予知能力~堂々巡り①~
森本 晃次
第1話 色彩
この物語の根幹となる基準のお話に似たようなものがございますが、あくまでもこのお話はフィクションですので、作者の創作としてお楽しみください。
小池沙織は、今年三十歳になり、某建築会社でOLをしている。最近になって自分のことをよく気にするようになってきたが、二十歳代前半までは、あまり自分のことを気にすることはなかった。
かといって、他人が気になるというわけではなく、むしろ一人が多かった。一人でいても、自分のことを意識することもなければ、人のことを意識するわけではない、今から思えば、
「私は一体何を考えていたんだろう?」
と、自分でも不思議に思うが、絶えず何かを考えていたように思えるから不思議である。
――考えていることが、正確に記憶されるわけではない――
最近、沙織はそう感じるようになっていた。
確かにいろいろ考えていると、その時でまったく違うことを考えているようだが、それは夢を見る時と同じではないかと思うことがあった。
夢であれば、次の日にまったく違うことをイメージしてもそれは当たり前のことであり、夢を覚えていないのと同じで、その時に何かを考えていたかなど、その時々で違っているものを、そう重ねて覚えていることも難しいだろう。
しかし、夢を見ていて、時々感じるのは、
――本当に「夢の続きを見ていないのだろうか?
と考えることがあった。
夢は目が覚めるにしたがって忘れていくものだという意識はなかったが、その理由について考えたことはなかった。今考えてみると、
――夢を覚えられないのは、夢に繋がりがないことへの辻褄を自分の中で合わせるために考えていることではないのだろうか?
ということであった。
考えが他の人と違ったり、自分の中で理屈がすぐには分かりかねる時というのは、自分の中で無意識に辻褄を合わせようとしている時なのではないかと思うのだった。
沙織は、仕事をしている時は、あまり余計なことを意識しないようにしている。下手な先入観を持つと、仕事をする上で邪魔になってしまい、仕事の進行を妨げることになりかねないからだ。
最初の一年くらいは、覚えるのに必死だった。もちろん、余計なことを考える暇もない。二年目以降、慣れてくると、どうしても余計なことを考えてしまった。
考えるだけでは気が済まず、相手が上司であろうと、自分の意見を述べなければ我慢ができなかった。
しかも、自分で自信を持って考えたことだったりすると、まるで鬼の首でも取ったかのように、自信満々で話をする。相手が誰であれ、その態度は、いかにも高飛車であっただろう。
あまり深く考えることのない沙織は、まわりから胡散臭く見られていることにも気付かずに、一生懸命に熱弁をふるっていたことだろう。
沙織は、会社の中で浮いていたのかも知れない。一年目には、いろいろ合コンにも誘われたりしたが、二年目からはあまり誘われなくもなった。沙織自身は、
「それならそれでいい」
と思うようになっていた。
別に友達がいなくても孤独だとは感じないようになっていた。それは二年目のある日、一人の男性を気にするようになったからのことだった。
自分の好みとは少し違った男性で、話をしたこともない相手だったのだが、なぜか気になる人だった。
いつも通勤電車の中で見かける人なのだが、相手も沙織を意識しているのかどうか分からない。
その人は、いつも扉近くに立っていて、ずっと扉から流れる車窓を眺めている。
何を考えているのか分からないが、表の景色に対しては、いつもその視線は真剣な感じがした。
「毎日、同じ景色のはずなのに、何をそんなに必死に眺めているのかしら?」
車内の方がよほど毎日違っているので、真剣な観察という意味では、車内を見渡した方がいいように思うのに、実に不思議な感覚だった。
その人と目が合ったことがあった。思わずビックリして、瞬時に視線を逸らしたが、その人は沙織から視線を逸らそうとはしない。まったく表情を変えずに数秒見つめられたが、何かに追いつめられたような気がするくらい、目を逸らすことができなくなった。
その人は、何事もなかったかのように視線を切ったが、その瞬間から、沙織は彼から浴びた視線をしばらく忘れることができなかった。
電車は、何事もなかったかのように沙織の降りる駅に到着し、彼の視線を正面に浴びながら、そこを横切っていかなければならなかった。
――身を斬られるような思い――
人の視線を浴びるということに痛みを感じるというのが、本当のことだったというのを初めて知ったのだった。
沙織は通学の時からそうだったが、一つの場所が決まれば、いつも同じ車両の同じ場所に乗ることにしている。別に他の場所で悪いというわけではないのだが、決まったパターンを変えるということは嫌いだった。それが、もし偶然や無意識にであっても同じことである。沙織にとって身についてしまったパターンは、そのまま生活の一部になっていくのだった。
――彼も同じなのかも知れないわ――
同じような人は、沙織が感じているよりもたくさんいるに違いない。
沙織が彼の視線を感じてからというもの。自分にいろいろなパターンが存在することに次第に気付いていった。
もちろん、同じ車両の同じ場所に乗るというのは、律儀なところがあるからなのか、何かのジンクスを感じていて、急に変えることを自分から拒んでしまっているからなのか分からないが、一つのパターンの元に暮らしていることを意識するのに変わりがないことを自覚していたのだ。
沙織が、自分のパターンの中に色を感じるようになったのは、その人と視線を合わせてからのことだった。
男性に見つめられたことがなかったわけではない。もっと間近で見つめられたことも今までにはあった。それなのに、遠くもなく近くもないという適度な距離で見つめられたのに、こんなの胸の鼓動が激しかったのは、
――それだけ彼に目力があったからなのか、それとも、距離が適度過ぎて、遠すぎず近すぎない距離が、ちょうど、感情に嵌りこむきっかけを招いたのかも知れない――
と感じたのも、どちらかであろう。
結論からいうと、後者であった。
彼は、しばらくすると、同じ電車に乗ることはなくなり、どこに行ったのか分からなくなっていた。
――いなくなって、その人の大きさを感じる――
恋をしたりすると、そういう感情になったりするというが、沙織の場合は、追いかけるような気持ちもなければ、
――いないならいないで仕方がないか――
と、感じていた。
さすがに見かけなくなって最初の数日は、
「訳の分からない大きな穴を感じる」
と思い、それが彼に対してのものだということを意識していたが、それもすぐに、いないことへの辛さではないことに気付いていた。
彼が絶対に私の目の前にいなければいけない存在だというわけではなかった。
――いないならいいないで仕方がない――
と思いながらも、同じ電車に乗っていて、彼がいないその場所を見つめていると、胸の鼓動が、何やら胸騒ぎのようなものに変わっていた。
それは、その場所に対して感じている胸騒ぎであって、その時にきっと沙織自身、
――自分の性格は、他の人から比べて変わっているものなのかも知れない――
と感じたのだろう。
その中には、色というものに対しての感情も含まれていた。
色というものを意識したことは、実はその時が最初ではなかった。
中学生になって、学校から「美術鑑賞」と称して、美術館での課外授業があったが、その時に見た絵の中に、
「色のコントラストが、この絵の命なんだわ」
と感じさせるものがあったのを思い出した。
――自分にもそんな絵を描けるような才能があればいいのに――
と感じていたが、絵を描くために大切なものが自分には欠けていることに、一番最初に気が付いた。
それはバランス感覚であり、真っ白いキャンバスのどこに、筆の第一投を投入するかが分からない。色というよりも、まずは、構成のバランスから分からないのだ。
「絵を描くのに、構成のバランスと、色のバランスと、どっちが重要なんですか?」
と、美術の先生に聞いてみたが、
「何とも言えないけど、どちらにも言えることは、『適度な距離を保つ』ということが大切だということです」
と先生は話してくれた。
「私は、そのどちらも苦手です。それは先生のおっしゃる『適度な距離を保てないから』なんでしょうか?」
「それは言えることだとは思うんですけど、まだ君は中学生なので、早急に答えを出す必要はないと思うよ。別に絵描きを目指しているわけではないんでしょう?」
「ええ、もちろん、絵描きを目指すなんて大それたことは思っていません。でも、絵に限らず、一生に一度くらいは『自分が生きてきた証』として、何かを残したいと思っています」
「その気持ち分かります。一生懸命に何かを目指しているというのは、プロとしてさらに高いところを目指している気持ちも分かりますが、人から認められないことで、ショックを受けるくらいなら、自己満足でもいいから、何かを残したいという気持ちは私にもあります」
