第3話 堂々巡りのキー

「俺、最近ロボットの気持ちが分かるような気がしてきたんですよ」

 この言葉にどんな意味があるというのだろう?

 一緒にいる時には、こんな言葉を発するような雰囲気はなかった。雰囲気に変わりはないのに、言葉を聞いて違和感があったことで、これが夢だとすぐに悟ったのだが、確かに何かを言いかけていたことを思い出した時、そのことと何か関係があるように思えて仕方がなかった。

 少し会話があってから、また奥歯にモノが挟まったような表情になった。

――ひょっとして、これがこの人の本当の顔なのかも知れないわ――

 と感じた。

 夢の中の彼と、一緒に話していた時の彼との雰囲気は、変わっていなかった。しかし、奥歯にモノの挟まったような表情をした時だけは、沙織の中で胸の鼓動が早くなった。何を言いたいのかという内容に対しての問題ではなく、彼の表情だけが、過去に見たものではなく、これから未来に掛けて見続けるものだという気持ちになったからだ。

「未来に見ることがある」

 ではなく、

「未来に掛けて見続けるもの」

 という発想である。

 一度や二度ではなく、何度も見ることになるという感覚に、違和感があった。

 今までにも、

「未来に見ることがある」

 と、感じたことは何度かあった。

 しかし、継続的に見続けるものというのを、未来に対して感じたのは初めてだったからだ。

――後にも先にも、これ一度だけの感覚だわ――

 とも感じた。

「ロボットの気持ちが分かると言ったのは、少し飛躍した言い方だったね。もちろん、実際に今はまだロボットが自立した意識を持つことは不可能に近いと思っているので、気持ちが分かるとしても、架空のお話の中でだけのことなんだけどね」

 少しホッとしたが、逆に物足りなさもあった。

 前置きを口にしたのは、彼の優しさなのだろうか? それとも、彼の中で、

「この人に、必要以上のことを話しても無駄なんだ」

 と、感じさせたからなのだろうか?

 ホッとした気持ちと、物足りなさの気持ち、沙織にとってどちらが強いか、考えてみたが、

――物足りなさの方が強いかも知れない――

 この気持ちも初めてだった。

 今までの自分であれば、ホッとした気持ちの方が大きかったという思いが強いはずだ。沙織には、それくらいの自分の気持ちくらいは分かるつもりだった。それなのに、今回物足りなさを感じたというのは、義之の登場が、沙織の中の何かを変えようとしているのかも知れない。

――それって覚醒ということ?

 覚醒という言葉を、まさか自分が使うなど思ってもみなかった。しかも使う相手が自分にである。

 しかし、義之との出会いからの短い時間で、「覚醒」という発想が出てくること自体、自分の中で何かが変わり始めている証拠だった。それが成長であるなら、適切な言葉を選んだ時、「覚醒」という言葉になるのは必然だった。

――それにしても、短い時間だったけど、結構密度の高い話の中で、そのほとんどがロボットの話だというのも、少しおかしな気がするわ――

 と思っていた。

 だが、彼の会話に中に出てきたロボットという発想は、自分に当て嵌めて考えると、まんざら架空の世界ではないように思えてきた。

 彼と話をしている時は、

――これは架空の話なんだ――

 と思っていたからこそ、会話に参加できた気がした。自分のことではなく他人事であれば、会話もスムーズだからである。

 架空というのは、フィクションとは違う感覚を沙織は持っていた。

 フィクションというと、あくまで空想科学物語であるSF小説をイメージしてしまうが、架空というのは、他人事ではなく、自分の中にある、

「想像上の世界」

 を意味している。

 沙織の中で、想像している空間は、無限だと思っていた。だが、実際には限界がある。

 そう感じていると、

「沙織さんは、無限ということを信じていないでしょう?」

「えっ」

 まるで沙織の気持ちが読めるかのように、ジャストなタイミングで義之は話しかけてきた。

「どうして、そう思ったんですか?」

「沙織さんの顔を見ていれば分かりますよ」

「ええ、必ずどこかに壁があるように思うんです。しかも鉄板というよりも、結界と言えるほどの完璧なものです」

「でも、本当はそんなことはない。それは、沙織さんが『可能性』というものを信じていないからですよ」

「可能性……、ですか?」

「ええ、可能性というのは、俺は無限にあると思っています。実は、それもロボット工学の世界から、学ぶことができるんですよ」

「また、ロボット工学なんですね?」

「すみません。僕はそれしか能がないもので……。でも、これって、そのまま人間社会にも影響してくるということを、忘れないでくださいね」

 その時の最後の言葉に、今までにない力が込められていたことを感じた。

「詳しくお聞きしたいですね」

 沙織は、ロボットの話をまた聞けると思い、ワクワクしてきた自分を感じていた。

――これは夢のはずなのに――

 と思ったが、夢だからこそ、

――自分が本当は理解していたことだったにも関わらず、表に出せなかったことを理解して、表に出そうとしているのかも知れない――

 と感じるのだった。

 それが、彼から与えられるロボットの話という「媒体」によってもたらされるものに近いないのだ。

 義之の話を聞いていると、以前にも同じような話をしたことがあったのを、思い出していた。もちろん、ロボットの話ではないのだが、似たような発想の話であった。

「でも、これって、そのまま人間社会にも影響してくるということを、忘れないでくださいね」

 と、言った義之の言葉から、連想したに違いない。

――あれはいつだったんだろう?

 実際にはかなり前の記憶だったように感じるのに、なぜか意識だけはまるで昨日のことのようだった。

 意識と記憶に、かなりの隔たりを感じるのは、これが初めてではなかった。本当は昨日のことなのに、かなり前のことのように感じたり、逆に今回のように、だいぶ前のことなのに、昨日のことのように感じる。

 どうしてそんな風に感じるのか、最近では分かってきたような気がする。原因に関しては分からないが、どうしてそう感じるのかというのは分かる気がする。要するに時系列に沿って記憶されているわけではないということなのだ。

 だが、意識だけは時系列で存在している。だから、おぼろげながらにどれだけ昔のことだったのかという感覚だけは存在している。

 記憶の場合は、多分、濃淡で判断されているのだろう。しっかりと記憶されているものであれば、最近の記憶。ところどころ欠落していれば、かなり昔の記憶……、というように、記憶と意識とでは、格納する場所も考え方も違っているのだろう。

 ただ、それが普段は綺麗に結びついている。それが人間の脳のメカニズムというものなのだろうが、

――狂わないことが当たり前――

 と、信じられていること自体、考えてみれば、すごいことだと言えるのではないだろうか。

 その時の話の記憶の欠落具合から、ちょうど中学生から、高校生になった頃くらいではないかと思う。

 あの頃といえば、沙織のそばに誰がいたか……。そう、香澄先生がいつも沙織のそばにいた。

 香澄先生は、いつも先生として、いろいろなことを教えてくれた。それは。授業で教わらないことがほとんどだったが、考え方や自分のまわりに対しての立ち位置などの話が印象的だった。

 その時、先生が意識の話をしてくれたような気がする。

「記憶というのは、意識して初めて残るものだと、先生は思うのよ」

 高原から、山間の風景を描きに行った時のことだったように思う。その時まで山間を描くのなら、麓から描くものだと思っていたので、まさか高原から描くことになろうとは思っていなかった。そのことを最初に指摘され、

「沙織さんは、絵を描く時、必ず上からか下からのイメージを持っているでしょう?」

 確かに、同じ高さのものを描く時でも、無意識に上からか、下からの目線に知らず知らずのうちになっていることを、言われて気が付いた。

「人から言われて気付くこともあるんですね?」

 と先生に話すと、

「その通りよ。先生も何度も他の人から指摘されて、今の私になったって思っているの。でも、それも自分が意識していなければいけないことも中にはあって、人から言われて意識し始めることであっても、そのまま通り過ぎてはいけないんだって、思うようになったの」

 と、話してくれた。さらに先生は続ける。

「それにね、人から指摘されたことの方が、しっかりと意識もできるし、記憶にも残るのよ。ずっと前のことであっても、まるで昨日のことのように思えることってあるでしょう? それが、まさしく人に指摘されたことと同じ感覚だったりするのよ」

 先生は、人から指摘されることで、意識と記憶の関係について、おぼろげではあったが、話をしてくれた。

 沙織は、この時のエピソードが、今回話の中に出てきたロボットと、どこかで繋がっているように思えてならない。少なくとも義之のロボットの話を聞いて、おぼろげだった香澄先生からの話を連想したのだ。連想するにはそれなりに、何かの根拠のようなものがなければ成立しないと思えた。

 それにしても、香澄先生のことを思い出すのは久しぶりな気がしたが、思い出してみると、香澄先生のことを、いつも意識しているように思えた。意識と記憶の距離が近いように感じていたと思ったのに、本当は一番遠い存在にしてしまったのは、香澄先生のことだったのだということを、その時、初めて思い知ったような気がした。

 人のことを意識しているのに、意識していないようにすることは今までに何度かあった。

 それは意識してのことであって、嫌いな人の中でも、性が合わない人が多い。

「この人とは生理的に合わない」

 それは自分だけではなく、相手も思っていることであり、それはまず間違いないことだと思っていた。

 そういう相手であれば、作為的に意識していても、意識していないように感じることは可能であった。そういう人でなければできないことだったはずなのに、香澄先生に対しては、作為的ではないのに、意識しながら、意識していないように振る舞うことができた。

 決して、香澄先生が嫌いなわけではないし、性に合わないと思っているわけでもない。むしろ、好きで好きで溜まらないと思った時期もあるくらい、頭の中から離れるなど考えられない存在だった。

 好きで好きで溜まらないと思う時期というのは、一度ではなかった。定期的に感じることであり、驚いたことに、香澄先生と会わなくなり、距離が絶対的に遠くなったと思ってからでも同じ感覚が襲ってきた。

――どうしてなのかしら?

