おじさんは…。

鈴ノ木 鈴ノ子

おじさんは夢に苛まれるか。

おじさんは夢に苛まれるか…


 中年の夢でそっち系で書かれることと言えば、女子高生とか女子大生と…なんて、考える輩が多い気がする。一介のサラリーマンの私も会社の同僚たちとそんな話をしながら盛り上がっていたことがあった。

 

 いわゆるサンナシ、力なし、金なし、彼女なしで、大学卒業から過ごして来ていた。格好をつけるなら仕事一筋、つけないなら、仕事しかできない脳なし、で、会社帰りに飲みに出てはアパートに帰る日々を過ごしていた。


 そう、あの日までは…。

 

 仕事終わりに駅前のスーパーで半額になっていた安上がりの惣菜という戦利品を片手にして上機嫌となりながらアパートの階段を上がりきると、突き当たり角にある私の部屋の前に違和感があった。

 扉前に普段みたこともない人影が見えたことで足が止まる。


「子供?」


 そこに小学生が1人でぽつんと寒空の下で立っていた。

 ショートカットのぼさぼさの髪に、青白い顔、左頬には叩かれたような赤い痣、薄い使い古されて汚れの目立つコート、そしてぼろぼろのスニーカー、お古でもここまで酷くはならないと思えるほどに痛んだランドセルを背負った女の子だった。

 手に紙袋と一枚の封筒を持ち、寒風の吹く12月の寒空の下で遠目から見ても震えている。

 少女もこちらに気がついて、私を見たのちに小走りにこちらへとくると、冷たさに赤く染まった手で握りしめるようにして持っていた封筒を差し出してきた。


「私に?」


 少女が頷いたのでそれを受け取ったものの、その場で開くことは諦めざるを得なかった。

 目の前の少女の唇は真っ青だ。顔色は優れず、視線はどことなくぼんやりとしている。思わずその額に手を当てれば、私の手が焼けるのではないのかと思うほどに熱を発していた。

 子育ての子の字すら理解していない、いや、そもそも普段体調を崩すことがない馬鹿な私にとって、子どもの発熱というのは考えただけで恐ろしかった。あとあと、冷静に考えれば警察だなんだと考えるべきはずだったのに、夕食をその場に落として、風呂に入っていないであろう独特のにおいや汚れなど気にも留めずに、少女を自然に抱き上げた。

 抱き上げた途端にぐったりとした少女を抱えて、日ごろの運動不足のなまりきった体で階段を駆け下りる。


「えっと・・・」


 どうすべきか考えている暇はない。

 咄嗟に、入居の際に不動産屋から近所に病院があるのでお勧めと言われたことを思い出し、そちらの方向へ全力で走り始める。


「ああ、運動しておけばよかった」


 白い息を吐き息を切らしながら、必死にの形相で走っていく。すれ違う人々に奇異の視線を向けられるが気にする暇もない。

 そして10分ほどの距離を走り抜けて救急病院へと駆け込んだ。

 医師と看護師の険しい視線を浴びながら、これまた意地の悪い視線を向けてくる事務員に事情を説明した。半信半疑といたところだろうか、だが、事務員は話の通じる人間だったらしく、医師や看護師にうまく話を通してくれたようで、治療まで繋いでくれた。

 診察と検査が行われて抗生剤や栄養の入った点滴をやせ細った腕に繋がれて眠る少女の顔を見て、ようやくのどに詰まっていたような息を吐きだすことができた。


「どこの子なんだろう」

 

 そんなことを漏らして、手渡された封筒を思い出した。ポケットから茶封筒を取り出して、中身の白い便箋を取り出して開くと卒倒しそうになった。


「健、あんたの子供、もう、私無理だから、引き取って」


 そう書かれた手紙の宛名は私の名前には似ても似つかないものだった。

 もちろん、知り合いにもその名はなく、私自身が付き合った女性の子供ということもない。なによりここ数年は付き合ったり、寝床を共にした女性などいない。

 数分ほど少女の安らかな寝顔を見ながら記憶を巡らせた結果、このアパートへと引っ越した際にポストに残っていた古い郵便物の宛名がそのような名であったことを思い出した。


「おじさんは・・・パパですか?」


 突然、子供の声が聞こえて顔を上げると、少女が目を覚まし、こちらをじっと見つめていた。


「いや・・・」


「パパじゃ・・・、ないの?」


「あ~、パパは知り合いかな、でも、どうしてうちに居たの」


 パパなんて知らないとは、その縋るような幼い瞳を見てしまうと、とても言うことなどできなかった。

 

