓に挟まれる位置に二人で並んだ。


 踊りのことは忘れ、みんなの台詞を頭の中で何倍速かで再生する。同時に複数人が話すところはどうすればいいのか……。一人を選んで言うしかないか。


 とにかく、独唱が終わってからだ。


 教室の5倍の広さはある舞台で最初に登場するのは公女プリンセス一人だ。ぽつんと立ち、うな垂れていた彼女が顔を上げて劇が始まる。


 +01:14・662


 悲しげな歌声がグラウンドに響きわたって、彼女の声だけが辺りを占めて、観客は息をのむだろう。耳を打ち、肌を震わす理由が、たった一人の歌声であることにようやく気付く中、パイプオルガンの伴奏が鳴り響くのだ。


 +00:34・321


 開始まであと30秒と少し。

 振り向いて見ていたスクリーンから視線を隣に移す。

 左織の様子はいつもと同じ。さすがとしか言いようがない風格。緊張の欠片も見せない。

 なぜかじっとこちらを見ている。

 にこっと私は笑顔を見せてみたが、彼女は厳しめの表情を変えないまま。


「歌い出しから声張って」



 静かな声で指示が出された――左織は歌わない。 


 +00:05・226


 スクリーンに一瞬だけ眼をやる。


 あと5秒。


 彼女はじっとこちらを見ている。

 自分の鼓動が耳で脈打ち、胸の内のカウントダウンが狂いそうになる。


 ダメです、ムリです、そんな目立つことは……。

 あわわと眼を泳がせていたら春雨が見える。


 彼は拳を作って親指を立てた。

 大階段の踊り場に響く彼の大きな拍手が私の耳元で再生される。

 ナイツガッツ、春雨はまだ私に思念を送り続けている。


 ……まあ、うん。どうしようかな、私の唯一の特技を見せつけてやろう……かな、そういうのもありだね。これしかないんだから、ねえ、どう思う?


 返事のないパペタ氏を胸元で握り締める。私に生じる変化を彼は祝福している。


 胸の内で進んでいたカウントダウンが終わり、私は顔を上げた――

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