 その時、沙織は自分が男性よりも女性が好きなのではないかと考えたが、実際にはそうではなかった。香澄先生だけが特別だったのだ。

 香澄先生に時々男性的なところを感じる。男性的なところを感じると、急に先生が遠い存在に感じられる。それは一瞬のことであるが、沙織は自分に、男性的なところが一切ないということを意識させられたからだと思っている。

 今までは、女性の中に男性的なところを見つけると、それまで親近感が湧いていた人であっても、急に冷めた気分にさせられたこともあった。だが、香澄先生に限っては逆で、先生に男性的なところを感じたことで、先生に対して距離を感じたと同時に、

「遠くに行かないでほしい」

 という気持ちも同時に芽生え、それが、香澄先生に対しての愛情であると思うようになった。

 その愛情というのは、恋愛感情における愛情と同じものなのかどうか、沙織には分からない。確かにその時は、男性経験はおろか、男性を好きになったことすらなかったからである。男性経験もできた今なら少しはその時の心境は分かるのかも知れないが、年月が経ってしまった今としては、その時の心境を図り知ることはできない。

――ということは、あの時と同じ心境ではないということなのかしら?

 恋愛感情は不変ではなと思っているが、愛情に関しては不変なものだと沙織は思っている。

 それは、どんなに好きな相手であっても、さらには、一度だけでも好きになってしまった相手であっても同じなのではないかと思っている。

 結婚しても、別れる時は別れる。相手に恋愛感情を残しながらでも、離婚してしまう人がいるということを、理解はできないが知っている。

「私は、どうなんだろう?」

 と、考えてみたが、まだ結婚したいと思うような人に出会ってもいない今、考えてみること自体、無駄な時間だと思っていた。

 香澄先生とは、自然消滅だった。

「近づきすぎてしまうと、相手を意識するあまり、圧迫感を感じ、それ以上の接近ができないと思うあまり、後退もできず、その場にじっとしていることが却って焦りをもたらすことになってしまい、一種のパニックに陥ってしまう」

 と、沙織は考えたことがあった。

 もっとうまい付き合い方はあったのだろうが、まだ中学生の沙織である。香澄先生にしても、教師としての立場や、女性同士ということに抵抗があったかのように思えた。むしろ、女性同士ということに抵抗を感じていなかったのは、生徒だった沙織の方だった。

 香澄先生から絵についていろいろ教えてもらっていた時、ちょうど、先生は失恋した後だったという。実際には、その後、以前付き合っていた人と、

「元の鞘に収まった」

 ということだった。

 最初に知り合ってから、少しして、香澄先生の態度が豹変したことがあったが、それが元鞘に収まった時だったようだ。

 もちろん、子供の沙織にそこまで分かるはずもない。

 香澄先生の話は、態度が豹変しても、変わることはなかった。

――人間が変わったわけではないんだものね――

 もし、ここで露骨に態度が変わったり、話が支離滅裂だったりすると、沙織は相手を信用しただろうか?

 だが、最近の沙織は、そんな相手であっても、信用したかも知れないと思うようになった。

――私は、人間臭い人は嫌いではない――

 と思うようになっていた。

 この時の沙織が考えていた「人間臭さ」とは、

――我慢しない人――

 という意味である。

 思ったことを思ったように口にしたり、言葉をオブラートに包まない人は、我慢することを自分から拒否しているように思える。

「人は、時には相手のためや、まわりの人のために我慢しなければいけないものなのよ」

 と、不特定多数の人から言われてきた。学校の先生から言われたこともあれば、親から言われたこともある。言葉にしなくても、態度や雰囲気で、

――無言の忠告――

 をする人もいた。

――たぶん、この話をされるんだろうな?

 と、思うタイミングで言われることが多かった。それだけ、この言葉を発する時というのは、パターンがあるのだろう。

 沙織は、そんなパターンが大嫌いだった。

 パターンに嵌った話など、説得力も何もない。最初に一度だけされたのであれば、教訓として意識することもできるが、それもしつこくなってしまうと、煩わしさしかなくなり、話をしてくる人に対して、胡散臭さを感じるようになった。

 まずは、言葉に重みを感じない。言っていることに間違いはなくとも、

――何も考えていないんだ――

 と思ったことをただ口にしているだけである。

 人間臭い人も、思ったことを口にしているだけなのだが、同じ表現でも、その重さはまったく違う。

 胡散臭さを感じる人の言葉は、

――他人の受け売り――

 である。

 人から聞いて、

「これは使える」

 と思った言葉を右から左である。

 言葉を少しでも変えるならいざ知らず、そのまま使っているだけで能がない。しかも、そんな人は、

――自分はいいことを言っているんだ――

 と思っていて、相手のためにしているという意識を前面に出している。

 その様子が見て取れると、そこには胡散臭さしか映らず、言葉に信憑性の欠片も感じなくなるのだった。

 言葉に罪があるわけではないが、あまりしつこいと、自己否定が始まる。

 以前に信じてしまった言葉を、

――どうして、こんなに安直に信じたのだろう?

 と思ってしまうのだ。

 本当は、目からうろこが落ちるくらいの気持ちで最初は聞いたはずである。それなのに、あまりしつこくされることで、薄れてくる言葉の「重み」に対し、自分ではどうすることもできない心境に陥ったことが、どんどん辛くなってくるのだった。

 香澄先生には、それはなかった。

 それまでに誰も話してくれなかったような話を最初にしてくれたのが香澄先生だったし、他の人から以前言われたことを、再度反復して言われるようなことは、香澄先生に限ってはなかったのである。

「香澄先生は、超能力者?」

 と、軽い気持ちで香澄先生に訊ねたことがあった。

 すると、少し微笑んでから、

「どうして、そう思うの?」

「だって、香澄先生は、私が嫌なことは絶対にしないでしょう? 言葉だって、選んでいるようには思えないのに、私が言ってほしいと思っているような話を、すかさずしてくれる」

「それで、超能力者だと思ったのね?」

「ええ」

「そうね。そういう意味では超能力者なのかも知れないわね。でも、超能力という言葉は適切ではないかも知れないわ」

「どういうこと?」

「一般的に言われている超能力というのは、誰もが持っている能力で、人の中に潜在しているものだって言う話でしょう? 潜在している能力というのは、きっと、誰にでも適用するものだと私は思うのよ」

「ええ」

 香澄先生の話は分かるようで分からない。それだけに、しっかり聞いていないと、聞き逃してしまうし、聞き逃してしまうと、分からなくなってしまう。聞き逃したら、もう一度説明を求めないといけないことは、沙織には分かっていた。

 だが、この時は、しっかり聞けていたし、分からないまでも、理解できそうな気がしていた。

「でもね、私は能力があるのだとすれば、それは一定の相手にしか効力のないものだって思うのよ。たとえば、今なら沙織さんあなたとかね」

 と、香澄先生は言った時、少し考え込んでいた。

 その時に、「一定の相手」という言い方をしたのは、相手を沙織だと限定したくなかったからなのか、それとも、他にも「一定の相手」がいたのか、沙織には分からない。だが、もしその時、沙織に香澄先生の気持ちが分かったのなら、今の沙織はなかったということを、分かるはずもなかったのである……。

「先生の話、何となくですが分かります」

 正直に答えた。

「よく分かります」

 などと言えば、香澄先生がせっかく、オブラートに包みながらでも話してくれたことを踏みにじることになる。そのことはおぼろげながらに、沙織には分かっていた。

 香澄先生も、沙織の気持ちが分かったのか、いつもの笑顔を浮かべていた。

――香澄先生の笑顔って、他にないのかしら?

