おじさんはその手で何ができるか?

病院の4階病棟にその病室はあった。

 凛さんを担ぎ込んだ救急病院とは違う、県内でもトップクラスの小児診療を行なっている専門病院。暖かな家庭的とも呼べる院内には、医療施設にありがちな「冷たい清潔」の漂う空間では無かった。廊下や床には喜びそうなキャラクターなどが描かれたり、関係者やボランティアが入院児童と一緒に作ったと思われる作品が飾られている。

 うさぎの絵の描かれたドアの前には、有名な絵本のキャラクタープレートが吊るされており、そこに「高梨 凛」と記されていた。


「こちらが、凜さんの病室になります」


 ナースステーションから同行してくれた藍沢看護師に案内され、病室の扉の前に立った時、不意にあの出会いの光景が思い出され、そして凜さんの顔が思い浮かぶ。


「どうぞ」


 引き戸の扉が開かれると視界が捉えたのは、医療機器のモニターが2台と大きな点滴のかかった点滴台、そして大きなベッドだった。その中心に思い浮かんだ顔よりさらに瘦せこけた顔の凜さんが眠るように、いや、一瞬でも生きていることを疑ってしまうほどの姿で眠っていた。


「失礼します」


 まるで何かに断りを入れなければならないと思えるほどに、室内の空気は冷え切っているように感じられ、廊下と同じくらい明る彩の病室なのにも関わらず、気配を見せない薄暗さが部屋全体を包み込んでいるようだ。不謹慎かもしれないが、漂う雰囲気は霊廟のそれに近いのかもしれない。

 自らの歩みの音が床を鳴らすたびに、その音さえも寂しく響き、凛さんの今を物語っているようにさえ思た。

 ベッドに立ち凛さんの顔を覗き込む、荒れ果てた唇に青白い肌、そして眠るように下されている瞼、とても生きていると言い難い姿だ。医療機器のモニターが見せる心拍グラフが生きていることを外界に知らしめているように、一定の波形を維持している。

 唐突にその波形が一本線となった瞬間が思い浮かんで背筋が寒くなった。


『子供はね、幸せになる権利を託すしかないの、だから、私も弁護で精一杯できることをしないとね』


 過去の飲み会で児童案件に携わっていた由美子の一言が頭に響く。

 小さな手を持つものが、大人の大きな手へと育つまでは、誰かを、頼らねばならない。そうしなければ生きていくことができないのだ。未成年という単語が一括りにすべてをまとめ上げてしまう。

 子供は、誰か、を選ぶことができない。

 由美子の弁護は一応に解決を見たそうだが、しかし、2年後にその子が自殺したと知った時の由美子の取り乱しようは筆舌に尽くしがたかった。弁護士だから、ではなく、それは1人の人間だからこそ取り乱すことができたのだ。それは人間として信用できる最大限の行為だと私は思う。

 そしてこんな暗い部屋で凛さんは最後を迎えるべきではない。

 あの雪の降る寒さの中、耐え忍んで訪ねてきた凛さんが、こんな終わり方で良いはずがないのだ。


「凛さん、おじさんだよ」


 そっと手を伸ばして頭を撫でる、そして、頬まで撫でるように下ろしていくと、その手に冷たい小さな手がそっと触れてきた。


「おじ・・さん?」


「うん、そうだよ」


「どこいってたの・・」


 荒れ果てた唇から紡がれた言葉に思わず心が痛んだ。


「ごめんね、1人にしちゃったね」


 小さな手を優しく握るとその握られた手に力が籠る。


「ううん、大丈夫、変なこと言ってごめんなさい」


「変なことじゃないから大丈夫だよ」


「だっておじさん、困らせちゃうから・・・」


 握られていた手がすっと離れて行こうとするのを、私は再び握り離さないようにする。


「大丈夫、困ることでもなんでもないよ。でも、凛さんが元気がないって聞いたからね。おじさんはそれの方が気になってるよ」


「ごめんなさい」


「謝らないでいいんだよ。あ、そうだ、凛さんはおじさんが毎日顔を見せたら嬉しい?」


 開かれて淀んだ目に一瞬だけだけれど光ものが見えた気がしたが、すぐにそれは消失を見せた。


「ううん、迷惑になるから大丈夫だよ」


「そっか、じゃぁ、毎日来るね」


「え?大丈夫っていったよ」


「うん、大丈夫なことを見にきてお話したら帰るね」


 凛さんはきっとそういう育ち方をしてきたのだろう。

 私に何かできることはこれと言ってないだろう、でも、それでも、小石を拾うくらいの粗末なことならできるはずだ。手を離して再び彼女を優しく撫でる。青白かった顔が仄かに色が良くなった気がするのは気のせいではないのかもしれない。

 しばらく撫でていると再び手を握られる、やがて、規則正しい寝息が聞こえ始めた。

 藍沢看護師に椅子を用意してもらい座ると私は握ったままじっと凛さんを見つめる。

 隣に椅子を用意して座った小道も何も言わず、私と同じように凛さんをじっとしばらく見つめてから話しかけてきた。


「柏原さんって凛さんにとって大事な人なんですね」


「え?」


 言葉の意図が見えずに思わず訝しんだ返事をしてしまった。もちろん、視線は凛さんを見つめたままだ。なぜだろうか、目を離してしまえば消えてしまいそうな、そんな感情が私を不安にさせていた。

 