「ママが・・・パパのとこにいけって…、あそこの2階の角部屋だって言われて、車から降ろされたの・・・。ママは知らない男の人とどっか行っちゃった・・・」


 泣き出しそうなほどに顔を歪めた少女に、私は近寄ると頭に手を当てて、ゆっくりと撫でる。


「そうか・・・。パパには連絡してみるから、まずは病気を治そうね」


「うん」


 小さな手がこちらへと伸びてくる、その手をしっかりと、それでいて優しく握る。

 しばらくすると再び寝息が聞こえ始めた。

 

「どうするかなぁ・・・」

 

 前の住人の事などは皆目見当はつかない。

 管理会社に連絡したところでこの時間であるから対応はありえないし、仮に対応してくれたとしても個人情報を盾に教えてくれるはずもないだろう。でも、母親がそんな状態であるなら、父親も押し図るべしといった感じであろう、かと言って知らないからと見捨てるわけにもいかない。

 警察を頼るのは当たり前だが、制服姿の大人達に囲まれては弱った少女には耐えられないだろう。

 

 袖すり合うのも何かの縁なのかもしれない。


 色々と思考を巡らせたのちに、結論として出した答えは親友の弁護士に電話をすることだった。Rainで久々の挨拶と共に連絡を取りたい旨を書き添えると、既読後すぐにスマホが着信を知らせてきた。


「久しぶりだね、翔吾から連絡くれるなんて珍しい、どうしたの?女とトラブった?」


 弁護士の新井由美子の明るく甲高い声が受話口から聞こえてくる。開口一番に女とトラブったとは言い得て妙だなと感心してしまう。

 思わず苦笑してしまった。


「久しぶり、ちょっとね、折り入って相談なんだ。その、まぁ、なんだ、少女を拾ってさ」


 挨拶は明るくされど内容を暗い声で告げると、相手が電話口で何かを飲み込む音がした。


「案件ではないから、それだけは、保証する」


「少女拾ったで案件でない訳がないでしょう?」


 確かにごもっとも、もう少しマシな説明をすべきであったが、いかんせん、少女を拾うなどという行為は初めての経験のため気が動転していた。


「まぁ、翔吾がそんなことする人とは思えないけど、世の中のほとんどがそんなことしなさそうな人が、しちゃうから・・・」


「し、しちゃってないから。まだ、なにもしてないから」


「これからするの?、未遂?」


「ち、違う、話を聞いてくれ」


「冗談よ。良いわ、最初から説明してくれる?受けるかどうかは聞いてから判断するから」


「恩にきるよ、ありがとう」


「聞いてダメだったら、お巡りさんに譲るわ」


「そうならないことを一番に祈るよ」


 半分呆れ果てたような声ではあったが、私がそういうことをしない人間であることは重々承知のことだから、ど極端な勘繰りは避けてくれてありがたい。掻い摘んで事情を話すと、15分もかからないところに住んでいる彼女はわざわざバッジをつけて病院まで駆けつけてくれた。


「こんばんは、パパ」


「きつい挨拶だね、弁護士のせんせーよぉ」


「だって、その姿、子供を心配する父親みたいに見えたもの」


 事務員に案内されて処置室に入ってきた由美子は、開口一番にそんなことを言った。

 少女の手を握り隣に座って心配そうに見ている私の姿は確かにその通りに見えるかもしれない。


「で、手紙見せてくれる?」


「ああ、これだよ」

 

 その後は警察への通報と由美子が懇意にしている児童相談所の職員に連絡を取ってくれ、私は警察からの嫌疑を由美子の献身的な、それでいてお金のかかる弁護により無罪を得たのだった。

 後日、請求書なるものがRainで送りつけられて、私はたまに行く小料理屋で由美子のために慰労の席を用意し、破格の安さというが、微妙な金額の支払いを済ませたのだった。

 