 という疑問を感じたことがあった。

 だが、いろいろ考えているうちに、

――笑顔に種類がある人の方が信用できない――

 と思うようになった。

 それまでの沙織は、表情が豊かな人ほど品行方正で、信用できるのではないかと思っていたが。香澄先生と話をするようになって考え方が変わってきた。

――表情がたくさんある人の方が、品行方正なのではなく、八方美人なんだ――

 と思えてきた。

「まるでコウモリだわ」

 香澄先生に表情が豊かな人は信用できないという話をした時、先生が一言言った言葉である。

「コウモリ?」

「コウモリというのは、その生態系状、鳥にも見えるし、獣にも見えるでしょう?」

「ええ」

「だから、危なくなった時、相手が鳥の時には、自分は鳥だといい、相手が獣の時には、自分は獣だという。八方美人という言い方とは少し違っているのかも知れないけど、表現としては、そうも言えるのかも知れないわね」

「何となく分かる気がします」

「確かにコウモリは目が見えなかったり、不気味だったりすることで、嫌われたりするけど、そうやって詭弁を使うのも、生きていく上での本能というべき知恵が作り出したものなのでしょうね」

 と、香澄先生は話してくれた。

 さすがに香澄先生の笑顔に種類があることの話はしなかったが、コウモリの話をしてくれたことが、沙織が求めていた答えだったような気がして、それだけでも、香澄先生を尊敬するに値する人だということを再認識したような気がした。

 沙織は、そんな香澄先生と自然消滅した時のことを思い出していた。

 あれは、沙織が高校二年生の頃だっただろうか。それまでは、どちらからともなく連絡を取っていたのだが、急に香澄先生の方からの連絡が途絶えた。

 沙織の方から連絡を取ればよかったのだろうが、その時、ふと考えた。

「私から連絡を取る時というのは、前に香澄先生から連絡を取ってくれたことで、自分の中に香澄先生を作り上げて、次の時に自分から連絡を取っていたんだわ」

 つまりは、香澄先生を作り上げることができなければ、沙織の方から連絡を取ることができなくなってしまっていた。

「別に気にしなくてもいいじゃない」

 と、他の人なら言うかも知れない。

 しかし、そうではないのだ。香澄先生と沙織の間には、他の人には分からない「距離」があった。沙織は、それまでそのことに気付かなかったが、その「距離」があることで、お互いに結界を作ることをしなくとも、お互いのプライバシーを守ることができたのだ。

 他の人はいくら親友や恋人、ひいては肉親であっても、

――距離を作らないことが親近感を湧かせる最大の力なのだ――

 と思っているとすれば、相手との間には、必ず結界が存在するのだ。

 結界は、見えないものであり、意識するものでもない。もし、それを意識してしまうと、自分だけではなく相手にも意識させる必要がある。もし、それができなければ、

――距離が離れていくだけで、二度と戻ることはない――

 と思っていた。

 沙織は、香澄先生と自然消滅した時、それまで感じたことのないはずだった結界を感じてしまった。

――どうしたらいいの?

 さすがに沙織は戸惑った。

「香澄先生に正直に話そうかしら?」

 とも考えた。香澄先生なら分かってくれると思ったからだ。

――しかし、もし、香澄先生が、結界という言葉を知っていたとしても、結界が自分たちの間にあることを信じてくれなかったらどうしよう? それこそ玉砕になるではないか――

 と、考えるようになった。

 玉砕には、沙織は耐えられない。

「このまま何も言わずに香澄先生の出方を見守ろう」

 と、沙織は考えた。

 しかし、そのことを考えた時点で、すでに自然消滅は見えていた。それでも、これが沙織の選んだ最善の策だと思えば、諦めもついた。

「香澄先生というのは、あなたにとってそんな存在だったの?」

 と、自分に自答を求めたが、答えが返ってくるはずもない。元より、返事があるとは思わずに訪ねた質問なのだから……。

 想像した通り、二人の間で連絡を取ることはなくなった。思った通りの自然消滅だった。

 後悔はなかった。後悔をしてしまうと、沙織は自分が自分ではなくなってしまうと思ったからだ。

――香澄先生のことは忘れてしまわなければいけないんだろうか?

 という思いもあったが、思い出は消したくなかったので、無理に忘れてしまうことはしなかった。

 その思いが沙織の気を楽にした。

 もしそこで、無理にでも忘れようとしてしまうと、香澄先生以外のことも一気に忘れてしまうのではないかと思ったほどだ。

 自然消滅した時、冷静だったと自分では思っていたが、実はそんなことはなかった。思ったよりも熱くなっていたのは意識の中にあった。

 香澄先生と自然消滅して一年が経ってから、急に香澄先生のことを思い出したことがあった。

 それは夢の中に先生が出てきたからだが、夢の内容は覚えていない。だが、目が覚めて意識がしっかりしてくると、

「香澄先生に対して感じていた感情というのは、一体何だったのかしら?」

 と思った。

 恋愛感情ではない、愛情だったと思っていたが、その愛情というのは、冷静になって考えると、親友とも違う。肉親への愛とも違う。では一体何なのかを考えてみた。

 そこで見つけた一つの結論は、

「自分を写す鏡」

 だったのではないかという思いである。

 香澄先生を見ていて、本当はそこに鏡があるのに気付かず、話をしていたのは、自分の中にいる「もう一人の自分」だったのではないかという思いである。

 鏡というのは、

「忠実に自分を映し出す媒体。ただし、左右対称である」

 というのが定義だと思っていたが、この時の「左右対称」というのが、ミソではないかと思う。

 左右対称が、本当は見えていると思っている部分とは違う自分が映っている。つまり、「人間にもう一つの性格が存在しないということはありえないのではないか」

 という考え方である。

 もし、一つしか性格を持っていない人がいれば、鏡は映し出さないのではないかと思うようになっていた……。

 もちろん、見えているところ以外は、いくつも性格があるとしても、すべて、鏡に写った自分である。

――ということは、鏡の世界というのは、あくまでも、最初に見ている自分主導以外ではありえないのだ――

 ということである。

 香澄先生と自然消滅した理由は、聞きたくないところから、最悪の形で聞かされた。

 中学時代からあまり仲が良くなかった人と、なぜか腐れ縁のように、高校卒業するまで、ずっと同じクラスだった。

 仲が良くないといっても、それは沙織の側に問題があった。

 虫が好く好かないで、友達を決めていたところがあった沙織に、彼女は虫が好かない典型的な相手だった。

 具体的に、どこが嫌だというわけではない。むしろ嫌なところがハッキリしている方が沙織にとっては、アッサリしていて、そのうちに仲が良くなることもあるのだろうが、曖昧な場合は、距離が縮まることはない。完全に平行線を描いてしまって、交わることはない。

 そんな相手なのに、向こうの方はそんな意識はないようで、何かと言うと、沙織に接近したがっている。

 沙織にしてみれば、

――まるで当てつけのようだわ――

 としか感じない。

 何かを言われるたびに、

「この人のいうことを信じる必要なんてないんだわ」

 と思うようにしていたが、そう思えば思うほど、ロクでもない話になった時は、却って気になってしまうのだ。

 特に香澄先生の話を聞いた瞬間、彼女の胸元に掴みかかろうとしている衝動を何とか抑えることができたのは、自分でも信じられないくらいだった。

 いくら自然消滅したとはいえ、今でも慕っていると思っている人である。変な噂で汚されたくないと思うのも当然だった。

「ほら、中学の時の美術の先生覚えている?」

「香澄先生のこと?」

 黙って聞き逃すには、香澄先生の名前は、インパクトが強すぎる。

「そうそう、その香澄先生なんだけど、私たちの卒業とともに、学校辞めたのは知っていた?」

 もちろん、知っている。

「ええ」

「これは、ある筋の噂で聞いたんだけど……」

――ある筋の噂って何よ?

