第8話 恋はまだ終わっていない
春雨はまだ彼女のことを覚えていて何も忘れていない。
ふつうに通学しているが、
春雨と左織と
左織は何とかしてあげられなかったの?
言いそうになってとどめた自分を褒める。
――何もしないはずはない。
全ての有効な手段を試みた結果、この程度で済んでいるのかもしれない。彼は孤高の謎深男子だがふつうに学園生活を送っているし、成績も上位グループに入っている。何の不自由なくすくすくと育った私より、ある意味で上じゃないか。
好きって言えない彼のことを私は奥手すぎるバカだと思った。
でも、そんな簡単な言葉で表してよいものか?
――好き。
彼は右夏のことが「好き(仮)」だった――言い表すことのできない感情を仮に「好き(仮)」と呼ぶとして、左織には
ちゃんと左織に伝えようとしていたよ。
好きって言葉じゃなくて別ので言い表そうと考えていたんだ。
情けなく迷ってる春雨の様子を事細かに伝えたい気持ちになったが、何かが嘘になりそうなので止めた。
ビヨンビヨンとそよぐ風を受けて眠る彼の目が覚めたら、ちゃんと彼は伝えるだろう。
――勝手に、どっか行くなよおぉ
劇の終わり、彼の叫びは左織に向けてだったのか、それとも
意識の半分は闇に沈みかけていた。
――もう暗いから
彼の意識は小3の夏に飛んでいたのかもしれない。
それとも、ずっと後悔していたことを言ったのか……。
事故があったのは、道路は見えにくくなってるけど、まだ空の明るい時間だ、きっと彼は言わなかった。
――バイバイ
いつものとおりそう言って手を振っただけなんじゃないか。
もう二度と言うことのできない「もう暗いから」って心配の気持ちを、きっと何万回も胸の内で繰り返したのを、熱中症ぎみの眩暈の中だけど言えたことに私は安堵した。きっと左織は、私よりずっと深いところから湧く喜びを抱いたのだと確信している。
「ねえ、左織、本当にどっかいっちゃうの? 卒業までくらいなんとかならんか?」
素で私は頼んだ。
ともかく野外劇終わったらいなくなるって話じゃろ。
春雨が頑張って気持ちを伝えてもダメか? どうにかならんか?
ふふ、っと笑って結末は変わらないことを彼女は示す。
受験はどうする? この時期に転校なんてできんじゃろ。
周りには当然、彼女は医学部に進学すると思われている。
「あんまり学校には来なくなるけど、出席日数ギリギリで卒業はするから」
左織がそう言うので、これから好きとかなんとか言おうとしている春雨が可哀そうになった。でもどうにもできない。彼女にだってどうにもならない問題なのか。
聞いてみたら、体調は万全で、自分より健康な者はいないと断言した。きらきらと光りを放つような彼女が言うのを、私は信じることにした。
――バイバイ王子様
フィナーレで、彼女は左手を大きく振っていた。
左手? 彼女の利き手は右手である。今もビヨンビヨンと右手で下敷きを振っている。
右手はどうしたんだろう? 彼女の右手は……。
左織と右夏、左と右が入っている珍しい名前だ。
名前がきっかけで仲良くなったりしたのかな。
右夏がいなくなって、自分の右手を失くしたように思ったのか。
残っているのは左手だけだ。
「
「こうね、犀川はこっち」
彼女は、眠ったままの春雨の腹から
彼女の左手が
左織は残った左手で、何かにバイバイするつもりなんじゃないだろうか。
やりたいこと、教えてくれまいか。
……笑われる? そんなことは絶対に絶対にない、
役者
にっ、と彼女は笑った。
大学には進学しないそうだ。
オーディションの一つに既に通っていて、秋には映画の撮影が始まるらしい。
――バイバイ王子様
幸せそうに眠っている王子様は、多少うじうじするかもしれないけど、1週間以内に何とか気持ちを伝えるだろう。
――バイバイ王子様
でも彼女は、左手を大きく振るんだ。
バイバイってまだ言えない春雨に見せつけるように――
というのは全部演技で、実はちっとも
そういう、すごく気の長い人なんじゃないかなって、ちょっと思った。
ビヨンビヨン
下敷きのゆるやかな風が、春雨の頬を撫でている。
(第1篇 恋はまだ終わっていない 了)
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