「ちょっと矛盾しているようなんですが、自己満足という意志は、他の人と同じでは嫌だという気持ちから生まれる場合もあります。ただ、それって、プロとして頂点に立ちたい人というのも、結果的に、他の人と同じでは成立しないものですよね。どこか人よりも特化していないと、物まねになってしまいますからね」
「結局は、目指すところは同じだということでしょうか?」
「そうですね。でも、人と同じでは嫌だという考えにも程度がありますから、その人がどこまで考えるかによって、自己満足では嫌だと思うと、先を目指すようになる。でも、その時に必ず壁にぶつかる時がある。それが、自我流ではダメだと本人が思い知ることなんでしょうね」
「やっぱりプロになるには、誰もが認めるものでないといけない。そこには、自分の信念を少なからず歪める気持ちがないと越えられない壁が横たわっているのかも知れないですね」
先生とそんな話をしていると、時間が経つのを忘れてしまう。
「私は、沙織さんが他の人と違うと感じているのは、何かあなたには、他の人にはない、色に対しての思い入れのようなものがあるのではないかと思っているんですよ。それは他の人も感じているかも知れないですが、きっと漠然としてしか感じることはないと思っています」
「それはどういうことですか?」
「どうやら、沙織さんも自分で意識しているわけではないようですね」
「ええ、どういうことなんでしょう?」
「言い方は悪いかも知れませんが、沙織さんは、色にランクを付けているように思えてならないんですよ。それは好きな色、嫌いな色というわけではなく、絵を描いていく上で、どの色とどの色が目立つのかということであったり、絵の中でのインパクトであったり、私には、それがあなたの絵に対しての、バランス感覚なんではないかと思っています」
先生の話は、半分分かった気がしたが、分からない部分があと半分というわけではない。分かっている部分が半分なら、分からない部分が、三分の二くらいになっているのではないかと思っている。そう言われると、分かっている部分と分からない部分が重なっているように思えるのかも知れない。
「確かに先生のおっしゃることも分かるような気がします。自分では確かに漠然としていますが、絵を描く時に限らず、その色を見ていると、色のランク付けというよりも、優先順位のようなものが自分の中に存在しているように思えるんです」
「でも、好きな色と優先順位とは若干違っているでしょう?」
「ええ、確かにそうです。好きな色に関しては自分で分かるんですけど、気になる色というのは、自分でも分かりません」
「そのことで悩んだりしたことあった?」
「悩むということはありませんが、どうしてこの色が優先順位の高いところにあるのかっていうのは感じたことがありますね。しかも普通に目立つ色からだったり、暗い色からだったりというような規則性があるわけでもないんです。かといって、まったく規則性がないと言えない自分がいるのも事実なんですよね」
「色に対しての優先順位、それはあなたの中でのそれこそ最優先の優先順位に当たるんでしょうね。でも、他の人には、色とは違う優先順位が別に存在しているのも確かなんです。ただ、そのことを誰もが意識しているというわけではないと、私は思っています」
「ところで、先生は、絵をいつ頃から描いているんですか?」
「私は小学生の頃から描き始めたかしら。描き始めは不純で、近所のお兄さんが、時々絵を描いているのを見て、ステキだなって思ったのよ」
「それって、先生の初恋?」
「そうだったのかも知れないわね。本当に好きだったのかどうか分からないけど、絵を描いている後ろ姿を見て、格好いいと思ったのは、事実なのよ」
「好きな人がしているのを見て、自分もしてみたくなるというのもありなんでしょうけど、逆に、その人がしている姿に格好良さを感じて、その人が好きになった。前後して、絵も一緒に好きになったのだとすれば、時間が経ってから思い出す時は、好きだった人が絵を描いていたからだということになるのかも知れないですね」
年上の先生に向かって、まだ中学生で男性と付き合ったこともほとんどない沙織が、よくここまで言えたものだと思うのだが、考えてみれば、まだ恋愛経験のほとんどない沙織だからこそ、好き勝手な意見が言えたのかも知れない。
先生もそのことがよく分かっていて、
「恋愛経験のない人の意見は、どこか怖いもの知らずなところがあり、貴重な意見として聞けることがありますね。でも、参考程度に聞いておかないと、自分の意見が迷走してしまうようになるから気を付けないとね」
と言っていた。
「その人の絵に関してはどうだったんですか?」
「私も小学生だったので、どれほどの才能があったのかというのは、判断できたわけではないわ。ただ、少なくともプロとしてやっているわけではないような気がしているわ」
「どうして分かるんですか?」
「確かに成長するにしたがって作風が変わってくるのかも知れないけど、私には、彼の小学生の頃の絵には、それこそ怖いもの知らずのところがあって、きっと、審査されると、一発で弾かれてしまうようなところがあるような気がするんですよ」
「そこが先生には魅力だったのかしらね?」
「そうだったのかも知れないわ」
「絵を描くにも、それなりに法則があると思うんですけど、その人はどうだったんですか?」
「バランス感覚とすれば、法則には敵っていなかったような気がするわ。でも、法則に適わないまでも、何か発展性を感じることができた。きっと、最後のところで辻褄が合っているんじゃないかって思うところがあったんですよね」
「私も自分で描く絵をそんな風に思っています。きっと専門家の人たちが見ると、治したくなるか、あるいは、最初から相手にされないかのどっちかでしょうね」
「芸術というのは、絵に限らず、そんなところありますよね。だから楽しいんだと私は思っていますよ」
「先生は、芸術は、『楽しむ』という形から考えるんですね」
「そうね、あなたは違うの?」
「私もそうですよ。でも、今まで芸術に携わっているって人に対しての感覚は、変わり者が多いというイメージですね。その変わり者というイメージは、芸術には法則があって、それに逆らうようなやり方で芸術に親しんでいる人を毛嫌いする雰囲気を感じていましたね」
「そういう意味で、沙織さんは自分の中で、色に対して他の人との違いを、少しコンプレックスに感じていませんか?」
「ええ、コンプレックスを感じてはいけないという思いを持っているにも関わらず、気が付けば感じています。どうして自問自答を繰り返すのか、どうすれば、自問自答を繰り返さないで済むようになるのか、そのことを考えている時間が多かったです。そんな時間をもったいないと思うようになってから、コンプレックスという言葉が嫌いになりました」
「私は、沙織さんがイメージしている色のランクというのは、一番低いところから、青、黄色、緑、赤だと大雑把ですが思っています。違いますか?」
「ええ、まさしくその通りなんです。しかも、そのすべてが原色であることが必須条件になりますね」
「その色に何か由来があると思うんですが、自分では意識がないんでしょう?」
「ええ、ありません」
「そうですか……」
と言って先生は、少し考え込んでいた。その様子を見ていると、
――本当は、何かに気付いているんじゃないかしら?
と思うようになっていた。
分かっているかも知れないと思うのは、話を聞きながら、相槌を打つかのように、ちょうどのタイミングで頷いていることである。何かを感じていないと、頷くことのできないタイミングで頷いているように思えて、沙織には先生に話をした自分の気持ちが、その時分かった気がした。
――他の人には言えないことでも、先生には聞いてもらいたいと思うようになったからなのかも知れない――
沙織は、先生を見ているつもりで、少し視線を逸らし、先生の背後を見つめているようであった。
先生は名前を、大森香澄と言った。皆からは普通に大森先生と呼ばれていたが、沙織だけは「香澄先生」と呼んだ。
香澄先生は、学校でも数少ない女の先生で、三年前にも教育実習で、この学校に来たということだった。
「実は私もこの学校の卒業生なの」
と、話していた。
「初恋もこの学校で、その時に好きだった人が、先輩だったんだけど美術部で、私もその影響で美術部に入ったんだけど、まさか、それがそのまま美術の先生を志すことになるなんて、思ってもいなかったわ」
と言っていた。
――何を言いたいのだろう?
と感じた。
「中学時代というのは、これからの自分の進路を決める時期として、一番可能性が高いということを言いたいんですか?」
「それはないとは言えないけど、そんなにかしこまって聞く必要はないわ。あなたには、そういうこともあるということだけを感じてほしいだけのこと。将来のことは分からなくて当然なんだから、私は必要以上に意識する必要はないと思っています」
先生は冷静だった。
少しだけ、冷静な先生に対し、苛立ちもあったが、今まで慕いたいと思った人がいなかった沙織にとっての先生は、初めて慕いたいと思った人だったことには違いない。
――私にとっての初恋なのかしら?
