第3篇 噛み砕いて味わって

第1話 ハスキーすぎる

「何の紐? 丈夫そうでいい紐だね」


 8月26日。

 稽古も3日目に入ると気が緩んで来る。

 結局のところ左織がいるんから何かあっても何とかしてくれるだろ的な全能性を感じながら正門をくぐったら春雨とばったり出くわした。

 いつも違う気配……。春雨の腕には縫丸ヌイマルがいない。

 何事か! と見開いた眼に見えるのは、盛夏シャツの胸にある直線の交差――×印。

 

「おはよう、朱背」


 もらった挨拶を返しながら彼の左右に回り込んで両腕が空っぽであることを確認した。

 

 帯状で分厚いコットンの紐が、硬そうに盛り上がった彼の胸で交差している。×印には何らかの宗教とか政治的主張が表れている感じはない。そうであっても別にいいけど、春雨には似合わないとは思う。どこか懐かしい紺色の紐についてストレートに聞いてみる。


 くるっと回転した彼が背中を見せた。


 こんなことになっとんのよ


 と言いたげな縫丸ヌイマルが背中にくくりつけられている。

 両脇の下をくぐって春雨の肩に垂れた帯が胸で交差して背中に戻り、縫丸ヌイマルの可愛い尻を押さえ込んでいる。紐の端は春雨の腹に戻って蝶々結びされている。

 多少動きまわっても落下したりしない、古式ゆかしい

 ぬいぐるみで赤ちゃんのお世話ごっこをした、おばあちゃん家の記憶が脳裏に蘇る。当然、一人遊びである。駐車場になっちゃってもう行くことのできない懐かしい家を思い出しながら、赤ちゃんごっこに何も言わずに付き合っている優しい縫丸ヌイマルの頭を撫でた。


 背負う方が両手の自由度は高いね。

 私はほら、使えるからね。

 そう言って、パペタ氏を付けた右手を彼に見せた。


 春雨は縫丸ヌイマルを腕に抱くのを止めたらしい。

 理由はよく分からないが、まあいいんじゃないか。


 昨日の事件を経て何か考えたんだろう。

 彼の選び取った本物の縫丸ヌイマルはいつもより眠そうな眼。赤ちゃんの演技をしているのかな。

 

 教室へ向かう彼の足どりはいつもより力強い。

 今日こそ、左織に告げるのかもしれない。そろそろ言えよ。


 あ。

 もしかして、がばっと抱きしめて「好き」って言う私の案を採用したのか? ナイスガッツ、早めによろしく。


 **


 扉をスライドした瞬間に感じる気配。

 こちらに眼を遣る者たちの顔には朝だというのに疲れが漂っている。


 こそりと自分の席に向かおうとしたところで左織に呼び止められた。


「おはよう、身体の調子はどうかな? 特に喉とか声とか」

「はい、絶好調に近いと感じております」


 ぷはっ。ちゃんと喋れた、緊張したー。

 眼の前の彼女は笑みを浮かべているから、変な返事にはなってないはず。

 

 左織の話によれば、どうやら喉を傷めている者が結構いるらしい。


 屋内と違って野外劇は舞台そのものが広いし、観客席と明確な境界のない平場である。

 声を届かせようとする気持ちが声を荒ぶらせた。

 初日から続く通し稽古は、慣れない声帯には強すぎる負担だったのだ。

 

 リーダーの采配ミス。

 誰かが何か言いだしてもおかしくはなかったけど。


「負担のない発声を、ぅ気を付けるしかない」

「日があって良かったなあ、ぅ作業を片付ける? 衣装は?」


 二人の声はハスキー。ほぼほぼメインキャラクターの「迷い」と「絶望」である。


 さっき左織に聞かれたけど、私は台詞ないから声出してないんで傷める可能性ゼロなんだけどね。 

 衣装メンバーの作業工程を確認しようとみんなが左織の元に集まって来るので咄嗟に後ろずさるうち。


「そのパペット、それ手縫いだよね、こっち手伝ってくれない?」

「はい、分かりました」


 胸の辺りでぎゅっとしていたパペタ氏に、衣装チーフがぐいぐい顔を近づけて観察しながら呼びかけるので即答した。


 変じゃないか? 大丈夫。私はしっかり返事した。


「……できます、はい、パペット付けたままで縫えますんで、はい」


 ベロア生地のワンピースだ。

 ネットで購入した中世っぽさのある市販のドレスだが、大きさが合わず、そのままだとハロウィーン感が出てしまうので演者たちぞれぞれに合わせてサイズを詰める作業のようだ。


 パペットの衣装作りで慣れている私の手つきを褒められた。

 

「はい、人形劇をしておりますので、はい、小さい衣装ですので手縫いなのです、はい、テールコート? はい、幾つか作ったことがあります」

 

 パペタ氏の口をパクパクさせて緊張を誤魔化しながら受け答えする。

 男子の衣装は市販品が高価なのでほぼ一から手作りするとのこと。へえ。と聞き流しているうち、いつの間にか、私は作業の遅れている「絶望」のテールコート製作メンバーに入れられた。

 せっかくいい感じに慣れてきたのに……。

 背中を丸めて「絶望」の集団に近づいてから、声だけ元気よく出してみる。 


「こんにちは。朱背、岩井朱背です。よろしくお願いします」

  

 すっごく普通の挨拶じゃなかった? 普通の人みたいだったよ。いや私は元々普通である。


 女子たちと、仕立て職人的な彼女たちに採寸される貴公子的みたいな「絶望」。みんな声が枯れているのか、大きく頷くだけで歓迎を示した。

 

 今日はあんまり喋らなくても大丈夫そう。うまくやれそうな気がしてきた。

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