 それ以上、私にはなにもできる事などない。


 数日が過ぎ、仕事に忙殺されて記憶の片隅にその記憶を追いやった頃、スマホに見慣れぬ番号から着信が入った。


「突然のお電話、申し訳ございません。柏原翔吾さんでよろしいでしょうか?」


 妙に色気のある声が聞こえてきた。

 仕事柄、色々な方々とお話をする機会を頂くが、その中でも、とびっきりに男心を掴むような声であることは間違いない。


「児童相談所の石巻と申します、少しお時間よろしいでしょうか?」


 声に浮かれていた私を現実世界へ引き戻す一撃が浴びせられる。

 あの声でそれを言うのは間違っていると抗議したい、最初からそう言ってくれれば、こちらも無駄に心躍らすこともなかったというのに。

 

「ええ、私です。ああ、込み入りそうな話でしょうから、場所を移動しますので少々お待ちください」


 消音ボタンを押して電話を保留にし、部下に少し離席することを告げてオフィスを後にした。

 喫煙室はとうに撤去されていて、喫煙場所と名前だけが付いた寒い非常階段の片隅で、話を聞くのも嫌気がさす。

 仕方なしに最近作られた休憩スペースへと向かうことにして、そそくさと歩みを早める。

 休憩スペースには若い社員が何人かお喋りを楽しんでいたが、私が姿を見せると、困ったような顔をして次々と部屋を出ていった。


「そ、そんなに嫌わなくても・・・、おじさん、つらい」


 すれ違いざまに彼らから向けられた、少し哀れみを含んだような微笑みに、さらに心が傷つく。

 社員証で給与から天引きされるコーヒーを入れてから、ビーズの入った妙に座り心地のよいクッションに座り、そして冷静になるための一呼吸を置いてから、消音を解除して耳へと当てた。


「お待たせしました。ご用件をお伺いします」


「突然お電話差し上げて申し訳ございません。実は保護させていただきました、高梨凛さんの件でご相談をさせて頂きたいのです。勝手を言って申し訳ございませんが、本日こちらへお越しいただくことはできませんでしょうか?」


「本日ですか・・・?」


「はい、無関係の方にこのようなお願いをすることはご迷惑とは存じますが、何卒、お願いできませんでしょうか?」


「えっと・・・」


 要件を伝えてから来いと言うのなら話わかるが、それをせずに来てほしいと言うことは、余程の不味い事が起こっているのだろう。警察からの電話ではないのだから断れば良いだけの話である、とも考えられることであったが、だが、扉の前に立ち私へと駆け寄ってきた少女の顔が脳裏を過ぎた。

 私だって人間である、そこまで無悲なことなのできる訳もない。


「なるほど、何かしらご事情がありそうですね?では、午後からお伺いします」


「ありがとうございます。お待ちしています!」


 よほどの嬉しさであったのか、はたまた、考え直す時間を与えないためなのか、早口でそう捲し立てた石巻さんはこちらが何かを言う前に電話を足早に終えてしまった。

 こんな失礼な電話はと怒ることもできるが、それでは馬鹿である。行って理由を聞いて、下らないようなら、それから怒ってもいいだろう。


 仕事を切り上げ、体調不良を理由に午後休を取ると、愛車を飛ばして児童相談所のある福祉事務所へと向かう。30分ほどの距離なのにどういうことだろうか、交差点に入る度に赤信号が車を止めた。駅前ということもあり窓の外にはクリスマスの装飾が彩を添えているのが目についた。


「ああ、来週だったなぁ、今年はどこ行こうかなぁ」


 愛車であるセダンにそう言って話しかけた。

 車で出勤したのも、帰りにドライブをしようと考えていたからだ。ハンドルを握り、適度な緊張感をもって目的地もなく彷徨う。

 これが最高にリラックスできる時間だ。

 やがて福祉事務所の建物が見えてきて、その駐車場へと車を止めた。


「なんか不気味だなぁ」


 空はいつの間にかどんよりとした雲に覆われていて、コンクリート造りのお役所的な建物は、その空と相まって見るものに伏魔殿のような不気味な印象を抱せる。

 妙に威圧的な扉開けて入ると目の前に警備員が立っていた。初老だけれど屈強な体つきの警備員に、呼び出された事情を話すと、すでに連絡が入っていたのか入館証を手渡された。

 入口すぐに警備員が立たなければならないとは、児童保護の件数は年々増加していると聞いたことがあるから、こんなに物々しいのだろうかと思案しながら、首から入館証を吊り下げる。


