■ 四 ■


 承香殿の母屋には、多くの女房たちが集まっていた。居並ぶ女房たちの最前、こうらいべりに座っているのが承香殿を賜った王女御である。その前に、一人の女房が平伏していた。

「あちらの方が、丹波守様の北の方様ですか……?」

 丹波守の北の方は、仕えた王女御から、例の写本とお言葉を賜っているようだ。

「ええ、あちらが椿つばき殿よ。うちでは椿少納言の女房名で呼ばれていたわ。あら、もう私物はあらかた引き上げたかと思ったのに、あの袋……丁子大納言様からいただいたをお持ちになるのかしら? 京を離れるなら、お返しになるか、あるいはどなたかにお譲りになるんじゃないかと、皆で話していたのだけれど」

 お見送りに声を掛けてくれた女房がひそやかな声で教えてくれた。

「……丁子大納言様から賜った琵琶となると、お譲りするにしても相応の方でなければ難しいですよね。相手の数が限られている」

 梓子はつぶやきながら、椿少納言と呼ばれた女房を見つめる。梓子の目には視えている。椿の身をつなぎとめる、細く黒い紐状に伸びた煙。あれは、モノとのえにしを示すものだ。

「例の琵琶の受け取り手がいなかったみたいよ」

 前の列の承香殿の女房が小声でささやく。

「まあ、左遷された人の家にあったなんて、あまり縁起は良くないものね。丁子大納言様だって、返却されても困るでしょうし」

 密やかに話す女房たちの間から、梓子は椿の傍らに置かれた大きな袋を見つめた。中身は本当に噂に聞く琵琶だろうか。椿をとりまくモノの縁がつなぐ先、おそらくあの袋の中だ。そうなると北の方が、夫の降格に加担したことになる。そんなことがありえるのだろうか。もし、そうであるならば、『一晩のはずが三日三晩経っていた』という怪異の事象にどんな意味があるのだろうか。夫を降格に至らせることの意味が、梓子には想像できない。

 頭の中が疑問だらけになっていると、前列からまたひそひそと声が聞こえる。

「でも、椿殿は、下向することになってあんしていらっしゃるのでは? 丹波守様、最近熱心にお通いだった方を、京に残されるそうだから」

「えー、りように落ちてもいいの?」

 梓子は反論に同意した。

「丹波なら都に近いし、任地として上の上でしょう。遠いざいに飛ばされたとかじゃないし。だいたい、ものの数年で京官に復帰されるわよ。縁のある丁子大納言様は次期内大臣の最有力候補だもの。でも、京に残されためかけのほうは、よほど手厚い保護がないと、次の男を通わせるよりないでしょうけど」

「たしかに。宮仕えや他家の女房、それぐらいしか家を持つ女が独り身でいられる道はないものね」

 そうか、だからこその『かげろふの日記』か。夫に通う町女が居ても、書き手と夫の夫婦生活は、その後も長く続いていくから。

 それにしても、正妻格になるのも妾として暮らすのも、楽ではなさそうだ。梓子は、勉強になります、と先輩女房たちに心の内で頭を下げた。

 王女御からのお言葉が終わると、女房たちが椿を囲んで別れを惜しんでいる。

 そんな母屋を抜け出し、まだづくえを片付けていない部屋に戻れば、誰もいない室内で、少将が自身を囲んでいた几帳をの内側に入れているところだった。

「おや、君の答えは出たみたいだね?」

 梓子に気づき、少将がこちらを見た。御簾も几帳もない状態で顔を合わせるのは初めてで、緊張から梓子はモノの存在を報告するよりも先に、別のことを口にしていた。

「お目覚めになりましたか?」

 少将は、梓子の問いに微笑む。御簾越しに入る陽光が、端整なその顔立ちにやわらかさを加える。寝顔の三倍増しの清らかさを感じさせた。

「目を開けたら几帳に囲まれている上に、その隙間からたくさんの目が覗いていて、なかなかの怪談だったよ」

 返答は、ちっとも清らかなものではなかった。

「それは申し訳ございません。……わたしの浅慮で怖い思いをされましたね」

「大丈夫。事が解決するなら、それで十分だよ。……答えが出たんでしょう?」

 少将が最初の質問に戻る。梓子はこれにうなずく。

「はい、少将様。……筆をはらって、怪異をひとつ消し去ってご覧に入れましょう」

 昨日の典侍の言葉を借りて、梓子は筆をはらう動きを見せて、少将に微笑んだ。

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