第5話 物理的にソフトです

『夏休みまで私と付き合ってくれない? ……そう夏休みが始まるまで』


 始業式の日、期限を設けて交際を打診した左織。

 条件とともに申し入れを承諾したのは春雨自身である。

 咳払いを一つしたパペタ氏は、改めて流れを整理した。


『左織くんが最初に考えていたことは何ですか……そう、野外劇です。もしかしたら4月よりもっと以前から準備を進めていたのかもしれません』


「こじつけだ。付き合ってた間、そんなの話題にもならなかった」


『大事なことを言わないってよくあるじゃないですか。君も、まだ左織くんに、好きって言えてないんでしょう?』


 黙るしかない春雨に向かって、ソフトな探偵――パペタ氏は辛辣に続ける。


『君は単に不甲斐ないだけかもしれませんが、左織くんが言わなかったことには別の理由があります……ちょっとは自分で考えたらどうですか、付き合ってる間、彼女をずっと見てたんでしょう?』


 しばらく沈黙の後、春雨は、分かんねえ、という顔でこっちを見た。


 ふむう、という表情のパペタ氏。



『左織くんには目的というよりも彼女自身に制約がある可能性があります、予定を立てることができないような。つまり、彼女には普段どおりの生活を送ることができない事情があるとしたら?』


 今日から1週間準備して、創立祭で野外劇をやる。

 そしたらどうするつもりなんだろう。彼女のその先は、まるで見通せなくて胸が騒ぐ。予感を隠して私は二人の会話に割り込んだ。


「本番まで1週間もある。まだ私たちができることが残っているはずだよ」

「なんだよ、劇が終わったら何だって言うんだ? 新学期がはじまって、いつもどおりしてたらすぐに受験シーズンで、そしたら……」


 語気は強いが、怯えているのが分かった。後悔もしているかもしれない。

 

 恥ずかしいからとか、男らしさにそぐわないとか考えて言えないままの言葉はどうなるんだろう。どこにもゆけずに心の闇の隅っこに沈んで、どんどん固くなっていったりしないか?


 もしも、もしかして左織がいなくなることを想像したら、私は立ち上がっていた。横に視線を移して。


「悪いね。もう踊り場は卒業する、左織に会って直接話をするよ……何って、クラス替えの時に助けてくれてありがとうってまだ言ってないからな、君のことは自分自身で解決したらいいと思うよ」


『実はわたくしもそう思っていました。謎解きする前に体当たりしてみてはどうかと、ぶつかり稽古で解決できるものは、謎ではない別の何かですよ、きっと』

 

 立ち上がった私と隣のパペタ氏は、まだ座り込んだ春雨を見下ろしている。


 まだ彼は迷っている。縫丸ヌイマル、そっと力を貸してやってくれ。


「……もしも、左織に何かあるんだったら、俺は嫌だ」


 こちらを見上げた彼が見せたのは、これから土俵に上がろうとする男の顔だ。

 私は左手で拳をつくり親指を立てながら、奮い立った彼の心を讃えた。ナイスガッツ。

 パペタ氏は構造上、手指は動かせないのだが、同じポーズをしていると思う。うんうん。


 端役二人が階段を走り下りる――


 会いたい気持ちが先走って私は派手に転んだ―― 


  **


「へえ、それでメッセージを見てなかったというわけ?」


 こえええ。

 再び出血した鼻を押さえていたハンカチで私はこっそり眼元を拭った。


 8月終わりのグラウンドは灼熱である。

 だが本番が近づくにつれて現場で稽古しようとする者たちが増えるから、今日が一番ましな地獄とも言える。白目である。私と春雨が踊り場で笑ってた9時過ぎ、実は参集せよというメッセージが届いていたが気付かなかった。静かに怒気を発する左織の前で私は潤む眼球を真砂土から立ち上る熱気で乾燥させようとしている。


 野外劇はなぜ野外で行うのだろうか……。伝統が重い。

 130年前はもっと涼しかったはずなので、先輩たちは涼しい顔で青春していたんじゃないか。こっちは泥水みたいな汗だくだ。


「これ、キレイだから。足場の影で休んでていいよ、洗ってくる」


 私の手から血まみれのハンカチを取って水道の方に走ってゆく左織の背中を眼で追う。

 彼女に渡された代わりのものは真っ白で、ちょっと鼻に当てることはできない。大丈夫、もう流血は止まっている。

 

 投げつけるような感じで私は彼女の背中に言う。

 今じゃない気もするけど、もう言えないかもしれん、鼻どおりは良くないが声を張り上げた。


「4月のぉお! クラス替えの時に! あー、あー、えっと、あー」


 言い淀むうちにも彼女の背中が遠くなる。


「助けてくれたんだと思ってるから! あれなー、ありがとうな!」


 彼女は走る勢いを変えず、片手を振るだけで返事をした。


 パンっ、パンっ


 すぐに戻ってきた彼女は固く絞ったハンカチを四つ折りにして両手で挟むようにして叩いてしわを伸ばした。


 でも、ちらっとこっちを見て、ハンカチを広げて私の顔に近づける。

 

「ぅあー、ぅあー」


 吸気に引き寄せられた布が口に張り付いて私はひとり騒ぐ。

 でも濡れたハンカチはすーっと涼しかった。

 騒いでいるうちに手から取られたもの――左織自身のものが、私の頭の上にぱさりと掛けられる。

  

「日陰で休んでてって言ったでしょ」


 白いハンカチをベールのように乗せて「足場」に向かった。

 

 足場――グラウンドには業者が設置した建築現場で使われているものと同じ足場が、大きな壁のように立っている。正面に1枚、やや隙間をあけて左右に張り出すように各1枚。


 足場の上から背景絵が垂れ下がっている。

 劇場と違ってグラウンドで行う野外劇では、観客席と舞台の間には高低差もなく、明確な境界もないが、「足場」によって少なくとも舞台の奥行は限定されている。


 影でうずくまり、ぜえぜえ言っている春雨を見つけた。

 彼はグラウンドに出た途端におかしくなって、ずっと足場に倒れ込んでいる。

 逞しげな見た目と違って体力の全然ないタイプの男なのだ。

 左織には相応しくないような気もするね。隣から歌うような声。

  

はるくん、15分したら稽古はじめるよ、大丈夫?」


「お、おお……おう」


 安定の返しである。元カレのために水を汲みに左織がまた走ってゆく。

 見るからに完全健康体だ。どこか体調が悪いようではないから安心していいのかな。

 彼女はどっかから拾ってきたのか1・5ℓペットボトルに勢いよく水を溜めはじめた。先日、クラスメイトの飯田のインスタで見たのだが、東京人は水道水を飲まないらしい。I県民はみんながぶがぶ飲む。別にバカでも変でもない。

 南の方角を向けば常に霊峰白山を拝める。水道の元をたどれば、あのへんからの伏流水なのだから、神聖な力をやや含んでいると考えていい。すごく冷たいのもそのせいだ。

 ふと足場に視線を戻して、溶けかけているみたいな春雨を生ぬるく眺めていると、彼は、大丈夫、俺はやる時はやる男だ、と言いたげな表情を浮かべた。


 そういう奴である。伏流水飲んで復活したら頑張れよ。

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