男性に対して、その頃好きになった相手はいなかったのに、いきなり女の人を好きになるというのもおかしなものだと思った。
しかし、男性に興味が湧かないことで、女性を慕いたいと思ったというのは、別に不自然ではない。ノーマルではないのかも知れないが、
「ノーマルじゃないといけないなんて、誰が決めたんだろう?」
と、開き直りの気持ちにもなっていた時期があった。
人を好きになるきっかけには、二つが考えられる。
一つは、自分から好きになる時と、もう一つは、相手が好きになってくれたので、自分も好きになる時である。
普通は前者なのだろうが、後者もありだと沙織は思っている。しかし、友達の中には、後者を否定する人もいて、
「相手から好きになられたから好きになるなんていうのは、私からすれば、錯覚にしか思えないわ」
と言っている人がいた。その人は、いつも自分が輪の中心にいないと我慢できないような性格の人で、自分に反対意見を述べる人を否定する人だった。
そういう意味で、彼女には敵が多かったように思うが、なぜか同じ意見の人も結構いた。意見が同じではない、考える姿勢が同じだった。つまり彼女は自分と同じ意見の人だけしか認めないわけではなく、自分が納得できない人を認めないという考えだったのだ。
自分が納得できない人を認めないというのも、結構乱暴な考え方なのだが、それでも、意見が違う人を認めないという考えには遠く及ばない。それを一緒に考えてしまっては、彼女に対して失礼だということに気が付いた。
先生のことを、女性でありながら、意識してしまったなど、誰にも言えるはずもない。自分がおかしいのだということで、一人気持ちの中に抱えていくしか、その時は考えられなかった。ただ一つ言えることは、
「自分が納得できるい人を好きになる」
という点で、先生と似ているということだけは分かった気がした。先生には、相手が男性であっても、美術であっても、同じことだった。沙織も先生を見ていて、
――私も同じところがあるんだ――
と感じるようになったことが、先生を意識するようになったきっかけではないかと思うようになっていた。
香澄が沙織を意識するようになったのは、色に対しての感覚からだった。
それは感性だと言ってもいいだろう。美術をしていると、一番大切なのか、バランス感覚と、遠近感、つまりは、
「光と影」
だと、香澄は感じていた。その思いは隠すことなく、友達にも生徒にも話をしていた。だが、理屈は分かっても、自分で取り入れようとしてくれる人は少なかった。
――理屈は分かっても、納得できないからなのかも知れない――
と、香澄は思っていた。
香澄先生とそんな話をするようになってから、沙織は美術部の中でも、他の人とは少し違った意味で絵を描くようになった。
皆が絵を構図や構成のバランスで描くのであれば、沙織は色のバランスで描くように心掛けるようになった。
だが、美術部に所属したのは中学まで、高校生になってから、絵画を部活ですることはやめた。嫌いになったわけでも、限界を感じたわけでもないが、
「絵を描くのは、やりたい時にやる」
と、一歩下がったところで考えるようになった。
香澄先生が、時々デッサンに出かけるということでついて行ったこともあった。香澄先生は鉛筆画が中心で、色を使った作品を描くことはほとんどなかった。
そんな香澄先生も、学生時代は油絵が中心だったという。
「私はこれでも、県のコンクールで優勝したこともあったんだけど、それも昔の話ね」
と言って笑っていた。一度香澄先生の、優勝したという作品を見せてもらったが、沙織はその作品を見て、
「私には描けないわ」
と、感じた。
どちらが優れているなどという次元ではなく、明らかに沙織の作風と、香澄先生の作風には違いがあった。
絵に使われている色というのは、力強さや見た目のインパクトを与えるものだと沙織は思っていた。
確かに色というのは、絵に対して印象付けるための大きな要素であり、一瞬にして見る人にそのイメージを植え付けられるほどの力強さを持っている、そんなエネルギーを感じさせる。
「生きた作品」
というイメージを感じることができる作品には、人を惹きつける力があり、審査員にも好印象だったに違いない。
香澄先生の作品には、それが感じられた。
――しかし……
沙織は、どこか納得いかなかった。
それは、香澄先生の性格を考えると、そんなエネルギーを表に出して、しかも、優勝するだけの爆発力を持った作品を完成させられるようには、どうしても思えないからである。香澄先生は、どう見ても性格的には引っ込み思案で、今の作風も、
「静かに燃える」
という作風を感じる。
決して、自分から表に出ようとしていないことを前面に押し出しているわけでもなく、あくまでも控えめだ。
――気配を消すことをしなくても、まわりから意識されることはない。まるで石ころのような存在――
高校時代までに、性格的に暗い人はまわりにいくらでもいたが、香澄先生のような存在の人を見たことがなかった。
――まるで石ころのようだわ――
目の前にありながら、その存在を意識することはない。
河原にある石ころであれば、たくさんの中の一つを意識するというのは難しいことだが、一つしかなくても、その石ころを意識することはない。
そこには二つの考えが存在する。
一つは、
「その場所にあって当然のものは、まったく意識しない」
という考え方で、もう一つは、
「見ている人、それぞれで違う」
という考え方だ。
その場所にあって当然だというものは、他にもたくさんある。いちいち意識していては、キリがない。
「見えているのに、見えていないような錯覚に陥る」
ということがあるのかも知れない。
それは意識の中にもあることで、
「本当は前から知っているはずのことを、その時に初めて感じたような気がする」
という考え方だ。
これは、デジャブ現象の逆の発想である。デジャブ現象は、
「初めて見たり感じたりしたはずなのに、以前から知っていたような気がする」
というものだ。
そちらから考えると、なかなか理解できないものも、逆の発想をしてみると、見ていたはずのものをスル―してしまっていたという発想もありではないかと思えるのだった。
最初の考えは、香澄先生の側から見た考え方だったが、もう一つは。香澄先生の方を見ている方の考え方である。
高校時代に香澄先生と一緒にデッサンに出かけた時のことだった。
――山や谷の見えるところ、そして、少し行くと、沢が流れていて、その上流には滝がある――
そんな、自然が豊富な場所に先生が連れて行ってくれたことがあった。
「ここは、今まで先生が何度も来たことがあるところなの。ここだったら、いくらでも自分の描きたい作品をイメージできるって思ってね」
「先生は、いつもここに来るんですか?」
「いつもということはないわ。他の場所で描くこともある。先生は、ここに二回までは続けてくることはあるけど、三回目は他の場所にするの。ここは、ずっと私がずっといる場所じゃないような気がするの」
「どうしてですか?」
「この場所って、『生きている』ような気がするのよ。自然の息吹を感じることができるのだから、生きているというのを改めていうのはおかしなことなのかも知れないけど、この場所は自然の息吹とは違った別のものがあるの。それは何かの意志を感じるとでもいうのかしら? ここにいると、じっと見つめられているような気がしてくるの」
香澄先生の話は何となくだが分かったような気がした。ただ、それはあくまでも漠然としてであって、今感じたこと以上に、分かることはないだろうと思っていた。
香澄先生は続けた。
「まわりから見られているというのは、作品を作る時に、プレッシャーも感じるんだけど、それだけではなく、描いている作品は一つのはずなのに、なぜかたくさんの作品が出来上がっていくような気がしているのね。それは、まわりが私の作品に、『息吹』を与えているというのかしら? とっても、やる気が出てくるの」
「それっていいことなんじゃないですか?」
「そうなんだけど、とっても疲れるのよ。そのうちに自分が絵を描いているという感覚がなくなって、描いている自分を客観的に見ているのを感じるようになるの。おかしな感覚でしょう?」
「そうですね」
「この感覚って、どこかで感じたことのあるものだって気付いたのよ。沙織さんなら、それを何だと思う?」
沙織は、黙って考えていた。何となく分かるような気がするが、その言葉は先生の口から聞いた方がいいような気がして、敢えて何も答えようとしなかった。
先生をそれを見て、すかさず口を開いた。
「それは夢という感覚に似ていると思うの」
やはり沙織の考えたことと同じだった。
夢というのが、客観的に自分を見るのだということを感じるようになったのはいつからだっただろう? 香澄先生に出会う前だったので、小学生の頃だったのかも知れない。そんなに昔のように思えないが、それだけいつも自分の中で意識しているということなのだろうか。
沙織は今まで見た夢を覚えているというのはほとんどなかった。夢を見たという意識はあっても、どんな夢だったのか思い出そうとすると、頭痛に襲われることもあった。
頭痛というのは、吐き気を伴うもので、最初に視界がハッキリとしなくなる。焦点が合わない視界で必死に前を見ようとしていると、そのうちに前が見えるようになってくるが、それに前後して、頭痛が襲ってくる。短い間だけのことだが、その後に襲ってくる吐き気の前兆だった。
だから、見た夢を敢えて思い出さないようにしている。
――思い出そうとしてはいけないのかも知れない――
それは、
「見てはいけない夢を見た」
というわけではなく、
「どんな夢であっても、思い出せないものを思い出そうなどと無理をしてはいけない」
ということだと理解していた。
自分を納得させることができなくても、意識がそう感じていることであれば、それに従わなければいけない。この感覚は高校を卒業してから感じるようになった。それを教えてくれたとすれば、香澄先生だったのかも知れない。
香澄先生とは夢について話をしたことはなかったが、一緒に出掛けたデッサンで、そのことを教えられたような気がした。
香澄先生には直接的に教わったことも多かったが、間接的に教わったことが決して少なくはなかったことを感じたのは、香澄先生と一緒にデッサンに行くことがなくなって久しい時期からだった。
