五-1

■ 五 ■


 承香殿を辞した椿は、内裏の北、さくへい門に向かって歩いていた。女房装束からうちぎ姿になっている。その手には、供人に持たせることなく、琵琶を入れた袋を抱えていた。

「椿殿、お久しぶりです。本日がご出立との噂を聞きつけて、ごあいさつに伺いましたよ」

 少将が椿の背に声を掛けると、彼女はゆっくりと振り返った。

「右近少将様……、なぜあなた様がこちらに?」

 ややおおまたで椿に歩み寄った少将が、微笑んで椿に応じた。

「女房同士の口論の発端に巻き込まれた身としては反論しておきたいところだし、なにより、主上の勅ですから。……承香殿の女房たちを、小侍従殿にけしかけたのは、あなたでしょう? モノが視えると噂の小侍従殿が、手元にあるものを視てしまう前に承香殿から追い出すのが目的だったというところかな?」

 少将の問いには答えず、椿は琵琶袋を抱えたまま、口元を隠さずにククッとのどを鳴らして笑う。

「相も変わらず、みかどの犬でございますか」

「猫好きを公言する主上のおっしゃることには、犬は私だけでいいそうだ。主上の唯一の犬としては、忠義を尽くすよりないよ」

 なんて怖い会話だろうか。ついでに、犬は少将だけとか、少将の言っていたとおり、主上のちようあいがかなり重い。

「あ、あの……椿少納言様、お初にお目にかかります、小侍従と称しております」

 恐る恐る声を掛けると、椿が横目で梓子をにらんできた。

「……そう、あなたが。なにかしら? 『あやしの君』にお声がけいただくようなことに身に覚えがないのだけれど。それとも、まさか、そちらの少将様がおっしゃるように、私が承香殿の若い女房たちをけしかけたとでもお思いなのかしら?」

 椿の言うことに首を振ってから、梓子は深く頭を下げた。

「写本を、部分的ですが担当いたしましたので、ご挨拶にお声がけいたしました」

 言葉を区切り、頭を上げかけて、椿を仰ぐ。

「ですが……、その反応、むしろ違う件で、わたしがお声がけするとわかっていらしたのでは?」

 沈黙する椿に、梓子は手を差し出した。

「椿殿、袋の中の琵琶、見せていただけますか?」

「ああ、ほしいのね? ふふ、これがあれば、あなたでも誰かの妻になれるわよ」

 それは、これを……袋の中の琵琶を使えば妻になれるということか。だとしたら、三日三晩の意味は、婚姻成立の三日夜ということか。

「椿殿。怪異は、それぞれの条件に合致した方にしか事象が生じないことがほとんどです。わたしでは、モノの条件には合わないでしょう。……わたし自身は、誰かの妻になりたいわけではない。そういう意味では、中身に用はないのです。ただ、仕事として必要なだけです」

 梓子は、中身がどういうたぐいのものなのかわかっていることを示し、真顔で返した。

「ぶれないね、小侍従殿は」

 少将が言って、椿の手から琵琶の入った袋を取り上げようと手を伸ばす。

「やめて! これを……ただの琵琶にしてしまうの? どうしてよ?」

 椿が少将の手を拒んで、袋をきつく抱きしめる。

「なるほど。椿殿は琵琶の効果をわかっていて、同じように夫の夜歩きに悩む方々に、それを貸し出したということか。……ですが、今後は、その狙いどおりには、いきませんよ。すでに怪異だとわかった以上、ほかのお二方に丹波守のような処分が下ることはありませんので。主上は、一人目である丹波守のことも頃合いを見て早々に帰京させるそうです。持っていても、もう意味がない」

 武官だけに一刀両断の言葉で、椿の手から再度の袋を引きはがそうとして、袋にはじかれた。なにが起きたのかを確かめようとするも、椿は奪われまいと袋を抱きしめる。

「なにを言うの……? 早々に帰京させるなんて。それじゃあ、駄目なのよ。あのじようの女を殿に近づかせるものですか!」

 彼女の抱える袋の中から音がした。袋の口は閉ざされたまま、誰も触れていないのに琵琶の弦が震える音がするのだ。

「……いっそのこと、殿がけがれに触れれば、ずっと屋敷に居てくださる?」

 梓子の目には、椿の腕にある袋から漏れ出る薄墨色のもやが、椿の身体に広がろうとしているのが視える。このままでは、琵琶に宿ったモノが、椿という自分の意志で動かせる器を得てしまう。

「少将様、その物の引き寄せ体質をかして、彼女にいているモノをご自身に寄せられますか?」

「危ないことを軽く言うね。それはどんな考えがあってのことだい?」

 ありがたくも、少将は、策を頭から拒絶する人ではない。梓子は、椿のほうを見つめたままで、手早く少将に説明した。

「すごく簡単に言うと、椿殿とあのモノは相性が良すぎるのです。説得では彼女とモノを引き離すことが大変難しい。彼女自身に妄執にとらわれていたい気持ちがあるようですから。だから、少将様に二者を引き離していただきたいのです」

「なるほど。私ならばそういう妄執とは無縁だから、体質一つで引き寄せたところで、そこから引きはがすのは、それほど苦ではないということか」

 驚くほど理解が早い。梓子は、意図をわかってくれた喜びに声を大きくした。

「そのとおりです。仏門に入りかけ、常の人の情欲が枯れちゃっている少将様なら、あんな妄執に囚われることはありませんから!」

「……言いたいことは、色々あるけど終わってからにしよう。で、私に引き寄せたモノを引きはがして、どうすると?」

 武官の本能か、本人の性格か。少将は、その背に梓子をかばうように立って、椿とたいしている。

「物の怪とは、姿形と名を持ったモノを言います。まだ、姿形と名を持たないまでも、場所や事物と結びついているモノはあやかしと呼ばれる段階です。妖は確たる姿形がなく、名もないために存在自体はまだまだあいまいな状態で、徳の高いそうりよおんみようも名をもって下すことが出来ません。ですから、言の葉をもって、モノにこちらから仮の姿形と仮の名を与えます。……記録することで、ナニモノでもないモノを言葉の鎖で縛るんです」

 言いながら、梓子は懐から古い筆と草紙を取り出した。

「それは、曖昧な存在ではなくなるから、君でも捕らえられるようになるということ?」

「そういうことです。亡き母がのこしてくださったこの古い筆と草紙があれば、わたしでもモノを縛り、閉じ込めることができるのです」

 筆と草紙を母がどのように使っていたのかは、乳母めのとの大江から聞いている。

 モノを縛ることになるのを想定して、筆に墨を含ませてある。仮の姿、仮の名前も考えてきた。こちら側の準備はできている。

「少将様に引き寄せられたモノが、本当に新たな器を得てしまうまでのわずかな間が勝負です。さあ、一夜は真実一夜で終わらせましょう」

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