五-2

「うまくやってくれよ、小侍従殿」

 それだけ言って、少将が梓子から一歩二歩と前に出て、椿に近づく。

 モノを引き寄せてしまう体質というのは本当のようだ。

 薄墨色の煙が椿から立ちのぼり、風に流されるように少将のほうへと向かっていく。モノにとって、椿よりも少将のほうが器としての魅力で勝ったようだ。

 椿の身からモノが離れようとしている、この瞬間を梓子は待っていた。

 筆を構え、言の葉に念じながら草紙の一枚に文字をつづりだす。

「嘆きつつ……、ひとりる夜の明くる間は……」

 これは、写本していた『かげろふの日記』の中でも有名な和歌の上の句である。この下の句は『いかに久しきものとかは知る』と続く。

 その内容は『あなたの通いを待ちわびて嘆き悲しみながら、ひとりで寝る。そういう夜の明けるまでの間がどれだけ長いか、あなたは知っているでしょうか。いや、知らないでしょう』というものだ。

 椿は、めかけのもとへ向かおうとする夫を、正式な婚姻が成立する三日三晩を自分と一緒に過ごさせることで、本妻が誰であるかを改めて示そうとしたのだ。その夫をとどめ置こうとする心に、銘のある琵琶が感応してモノとなるまで、どれほど嘆きながらひとり寝の夜を過ごしたことだろう。

 草紙に綴った和歌が、薄墨色の鎖となってモノに絡みつく。この言の葉の鎖こそが、モノに姿形を与えるのである。

「……その名『あかずや』と称す!」

『あかずや』の名を草紙に記した途端、薄墨色の鎖はモノをからめ捕ったまま、草紙の中へと吸い込まれていった。

 言の葉の鎖と名付けという二つの縛りによって、モノを草紙に閉じ込めたのだ。

 大きな音を立てて、琵琶の入った袋が地面に落ちる。同時に椿の身体がかしいだ。

「小侍従殿、椿殿が!」

 さすが物語から出てきたきんだちは違う。少将は、すかさず倒れる椿を抱き留めた。

「モノは、常の人の精気を奪うという噂があります。椿殿もモノに多少の精気を奪われたのかもしれません。……琵琶は複数の女性に貸し出されました。椿殿おひとりから精気を奪っていたわけではないでしょうから、しばらく物忌みで身体を休めれば、回復なさるかと」

 梓子は説明しながら地面に落ちた袋の口を開けて中身を確かめた。琵琶は入っているが、そこに薄墨色の靄は視えない。梓子の目にそれが映らないのなら、この琵琶に宿っていたモノは、無事に琵琶から引きはがせたということだ。

「そうか、なら安心だね。……ちょうどいい、椿殿を朔平門まで迎えに来ていた家人が来る。椿殿は彼らに任せて、我々は去ることにしよう。誰かを呼んで琵琶も回収させよう。モノは抜けたようだけど、念の為、主上に献上したことにして、蔵にでも入れておくのがいいだろうね」

 言いながら少将は周囲を見渡し、見つけた人を手招きする。

 その少将の後ろ姿には、元から彼に憑いているなにかの気配だけが感じられた。琵琶のモノのざんなどは視えない。彼を器にされる前に回収できたのだ。

「そうですね。……ただ、ここを去るのに、いま少しお時間をいただけますか?」

 梓子は仕事をやり遂げたことを確認し、あんからその場に座り込んでしまった。

「私も少しばかり時間をいただきたいね。目の前で起こったことだが、正直なにが起きたのやら、理解できなかった。ぜひとも、君がなにをしたのか、詳しい話を聞かせてもらいたいのだけれ……おや? 小侍従殿も、かなりきつそうだ。大丈夫かい?」

 振り向いた少将が、座り込んでいる梓子を見て、手を差し伸べてくれる。

「正直申しますと、あまり大丈夫ではありません」

 こんなところでを張ってもしょうがないので、梓子は素直に現状を説明することにした。

「……わたし、恥ずかしながら和歌の才がございません。ですが、力ある言の葉でなければモノを縛ることはできないのです。そのため、和歌の才がある方の言の葉の力をお借りするよりないのですが、自身のものではない言の葉で歌徳を得るためには、言の葉に相応の念を込めねばならないのです」

 歌徳とは、和歌を詠むこと、あるいは和歌を奉ずることで、神仏や人々の心を動かし、やくを得ることだ。『きんしゆう』の仮名序にも「力も入れずして、あめつちを動かし、目に見えぬおにがみをもあはれと思はせ」ることができるのが、和歌であると書かれている。

 梓子のモノを縛る力の源は、和歌を詠み、文字として草紙に書くことによって得る歌徳を頼りとしているのだ。ただ、残念なことに梓子は和歌が苦手なのである。それ故に、本来なら『力も入れずして』済むことも、力いっぱい念を込めねばならず、その結果、憑かれていた側でもないのに精根尽きかける状態に陥る。

「精気をモノに奪われたわけではなく、自らの意志で使っただけなので、問題はございません。ただ、回復までには少しかかるかと」

「そうか。ならば、こうしようか」

 少将が、梓子の手から琵琶の袋を取り上げ、適当にその辺に置くと、ひょいと梓子を横抱きにして立ち上がった。

「……え?」

 なにが起きているかわからず、思わず間近の少将の顔と衣のそでが垂れた地面を目で往復する。

「ああ、おぶさるにも体力がいるだろうから、これが早いと思ってね。遠慮しなくていいから、大人しく運ばれなさい。……では、行こうか」

 ぎゅっと抱き直されて、さらに顔が近くなる。

「えぇええ!」

 叫ぶことしかできないままに運ばれていく梓子を目撃した話が、後宮の女性たちの悲鳴とともに語られることになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る