香澄先生が、いなくなったのは、沙織の大学進学が決まってからすぐだった。試験勉強のため、香澄先生とは、半年以上会っていなかった。
連絡は取っていたのだが、先生も気を遣ってくれていて、余計なことは一切しなかった。
元々香澄先生は冷静なところがあり、会わないとなれば、一切先生の方から連絡をしてくることもなく、沙織が連絡を入れても、形式的なことしか返ってこなかった。そんな先生を分かっているので、電話で話すこともなく、一人での試験勉強に孤独感と寂しさで押し潰されそうになったこともあったが、先生に連絡しても、結局は冷静に見られるのであれば、
「連絡なんか取らなければよかった」
と感じるだけである。
それなら、一人で乗り越える方がマシだと思っていた。
そのおかげなのか、沙織は孤独と寂しさを分けて考えることができるようになった。
孤独を嫌なものではなく、冷静に見ることができるようになった自分が怖くもあったが、その時になって、夢を思い出そうとした時に、襲ってきた頭痛の理由が、何となくだが分かってきたような気がした。
「孤独も、自分を納得させるものではないけど、意識として感じることなんだ」
と思うようになっていた。
甘んじて受け入れようという気持ちになると、気分的にアッサリしてくるのを感じていた。
――私は、冷静な人間だったんだ――
と、感じるようになった。
元から激情家ではないと思っていたが、冷静な香澄先生を見ていると、自分がその反対のように思えていた。
それは、
――冷静な人だ――
と分かっていても香澄先生を慕っているのを感じている自分がいるのを分かっているので、慕っているという気持ちが、甘えているということに繋がることをいつの間にか理解できるようになっていた。
沙織は大学に入ると、冷静さが表に出てきた。
まわりの大学生に軽い連中が多いことで、余計に冷静な沙織が目立ったのかも知れない。沙織は、友達はそれなりにいたが、決して表に出ようとせずに、いつも冷静にまわりから見ていた。
「沙織って、どうしてそんなに冷静になれるの?」
と言われるが、
「自分では分からないわ。でも、自分の中で納得のいかないことは、どうしても客観的にしか見ることができないくなるの。そういう意味では、自分で納得の行かないことって、思っていたよりも多いのかも知れないわね」
と、話したことがあったが、質問した方には、どこまで伝わったかどうか、ハッキリと分からない。
「でも、納得いかないからって、逃げているわけにはいかないもんね」
と言われて、
――逃げるという言葉が出てくる時点で、私のことを分かっていない証拠だわ――
と感じると、それ以上、自分の気持ちを話しても伝わらないことが分かった。適当に話をいなしていることで、話題をやり過ごしたのだった。
ただ、沙織にいろいろ聞いてくる友達も少なくはなかった。
「沙織の冷静な目で見て、いろいろ話してくれるとありがたい」
と言ってくる人には、遠慮なく考えを述べたものだ。
かなりきついことを言ったこともあったが、
「ありがとう。何となくだけど、目からうろこが落ちた気がする」
と言っていた。
その時から、
――ハッキリと言ってほしい相手には、下手なオブラートの包み方なんかしなくてもいいんだ――
と思うようになっていた。
――オブラートに包むということは、真剣に聞いてきている人に対して、自分が逃げていることになる。相手に失礼だというよりも、自分が納得できない。それは、自分の主旨ではない――
と思うようになっていた。
沙織が、最近色をまた気にするようになったが、それは会社で、色を気にする女性がいて、その人との話の中で、
「色を気にする人というのは、私なんかそうなんだけど、色を何かに当て嵌めて、そこから感じられるものを先読みすることなんじゃないかって思うんですよ」
「あなたは、色に何を想像するんですか?」
「私は食べ物ですね。色で食べ物を想像して、味を先読みする感覚で、『色を感じる』という気分になりますね。食べるということは食欲であり、欲の一つなので、余計に想像力が豊かになります」
「色で想像力を先読みするというのもいいことですね」
そういうと、その人は、それまで楽しそうに話していたのだが、次第に表情が硬くなり、真剣な面持ちに変わってきた。
「それがですね。色から食べ物を想像して、味の先読みをするようになると、今度は自分に予知能力のようなあるんじゃないかって感じるようになったんです」
話の展開が読めない。
「えっ、どういうことですか? 気のせいではなくって?」
「ええ、予知能力と言っても、大したことはないんですが、何か嫌なものを見るんじゃないかって思ってたら、事故の現場を目撃したり、会社に来るのが嫌だと思った時は、前の日にどうやら自分が何か失敗していたようで、上司に怒られたりするのが、事前に分かるんです。ただ、漠然としてなので、予知能力と言えるかどうか分からないんですけど、味の先読みを意識するようになってから、予知能力を感じるようになりました」
「私は、好きな色と嫌いな色の差が激しいんですけど、色にどうしても優先順位を付けないと気がすまなくなってしまったんです」
そう言って、以前先生に話した「色のランク」の話をした。学生時代から絵を描いていて、色に関して、少しコンプレックスを持っていることも話した。
しかも色のランク付けは、その日の感情や波乱を予感させるものだった。彼女との話に重複するところもあるが、色のランクというのは、その日の自分の運勢のようなものだった。ランクが高くなるにつれて、その日一日が波乱万丈であり、それがいい方に転ぶのか、悪い方に転ぶのかが決まってくる。朝起きてすぐに感じる時もあれば、学校に着いてから感じることもある。どちらにしても、
「その日一日は、自分が想像した運命から逃れることはできない」
と、思うようになっていた。
さすがに、予知能力を感じる人には敵わないが、私は中学時代に色で感じる自分の運勢を、楽しんでいたところがあった。波乱万丈の一日であっても、その日一日限りのことであって、翌日以降も引っ張る話であっても、それ以上の想像はできなかった。
学生時代は、
「もっと先のことが分かればいいのに」
と思っていたが、三十歳を超える頃になると、平穏な毎日を望むようになり、
「こんな想像なんて、できないに越したことはないのよ」
と感じるようになった。
世の中、成り行きに任せて生きるというのが「平穏」に繋がるということであり、平穏こそが、今一番自分が求めていることだと思っていた。
先のことを知りたいと思っていた時期があったなんて、今では信じられない。冷静に考えれば、先のことを知ってしまうと、せっかく見えない道が目の前に広がっているところを、無意識に間違えることなく進んでいるのに、身構えてしまって、進む道を間違えてしまうことになりかねないかが心配だった。
予知能力などというものが、本当に存在するなど、考えてもいなかった。もし、あるとしても、自分とは関係のない遠いところでのお話だと思っていた。
遠いところというのは、距離的な遠さだけではなく、時間的な遠さもあり、誰か相手として比較するのであれば、年齢的な遠さというものも考えられる。
――意外と私の近くには、予知能力を持った人がたくさんいるようだわ――
と、感じたことにより、超能力というものが、身近に感じられるようになってきた。
だが、逆の考え方もあった。
――予知能力というものは、元々身近なものであって、超能力とは違うものなんだわ――
という考えも生まれてきた。
どちらかというと、最初は前者の方の考え方が強く、途中から後者の方の考え方が強くなってきた。
今は後者の考え方を普通に受け入れるようになり、近い将来への予知能力くらいであれば、それほど驚かなくなってきた。
「予知夢」という言葉を聞いたことがある。将来に起きることを夢に見るというものだが、予知能力が超能力でも何でもないと感じてくると、今度は、夢というものに対して今まで持っていた不思議な感覚は小さくなってきた。ただ夢に対しての神秘性は残っていて、不思議なものだという気持ちが少なくなってきた分、神秘性は高くなってきたように感じるのだ。
予知能力を持っている人の映画を以前友達と見に行ったことがあった。
その映画は、予知能力を持っていることに高校生になった時に気が付いた主人公が、最初は能力を持っていることを自慢のように思っていた。
彼はバカではない。他の人に、
「俺には予知能力がある」
などというと、きっとバカにされることは分かっていた。さらに下手に話して、どこかの組織に狙われないとも限らない。そこまで分かっているので、まわりになるべく悟られないようにしていた。
しかし、隠そうとすればするほど、ストレスが溜まってくるもので、本当は人に言いたくてウズウズしていた。
彼は普段は冷静な性格なのだが、自分に特殊能力があることを知ると、次第に有頂天になってくる。今までになかった興奮に、我を忘れそうになるのを堪えていたのだ。
しかも、予知することができるのは、いいことばかりではない。嫌なこと、見たくないことまで見えてくるのは、想像以上に辛いことだった。
「こんなに苦しいなんて」
と思うようになると、今度はどこで彼の能力を嗅ぎつけたのか、目には見えないが確かに存在しているどこかの組織に、付き纏われるようになった。
その組織は、彼の能力を必要とした。
彼をつけ狙うのは、実は国家の秘密機構であり、彼の能力を使って、反社会勢力を壊滅に追い込もうとしていた。
次第に彼にも組織の正体が分かってくるようになると、悪の組織ではないことに、ホッと胸を撫で下ろしたが、それは少しの間だけだった。
すぐに彼は自分の置かれている立場が、自分が考えてるよりも、かなり厳しいものであることに気付かされる。
相手は国家の秘密組織である。まずそのことが大きな問題だった。
要するに「国家ぐるみ」、相手が本気になれば、逃れようとしても逃れられない。一歩間違えれば、自分の存在を消されてしまう。
「ネズミ一匹がいなくなったくらい、痛くも痒くもないわ!」
と言って笑っている男の姿が思い浮かんだ。顔はシルエットになっていて、口には葉巻が咥えられている。そんな想像をする自分が、恐ろしくなってくる。
急に「孤立」という言葉が頭を擡げた。