「その階段を上がって3階へどうぞ」


「どうも」


 薄暗い階段をゆっくりと登っていく。

 途中でふと由美子にRainで児童相談所に呼ばれたことを伝えてみることにした。


『お疲れさま、今日、児童相談所に呼ばれたんだけど、何か知ってる?』


『あ、いったの?』


『へ?』


『断らないだろうなぁって思ってたけど、やっぱり、そうなんだ』


『どういうこと?来てくださいのみだったけど…』


『聞いてから考えてみて。私が先に伝えるのはフェアと言えない気がするの…』


『なるほどね。わかったよ』


 由美子が困らせるために、なんてことはしない人間であることはよく分かっている。それ以上、深く聞くことはやめる。

階段を上りきり児童相談所のカウンターへと姿を現すと、担当のケースワーカーが座席を蹴っ飛ばす勢いで立ち上がった。

 そして私の元へ文字通りとすっ飛んできて、隣の会議室の一室へと、片腕を引かれて連れ込まれるように案内される。


「柏原さん、突然、お呼びして申し訳ございません。今も高梨凛さんの担当をしてます、小道です」


 強引に会議室へ連れ込まれ、まるで逃がさないと言うかのように、ドアを背に立ちはだかる。


「こちらこそ、以前は大変お世話になりました。石巻さんからお声掛けを頂いたと思いますが・・・」


「申し訳ございません。私はその時に別件を対応中でして、石巻に電話をするようにお願いしたのです」


 病院で少しだけ話をした仲なので親しくもないのだが、小道と名乗った若い三白眼の目をした気の強そうな女性が、そう言って目の笑わない営業スマイルを浮かべている。

 仕方なしに場を取り繕うために名刺を出し、互いに交換をすると、彼女は私の名刺と私の風体を三度ほど見比べてから少し驚いたような声を上げた。


「肩書は知りませんでしたが、凄いところにお勤めなんですね…」


「普通のどこにでもあるダークブラックな会社ですよ?」


「薬師丸重工業の本社勤務なんて…。企業としても大学生の希望企業トップのとこじゃないですか」


 テレビてそう言えばそんな事を言っていた気がする。夢を持つことは良いことだと思う。だが、現実を見れば…弊社もたいがいお察しであった。


「ま、まあ、私のことは置いておくとして、今日はどう言ったご用件でしょうか?もしかして、両親が見つかったとかでしょうか?」


 小道さんは視線を下げて首を振りると手で座るように椅子を進めてきた。互いに腰掛けて視線を合わせると一冊のファイル机の上に置き、中から一枚の写真を取り出すと申し訳なさそうに目の前に置いた。


「これが、高梨さんの今の姿です…。今日はお願いがありお呼びだてしました。普通ならこんなことはしないのですが、どうしてもご協力を賜りたいのです」


「大丈夫です。しごとははやあが…」


 その写真を見て私は絶句した。

 あの病院のときよりも酷い、骨と皮に等しい姿で病院かどこかのベッドに寝かされて、虚な目をして点滴を受けている少女の姿があった。


 私が思い描いていた姿とは遠くかけ離れた姿がそこにあった。


「どうして、こんなことに?」


 私は思わず怒気を含めて小道さんを睨みつける。

 あの時の彼女はここまで酷くはなかった筈だった。問われた小道さんは視線を逃げることも泳がせることもなく、しっかりと見据えてから小さな口を開いた。


「保護直後から拒食症のような症状が出始めました。必要な医療は行ってきたのですが、有効な手立てが打てていないのです。1つだけ希望があるとすれば、柏原さん、貴方なんです」


「私が!?」


 赤の他人である私が希望と言うことがあまりにも理解できない。


「はい。譫言のように偶に、貴方の事を言うそうなんです」


「いや、彼女の何かに響いたということもないでしょうし、全くと言って良いほど身に覚えがないのですが・・・」


「ええ、私も今までの経緯を伺っている限りではそう思います。でも、あの子にとっては何かこう、特別なことがあったのかもしれません。その、できればあの子を助ける為に協力をお願いできませんか?、都合の良い話であることは理解しています。でも、彼女の生きる希望があるのなら消したくはないんです!」


