好物はやる気スイッチ

 ぼんやりと暗い朝の中、一階からパンの焼ける匂いがする。


 寝ぼけまなこを擦りながら階段を下りていくとキッチンで妻が忙しなく動いているのが見えた。


「おはよう」

「おはよう。一人で起きてくるなんて珍しいね」


 驚きを隠せませんと言いたげな笑顔だった。



 彼女の言う通り、僕は朝が弱い。


 学生時代から変わらないのでもう個性として受け入れているが、もはや諦めの境地と言っても過言ではない。

 結婚する際、妻にそのことを伝えたら「私がちゃんと起きれるから平気だよ」と言ってくれたので、お言葉に甘えて毎朝起こしてもらっているのだ。



「僕も驚いてるよ。この間の遅刻が効いたのかなぁ」

「思ったより根に持ってるのね」

「そりゃね……52歳にもなって遅刻するとは夢にも思わなかったし」

「ま、そんなこともあるわよー。人間なんだし」


『人間なんだし』は彼女の口癖である。

 彼女は僕がクヨクヨしていると「大丈夫、大丈夫。心配しすぎ!」と言って励ましてくれる。僕にとって大変ありがたい存在だ。


 見た目はお淑やかなのに中身は豪傑なので、喋るとギャップが激しいと近所でも評判だったりする。


 食卓にはすでに朝ごはんが準備されていた。

 目玉焼きにソーセージ、ふわふわの食パン、コンソメスープ、最後にデザートのヨーグルト……どうやら今日の朝ご飯は洋食のようだ。


 我が家の朝食は日によって和食だったり、洋食だったりと特に決まっていない。

 昨日の晩御飯の兼ね合いやその日の気分によって変わっている。

 それにしても毎朝のことながら用意してもらっていて……妻には頭が上がらない。


「それじゃ、あの子たち起こしてくるわね」


 彼女は「先に食べてていいよー」と言いながら小走りで廊下を駆けていった。


 妻は常に動いていて止まっているところをあまり見たことがない。

 読書をしているときでさえ、部屋を歩き回ったり、エアロバイクを漕いでいる始末だ。


「母さんが止まってるところ、寝ているとき以外で見たことないかも。マグロみたいだよね」


 そんな様子を見て娘がそう言っていたのをふと思い出した。


 パタパタと遠のいていたはずの音がなぜかこちらに帰ってくる。

 そして廊下の壁横から妻がひょっこり顔を出した。


「そうそう。夕飯、肉じゃがだからね」


 それだけ伝えると妻は来た道を戻っていった。



 ◇



 今日はとても仕事がはかどる。

 自分で起きれたからだろうか、電車が遅延してなかったからだろうか。


 いや、どれも違う。

 今晩が肉じゃがだからだ。


 この歳になっても夕飯が好きな食べ物と知っていると早く帰りたくなるのが人間というもの。

 僕は溜まっていた書類を片付け、報告書を書き上げていた。


「いやぁー、すごいっすね。課長」


 来た仕事をバリバリに捌く僕を見て藤宮君が話しかけてきた。


「うん。なんだか早く終わっちゃうんだよね」

「もしかして、今日は予定があったりする感じっすか?」

「まあ、そんなところかな」


 まさか肉じゃがが楽しみで早く終わらせてますだなんて口が裂けても言えなくて、僕はお茶を濁した。


「そういえば藤宮君も今日は一段と頑張っているね」

「そうなんすよ。今日は妹がご飯作ってくれるんで早く帰りたいんですよ!」


 まさか僕と似たり寄ったりな理由だとは思わなかった。

 明け透けなく言ってしまえるところが格好いいなあ。


「じゃ、俺も後ひと頑張りして来ます!」


 彼のお家の夕飯は何が出てくるのだろうか。

 ハンバーグやオムライス、もしかしたら煮魚なんていう変わり種かもしれない。


 僕は席へと戻っていく藤宮くんに心の中でエールを送った。



 ◇



 無事に定時までに仕事を終えることができた。

 どうやら今日は皆そこまで忙しくなかったらしく各々帰り支度を始めていた。