「孤独」という言葉はいつも感じていたが、「孤立」となるとまた違ってくる。「孤独」は自分一人の中だけで完結するものだが、「孤立」はまわりの環境から作り上げられた自分が一人であるということ、それだけではなく、追いつめられる感覚を味わうのも、「孤立」であった。
追いつめられる感覚は、決して「孤独」から生まれるものではない。それは「孤独」が自分の中だけで完結するものだからである。
さらに「孤立」の下に「無縁」という言葉がついてくると、自分の立場をいやが上にも思い知らされることになるだろう。
主人公の「孤立」の下に「無縁」という言葉がついていれば、物語にはならなかったかも知れない。彼には仲間がいた。それは、彼をつけ狙う国家の秘密組織の中にいたのだ。
主人公を助けるべく、彼は秘密組織を裏切ることになる。もちろん、彼の中には組織を裏切ることに葛藤があったのは当然だった。
「俺だって、信念を持ってこの組織に入ったんだ」
という自負もある。
この組織の設立理念は、
「警察や法律が手出しできない悪の組織を秘密裏に壊滅に追い込む」
ということだった。
映画やドラマでは、お決まりの設定だが、彼らも他の映画やドラマの同じように、組織内の結束は絶対だった。
もちろん、彼もそれを覚悟で入ったのだ。
彼の両親は、悪の組織に抹殺され、結局、警察も法律も何もしてくれなかった。それこそ両親は、
「闇に葬られた」
ということになり、言いたくはないが、
「犬死した」
ということで、終わってしまった。
そんな時、秘密結社が彼を誘いに来た。
「警察や法律ではどうにもならない理不尽なことは、世の中にはいっぱいある。君のような悲惨な目に遭った人も、それ以上の数に及ぶんだ。一緒に、親の敵を討とうじゃないか」
と言われた。
その時の彼には、他に自分のような悲惨な人がいようがいまいが関係なかった。今の苦しさや、やるせなさからいかにして逃れるかというのが、その時の最大の問題だった。
――敵を討ったところで、死んだ人間が帰ってくるわけではない――
という思いもちろんあった。
だが、そんなことはどうでもいいほど、自分を制御することができないところまで来ていたのも事実だった。
「頭では分かっているつもりなのに、冷静になろうとすればするほど、自分が嫌で嫌でたまらなくなるんです」
「分かる気がするよ。その気持ちが、ジレンマというものなんだよ」
「ジレンマですか? 何とのジレンマなんですか?」
「それは、君が一番分かっていると思う。君の中にある常識やモラル。それが自分を許せないんだよ。何かを納得されるのは、他人に対してよりも、自分に対しての方が、何倍も難しいということさ。それを他の人はほとんど意識していない。それはまわりを納得させることだけしか考えていないからね。でも、本当は違うのさ、自分を納得されるということが一番難しいということを、無意識に分かっている証拠なんだよ。だから、冷静になろうとする自分と、どうしても納得することのできない自分の間がジレンマなのさ。でも、その距離は決して遠いわけではない。すぐ近い位置にいるにも関わらずジレンマが深いのは、それが、『交わることのない平行線』を描いているからなんだよ」
その人の話は分かりやすかった。
――ひょっとすると、俺はこの人に洗脳されたのかも知れない――
と、彼の話がプロパガンダだったのではないかと思ったのだ。
そんな彼が入った組織は、本当に雁字搦めの世界だった。
しかし、彼のジレンマに比べれば、それでもマシだった。しかも、信念を持って行動できるところが彼には一番ありがたかった。
彼は自分が孤立していることに気付いていない。
この組織では、構成員の存在はすべて組織に委ねられている。日本国の戸籍や、その人の存在すら、簡単に操作できるだけの組織でもあった。もし、組織にとってその人の存在が不利な要素になった場合、簡単に処分されてしまうだろう。そんな状況で耐えられるとすれば、彼のように「孤立無援」を平気で受け止めることができ、それをさらに自分の中で納得できる人間でなければ、とてもではないが務まらない。
「それなのに」
どうして組織が主人公をつけ狙うのか、彼には分からなかった。
主人公の生い立ちを考えると、どうしてもこの組織に耐えられるものではない。それはどんなにプロパガンダを行っても、彼には通用しないと思っているからだった。
彼は、主人公を何とか組織から救おうと、主人公に近づいた。
最初は、理屈が分からなかった主人公だが、次第に忍び寄る組織の影に、不気味さを感じるようになり、彼の話を無視できなくなった。
「俺が、君の味方になってやる」
という彼を慕うしかなくなってきた主人公も、
「すまない。あなたには迷惑を掛ける」
と言いながら、二人はいろいろな作戦を立て、組織の追及をかわそうとする。
さすがに彼も、組織の人間。どういう作戦で来るかということは、おおよそ分かっていた。
「それにしても」
何とかギリギリのところで、きわどく危機を逃れてきてはいたが、本当に紙一重であった。
かなり精神的にも限界に近いところまで来ていたのは自分でも分かっているし、組織にも分かっているだろう。しかし、それ以上の厳しい責めを行ってくるわけではなかった。
「まるで、俺たちを庇っているかのようにすら見えるのはどうしてなんだろう?」
彼には、それが気になっていた。しかも、組織のことをほとんど知らないはずの主人公にも、漠然としてではあるが、そのことは分かっていた。
「どうしても、君を利用したいと思っているんだろうな」
と、主人公に話をする。
ただ、その時から、主人公の雰囲気が少しずつ変わってきた。
追いつめられているはずなのに、どこか冷静であった。
元々冷静に見えたが、それは心底の冷静さではなかった。
「余裕のない冷静さ」
だったのである。
彼は、主人公が次第に分かららくなってきた。そのうちに彼は気付いたのだ。
――まさか、孤立していたのは、俺だったんじゃないのだろうか?
主人公を救おうとして躍起になっていて気付かなかった。何を気付かなかったのかというと、
「主人公の気持ち」
であった。
最初こそ、孤立だと思っていたが、自分には助けてくれる人が一人現れた。そのおかげで、それまで納得できない自分を孤立していると思っていたが、彼の話を聞いたりしているうちに、納得できないことが次第に納得できるようになってきた。
それは、繋がっていなかった点と点が、線となって繋がった瞬間だった。
彼は自分が孤立したことを感じると、今度は自分が信じられなくなり、頭が混乱してくるのを感じた。
主人公は、それから予知能力を組織の中でさらに正確なものに作り上げることに専念するようになった。
それからしばらくして、主人公が病院を訪れていた。
その病院には一人の男性が入院していた。
「彼の記憶が戻るというのは難しいですね」
というのが医者の見解だった。
「どうしてですか?」
「彼の中には、記憶を戻さないように何か内から力が働いている気がするんですよ。記憶を失った人が記憶を取り戻すには、無意識にでも、本能的なものとして、記憶を戻そうという意志が働かないと難しいんです。彼の場合は、無意識どころか、本能的なものさえ抑えつけようという力が働いています。そんな彼に記憶を取り戻させるのは、却って残酷な気もしてきましてね」
という医者の話を聞いて、主人公は、心の中でニンマリと笑った。
彼と面と向かっても、彼が主人公を覚えているわけもなかった。
もちろん、記憶をすべて失っているわけではない。だが、肝心な部分は皆無だった。自分の過去についてはほとんど覚えていない。家族が死んだこと、秘密組織の存在。そして自分がどうしてここにいるかということも分からない。
だが、医者は言っていた。
「でも、彼は大丈夫だと思います」
「どうしてですか?」
「記憶はなくとも、何か力強いものを彼の中に感じます」
「僕も感じます」
それは研ぎ澄まされた予知能力の感覚がそう言っている。
さらに、主人公が彼を本当に大丈夫だと思っている証拠として、
――彼は、自分を納得させるという意識だけはしっかり持っている――
と感じたことで、
――彼の中にある力強さとして、医者が言ったことに繋がるのだ――
ということを感じるようになってきた。
これが予知能力を持った男の話を描いた映画だったが、沙織にとって印象深いものだった。
最初に感じたのは、自分が予知能力を持っていることでまわりから孤立してしまうことの恐ろしさ。そして、背景は分からないが、いつの間にかプロパガンダに遭っていて、気が付けば、自分を助けようとしてくれた相手に対し、裏切りのような行為をしていた。だが、最後に記憶を失くした男が、本当に幸せなのかどうか、あやふやであったが、それこそ、見た人それぞれの感覚によるものだと思う。
「結局、この映画の主人公ってどっちなのかしらね?」
と、友達と話した時、最後にこの言葉に落ち着いた。
ただ、一つ気になったのは、
「自分を納得させること」
これが、この作品のキーであったことに違いはない。どんな状況であっても、自分の立場がどこにあろうとも、
「自分を納得させることができるか?」
ということが、永遠のテーマに思えて仕方がなかった。
映画のテーマがどこにあったのか今でも曖昧だが、印象深い映画であったことに違いはない。
沙織が色と予知能力について関係があるということに気が付いたのは、学生時代に一人の男の子から声を掛けられた時からだった。
その頃までは、自分に予知能力があるかも知れないということを、ウスウス感じてはいたが、自分だけのことであって、まわりに一切影響を及ぼさないものだと思っていた。
少し物足りなくもあったが、
「これでいい」
と思うようにもなっていた。
「予知能力なんて、そんな大それたものが自分にあるなんて信じられない」
という思いが、中途半端に頭の中に燻っていたため、以前見た映画の感想として浮かんできた、
「余計な能力など、持ちあわせていない方がよほど幸せだ」
と思っていたはずなのに、心の底に、どこか特殊能力に対しての憧れのようなものがあることを思い知らされた。
最初は、恋の告白でもされるのかと思った。それまでに付き合った男性はいたが、実際に告白されて付き合ったことは一度もなかったので、胸の鼓動は高鳴っていた。
しかし、実際には彼から恋の告白をされるわけではなかったが。友達として終わることのない関係であることを、彼の口から聞かされたのは事実で、どちらにしても、違う意味での胸の高鳴りを感じたのだった。