 と心の声は、これ以上ないと思うくらいに、低音になっているのを感じた。

「どうしたっていうの?」

 本当の声はいくら抑えようとしても、いくらかは低い声になる。ただなるべく暗くなるのは避けるようにしたつもりあった。

「香澄先生が辞めたのは、元々、男に裏切られたことが原因だったんだって、それで、そのことが街で噂になりそうだっていうことで、辞めてしまったらしいの。でも、実際には噂になることはなく、ただの一身上の都合ということでの退職だったらしいんだけど、それが、先生が辞めてかなり経ってから、燻っていた噂が残っていたのを、私の知り合いが聞いて、私に教えてくれたのよ」

「余計なことを」

「えっ」

 思わず、本音が出てしまった。

――虫が好かない人の知り合いだけのことはある――

 と言いたいのを必死に堪えた。

 何を今さら、そんな昔のことを蒸し返して何が面白いというのだろうか? 沙織には理解できない。その知り合いという人はきっと香澄先生とは、何んら因果関係などないに違いない。もし、因果関係があるようなら、先生がいなくなった時に噂を流すはずだからである。興味本位の話題に飛びつく「ハイエナ」のようなもので、どこにでも一人はいるタイプの人間である。沙織にとって、もっとも苦手と言ってもいい人間に違いない。

 ただ、その話はそれだけで終わらなかった。そこで終わっていたのなら沙織も、

「余計なことを耳に入れられて、不愉快なだけだわ」

 と、一、二日くらいは、冴えない気分になっていたというだけで、済んでいたことだろう。

「でもね、話はこれだけではないのよ」

 と話に続きがあることを匂わせた時の彼女は、喜々としていて、さっきまでの声のトーンとは明らかに違った。

――こんな声が出せるんだ――

 そう思うほど、狂気に近いものを感じ、背筋がゾッとしたものだ。

 彼女は続ける。

「香澄先生には、私たちの間でも淫乱教師という噂が立っていたんだけど、さすがに私も噂だけで信じていたわけではなかったんだけど、でも、そう思っているところに、私は偶然香澄先生と再会したのよ」

「えっ、一体どこで?」

「それはあるスナックでだったんだけども、香澄先生はそこでホステスをされていたの」

「本当にそれは、香澄先生だったの? 他人の空似ということはなかったの?」

 もし、何らかの理由があってスナックに勤めることになったとして、香澄先生の性格から、昔の自分を知っている人とバッタリ出くわしたら、どういう態度を取るだろうか? 沙織の知っている香澄先生であれば、知らぬ存ぜぬを押し通す気がしていた。もし相手が強引に話をしてきても、自分の中のプライドが許さないと思っているからだ。

 自分が噂されていること、そしてその噂がどんな内容なのかということを知っているかどうかは関係ない。スナックのカウンターを挟んで、向こう側にいるということだけで、昔の知り合いに知られたくないというのが、彼女のプライドではないかと思うのだった。

「いえ、香澄先生だったのよ。私が訊ねたら、そうだと答えたもの」

「ええっ、香澄先生が? 信じられないわ」

「私も信じられなかったんだけど、香澄先生は別に悪びれることなく、他のお客さんに対してと同じように私たちに接してくれたわ」

「昔の話とかしたの?」

「昔の話にはならなかったわね。まず、私が昔の話をしたくないと思っていたので、わざわざ先生の方からしてくることもなかったし、お互いに再会を感じはしたけど、結局、それから先は一人のホステスと、一人の客ということだったわ」

「その時、あなたは一人だったの?」

「いいえ、友達と一緒だったんだけどね」

「じゃあ、友達の手前、必要以上なことは言わなかったのかも知れないわね」

「そうかも知れない」

「ところで、香澄先生の雰囲気はかなり違ったんでしょうね?」

「やっぱり、学校の先生と、スナックのホステスとでは、違ったわね。でも、ホステスになった姿を見ると、どこか寂しそうに見えたわね。先生をしていた時のイメージはなかったわ。私が昔のことに触れたくなかったのは、噂のこともあったけど、あまりの豹変ぶりに、何を話題にしていいのか分からなかったからだというのも、本音だったわ」

「私は、高校時代を最後に香澄先生に会っていないので、不思議な感覚だわ」

 と、言って、目を瞑って香澄先生のカウンター姿を思い浮かべてみた。

 するとどうだろう?

 客の側から、香澄先生を想像することはできなかった。その代わり浮かんできたイメージは、カウンター越しに客を見ているイメージだった。完全に自分が香澄先生の「目」になってしまったかのような感覚だったのだ。

――どうしたのかしら?

 と、考えていると、いつの間にか自分の世界に入りこんでしまっているようだった。

「どうしたの?」

 と、彼女から言われるまで、自分の心ここにあらずの状態であったことに気付かなかった。言われて初めて我に返った沙織は、

「えっ?」

 と、夢の世界から現実に引き戻された感覚になってしまった自分をどう表現していいのか分からない。

「話はこれだけでは終わらないのよ」

「まだあるの?」

「ええ、私は結構香澄先生と縁が深いのかも知れないわ」

 と言って、やれやれと言わんばかりに、両肘を曲げて、手の平を上に向け、おどけたような態度を取った。

 たまに取る彼女のおどけた態度がなければ、ここまで嫌な話に付き合わなかったかも知れない。ただ、香澄先生の話を中途半端に終わらせるのは、気持ち悪い気がしたのも事実で、

――早く続きが聞きたい。何をもったいぶっているのよ――

 と、感じていた。

 少し間があってから、彼女が続けた。

「香澄先生、結局最後は亡くなったらしいの」

「えっ?」

 この話には正直、ビックリした。あまりにも話が飛躍しているからだ。

「亡くなったって、まさか自殺?」

 と、聞きながら自殺の信憑性が高いと思いながら、「まさか」という言葉を使った自分に不思議な感覚を覚えた。

 彼女は、今度も一瞬間をおいて、コクリと頷いた。どうやら、香澄先生が亡くなったということを話せば、沙織には自殺だということを一瞬にして悟るだろうという確信めいたものがあったのかも知れない。

 この時、二人の間にピリピリした空気が流れた。初めて真剣な感情になったことで、お互いにやっと話をする側と聞く側のレベルが一緒になったことを示していた。

 今までは、どちらのレベルが高いというわけではなく、その瞬間瞬間で、シーソーが逆転するかのように、レベルの高さがあっちに行ったり、こっちに来たりと、流動的だった。決して均衡が取れるわけではなかったにも関わらず、平衡感覚は保たれていた。そのたび、空気は瞬間瞬間で変わっていったのを、二人には分かっていたようだった。

 意識しなければ、

――二人の間に流れる風――

 だと思ってしまうだろう。

 だが、二人の間にあるのは、密室の中での会話だった。見えない壁が二人のまわりに張り巡らされていて、そこには何者も入り込む隙間はなかったのだ。

 密室での会話は、沙織にとって何度も意識したことがあるものだった。

 彼女に同じ意識があったのかどうか、最初は分からなかったが、話をしているうちに、彼女も感じていたのが分かってきた。彼女が同じことを感じていたからこそ、会話が続いたというものだった。

「でも、先生が自殺なんて、信じられないわ」

 と、思わず口にしてしまってから、

――しまった――

 と沙織は感じた。

 目の前の彼女は、その表情を見て、にやりと笑った。

「何言ってるのよ。本当は信じられないなんて思ってもいないくせに」

 と言われて、沙織はハッとしてしまった。

――やっぱり、見透かされているわ――

「そうね、私らしくないわね」

 彼女はおもむろにこめかみのところの残った髪の毛を触るようにして、

「そういうこと」

 と言って笑った。

――この人は、本当に私を、沙織という一人の女性として見ているのかしら?

 と感じるようになった。

――私の後ろに誰かが見えるとでもいうのかしら?

 霊感の鋭い人は、その人の背後霊も見えるのかも知れない。

 そんなことを今までは考えたことがなかっただけに、まわりに見えない何かがいると思ったことで、背筋に汗が滲んできたのを感じた。

「でも、香澄先生が自殺って、何が原因だったのかしら?」

 香澄先生なら、自殺しても不思議はないと思ったが、逆に先生を自殺に追い込んだ原因に関しては、まったく想像がつかない。

 想像しようと、いろいろ試みるが、どれも香澄先生のキャラからは想像できるものではなかった。

 それは、沙織が香澄先生のことを本当に知らないからなのか、それとも、自分が知っている先生が、離れていたこの数年間で、まったく違う人に変わってしまったからなのか、そちらにしても、死を決意した時の香澄先生の心境を思い図るのは無理なことだった。

「実は、これも噂なんだけど、やはり今度も男に裏切られたことが原因らしいの」

「香澄先生が、同じ失敗を二度もしたということ?」

「二度かどうか分からないわ」

「でも、あの香澄先生が?」

 と、言って口をつぐんでいると、彼女はまた口を開き、

「それはあなたが、先生のことを買い被り過ぎているからなのかも知れないわね。というよりも、過度の妄想を先生に対して抱いているのかも知れないわね。先生だって、聖人君子ではないのよ。一人の女性。人を好きになったり、人から好かれたり、当然恋愛感情を浮かべる人もいるでしょう。もう一度冷静になって、先生を一人の人間として見てあげないと、先生が可哀そうだわ」

――先生が可哀そう?