 すでに頭の中では肉じゃがのイメージがぐるぐる回っている。


『しみしみの肉じゃがが待ってるよ~』


 にこにこ笑顔の野菜たちがおいしそうに湯気を立てている。

 お肉も野菜たちに囲まれて楽しそうだ。

 なんて想像しているだけなのにお腹までなってしまった。恥ずかしい。


「犬飼課長、お疲れ様です」


 そんな妄想に浸っていると津田係長がにこやかに話しかけてきた。


 津田隆志。

 彼はお酒が大好きで、週3は必ず飲みにいく酒豪である。

 彼の机を見るとPCやら周辺機器やらはすでに片付けられていた。


 ああ、これは飲みのお誘いだな。


「どうですか~、今夜一杯」


 悪い人ではないし酒癖が悪いわけでもないのだが、今日だけは何とかして乗り切りたい。

 家でほくほくの肉じゃがが僕を待っているんだ。


「あ~……えっと、今日は……」

「折角早く終わったんですし! ね? どうですか?」


 言葉が尻すぼみな僕と押しの強い津田さん。

 このままでは負けてしまう……!


『頑張って!』


 先ほどまで笑顔だったじゃがいもが心配そうに僕を見ている。

 お肉と他の野菜たちも一生懸命声援を飛ばしてくれた。


 ……肉じゃがが僕を応援してくれている!


 どうにかして帰らなければ。

 でも何と言って帰ろうか。


 言い訳を考えてみたが、如何せん僕は嘘が苦手だ。そして下手である。

 嘘を突き通せたことがただの一度だってなかった人生だった。

 頑張ってついた嘘も「冗談で言ってるのかと思った」と言われるぐらい信じてもらえない。


「あ、藤宮。今晩どう?」


 津田さんはリュックを背負って帰る準備万端の藤宮君にも声をかけた。


「お誘いは嬉しいんですけど、愛しの妹が家で待ってるので早く帰らないとなんですよ~!」

「お、おう……そうか」

「また今度お願いします! じゃ、お疲れ様でーす!」


 そう言うと彼はスキップしてるのかと思うレベルで跳ねながらフロアを後にした。


 やっぱり藤宮君は誰に対しても嘘を言わないのだなあ、とまた関心してしまう。

 ……嘘をつけないのなら本当のことを言えばいいのではないだろうか?


「津田さん、すみません。僕も今晩、妻が好物を作ってくれているのでお暇させていただきますね」

「おや、残念。ではまた今度行きましょう!」


 津田さんはそういうと他のメンツに声をかけに行った。


 よくよく考えたら僕みたいなおじさんが「夕飯が楽しみなので帰ります」って言ってるのどうなんだろうか。子供っぽくないか……?

 藤宮君はキャラ的に言っても普通だと思えるのに、僕が言うと違和感しか残らないのだろうか。


 ちょっと恥ずかしくなりながらそそくさとフロアを後にした。



 ◇



「ただいまぁ」


 醤油と出汁の匂いが玄関まで来ている。

 ぐー、となるお腹を押さえてキッチンへ行くと朝と同じように妻が忙しなく動いていた。


「おかえり。もう準備できるから手、洗ってきてねー」


 言われた通りに手を洗い、部屋着に着替えて食卓に着く。


『おかえり! 待ってたよ〜!』


 キラキラと輝く肉じゃがを前に手を合わせる。


「いただきます!」


 お肉と野菜は出汁と醤油の力を借りて口の中でハーモニーを奏でる。

 甘塩っぱい味を堪能した後白米をかきこんだ。

 そうして一度リセットされた口の中に再度肉じゃがを放り込む。


 この一瞬のために生きている……。


 幸せを噛み締めながら僕はほかほかご飯のお代わりをお願いするのだった。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【不定期更新】犬飼課長の何でもない日常 若桜紅葉 @wakasakoyo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