三-2

「……少将様、お待ちしておりました。わたしのほうも偶然情報が手に入りましたので、話をいたしましょう」

 これ以上、静かな夜を騒がしくすることがないように、梓子はまとめた紙の束を文机に置くと、御簾の前にひざを進めた。

「ひとつめの『始まりはどこか』は、新たな丹波守様で確かですね」

 極力声を小さくして、梓子は御簾の向こうに問いかけた。

「そのようだね。ここに来る前に主上にも報告してきたのだけれど、そうなると今回の配置換えは少々気の毒だったのではないか、と気にされていたよ」

 みかどが政治的決定に対して私情を口にされることは滅多にないはずだ。それを聞いてきただけでなく、一介の女房に話すことを許しているあたりに、帝の少将への強い信頼を感じさせる。

「新たな丹波守となった少納言殿、行事に遅刻された権大納言様と続き、三人目は作文会を欠席された権中納言様。三人全員から直接話を聞けたわけではないけれど、周辺の者たちからどんな風に主張していたかは聞けた。それが、通い先に関わる話になるのだけれど……、いずれも『通い』ではなく『帰宅』だった。どなたも、ご自身の邸宅で『一晩』をお過ごしだったんだ」

 自身の邸宅で過ごしたということは、三人が共通の誰かのもとに通っていたわけではないということだ。

「さて、小侍従殿。情報をみっつそろえたよ。今回の件、解決に協力してくれるよね?」

 少将が明るい声で言えば、御簾の内側では梓子の背に期待の視線が突き刺さる。

「まず誤解があるようですが……、わたしにはとうはらいや退治といった、物のを消し去る行為はできません。ただ、モノを視ることはできます」

 少将に言うというより、御簾の内側向けに言ったことだった。少将は、解決しろとは言っていない。解決に協力しろと言ったのだ。おそらく、梓子になにができて、なにができないのかを、それなりに知っているのだろう。だから、梓子としては、写本作業を共にした女房、および少将がいることで聞き耳を立てているだろう承香殿付の女房たちに多少なりとも自分のことを正確に知っておいてもらうために口にした。

 帝の勅命で動く少将に声を掛けられている以上、視えていることを誤魔化すのは、もう無理だろう。ならば、せめて物の怪を退治したり、操れるわけではないことは知っておいてもらいたい。

「そうか。噂は噂ということだね。……で、君がなにを視たのかは聞いていい?」

 そういう流れにはなるとわかっていても、視えない人に、視えたモノを語るのは難しい。梓子は、言葉を選びながらゆっくりと説明した。

「謹慎明け、後宮へ謝罪にいらした権大納言様を。遠目でしたが、あの方がモノのざんをまとっているのが視えました。怪異に遭った方というのは、怪異が触れたこんせきが残ってしまうものなのです。だから、皆さんが冗談のような言い訳だとおっしゃっていたことも、本当だと思ったのです。ですから……」

 小侍従は、語尾をあいまいに途切れさせた。

「……なるほど。だから、君は直接私に近づこうとはしないんだね」

 御簾の向こう側の少将が、かすかな声で呟き、遠慮するように身を下げた。

「……ああ、やはり少将様は、御自覚がおありなのですね。視えてはいらっしゃらないようですが」

 ゆるゆると『輝く少将』にまとわりつき、その輝きを鈍らせている薄い影。まるで薄く透ける夏の女衣をかぶっているかのようだ。

「うん、私には見えない。でも、居ることは知っているよ。絶えずなにかがこの身に、まとわりついている気配を感じているからね。もう長くまともに眠れていない。二年前、あのまま出家していたなら、解放されたのでは……と、そう思わなくもないね」

 いつも眠そうなのは、お通いになる相手がたくさんいらっしゃるから。その気だるげな表情に色気を感じる、そう噂している人もいた。

 ああ、本当に噂の裏側なんて、こんなものだ。どれほど『あやしの君』などと呼ばれていても、目の前の苦しむ人を助けるどころか、一時的にでも楽にするすべさえも、梓子は知らないのだから。

「すみません。わたしでは、どうすることもできなくて」

「君が心苦しく思うことはない。帰京後、左大臣様ほどの御方が呼び寄せてくださった本職の者にも、どうにもできなかった。どうしてかはわからないが、モノを寄せやすい体質なのだそうだ。だから、いまいているモノを祓ったところで、どうせすぐに次のモノが寄ってくる。……そんな私だから断言しよう。君は本物だ。正しく常の人ならぬモノが視えている。ますます協力してほしくなったよ」

 御簾越しのぼんやりとした印象の中、目だけがほのぐらい光を宿す。怖い。その身にまといつく尋常ならざるモノがしたことか、この人の本性がしたことか。人をにらむのとは違う、獲物に狙いを定めた獣の如き目をする。

「……わたしは、全力で逃げたくなりましたけど?」

 絞り出した声に、あろうことか少将が笑いを漏らす。

「すまない、君があまりにまっすぐだから、つい。……こんな状態になってから、以前にも増してえんせい的になってしまってね。だって、世の人々は好き勝手を言うじゃないか。私とて好き好んでこうも慢性的な寝不足を抱えているわけではないよ。主上は、この状態をご承知だからお許しくださっているだけで、主上のちようかさに着ているわけじゃない。……むしろ、私は主上の寵の十分の一でいいから、どなたかに持っていっていただきたいくらいなのに」

 ちようしんというのもご苦労が多いようだ。

「内大臣様など、私の顔を見るたびに皮肉をおっしゃる。先ほどなど、『忠臣ならば、主上にも夜遊びの楽しさを諭してはいかがか』などと。ご自身が遠ざけられているのを、左大臣家の猶子である私が何か吹き込んだせいだと思っておいでのようでね。不敬なことだ。主上は、ざんげんに惑わされて、まつりごとを決めるようなことはなさらないというのに」

 内大臣といえば、せちに遅刻した権大納言と兄弟の関係だ。梓子が出した条件の情報を集めるために宮中を回ったことで、顔を合わせたくない人に遭遇してしまったようだ。梓子としては、若干の申し訳なさを感じる。

 内大臣は、左大臣のおいにあたるが、政治的に対立する立場にあるので、帝の寵臣であるだけでなく、左大臣の猶子であることも、少将が気に入らない理由なのだろう。

「いや、私のことはいいんだ。……宮中の安寧は国の安寧であるとお考えの主上から、勅を賜った以上、私は今回の件を解決する。手伝ってもらうよ、小侍従殿」

 今更の確認である。

「わたしは、お受けした仕事を、最後まで投げだしたりいたしません」

 梓子は、づくえに置いた紙の束をチラッと見る。

「信条に反するから?」

 面白そうに少将が問う。本人いわく厭世的な性分らしいので、梓子の仕事に対する姿勢に言いたいことがあるのかもしれない。だが、これは揺るがぬ信条だ。これを決めたからこそ、梓子は宮中でヒソヒソと何を言われても、折れないでいられる。

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