 そんなことを今までに考えたことはなかった。

 最初、香澄先生を先生という立場から、

――自分よりもすべてにおいて、レベルが上だ――

 と思っていた。

 しかし、途中から、お互いに話を重ねるうちに、気持ちが分かってくると、

――お互いに同じレベルなんだわ――

 と思うようになっていた。

 ただ、それが流動的なもので、その瞬間瞬間でシーソーの上と下が入れ替わるような立場であることを意識していなかった。

 香澄先生がそのことを意識していたのかは分からないが、今から思えば、香澄先生には分かっていたように思えてならない。

 実際に沙織が今までに仲が良かったと思っている人とのシーソーの関係は、上下が目まぐるしく入れ替わる仲が多かったことに気が付いていたはずなのに、意識したことがなかった。それは分かっているつもりで認めたくないという思いがあったからに違いない。

「あなたの言う通りなのかも知れないわね」

 沙織は、学生時代と違って、少しずつ素直になっていった。

 香澄先生が死んだと聞いた時、沙織は香澄先生との会話を思い出した。

――そういえば、コウモリの話をしたんだっけ――

 香澄先生が、何度も男に騙されて、最後は自殺するという結末を迎えたと聞いた時、沙織は、

――香澄先生は二重人格なのかしら?

 と感じた。

 しかし、その時に脳裏をよぎったのが、以前香澄先生と話をした時話題に出てきたコウモリの話だった。

 コウモリは二重人格とは違う。

 二重人格の人は、自分が二重人格であるという思いを抱いているいないに関わらず、あまりいい性格だとは思っていないはずだ。

――なるべく知られたくない――

 と感じるだろうし、まず、自分で信じたくないと思っているはずだ。

 しかし、コウモリというのは違う。

 二重人格というのは、性格的な問題なのに対し、コウモリというのは、生態系の問題である。

――持って生まれたもの――

 という意味では同じなのかも知れないが、それを甘んじて受け入れなければいけないのは、コウモリの方だろう。

 直接、自分の死活問題に発展するのが、コウモリという生態系である。

 そこには、

――先祖代々に培われてきた、生きていくためのノウハウ――

 が埋め込まれている。それだけ切実な問題だ。

 香澄先生が、持って生まれた自分の性分にいつ気づいたのかは分からないが、分かったことでそれまでの自分の生き方がすぐに一変したとは考えにくい。そこには出会った相手が大いに影響していることに間違いはないが、その相手が自分にどのような影響を与えるかまで、考慮していなかったのかも知れない。

 コウモリについて考える時、

「事なかれ主義」

 というイメージも浮かんでくる。

「行き当たりばったり」

 とまではいかないが、

 出会った相手に、

「自分は獣だ」

 といったり、

「鳥だ」

 といったりした後、どう対処したかということは、一般には知られていない。

「とりあえず、その場を収める」

 というだけしか、コウモリの生態系は教えてくれていない。

 もちろん、話しには続きがあるのだろうが、沙織が知らないだけなのだろうか?

――香澄先生は知っていたはずだ――

 と思ったが、それなら、余計に香澄先生の行動は理解できない。

 自殺したと聞いて、

「先生らしい」

 とは思ったが、その前後関係がこれ以上曖昧な確証も珍しかった。

――一体、どういうことなのかしら?

 香澄先生に対してのイメージが、高校時代から今までの間の点と点を線で結ぶことは難しいと語っているように思えてならなかった。

「どちらにしても、この話はあなたに対しては、少し重たかったかも知れないけど、事実は事実。時間がかかっても、素直に受け止めてくれることを願っているわ」

 と、最後はしおらしい話で、彼女との会話は、そこで終わったのだった。

 義之との出会いは、それから一か月くらい経ってからのことだった。

 香澄先生の自殺について、自分なりに受け入れられたと思っていた頃のことであった。

 香澄先生のことを理解できるようになってくると、次第に自分の中の香澄先生への想いが薄れていくのを感じた。

 納得できるまで、香澄先生の霊が自分のまわりに燻っていたかのように思えたからだ。

 ただ、沙織は薄れていっているとはいえ、完全に消えてしまうようなことはないと考えていた。

――記憶として一度どこかに格納されて、そして封印されていく――

 と思っていた。

 他の記憶なら、一度も格納されることなく、そのまま封印されるのだろうが、香澄先生への記憶だけは、一度何かに変換してから、封印しなければならない理由があるように思えてならなかった。

 その理由について考えてみたこともあったが、すぐにやめてしまった。

――考えても分かりっこないわ――

 と感じたからである。

 それは、自分の頭の中で、堂々巡りを繰り返すような気がしたからだ。堂々巡りというのは、無限ループと同意語だと思っていた。意識して何かの策を取らない限り、そこから抜け出すことはできない。つまりは、

「まず、意識すること」

 が大切なのだ。

 沙織は、堂々巡りについて、絶えず考えている。

――今、堂々巡りに陥っていないか?

 ということを意識するように心掛けていた。

 もし、その意識が甘くて、堂々巡りに入ってしまったら、自分の考えた意識の元に、今後動けるかどうか、分からないと感じたからだ。

――まるでロボットみたいだわ――

 そう、沙織が義之と出会ったことが、

――本当に偶然ではない――

 と感じたのは、その時、ロボットについて自分でイメージしたからだった。

 義之の口から、

「ロボット工学基本基準」

 と聞かされた時、ドキッとしたような気がした。

 だが、義之の話に入り込んでいたので、自分が自分のことをロボットのようだなどと感じたことを忘れてしまっていた。

 それでも、ロボット工学基本基準やロボットの話には共感できるところが大きかった。もし、少し前に自分をロボットのように感じなくても、義之の話に大いに興味を持ったことに違いはないと思っている。

 義之と話していて、自分が堂々巡りに入り込んでいたことに気付いた。

――何とかしなくては――

 と、普段なら感じるのだが、その時は、さほど危機感を感じなかった。なぜなら、義之が自分の堂々巡りを止めてくれる気がしたからだ。

 一日話をしただけで、堂々巡りから抜け出せたのかどうか、自分では分からない。だが、もう一人の自分が出口を見つけた感覚があるのは事実だった。

――これで抜けられるわ――

 そう感じたのは、義之と出会って、その日に彼の夢を見たからだった。

――夢の中で、あの人が私を堂々巡りから救ってくれる――

 という思いを持った。

 信憑性の高いものではあるが、確信ではない。だが、それだけに義之という男性から、これからも離れられないことを悟った。

 堂々巡りから逃れられても、すぐに彼から離れると、また堂々巡りに入り込んでしまう気がしていた。

――ただ、堂々巡りを繰り返したくないから、彼のそばにいるだけだ――

 という思いを抱くことだけは嫌だった。それが沙織の性格であり、堂々巡りを抜けることができたことを確信した考えでもあった。

 沙織は、自分が堂々巡りを抜けたと感じたのは、それから何年経ってのことだっただろうか。

 香澄先生の死を伝えられ、自分の中で陥ってしまった堂々巡り。抜けようとすると却って抜けられなくなる。その理由は、意識してしまうからに違いなかった。

――一体何を意識するというのだろう?

 沙織の中で堂々巡りを繰り返している時、なぜ、堂々巡りを繰り返しているかということを考えていた。その時に、

「意識してしまうからだ」

 ということに間違いないということは分かっていた。

 しかし、それだけでは説明のできないもの。そして、意識してしまって抜けないのがなぜなのかというのも、最後の理由に含まれていることだった。

「どうして、先生は死んでしまったのだろう?」

 ということを考えていた。しかし、理由が分からない。他の人ならいざ知らず、いくら自然消滅での別れを迎えたとはいえ、一番身近だった相手が、そう簡単に、

「もう会うことは二度とできない」

 などと思えるはずもなかった。

 気持ちとして、信じられるわけもない。何度も自問自答を繰り返す。

「香澄先生が死んだなんて、本当に信じられるの?」

 もう一人の自分は答えない。

――どうしてこんな時だけ、何も言わないのよ――

 と言ってみたが、もう一人の自分の正体を知れば、それも仕方のないことに違いなかった。

 堂々巡りに入り込んでしまった理由。これは、本当に簡単なことだった。

 そう、香澄先生が死んだという事実、これ以上でもこれ以下でもない。

 そして、沙織は、

――私は香澄先生に言いたいことがあったはずなのに、それを永遠に言えなくなってしまったことが、一番のショックだ――

 と感じていたが、本当は、さらに奥があった。

 香澄先生に言うはずのことを、香澄先生がいなくなり、二度と会えなくなってしまったことで、の言葉を沙織は自らで封印してしまったのだ。

――一体何を言いたかったのだろう? どうして私が言うまで待ってくれなかったの?