 鬼気迫る剣幕で小道が捲し立てる。

 私はその気迫に押され思わず座っていた椅子ごと後ろに下がってしまった。でも、それと同時に小道の真っ直ぐな視線に言葉の裏はなく、心から助けたいという思いがあることも確かように感じられた。

 私が深いため息をつくと、聞いた彼女の顔に悲しみの影がさした。いや、そんなに私に幻滅も悲観もしないで欲しい。


「今どこにいるんです?」


 そう言って、私は小道をじっと見据えた。


「今、どこにいるかと聞いているんです。こんな姿を見せられては早めに駆けつけるしかないでしょう」


「す、すぐに準備しますから、待ってください」

 

 そう言い残した小道が会議室を飛び出して出ていく。

 やがて、しばらくして戻ってきた彼女の手には書類の束が握られていた。その中から書類を何枚か出してきて、面会までの手続きの説明を始めた。多分、今回の件はイレギュラーな話なのだろう、普段使い慣れない説明の難しい書類をマニュアルと首っ引きになりながら説明する様は、こちらを苛々させることはなく、寧ろ真剣な姿に好感を抱かせる。だが、説明ばかりに気を取られていては、時間ばかりが過ぎて無駄になる。

 お役所と言うところは、後からでも良い書類を先に書かせる癖があることを私は熟知していた。


「小道さん、上司の方に私の名刺を見せて、こう、伝えてくれませんか?」


「え?」


 署名までの説明を遮り、私がそう言うと小道が不安そうな顔をした。


「私は法務部にも友人が、広報部やマスコミにも友人・知人がおります。もちろん、ご存知の通り弁護士もいます。霞ヶ関にも仕事がら仲の良い方々や先生もいますよ。手早く会えないのでしたら、私は帰りますし、今回の件を世間に訴えて、責任問題を提起しますが、いかがでしょうかと」


「そ、相談してきます!」

 

 ニヤリと笑う私の顔に小道さんは引き攣り気味にぎこちない笑みをしてから、今度はさらにすっ飛ぶように部屋の扉を閉めることも忘れて出て行った。

 嫌味を言ったつもりだが、出て行く小道の顔が真っ赤になっていたのが少しだけ気になる。

 彼女を脅したわけではないのだし、いや、ある意味では脅しであるかもしれないが、少女、いや、凛さんあのような姿を見てしまってはこれくらいはすべきだろうと、普段なら鳴りを潜めた正義感を振り翳してみることにした。

 一人で今も凛さんは苦しんでいる、それなら難なく生きている私でも、少しくらいの手助けになるのなら、手を差し伸べなければならない。

 

 それが人間、いや、社会人と言うものだ。


 『困っている人がいるなら助けなさい。それを妨げる人がいたのなら、その人を困らせた上で助けなさい』


 今は亡きお祖母様の遺言に従って、私は行動を始めたのだが、この時、運命のギアチェンジによって、全く新しい歯車が回り始めたことは知る由もなかった。

 5分ほどすると、微笑を浮かべ頬を少し紅く染めた小道が足早に席へと戻ってきた。

 そして2枚の書類のみを机の上に広げてきた。どうやら、説得は功を奏したようだ。


「柏原さんの名刺と先程の話を上司にしたら、これだけサインをして貰って行けばよいということになりました…。」


「それはどうも」


 スーツのポケットからワイン樽を加工して作られた愛用のボールペンでサインをする。

 中身を読むことすら必要ない。

 手続きは省略されているのだから万が一の時には、すべての説明を受けておらず、サインを強引に求められました、で逃げ切ればいい。

 公務員やお役所と契約云々の問題の際に逃げ切る熟練の常套手段テクニックである。

 

 役所と交渉経験の少ない小道は知る由もないだろう。


「すぐに向かうことができるように準備します。タクシーを呼びますから…」


「もう呼びましたよ。もう暫くしたらくるでしょう」


 そう言って私はスマホの配車アプリで予約を済ませ、小道さんを急かしながら病院へと向かった。


 愛車で行かなかったのは、焦りで事故を起こしたらと言う配慮からだった。


「あ、会議室での会話ですが、先程まで録音されてますからね」


 タクシーの車内で、柔らかく嬉しそうな声をした小道が、そう言って和かに微笑んだ。


 なんだ、こいつもProじゃないか。


 私は降参を示すように、両手を小さく開いて笑みを見せた。



 

 

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