三-5

 御簾の向こう側の少将は、またも肩を震わせて笑いをこらえている。やってしまった、と、梓子は悟ったが、すでに遅い。宮中に新たな噂が広まる予感しかない。

 ここは記憶を上書きしよう。梓子は立ち上がると、自身を糾弾しに入ってきた承香殿の女房たちに宮仕え用の笑みを浮かべた。

「さて、話が終わったところで、お時間の余裕と筆に自信のある方は、この場に残っていただけますでしょうか。この騒ぎで、しばし筆が止まっておりました。朝までに終わる気がしませんので、お手伝いをお願いします。……それで、この騒ぎは終わりにしませんか?」

 この騒ぎのせいで写本作業が終わらなかったという話になると、𠮟られるのは梓子たちだけでなく、依頼しておいて作業を止めた承香殿の女房たちも同じだ。

「わかりましたわ。能筆とは申しませんが、そこそこの手跡と言われております。お手伝いに残ります」

 承香殿の女房たちが数名、写本作業に加わってくれることになった。

「さすがだね、小侍従殿。受けた仕事は完遂する信念には感服するよ。筆を止めたとがめは私も等しく受けるべきだ。すまないが、誰か私にも文机とすずりを。筆は常に持ち歩いているものがあるので大丈夫だ。写本作業、参加させてもらうよ」

 この一言で、さらに写本作業希望者が増え、夜を徹した作業もにぎやかに進められた。

 おかげで、日が昇る前には写本作業を終え、その場の皆で表紙や裏表紙にひも選びまでして、冊子としての体裁を整えてから、承香殿側に『かげろふの日記』をお渡しすることができた。その仕上がりに、受け取った承香殿のあるじであり、写本の依頼者でもあるおうによう様は、写本冊子のほうを手元に置きたいと周囲に語ったという。

「色々ありましたが、無事に写本を納めることができました。……少将様もありがとうございました。少将様の参加で、確実に参加者が増えました。その分、ただのご褒美時間になっていた気がしなくもないですが」

 眠気覚ましに雑談をしながら作業をした。そのため、写本作業に参加した女房たちは、二人きりでないにしろ少将と話す機会に恵まれたのだ。これをご褒美と言わずして、なんと言うのか。

「ねえ、小侍従殿。眠い頭で考えたことだから、間違っていたら指摘してほしいのだけれど……。写本は王女御様が、丹波守の北の方に下賜するものなんだよね? 宮中では女房がなにか物を賜ることってよくあるのかい?」

 出仕半年のうえ、決まった主のいない梓子では、これに即答するのは無理だった。

「頻繁というほどではありませんが、なくはないようですね。特に宮の女房はお仕えする主はもちろん、その生家からも色々配られるらしいですよ」

 すべて伝聞でしかない。

「そうか。……宮中では、物のやり取りがあるんだね」

 少将の呟きに、梓子は御簾の端近に急ぎ寄る。

「少将様、それって……」

 頭に浮かんだ考えが、少将と一致するか確かめようとするも、とぎれとぎれの声で止められる。

「……すまない、小侍従殿。ほんの……、少しだけ、柱の陰で、休ませて……。明け方は、モノの影響が、……弱まるから……」

 声が途切れた。御簾の横からそっとのぞくと、端整な顔立ちの人物が柱を背にして、寝落ちしている。こんなところで寝てしまっては、寒さに風邪を引くかもしれない。梓子は、御簾から身を出すと、自身が一番上に着ているからぎぬを掛けた。男女の仲の成立のような『衣の交換』をしたわけではないから、恥ずかしい行為ではないと思いたい。

 それにしても、これが『輝く少将』と呼ばれる人。眼福なのか、目の毒なのか。寝顔をしばし見つめ、梓子は我知らずため息をついた。

 少将本人が言ったように、彼にまとわりついている影の濃さが、この時間限りなく薄くなっている。こうなってようやく転寝うたたねぐらいならできるのだろう。

「小侍従殿、あなたもお見送りにいらしたら? うちの女御様に紹介するわよ。今回の写本の出来を褒めていらしたから、お声がかかるかもしれないわよ」

 御簾の中から、ともに写本作業をした女房の声がする。御簾の中に戻りかけて思い直し、梓子は柱にもたれて眠る少将をちようで囲った。

 寝顔見学者が集まっては、落ち着いて眠れないだろう。普段まともに眠れていないそうだから、眠れるときは、できるだけ眠ってほしい。

 御簾の中に戻った梓子は、声を掛けてくれた女房に、返答する。

「どうでしょうか。今回はかなり多くの方が参加されましたし、わたしの手跡など印象が埋もれているでしょうから。でも、お見送りには参加します。直接でなくとも、半年間、同じ宮中で働いていたわけですし」

 お見送りの人数は多いほうが、旅の無事を祈る想いが、神仏に通じやすいとされているから、参加できるなら参加するほうがいい。機会があれば、丹波守の北の方から話を聞けるかもしれない。

「多かったのは、たしかね。装丁班を含めて総勢十五名ですものね。……ところで、少将様のアレ、なに?」

 彼女は、御簾越しに見える几帳について聞いてきた。

「お疲れだったようで、少しお眠りになるとおっしゃっていましたので」

「几帳で厳重に囲って。なんか危険物扱いね」

 くすくすと笑う女房に、梓子は頷いた。

「実際に危ないですよ、あの方は……」

 夜明けの空気の中、あんなにも清らかに輝く人が世に存在するなんて、危険物以外の何物でもない。なにかにかれているにもかかわらず、だ。

 どれほど短い間であろうと一度は俗世を離れようとした人というのは、常の人とは違う存在になるのだと強く感じて、そう言ったのだが、梓子は自身の発言が後宮でどういう方向に受け取られるのかわかっていなかった。梓子のこの発言で、以後、少将の様子をうかがう女房たちがより遠くから彼を見ることになったのだった。

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