 と、何とも自分勝手な言い分だが、沙織にしてみれば、一言言いたかった。

 沙織の意識は、自然消滅の時に遡る。

――あれは本当に自然消滅だったのだろうか? そう思ってきたのは、本当は自分の言い訳ではなかったのか?

 香澄先生が死んだことで、沙織は香澄先生のことを考えるたびに、自分を蔑んでしまうのだ。

――もし、死んだのが香澄先生ではなく私だったら、香澄先生は私に対して自分を蔑んでくれるだろうか?

 自分が勝手に蔑んでいるくせに、沙織は香澄先生に自分勝手を押し付けてしまう。

――本当にこれでいいの?

 自問自答というのは、自分を蔑むことから始まるのだということを、今さらながら実感してしまった沙織だった。

――でも、香澄先生が死んだなんて、本当に信じられない。まだどこかで生きているような気がして仕方がない――

 一体どこで生きているというのだろう?

 沙織は、彼女から聞いた先生の死についての話の裏付けはもちろん取っている。その話が事実でなければ、香澄先生のことを考えること自体、すべてが無駄なことにしか思えないからだ。

 それにしても、どうして、彼女はあのタイミングで香澄先生の死について沙織に語ったのだろう?

 彼女にタイミング的な作為があったとは思えない。ただ、沙織が意識が過剰になっていることは確かだ。

 香澄先生についての思い出や過去の事実は、すべてタイミング的に何か意味があったように思えてならない。

 香澄先生は、沙織の記憶の中で生きているといえば、実にありきたりな言葉である。

 そんな、誰もが言うようなセリフは、香澄は虫唾が走るほど嫌いな言葉だったはずなのに、香澄先生に対しては、嫌な気がしない。

――何となくだけど、言葉の訳が分かる気がする。理屈さえ分かれば、私だって無下に嫌な思いはしないわ――

 と、沙織は感じた。

 香澄先生が死んだという事実、それを確かめることはできたが、結局、沙織は自分から確かめることはしなかった。だが、

――やっぱり、死んだんだ――

 と、思うようになった。

 もちろん、先生が死んだということを信じられないという思いは残っている。小さくなってきたわけではないが、香澄先生と面と向かって話をすることはできないということを事実だと思っている。

 香澄先生が死んだという話を聞かされてからの方が、沙織には香澄先生により近づけた気がした。それは、香澄先生がどこかに生きているというよりも、香澄先生が死んだことで、沙織の方が近づいたような気がするからだった。

 それは、香澄先生が死んだことを疑うよりも、信憑性を感じられることであった。

 香澄先生との思い出が走馬灯のようによみがえるが、それが、いつも同じものであることに気付いた。微妙に違いはあるものの、パターンは完全に同じである。

 学生時代までであれば、それも当然だと思っていた。

 一番思い出したいこと、あるいは、本当は忘れてしまいたいことというのは、思い出の中に当然存在する。それが、まったく正反対の感情であればあるほど、その二つの心境は近づいていくが、決して交わることはない。

 だが、その二つは決して平行線というわけではない。

 平行線でもないのに交わらない。そして、お互いに離れていく感情ではない。

 この二つから考えると、これほど矛盾した考えはない。それを理解するには、

――思い出したいことと、忘れてしまいたいことは、同じ次元で考えてはいけないんだ――

 ということだった。

 それは、そのまま生と死の世界の狭間に言えるのではないかと思った。それを映し出す媒体があるとすれば、それは鏡だけ。そう思うと鏡に写った世界は、異次元の世界であり、それゆえに、鏡に写っている自分は、本当の自分ではないかと感じた。次元が違うからこそできる発想。鏡の世界について沙織は、最近になってそんな風に感じるようになった。

 そう思うようになったのは。鏡を見ていてそこに写っている人が、

「これって本当に自分なのかしら?」

 と、左右対称ではあるが、寸分狂わぬ動作をする鏡の中の自分。当然といえば、当然のことだが、見ているうちに、次第に鏡の中の自分が似ても似つかない別人になっていくのを感じられた。

 別人にはなっていっているが、まだまだ進展途上。

――最後には、自分の知っている人になるのだろうか?

 と思うようになった。

――今はまだ、誰になろうか、判断しているのだろうか?

 とも感じたが、鏡の中の自分に疑問を感じた時点には、すでにそれが誰になるのか分かっていた気がした。そして、今も分かっているのだが、

「考えたくない」

 という意識が強く働いて、考えないようにしている。ひょっとすると、自分の中にいるもう一人の誰かが、妨害工作を取っているのかも知れない。

 ただ、鏡に疑問を感じさせたのは沙織本人ではなく、自分の中にいるもう一人、その人だった。

――悟らせておいて、その人が誰なのかを詮索することを妨害するというのは、どういうことなのかしら?

 と、考えるようになった。沙織は自分の頭が堂々巡りを繰り返していくことを感じたが、考えてみれば、今までも堂々巡りを繰り返していたような気がする。

――そのことを改めて思い知っただけのことなのかも知れないわ――

 と、感じただけであった。


 沙織は、三十歳になった今では、すっかり、今の状況に慣れてしまっていた。

 義之とは、あれからもずっと会っている。

 ただ、付き合っているというわけではなく、さらに、普通の友達でもない。親友という言葉で一つにできないような関係に思えた。いつも一緒にいるというわけではなく、お互いに会いたい時に会っているという感覚だ。

 義之は、相変わらず難しい話をしているが、結局は最初に話してくれたことの反復にしかすぎない。

「俺たちは、決して交わることのない関係なんだよ。でも、それは平行線でもなく、離れて行っているわけではない。それは、僕よりも君の方がよく分かっていることなんじゃないかな?」

 と、話してくれた。

 沙織が自分の身体に疑問を感じるようになったのは、この頃からだった。

 肌のところどころに、色が変わってきていることを感じた。それは、鏡に写して分かるものではなかった。自分の目線で、上から下を見下ろした時、ところどころまだらになったいる感覚があったのだ。

 病院に行ってみた。自分の主治医ともいうべき先生で、沙織が中学時代からお世話になっていた。

「そうですか。じゃあ、ちょっと診ましょうね」

 と言って、身体を外から診てくれた。

「ちょっと、検査をしますので、少し待ってくださいね」

 と言って、奥に入ったかと思うと、しばらくして、看護婦が呼びに来た。

 そこは、診察室ではあったが、今までの診察室とは少し違っていた。病院とは思えないような装置が置かれていた。まるで時代遅れの大型コンピューターのようなものが置いてあり、その前に、身体を仰向けにして寝台が動く形のCTスキャンのような機械が置かれている。

 何となくアンバランスな空間は、骨董品と、新型ロボットが共存している奇妙なイメージだった。

 それを見ていると、沙織は少し頭が混乱してくるのを感じた。

――このままなら、思考回路が停止してしまうような気がするわ――

 と感じたその時、ある言葉だけはリフレインとして残っていた。

「停止?」

 そう、思考回路というのは停止するという感覚ではない。沙織が感じている思考回路というのは、心臓の鼓動と同じで、絶えず動いていないといけないものだと思っていた。停止してしまうとそのまま死を意味するという思いは同じなのである。

 しかも、もう一つ同じ感覚を覚えているのだが、それは、

――本人の意識にいかんなく動いている――

 ということである。

 心臓も、自分から動いていることを意識しているわけではない。それでも、当たり前のように動いていることが、却って心臓の鼓動の方から意識させないようにしているのではないかと思わせるくらいである。

 思考回路も同じで、思考回路という存在を、思考回路の方から悟らせないようにしているのではないかと思うようになった。

――ではなぜ、心臓も思考回路も、本人に意識させないようにするのだろうか?

 という思いである。

 しかもそこには、

「わざわざ」

 という言葉のおまけつきだ。

 沙織は、義之から聞かされた、

「ロボット工学基本基準」

 の話を思い出していた。

 彼は、最初あれだけ熱っぽく話をしてくれたが、それ以降、ロボットの話に触れようとはしない。沙織の方も自分から聞くのも何となく照れ臭さがあった時期だったこともあって、お互いに話さなくなると、忘れてしまったかのように、話さなくなった。

 今思えば、義之の方から、ロボット基本基準の話に触れないようにしているのかも知れないと思えてきた。

 そのせいもあってか、沙織は自分でロボット工学基本基準をテーマにしたようなSF小説を好んで読んだ時期があった。

 難しい専門書ほどではないが、いくら小説とはいえ、ロボットの話ともなると、一度読んだくらいでは理解できない。何度も読み直すうちに、

――この小説は、読むことを重ねていく都度、話が横に進展していくような気がするわ――

 と、感じるようになってきた。

 そして、もう一つ思い出したのが、昔見た映画だった。

 国家ぐるみの秘密結社の話だったが、それを思い出すと、

――そういえば、自分には色を感じると何かを予知するという能力があったんだったんじゃなかったかしら?