「どうやら君にも予知能力があるようだね」
といきなり話し始めた。しかも、その言葉には確信めいたものがあった。そもそも、こんなことを話すのに、確信がなければ話せるはずもないだろう。
「『君にも』ということは、あなたにも同じ能力があるというの?」
「同じ能力というわけではないと思うんだけど、でも、先を見通す能力があると自分では思っているんだ」
「予知能力にも種類があるということなの?」
「そうだね、予知能力にもランクのようなものがあって、たとえば、どれだけ先が見通せるかというランクもあれば、見通せる内容が限られた範囲である場合もあるよね。たとえば、自分のことだけなのか、それとも、自分の見える範囲に限られるのか、それとも、未来のことを全体的に見ることができるのかということだね。全体が見えれば、それこそ、予言者になれるんだろうけど、まあそれも、まわりがどれだけ信じてくれるかということが問題になる。範囲が広がれば広がるほど、信憑性が薄れてくるだろうからね」
「そうですね」
「あまり見えすぎるというのも困ったもので、誰も信じてくれない可能性は大きく、過去の大予言者と呼ばれた人たちが、まわりから嘘つき呼ばわりされたり、それどころか、投獄されたりした歴史があるだろう。それを思うと、見えすぎることで、見たくないものまで見えてしまうことと、まわりから信じてもらえず、ウソつき呼ばわりされるジレンマとで、かなり苦しい精神状態に追い込まれてしまうこともあると思う」
「でも、私に予知能力があるということがよく分かりましたね?」
「自分も最初から予知能力が備わっていることに気付いたわけではなく、そのことに気付いてから、次第に予知能力に対しての確信が深まってくると、今日も自分のように、話しかけてくれる人がいたんですよ。やはりその人も予知能力を持っていると言っていましたね」
「じゃあ、予知能力者は自分に確信が持てるようになると、同じ能力を持った人を引き寄せるということなんでしょうか?」
「そういうことだね」
「私は、今はまだそこまで確信めいたものはないんですが、あなたが現れたことで、逆に確信を持てる要素を手に入れたような感じなんでしょうか?」
「今は、自信がなくても、まわりから固めてくれる自信というのもあるものなんだよ。特に特殊能力の場合は、まわりが敏感になることで、本人に意識を植え付けることもある。それが昔の暗黒の時代を乗り越えるためには必要なことなのかも知れない」
その人の話は、どうしても漠然としたものであったが、冷静に聞いてみると、辻褄が合っている気がする。普段から絶えず何かを考えている沙織は、時々奇抜な発想をしているのではないかと思うことがあったが、次第に合ってきた辻褄の溝を埋めたのは、彼の冷静な話し方によるもののような気がして仕方がなかった。
「私が思っているよりも、予知能力を持っている人って、結構いるのかも知れないわ」
と、言うと、
「それは、君だけに限ったことではない。たいていの人が思っている人数とは、けた外れに違っているものだよ。それは、予知能力を、超能力だと思っていることで感じる人数だからなんだよ。特殊能力ではあるが、いわゆる超能力と呼ばれるものではないだ。特殊能力だと思って人数を想像したとしても、さらに実際に予知能力を持っている人はたくさんいる」
そういうと、彼はゆっくりとタバコに火をつけ始めた。
彼が付けたタバコの火は、真っ赤な色を浮かべていた。彼と話をしている店が少し薄暗い店内なので、余計に赤みを帯びているようだ。
声を掛けられてから、最初は喫茶店で話をしていたが、特殊能力と超能力の違いの話に入ったあたりから、
「この近くに知ってるバーがあるんだけど、場所変えないかい?」
と言われた。
喫茶店は思ったよりも客が多く、さらに、こういう話をするのは、喫茶店という雰囲気ではないと思うことで、余計な意識が表に向いてしまい、喧騒とした雰囲気に包まれた気がしていた。
バーに移動するなら、そちらの方が沙織にも好都合に感じられた。
バーの雰囲気なら、超能力や特殊能力のような話をしていて、まわりの人に聞かれても、さほど意識しないような気がしたからだ。以前からバーには興味を持っていたが、こういう話のできる人がいれば、きっと一緒に行ったに違いないと思っていたこともあって、彼の誘いに、二つ返事で乗ったのである。
彼も、喜びを前面に押し出すわけではないが、満足そうな笑顔を見せてくれたが、沙織にはそれだけで十分だった。
「分かりました。いいですよ。ご一緒しましょう」
自分で言いながら、今までに感じたことのないような大人のオンナを自分が演じているのを感じていた。あくまでも演じているのであって、自分の本性がそこにあるという気はしなかったのだ。
バーは、カウンターがメインだったが、テーブル席もいくつかあった。入った時間は、ちょうど開店すぐだったようで、客は誰もいなかった。マスターが一人、カウンターの向こうでせわしなく動き回っていた。
「マスター、久しぶり」
「やあ、シンちゃん。久しぶりだね。忙しかったのかい?」
「ええ、バイトがね。学校にも顔を出さなければいけなかったりしたので、それなりに忙しい毎日だったよ」
と、常連の会話を聞きながら、少々羨ましい気持ちと、二人の微笑ましさを感じていた。さっきまでの難しい話をするには、こういう店の雰囲気の方がやはり喫茶店よりも、数倍いい。喫茶店が場違いだったことを、今さらながらに感じていた。
「さっきの続きだけど」
と言いながら彼はさっきよりも身を乗り出して話をしてきた。店内の照明もさっきに比べて格段に暗い、顔もシルエットになっていて、声だけが響いているようだ。
しばらく話をしているうちに、彼の顔を忘れてしまいそうになっていて、もし覚えていたとしても、かなり前の記憶ではないかと思うほどになっているような気がした。
店の中は紫が基調だった。沙織の感じる「色のランク」からすれば、かなり優先順位の高い方だ。
紫という色は、いろいろなイメージを与えてくれる。
第一印象は、暗さと、暗いくせに蒸し暑さを感じさせるものだった。蒸し暑さは、風がないことで湿気がなくても、湿気を感じさせるほどの、焦りを与えられるもので、気が付けば、体力的にかなりの消耗癇を与えられる。憔悴感が与えられ、時間の感覚がそれまでよりも一気に長く感じさせられ、
「まだ、これだけの時間しか経っていなかったんだ」
と思うことであろう。
さらに紫には淫靡な雰囲気もあった。
淫靡な雰囲気を感じるから、湿気を感じるのか、それとも、湿気を感じることで、陰部に見えるのか、どちらなのかはハッキリしないが、どちらもなのかも知れないと思う。
「その時々で違うんだ」
と、自分に言い聞かせる時があるくらい、この優先順位を考え始めると、結論を導き出すことが困難を極める。
紫はさらに、
「原色でありながら、原色ではない要素を持っている」
と感じている。
赤や青という色の組み合わせで作り上げられるものだが、沙織は紫を「
「原色だ」
と思えて仕方がない。
色のコントラストはいろいろで、光による三原色と、絵の具などによる三原色で、まったく性質が違っている。つまりは、色を発する期限は、一つではなくたくさん要素があるということだ。
ただ、それもすべてはたった一つのものから与えられるものである。
それは光であり、光がなければ、色だけではなく、他の何も存在しえないということだ。普段はそんなことを意識することはないが、色を意識する時だけは、
――すべての原点は、光の中にこそある――
ということを思い知らされる。光がどれだけ偉大なものかということは、色によって証明されるのであった。
バーに移動してきて、彼がタバコを吸うのを初めて知った。
「タバコ吸ってもいいですか?」
と、いうのが普通のエチケットなのだろうが、彼の場合は、おもむろに取り出したタバコに火をつけだしたのだ。今までなら、
――何よこの人、失礼ね――
と思って、露骨に嫌な顔をするのだろうが、その時の彼には嫌な雰囲気は感じなかった。そう思うと、彼が吸い始めたタバコの匂いも嫌なものではなく、どこか懐かしさを感じさせるものとなっていた。
――そうだ、父親のイメージだわ――
沙織が小学生の途中くらいまで、父親は結構家でタバコを吸っていた。吸うのはリビングでだけだが、それでもタバコの匂いが籠ってしまうのは仕方がないことだった。
それでも、不思議と嫌な気はしなかった。喫茶店などに入って、いくら禁煙席に座っても、喫煙席から出入りする人がいるので、扉が空いてから閉まるまでの間に漏れてきたタバコの匂いの強烈さには、いつもウンザリさせられていた。
それなのに、父親の吸うリビングでのタバコだけは、それほど嫌な気はしなかった。どうしてなのか分からなかったが、それだけ父親のイメージがタバコというイメージにすり替わっていたのかも知れない。
彼のタバコに、小学生の頃に感じた父親のイメージがダブっていた。嫌な気がしなかった原因の一つにそれがあったのは間違いのないことだろう。
彼のタバコの匂いを嗅いでいると、懐かしさを感じさせることで、話している内容まで信憑性があるものに感じさせられた。
――難しい話をしているのに――
という思いの中に、
――どこか懐かしい――
という思いがあることで、彼の話を聞いている自分が、まるで他人事のような感じがしてくるから不思議だった。
沙織は、自分を他人事のように見ることが時々あった。
それは、絵を描くようになってからそんな気持ちになることが多かった。絵を描いていると、描いている自分を後ろから見ているような気分にさせられる。そんな時、さらにその後ろに視線を感じる。その瞬間、その視線の主が自分であることに気付かされる。
それをずっと繰り返して行くと、無限ループに入り込んでしまう。
「堂々巡りを繰り返すことで、袋小路に入り込んだ」
とでもいうべきであろうか。
沙織は、香澄先生を思い出していた。
香澄先生は、一緒にいる時は、
「絶対に離れることのできない人なんだ」
と思っていたはずなのに、大学入試のためとは言え、しかも自分から離れたくせに、時間が経ってしまってから、自分の方からあらためて近づこうとすると、
「怖くて近寄れない」
と感じていた。
――何が怖いというのだろう? あれだけ慕っていたはずなのに、香澄先生が変わったとでもいうのだろうか?