「ごめんなさい、唐突過ぎました。きっと凛さんとの出会いは柏原さんの中では一日にも満たない少しの時間だったと思います。でも、凛さんの中ではきっと、体験したことのない何かがあったと思います」


「体験したことのない何か、ですか?」


「はい。子供の時間軸って大人と違うってご存知ですか?」


「聞いたことはありますが・・・」


「感情もまたそうなんです。きっと柏原さん・・・、いえ、翔吾さんがこうやって来てくれたから凛さんも意識を覚ましたのだと思います」


「意識を覚ます?」


「説明時に譫言ってお伝えしましたよね。凛さん、ここのところは意思の疎通でさえ難しくなってきていたのです。頷きか混濁しているような意識状態だったのに、翔吾さんが話しかけた時にはしっかりとした受答えがありました。だから、藍沢さんと思わず顔を見合わせたんです」


「そうだったのか・・・」


「でも、なにより、一番驚いたのは、翔吾さんの手ですね」


「私の手ですか?」


「叩かれる子供を想像した時、漫画でもなんでもですけど、どこの部位を叩いてますか?」


「それは・・・、頭ですね」


 世代間もあるだろうが、私の家では、悪いことをすれば頭に拳骨が振り下ろされることも多々あった。もちろん、その時は理不尽であっても、あとあと正しかったことであることが理解できているから、道理の無い怒りではない。


「虐待などを受けたお子さんは、頭に手を持っていくと意識的に避けるんです。凛さんも・・・。でも、翔吾さんの手が頭を撫でてそして頬まで撫でるとそれを凛さんの手が握りましたよね。嫌がるわけでもなく、離す訳でもなく、頬にしっかりと近づけた。翔吾さんが来てくれて本当によかった」


 そう小道が言い終えたと同時にガラリと病室の扉が開いた。思わず振り向くとそこに由美子が立っていた。


「あら・・・、夫婦水入らずだった?」


 意地の悪い笑みを浮かべて由美子がそう言うと、私は深いため息を、そして小道はなぜだか俯いて恥ずかしそうにしている。


「で、どう?」


「話はできた。今は寝てるよ」


「そう・・・。それならよかった」


 足早に私の背後に立ち、私にもたれ掛かるようにして凛さんの顔を覗き込んだ由美子は、ほっと一息ついたような声を漏らした。


「知ってたの?」


 その安堵のような一息に思わずそう尋ねてしまう。


「ごめん、小道さんから聞いて、実際に何度か面会にも来てたんだ。翔吾に黙ってた事はごめんなさい」


「そっか、でも、由美子にも事情があるんでしょ?」


「う・・うん。私から話したらきっと翔吾は何も考えずに病院に向かっちゃうだろうし、きちんと考えてもらってからの方がいいかなって思って、だからフェアじゃないって書いたの」


 確かに由美子から聞いたなら私は何も考えずに向かったかもしれない。でも、それは良いことばかりではないはずだ。児童相談所で小道と会話をしている時もここまでの道中も色々なことを考えた。私が手を出すということは、最後まで責任をもつと言うことになるのだから、考え過ぎと思えるかもしれないけれど、人の運命を左右する立場になれば、それは自ずと身につく。きっと、遺伝子の奥底に揺蕩うようなものなのかもしれない。


「由美子の言うとおりだよ。私は馬鹿だから助かった。でも、さっき凛さんと約束もしたよ」


「そうくると思った。毎日会いに来るの?」


「よく分かったね」


「何年、翔吾と連んでると思ってるのよ。きっと最初は断られたんでしょ?」


「うん、だから、大丈夫を見にくるってことにした」


「流石だわ、翔吾らしいわね」


 私の背中に胸を押し付けるように由美子が更にもたれ掛かってくると、小道に見えない反対側の耳元で囁いた。


「ありがとう、凛さんを救ってくれて。私も付き合うから安心してね」


「それは心強いね、よろしくお願いします」


「うん、よろしくされます」


 それを聞いた由美子が満足そうに頷いてそう言うと背中から離れていき、隣に座っている小道に声をかけた。


「小道さん、私も協力しますので翔吾と凛さんの会えるように調整をお願いします」


 そう言った由美子に小道は頷く。


「実はその話は前に藍沢看護師さんとの会議で調整しまして、万に一つの可能性でしたけど、面会は自由に行なって頂けるように話はついているんです。これが翔吾さんのパスです」


 小道が鞄からカードサイズのパスを取り出して私に差し出してくる。片手で受け取ると裏面に手書きの付箋で小道の番号と『向かう前には立ち会いますので一報ください』と書かれている。

 後々知ったのだが、所謂、第三者の場合には面会には職員の立会が必要となっているそうだ。時間内でというのが基本だが、小道さんが便宜を図ってくれたお陰で、時間外でも会えることとなった。


「仕事が早いわね、ん?翔吾?」


 由美子が怪訝そうな顔をして小道を見た。


「ええ、柏原さんでは、凛さんの前でよそよそしいかなと思いまして、失礼ですが、翔吾さんと呼ばせて頂いてます」


「あ・・・ああ、そういうこと」


「ふふ、他意はないですよ、他意は・・・」


 由美子と小道が見つめ合いながら何か目で会話をしているが私にはよく分からない。

 視線を戻して凛さんに向けると、心なしか表情が和らいている気がする。

 そっと立ち上がった私はパスをポケットに入れてから握っていない手で凛さんの頭をゆっくりと撫でる。その手もまた別の手で握られてしまうのだった。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

おじさんは…。 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