 と、今さらながらに思い出した。

 ずっと意識してきたことだったのに、いつの間にか意識しないようになっていた。

 何かの能力を発揮するには、自分で何かを意識しなければいけないという発想は、意識する何かが、まるで能力の扉、もしくは箱を開けるカギのようなものではないかと思うようになっていた。

 箱を開けるカギは、沙織の場合、「色」である。

 だが、色に関して考えてくると、思い出すのはどうしても香澄先生の存在だった。

――私にこの能力を備えることを約束させる何かは、香澄先生との出会いを運命として私に感じさせようとはしなかったのだろうか?

 もし、沙織が意識してしまうと、せっかくの能力を発揮できなくなるかも知れない。それが心臓の鼓動や思考回路と同じように、本人に意識させてはいけないという原則が存在したのだろう。

 ロボット工学基本基準、その存在は、ロボットが人間における「安全装置」のようなものだった。では、この「原則」は沙織におけるどんな効果をもたらすというのだろうか?

 まさか、効果に関しては沙織に対してではなく、まったく別の人に及んでいるということであろうか? そう思うと、発想が勝手に暴走してしまうことを感じてしまう。

 暴走させないようにするには、どうすればいいか?

 それが、

「本人に意識させない」

 ということになるのではないだろうか。

 本人が意識してしまうと、発想は横道に逸れて、修復が利かなくなる恐れがある。そのため、この時の意識は、

「本人が意識しなくても、不変であり、寸分狂わぬ脈のように正確に時を刻んでいくしかない。それだけ強靭で、暴走することなく、本人の意識を必要としない形にならなければならないものだった」

 ロボット工学基本基準も、同じだった。

 ロボットは普段から、基本基準を意識しない。普段から意識してしまうと、必ずどこかで堂々巡りを繰り返し、動けなくなってしまう。

 基本基準の三条には、

「自己の身を守らなければならない」

 と書かれている。

 考えすぎてしまうと、きっとオーバーヒートを起こし、使い物にならないようになるだろう。ロボットは第三条があることで、自分を守ろうとし、思考回路が停止し、さらには、行動までも移さなくなり、まったくの無反応になる。

 ただし、ロボットは完全に停止したわけではない。きっと、第一条、二条とそれ以上の命令があれば、作動しなくてはならない。それが、人間の不利益になろうことでも、人間に危害が加わる危険を察知した場合、

「その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない」

 という第一条に忠実に従うに違いない。

 ロボット工学基本基準というのは、人間への「安全装置」でありながら、時として、その「安全装置」が裏目に出ることもある、いわゆる「諸刃の剣」でもあるのだ。

 そんなロボット工学基本基準も、解釈の仕方によっては、そのほとんどの可能性の中に「矛盾」が含まれているのかも知れない。そのおかげでSF小説のネタとしては、不自由することはない。だが、それを現実社会に生かそうとすると、あまりにもその道が遠いことは、今までの研究結果で明らかにされているだろう。

 ロボットの考え方など、百年前くらいからあったのかも知れない。

 いや、もっと前のからくり人形をロボットの元祖と考えれば、もっと昔からだ。

 だが、ロボット基本基準に関しては「からくり人形」には当てはまらない。ロボット基本基準は、あくまでも、自分の中に思考能力を有し、行動するための「電子頭脳」を必要とするものに適用されるからである。

 ロボット工学基本基準に含まれる作用を応用してロボットは行動するが、思考回路が堂々巡りを繰り返すと思考が停止してしまうというのは、最初からロボットに組み込まれているのだろうか?

 本を見る限りではそこに明記はない。

 沙織はそこが知りたかった。

 最初から組み込まれているのであれば、

――やっぱりロボットは内臓の頭脳によってしか動かないんだ――

 という思いである。

 だが、停止するという行動が埋め込まれていない場合はどうだろう? その場合はロボットが、

――自分で考え、判断した――

 ということになる。

 これは、ロボットの革命的なことではないだろうか。

 ロボット開発の進化が、ロボットの自律的な発想を生み出せるようになった。しかし、それは人間の本意であろうか?

 ロボットはあくまで第二条にあるように、

「人間の与えた命令に服従しなければならない」

 つまりは、勝手な行動を自分で判断させては、まだまだ危険ということになる。

 だが、果たしてそうなのだろうか?

 ロボットが自分で意志を持たないと、単純に第一条が絶対条件になるように、

――少々の危害が加わる程度であれば、その時の状況から判断して、危害が加わることで自分に利益が出ることを人間は選ぶんじゃないかな?

 と思うのだが、ロボットにそんな融通が利くはずもない。

「やめろ、俺の意志はお前に助けてほしいわけではない」

 と、ロボットに命令しても、ロボットの中に埋め込まれたロボット工学基本基準の発想は、

「いくらご主人様の命令でも、命令を規定している第二条にあるように、第一条、つまり

『その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない』という絶対前提の項目によって、助けなければいけない」

 と考えるのだ。

 この場合のロボットと、人間側の、

「助けなければいけない」

 という考えに絶対的な隔たりがあるのだ。

 絶対に交わることのない平行線なのだ。

 どうして、沙織は今になってまでも、義之が話題にしなくなったロボット工学基本基準を心の奥に深く刻んでいるのか分からない。

 今まで夢というのは、目が覚めれば覚えていることはほとんどなかったはずなのに、ロボット基本基準のことを意識するようになってから、夢を覚えていることが多くなった。その夢は、ほとんどが、ロボット基本基準を意識させるもので、

――だから余計にロボット基本基準を記憶の奥に封印できないということで、忘れることができなくなってしまったのかも知れない――

 うなされることもあった。きっと怖い夢を見ているのだろうが、目が覚めてから思い出すと、

「怖い夢を見た」

 という感覚はない。

 むしろ、最近見た怖い夢というのは、

――夢を見ている自分を夢に見た――

 というものだった。

 それは、自分を中心に、鏡を左右反対側か、前後ろに置いた時に自分が映っている姿を想像させる。

「いわゆる無限ループの発想なのだが、この発想は、ロボットにおける堂々巡りと似ているのかも知れない」

 だが、人間はそこで思考回路が停止するということはない。元々思考回路という意識はないし、

――心臓のように停止してしまえば、死んでしまうのかも知れない――

 という意識が働いているのだろう。

 人間とロボットの思考能力の大きな違いは、やはり

「停止するか、しないか」

 というところに落ち着いてくるのかも知れない。

 そこで一つ感じた疑問は、

「ロボットの記憶装置の中に、『忘れる』という概念があるのだろうか?」

 ということであった。

 人間は、忘れることで、怖いことから逃れようとする。実際に忘れられる忘れられないは別にして、忘れようとする意識は、覚えておくことと同じように重要なことだ。

「でも、人間の場合の忘れようとすることと、覚えておくようにしようとすることではどちらが難しいことなのだろう?」

 と、考えるようになった。

 沙織は、こういう発想をずっと抱いていたように思う。考え方がいつも堂々巡りを繰り返していたが、最近は、

――それでもいいのではないか――

 と思うようになっていた。

――堂々巡りを繰り返すのも人間だ――

 という考えで、思考が停止するよりもマシだと思っているからだった。

 沙織は、自分が、

「ロボットではないのか?」

 という意識を持つようになってきた。

「そういえば、義之さんが、面白いことを言っていたわ」

 と、義之の言葉を思い出していたが、その言葉というのが、

「ロボットというのは、なかなか自分をロボットだという意識を持っていないんだよ」

「どうしてなの? ロボットって、さっき言ったあなたの言葉の基本基準を埋め込んであるんでしょう? あの基本基準は、明らかの人への『安全装置』だって言ったわよね? それなら、自分が人間とは違うということを意識してしかるべきなんじゃないの?」

 というと、

「確かにそうなんだけど、ロボットを作る際に、そこまで明確にはしていない。ただ、人間ということに対して、他のロボットとは、見分けがつくようにしているのさ。そうしないと、ロボット工学基本基準を守ることができないでしょう?」

「確かにそうですね。でも、あなたとこういう話をしていると、まるであなたが未来から来た人みたいに思えて仕方がないわ」

「それは、君の『予知能力』が、そう教えるのかな? でも、きっとそれだけの根拠じゃないんでしょう? 『予知能力』というのは、あくまでも感覚の問題。あなたは、感覚だけで口から感じたことを出す人ではないと思うんですよ」