香澄先生のイメージを、ずっと大切に抱いていたのは確かだ。あまりにも大切に抱いていたために、一度隠してしまうと、今度はその箱を開けるのが怖くなる。それはいつの間にか沙織にとっての、
「開けてはいけない『パンドラの匣』になってしまった」
に違いない。
「『パンドラの匣』っていう言葉知ってる?」
「ええ、知っていますよ。浦島太郎の玉手箱のようなものなのかしらね」
「そうかも知れないわね。でも、その箱を特殊なものだって思っていない?」
「ええ、思います」
「それは違うわ」
「どう違うんですか?」
「その箱は、誰もが持っているものなのよ。そして、一生のうちのどこかで必ず開けることになる。そして、開けてしまったからと言って、それで終わりというわけではなく、それからまた新しい箱ができるのよ」
「じゃあ、その箱もいずれ開けることになるというんですか?」
「ええ、先生はそう思っているわ。もっともこのお話は先生の勝手な妄想なので、信じる信じないはあなたの勝手、一つの考え方だと思ってね」
「ええ、分かりました」
と、言っていたが、その時沙織は、
――私はその箱を今までに何回開けたのかしら?
と感じていた。
当時はまだ高校生の頃、まだまだ子供だと思っていた自分に、先生がここまでの話をしてくれたのは嬉しかった。
だからこそ、
――私も何度かその箱を開けているのかも知れないわ――
と感じた。
自分が感じているよりも、十分に大人に近づいているのではないかと、沙織は感じたのだ。
沙織が、香澄先生の話を思い出しているのを、目の前にいる彼はどう感じているのだろうか。
きっと彼には、沙織が考えていることを分かっているような気がするのではないかと思っている。
――そういう意味では、私も彼の気持ちが分かるような気がするわ――
初めて会ったという感覚が、彼にはなかった。懐かしいというイメージも、
「相手が何を考えているか」
ということとは結びつかないような気がしていた。
彼と、特殊能力や超能力の話になったのは、香澄先生のイメージを頭に抱いている時だった。
色というものが自分の意識の中で、どれほど大きな存在であるかということを悟った気がしていたが、彼が現れたことで、少しまた自分の中の考え方が変わってくるのを感じていた。
――いや、それは少し違う――
自分が考えていたことを、すべてだと思ってるから、変わったように感じるのだ。以前から分かっていて、それが意識の中で記憶として封印させられているのだとすれば、考え方が変わったわけではなく、
「意識が解放された」
という思いを抱くこともできる。
「僕がタバコを吸うのって、意外だったでしょう?」
「あ、いえ」
確かに意外ではあったが、別に意識してしまうほどではなかった。したがって、そんな気持ちが顔に出たりするわけではないはずなのに、よく分かったものだと沙織は感じていた。
「僕はタバコを吸うことで、精神を落ち着かせるのだと最近までは思っていたが、どうやら違うっていうことに気が付いたんだ」
「どういうことなんですか?」
「タバコは、僕にとって、どこか懐かしいものがあるんだ。最初は皆と同じように、興味本位で口にした。もちろん、タバコを吸い始めるなどということは思ってもみなかったけどね。でも、口にした瞬間、タバコが、自分の意識の中のどこかに共鳴する気がしたんだ。そして初めてのはずなのに、初めてではないというような確信めいたものを感じたんだ。もちろん、身体に悪いことも分かっているし、吸わなければ我慢できないというわけでもない」
何となく言いたいことは分かったような気がする。沙織が父親に感じていた思いを彼が口にしたような気がして、少しおかしな雰囲気があった。
「大丈夫ですよ」
と口では言ったが、何が大丈夫だというのだろう?
ただ、この話はすぐに終わり、彼が二本目のタバコに火をつけた時、この時初めて、火が付いたタバコが真っ赤に光っているのを感じた。
光っていると言っても、明るく光っているわけではない、
「暗く冷たく光っている」
というイメージであった。
暗く冷たく光るというイメージを、光っている色から想像すると、赤い色というのは、いくつかの種類があるように思えた。真っ暗な中で見る赤い色と、明るいところで見る赤い色とでは明らかな違いを分かっていた。
それは信号機を見ていれば分かることだった。
信号機には赤、青、黄色と三食あるが、そのうちの赤と青に関しては、昼と夜とで、色がまったく違って感じる。
これは、「光」が作り上げる色だからこそ言えることなのかも知れないが、昼よりも夜の方が、より原色に近い感じがする。色というのは、一番原色にインパクトが感じられ、他の色と混じれば混じるほど、白に近づいてくる。
色を塗った円盤を回転させた時に見ることのできるもので、それは光が織りなすコントラストであっても同じことだった。
そんな中で、夜がより原色に近いというのは、太陽の光の恩恵を受けることができず、街灯のような人工の光で細々と補っていることへの、細やかな慰めのようなものなのかも知れない。
さらに昼と夜の間に存在する夕方というのがミソだった。
夕方には、季節でいう秋を感じさせる。そこには寂しさを伴うものがあり、さらには子供の頃に感じた一日の疲れと空腹感が、身体のいたわりの大切さを教えてくれる。いたわりが夜になってから襲ってくる睡魔とぶつかり、身体の疲れを癒そうとする感覚が、暗い中でもモノをハッキリと見せようとする感覚に繋がっているとすれば、信号の赤い色や青い色が原色として鮮明に映し出されているのも分かる気がする。
赤い色のコントラストが、時間帯によって種類が分かれるのとは別に、まわりの明るさから変化する色の中で一番鮮明なのも、赤い色ではないだろうか。
明るい時間帯であれば、鮮明に明るさを表に出そうとする赤であるが、暗い時間帯では、決して鮮明さを表に出そうとはしない。無理をしていないというべきなのか、目立とうとする意志がまったく感じられない。
それどころか、どす黒さすら感じさせる赤は、イメージとして血の色を思わせることで、却ってインパクトの強い色を演出している。そのことを改めて感じるようになったのも、その時の彼の話からだった。
「僕の友達にも、実は予知能力を持っている人がいて、彼も色を意識すると、自分に予知能力が備わっていることに気付いたと言っていたんだが、そのことに気付いてからしばらくして、その能力を自分で封印してしまったんだ」
彼の話が、言葉を選んでいるというよりも、間を大切に話しているのが分かった。どこかもったいぶっているように見えるが、話し方に強弱を付けなければ、まるで他人事のようにスル―されてしまうと思っているのか、それとも必要以上のインパクトを与えることで、過剰な恐怖心を相手に煽らせようとする演出を考えているのか、どちらにしても、彼の中では無意識の感情が働いているように思えてならなかった。
「どうして、そんな封印などということをしたんですか?」
「別に封印などしなくても、彼の能力は、本人の意志に忠実なものなので、本人が、意識しないと思ってしまえばそれだけのはずなのに、わざと封印したということは、無理をしてでも封印させなければ、また、同じ思いをするということを感じていたのかも知れない。そして、一度は仕方がなかったとしても、二度と感じたくなかった思いが彼にはあったように思う」
と、彼は自分に言い聞かせるかのように話した。それはまるで、他人のことのように話しているが、
「実は、僕のことなんだ」
などというオチが待ち構えているとすれば、少しシラケたような気がしてくる。
彼は話をしながら、他の人ならしないような演出を考えたりしているが、それはそれで彼の性格なのだから、仕方のないところはある。そう思って彼を見てみると、
――やはり、彼の性格なのかも知れないな――
と思えることが、沙織にとって自然な感覚だった。
「その人は、その後予知能力に対して、どのように対応していたんですかね?」
「どうやら、予知能力を封印したようなんだ。自分にとって必要な能力ではないと判断したのか、とりあえず、様子を見ようとしたのだけど、そのせいで、客観的にしか自分を見ることができない時期があったって話です」
あくまでも他人のことのように話しているが、言葉尻を自分のことのように変えながら聞いてみると、実に言葉が自然に感じられるから不思議だった。
――この人は二重人格なのかも知れない――
本人に意識があるかどうかは分からないが、本人が自分全体を見ることができるとすれば、舞台を紐一本でひっくり返すことのできる「どんでん返し」の館のセットを思わせることができる。
「もう一人、僕の知り合いに、予知能力を色によってもたらされることを知っているやつがいるんだが、彼の場合は、最初にその能力を知った時、有頂天になったんだ。最初に知った時というのは、中学時代だったらしいんだけどね」
また、別の人の話を始めた。
この男は、どれだけの予知能力を持った人間を知っているというのだろう?
――まさか、すべてが、自分だというわけではないでしょうけど、でも、自分に関係のある人の中に、そんなにたくさんの予知能力者がいて、怖くないのかしら?
