悪魔の契約

旗尾 鉄

第1話

 俺はいま、人生最大のピンチに立たされている。


 問題はずばり、カネだ。


 親父から引き継いだ不動産会社が、資金繰りに窮してどうにもならなくなった。

 おまけに税務署の調査が入るらしい。このままでは、親父の代からの古き良き伝統、粉飾決算と脱税が露見する。


 顧問弁護士と常務は、先代から続く放漫経営だの、会社の私物化だのとネチネチ言ってくる。

 親父の時代は二人ともヘラヘラしてたくせに、俺が年下なので舐めてやがるのだ。

 私物化なんて、たかがベガスで年数回遊ぶだけじゃないか。

 もしかすると、二人で俺を追い出して会社を乗っ取るつもりかもしれない。


 グチっても問題は解決しない。

 とにかくカネだ。実弾だ。それさえあれば、すべて帳簿上のミスで押し通せる。


 そんなわけで俺は、親父が生前住んでいた一軒家へと向かっているのだ。






 カネを作るあてが、ひとつだけある。

 親父が死ぬ少し前、俺に鍵を渡した。


 どうしても必要なときだけ使え。扱いには気をつけろ。


 それしか言わなかったが、俺は察した。


 俺に娘が生まれたとき、親父は会社所有のマンションの最上階、一番いい部屋を社宅扱いにした。俺と妻、娘の三人は、いまそこに住んでいる。


 普通なら、億は下らない物件だ。お祝いだと言いつつ、俺たちを自分の家から遠ざけようとしたに違いない。


 親父は、家になにか隠している。

 確信した俺は、親父の死後も家をそのままにした。管理人を雇って手入れを任せ、俺自身はわざと興味がないふりをしていたのだ。






 到着した俺は、親父の書斎に直行した。

 隠し場所は見当がついている。親父の書斎は書棚が横滑りできる作りで、その裏に隠し部屋がある。子供のころに偶然見てしまい、勝手に書斎へ入るなと怒られた。あそこしかない。


 書棚をスライドさせると、扉が現れた。鍵を差し込むと、扉は音もなく開く。

 現金か、貴金属か。

 必要なときだけ。扱いに気をつけろ。つまり、公にできない隠し財産なのだろう。

 俺は部屋へと入り、明かりのスイッチを入れた。




 そこは、六畳ほどの小部屋だった。

 期待したものは、なかった。

 床や壁には、五芒星を逆さにした図形や、円や、古代文字みたいなものが一面に描かれている。オカルト趣味の部屋だった。


 俺はあまりの期待外れに力が抜け、壁にもたれかかった。だがそのとき、尻のあたりにスイッチを押す感触があった。

 どこかにスピーカーが仕込んであるらしい。親父の声で、呪文のような音声が流れる。次の瞬間、硫黄のにおいが立ち込め、部屋が煙に包まれた。






 煙が収まると、部屋の中央に悪魔が立っていた。

 山羊の角を生やし、足は山羊そのものだ。全身が黒っぽく、前開きの緑色のベストを着ている。背中には定番の、コウモリの翼だ。


「おまえ、健造の倅だな。うさんくさい雰囲気がよく似てるぜ」


 現実離れした光景に呆然としていたが、悪魔の言葉で我に返った。

 親父はこの悪魔の力を借りていたのだ。

 常識ではありえないが、助けてくれるなら誰でもいい。


「親父は三年前に死んだ。次は俺を助けてくれ」

「死んだのは知ってるよ。悪魔の契約を使いすぎて、寿命が縮んだんだ。おまけに横着して、呪文の詠唱を録音で済ますようなやつだったからな。それで?」

「会社が潰れそうだ。助けてくれ」

「なにを売ってくれる?」


 悪魔に魂を売る、というやつだ。俺は即答した。


「俺の魂を売ってやる」


 ところが、悪魔は俺を一瞥すると小馬鹿にしたように笑った。


「いらないね。おまえの魂は堕落して薄汚れているからな。けがれなく純粋な魂じゃないと、売り物にはならねえよ。それにあと十年で、おまえの魂は自然に手に……」

「なんだって!?」

「おっといけねえ。今のはただの例え話だって。じゃあこうしよう。おまえが住んでるマンション、北東の角に空きがあるだろ。あの部屋を売ってくれるなら、助けてやるよ」


 確かに空き物件がある。北東の角、日当たりが悪い売れ残りだ。俺は一も二もなく承諾した。


「よし、契約成立だ。安心しな。健造もこうやって、あくどいことを散々やってきたんだからよ」


 悪魔は、指をパチンと鳴らした。


 翌日。

 出社すると、会社の経理はなぜか完ぺきになっていた。社内公然の秘密だった粉飾も脱税も消え去り、担当者は首をひねるばかりだった。






 一年後。

 俺は一人寂しく暮らしている。


 悪魔のやつは、買い取ったマンションを地獄の保養施設にしたのだ。休暇をもらった地獄の獄卒、改心して模範囚とされた亡者どもが、交代交代でシャバの空気を満喫しにやってくる。

 心霊マンションの噂はすぐに広まり、入居者はゼロになった。


 娘も三回幽霊を見た(それも全部、別のやつだったそうだ)ため、妻と娘は出ていった。

 だが俺は社長という立場上、自社物件から逃げるわけにもいかない。ここに住み続けるしかないのだ。


 今夜もまた、階下の部屋から薄気味悪い笑い声やポルターガイストの音が聞こえる。


 それを聞きながら、俺は思うのだ。


 こんなはずでは、なかった……。

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