「私は、前からそうだったけど?」

「いや、今の君は自分で気付いてはいないけど、しっかりした性格になっているんだよ」

「じゃあ、感覚以外では何があるというの?」

「確証に至るために、自分が納得できるだけの意識があると思うんだ」

 そう言われて、少し考えて、沙織は言葉を選ぶように話し始めた。

「あなたが言ったロボットの性質なんですけど、どうも『点』でしか捉えていないように思うんですよ。ロボット開発は一旦始まると、途中停滞する時期があっても、先に進むと思うんですよね。問題は基本基準を超えられるかどうかなんだけど、今の時代の人で、想像だけしているのなら、きっとロボットの進化を考えると、さっきのように、基本基準が埋め込まれる前の発想は、説得力に欠けるのではないかって思う気がしたんです。気のせいかも知れませんが」

「沙織さんは、なかなか鋭いですね。確かにおっしゃる通りですね。やっぱり、俺が思ったように、冷静なところが、香澄先生の血を引いているんだね」

 と言って、自分が未来から来たのかどうかという話を明確に否定も肯定もしなかったが、その代わり、まるで沙織の中に香澄先生がいるかのような口調で話をしたのが印象的だった。

 ただ、どうしても、言葉の意味が分からない。確証どころか、自分で納得できる内容だとは思えない。

 沙織は義之の話を本当は、最近まで忘れていた。

 彼の存在すら、

――あれは夢だったのかも知れないわ。それにしても、本当にリアルな夢だったわ――

 沙織の頭の中は、少し混乱していた。だが、この混乱が収まると、それまで見えてこなかったことが見えてくるようになった。それも、ゆっくりとゆっくりと……。

 それでも、急速な変化を望んでいないはずなのに、時間が経つのは早いもの。気が付けば三十歳になっていた。

 三十歳という年齢は、一つの節目でもあった。

――そういえば、私が最初に沙織先生と出会った時、それがちょうど、義之さんが私の目の前に現れた時だったような気がするわ――

 それを偶然と考えるなら、今三十歳になった自分の年齢は、香澄先生が亡くなった時の年齢になっているのを、偶然という一言で言い表してもいいのだろうか? それを思うと、沙織は今、義之と最初に出会った時のことを思い出すのも、無理のないことだった。

 義之とは最初に出会ってから、何度か会った。しかし、急に、

「俺、少し旅に出るので、また会うことがあったら、その時はよろしく」

 と言って、沙織の前からいなくなった。

 彼から連絡が今のところないということで、彼がまだ旅の途中であると思っていたが、今考えると、彼にとって沙織に対して、

「用は済んだ」

 ということなのかも知れない。

 その用が問題なのかも知れないが、彼がいなくなったことで、最初は彼に出会ってから、少し自分の回りの空気が変わっていたことに気が付くまで、少し時間が掛かった。しかし、その時間がやってきた時、義之がいなくなっても、それほど気にならない、そして、

――本当に彼は存在したのかしら?

 とまで感じさせるほどになっていた。


 沙織は自分が他の人と違うと感じるようになったのはいつ頃からだったのだろうか?

 最初に義之と出会った時。確かにあの頃だった。

 何が違うといって、口で説明できるものではない。ただ、義之を見ていると、他人のようではない。

――どこか、私のことを探るようなところがあったのは分かっていたけど、まさか、身体の方を気にしていたとは思わなかったわ――

 確かに義之は、沙織の身体のことを気にしていたのが伺えた。彼は自分の話から、沙織の精神状態を探っていたのは分かった。精神状態に関しては。さほど気にしていなかったようだ。

「俺と似た考えだよね」

 と言って、満面の笑みを浮かべていた。

 普通であれば、同じ考えでいてほしいと思うのは好きになった人だろうと思うのは当然のことである。ただ、彼が話をしていたことは、普通の人なら突拍子もないことであり、想像を逸脱した話にどこまでついてこれたのだろうかと思うが、沙織の場合は、それほど苦もなくついてこれた。それを、沙織は自分の中だけで満足していた。誰かに自慢しなくても、自己満足を得られるようになった最初だったかも知れない。

 それまでの沙織は、どうしてもまわりの人を意識してしまうところがあった。だが、今の沙織にはそんなところはない。

――人は人、自分は自分――

 どうしてそんなことが分からなかったのかと思うほど、今では簡単な理屈になっている。

 まわりに誰かいないと寂しかったとは思っていなかったはずなのに、なぜか人を意識してしまう性格。そこか中途半端なようで、自分の中で一番くらいな性格だった。

 それを感じるようになってから、沙織は自分で何かを悟った気がした。その悟りを与えてくれたのは義之であった。だが、義之が与えてくれたのは「きっかけ」だけだったと感じている。

――私は自分の中にもう一人の自分を感じている――

 と思っていたが、実はそれも違っていたことを、最近になって分かってきた。

 自分の中にいる「もう一人の自分」、確かに自分に違いないと思っていたのだが、「もう一人の自分」が最初から自分の中にいたようにはどうしても思えない。そう思うと、途中から入ってきたその人は、自分でありながら、自分ではないのである。

――では、一体誰なのか?

 そのヒントを与えてくれたのも、義之だった。

 義之が、

「旅に出る」

 と言ったその時、沙織は別にビックリしなかった。なぜなら、義之は自分と同じ次元の人間ではないような気がしたからだった。

 それには根拠があった。

「沙織さんの中には、もう一人沙織さんの人格を作っている人がいる。でも、その人は『もう一人の自分』じゃないんだよ。たぶん、沙織さんも分かっているのではないかと思うんだけど、その細工に一役買ったのは、他ならぬ僕なんだよ。もちろん、そのことであなたに危害が加わることもなければ、あなたが心配することもないんだ。でも、ウスウス感じているもう一人の自分の正体が分かる前に、俺がそのことを話してあげないといけないと思ってね。詳細を最後まで話すわけにはいかないが、今のモヤモヤした気持ちをスッキリさせないといけないと思い、俺はこの機会に話をさせてもらった」

 その時の義之の顔は、寂しそうだったのが印象的だった。その表情を見て、

――彼は私の前から姿を消す覚悟をした――

 と感じた。

 それは予知能力ではない。予知能力は、何かを予知するための何かと偶然であっても、必然であっても出会う能力のこと、決して、すべてが見えているわけではないということを今では分かっている。

――彼は未来から来たんだ。そして彼は、自分の子孫なんだ――

 と、いうことに気付いた。

 彼が未来からきて、沙織の運命にどのような影響を与えたというのか、沙織はそのことまでは分からなかったが、義之が、

「旅に出る」

 と言ったのは、

――自分の居場所に戻った――

 ということを理解した。

 これは予知能力ではない。義之の気持ちが分かって必然的に感じたことだ。義之が自分の子孫だと思ったのもそのせいで、子孫が今の自分に会いに来たなどという事実、そう簡単には信じられない事柄を、素直に受け入れることができたのも、自分の中にいる、

――自分だと思っていた「もう一人の自分」――

 のせいだろう。

 では、もう一人の自分とは誰なのだろう?

 沙織はそれを、香澄先生だと思っている。

 自殺した香澄先生のことを考えていると、見えてこなかったものが見えて気がした。

――彼は、私の子孫というよりも、香澄先生の子孫のように感じる――

 と、思った時、それまでモヤモヤしていたものが繋がった気がした。

 彼がロボット工学基本基準のことを話した時、彼が未来人である予感があったではないか。

自分が未来から来たということを言いたかったのかも知れない。

 ただ、その未来というのは、本当にこの次元からの延長上の未来なのだろうか?

 沙織は、自分の未来を考えた時、違う次元を感じていたが、なぜか自然な気がした。

 未来を考えると、違う次元に思えて仕方がない理由、いろいろ考えているうちに、ふと気が付いたのだ。

「堂々巡りを繰り返している」

 そう、いろいろなことを考えていると、どうしても堂々巡りを繰り返すことになる。つまりは、堂々巡りを繰り返さず未来に行くには、

「次元を超えるしかない」

 と考えたのだ。

 沙織は、そう思うと、堂々巡りの原因が、もう一人の自分、つまりは、

「香澄先生が中にいるためだ」

 と感じた。

 そこまで分かってくると、三十歳になった今、また義之が自分の前に現れるのではないかと感じた。

 今度は、沙織の持っている「予知能力」が働いた。

 偶然だったが、義之が現れる前兆のようなものを感じた。

 そう、数年前に初めて沙織の前に現れた義之。あの時の感覚が沙織の中にあり、無風の空気の中、沙織に忍び寄ってくるのだった。


                 (  完  )



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予知能力~堂々巡り①~ 森本 晃次 @kakku

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