と、感じた。
沙織は、自分に予知能力があることに気が付いてから、まわりに同じような能力を持った人を意識したことがあっただろうか? ひょっとすると知っていたかも知れないが、まるで他人事のように思えて、意識することはなかったのかも知れない。
香澄先生との会話で、色に対して理論的に考えるようになった沙織だったが、理論的に色を考えずに、自然に見ているとしたら、もっと早く自分のまわりに同じような予知能力を持った人たちに会えたかも知れない。
「もし同じように予知能力を持った人が近くにいて、その存在を知っていたとしても、レベル的に全然違えば、同じ能力だと感じないかも知れないよね。何事をすぐに他人事のように思う人がいたとしても、それは、自分とはレベルが違うという感覚を持つことで、他人との差別化を行っているような気がするんだ」
「予知能力もそれと同じだというんですか?」
「僕はそう思っているよ」
確かに、何事も他人事のように考えて、まわりから自分を遮断している人がいる。
寂しさは感じないが、孤独しか見えてこないその人を、可哀そうだと思うことはない。どちらかというと、
――自分から、敢えて孤独を選んだんだ――
と感じるようになった。
沙織は、むしろそんな人を羨ましいと思う。自分たちがまわりの人や友達に頼らなければ生きていけないように思っているのに、その人は、孤独さえ苦痛に思わなければ、自分一人で生きていけるのだと思うのだ。
「人間は一人では生きていけない。 だから、まわりとの協調が大切なんだし、友達や家族を大切にしなければいけない」
などという考えを、テレビドラマや、映画はもっとものことのようにテーマとして製作されている。
教育も基本は同じ考えであり、誰もが信じて疑わないだろう。
もし、違う考えの人がいたとしても、一度は受け入れ、その中で馴染めない人が中には出てくる。そういう人を、「更生」させるのが、ドラマのテーマとなっている。どちらに転んでも、結局最後は同じところに戻ってくるのだ。
まさしく「プロパガンダ」ではないか。小学生、中学時代に思いこまされてきたことに、何ら疑問を抱くことなく育ってきて、急に高校時代くらいに、そのことに疑問を抱くと、抱いた疑問は、晴れることはなかった。
まわりには合わせているつもりではいたが、心の中で、
「私は、あなたたちとは違う」
と自分に言い聞かせてきた。
もし、それが間違っていたとしても、別に構わない。そのせいで損をするかも知れないが、損をしないかも知れない。
そもそも、損得というのは、それぞれの人によって違うものだ。
――私の、この予知能力で、損をするかしないか、分かればいいのに――
と感じた。
しかし、分かったところで、運命を変えられるのかどうか、それも予知能力で分かってしまうところまでは、望んでいない。そこまで分かってしまうと、面白くないと思うからだった。
「そんな問題なの?」
自分にとって死活問題に思えることに対して、
――面白くない――
などという発想は、ありえないような気がした。
そう考えてくると、予知能力というものは、
――どこまで分かって、どこからが分からないか――
ということが、重要な点であることを感じていた。
自分が予知能力を持っていることに有頂天となっていた時期が、相当昔に感じられた高校時代だった。
考えてみれば、一番暗い時代だった高校時代だが、一番前を向いていたのも高校時代だったかも知れない。中学時代が一番前を向いていたと思っていたが、それは、予知能力を持っているという前提からの気持ちの中で感じた余裕であり、その余裕は、高校生になってから、自分に疑問を持つようになって、前を見ていたつもりで、
――本当は幻を見せられていたのではないか?
と感じるようになった。
高校時代に感じたそんな思いは、
――自分のまわりにも、同じような能力を持った人がいるんじゃないかしら?
と感じさせた。
それは、自分を孤独にしたくないという思いであり、それが自分の中にある「弱さ」だとは思っていなかった。
だが、本当の弱さは、
――孤独というものを、「弱さ」だと思いこんでいた――
ということであるのに気付かないことだった。
それに気付いたのは、自分のまわりで最初に見つけた予知能力を持った人だった。
その人も、自分の中に孤独を感じていた。しかし、寂しさを感じさせることはなかった。その見かけ上の矛盾に気が付いた時、
――この人は、私と同じような能力を持った人なのかも知れない――
と感じた。
「私は、あなたがいずれ私の前に現れることを分かっていたのよ」
と言ったが、それこそが予知能力である。
同じ予知能力でも、沙織の場合は、彼女に出会えるという予知はできなかった。沙織の場合、自分と同じ能力を持った人のことを予知することはできないようだ。偶然出会うか、相手から、
「同じ能力を持っている」
ということで、相手から確信を持って近づいてこられるかしかなかったからだ。
そういう意味でも、同じ能力でありながら、ランクのようなものがあるのを身に沁みて感じた。ただ、そのランクの上下に関しては極めて曖昧であり、上下関係のないところが、この能力を持った人間の特徴ではないだろうか。
香澄は最初に知り合った女性。彼女との関係は、「つかず離れず」だと思っていた。彼女もそれを望んでいたし、お互いに特殊能力を持っていることで、下手に近づきすぎると、能力がお互いに反発しあって、二次作用を起こすことになるのを嫌った。
その考えは半分当たっていた。沙織が感じている以上に彼女の方が、二次作用に関しては恐怖を持っていて、必要以上に沙織に近づこうとはしなかった。
「私たちは、反発しあう磁石のような諸刃の剣」
そう言っていた。
「パラドックスに副作用があるように、特殊能力は反発しあえば、副作用を生む」
「それはどういうこと?」
「パラドックスというのは次元を超えた発想でしょう? 超常現象などにたとえられるように、自然の摂理に逆らうと、副作用が起こるという話になるでしょう? 特殊能力も同じで、しかも、同じ次元の中で二つの作用が重なり合うと、限界が見えてしまう」
「私たちのいる世界の限界ということ?」
「そうね、誰も見たことはないでしょうけど、でも、特殊能力というものはそれだけ未知の世界のものじゃないかって思うのよ。だから、私はなるべく他の人と接しないようにしているし、あなたとも話をすることがあっても、決して能力をあなたの前では出さないようにしようと思うの」
彼女と知り合ったとはいえ、友達というわけではない。
本当なら、同じ能力を持っていて、誰にも言えないで悶々としているところに、自分の気持ちを分かってくれる人が現れたのだから、本当なら有頂天にもなろうものだ。
自分の能力に気付き、
「私は、この能力を持ったことをまわりに自慢したい」
と有頂天になった中学時代。
だが、まともに話して信じる人などいるはずもない。
しかも、沙織は有頂天になっているのだ。完全に目線は上から目線だったはずだ。
その時に数人の友達を失った。それは自分でも分かったことだが、
――特殊能力を人に話すこと、それは自分で自分の首を絞めること――
だと感じた沙織は、そこから自分が殻に閉じこもってしまうのを感じた。
「これは」
この思いは、以前にも感じたものだった。
「これが予知能力なんだ」
感じた時は、何の予知能力だか分からなかった。
ただ、漠然と、
――将来にこんな思いを感じることがある――
何かに対して後悔することだとは分かったが、何に対しての後悔だか分からなかったが、まさか、その時に感じた有頂天になった気持ちに対しての後悔が、将来において感じることになるのだと思うと、何とも言えない気持ちになった。
沙織が感じた後悔は、確かに予知能力によって、予見されたものだった。
しかも、それは予知した時に感じていたことに対しての後悔であり、後悔した時に初めて、
――私の予知が的中したんだわ――
と感じた。
沙織はこの思いが、自分の唯一の予知能力だとは思わない。
それ以外にも予知能力の効果はあるはずで、まだそのことを感じていないだけだと思っていた。
だが、そのほとんどは、沙織にとって、あまりいいことだとは言えないのだと思っていた。
そのことを考えていると、今まで自分が出会ってきた人たちを想像してみた。
その人たちの中に、
――いずれ、出会うことになる――
と感じた人がいただろうか?
どう考えても、出会いに対しての予知はなかった。出会い以外でもいろいろ想像してみると、そのほとんどは、予知に値するものではなかった。
自分で考えることというのは、得てして自分にとって都合のいいことばかりである。悪いことは自然と考えないようになる。もしも考えたとしても、それは最後の方に考えることで、しかも、いいことの発想では、一つも予知の内容ではなかったではないか。
最初に感じた予知だって、いいことではなかった。ここまで考えてくると、予知能力が発揮できるものというのは、悪いことがほとんどではないかと考えるのが、普通なのだろう。
社会人になって沙織の前に現れた彼は、沙織にとって予知できたものだと気が付いてから、
――どうして、今なのかしら?
と考えるようになった。
社会人になって、予知能力という発想からは、すでに離れていた。
一番感じていたのは、高校時代までだったが、
――私の能力は、ロクなことには使えないんだわ――
と感じたからで、予知能力を、まるで他人事のように思うようになっていた。
――特殊能力というのは、私に限らず、持っている人は皆同じようなジレンマを抱えているのかも知れない――
と感じるようになった。
「天は二物を与えず」
というが、高校時代の沙織はそのことを感じていた。
だが、特殊な能力を持ったとしても、
――それは自分が望んだものではないはず。どうして、まるで天罰のように、ロクでもないことにしか能力が使えないのかしら?
と思ったが、逆の発想もあり得るのではないかと思った。
――無意識にだけど、やっぱり自分で望んでいることなのかも知れない。そうでなければ、天罰なんて当たらないわよね――
と思うようにもなった。
だが、これはどちらも正解のようで、どちらも不正解のようにも思える。要は、
――いかに自分がどちらを強く感じるか――
ということであり、沙織にとっては、最初こそ前者だと思っていたが、途中から後者も考えるようになると、どうしても自分が思っていたことのように思えてならなかった。
その発想が、
「自分にとって納得できること」
だということになるからであろう。
自分で感じたことを自分で納得できないということは許せないと思うようになったのも、実はこの頃からだった。
本当は、もっと以前からだったように思うが、それは自分を納得させる発想でなければ、何も信じられなくなるからだった。それを、特殊能力と結びつけて考えることになろうとは、思ってもみなかったのだ。
「自分を納得させる」
これが、特殊能力の力の及ぶ範囲ではないかと思うようになっていた。
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