三-1
■ 三 ■
承香殿の写本作業部屋は、意外にも梓子の帰還を快く迎えてくれた。二名ほど増員されていたが、それでもまだ写本作業の戦力は足りないらしく、作業に戻ってくれるなら誰と
梓子の作業再開から半刻ほど経った頃に、少将からの唐菓子が届いた。いくつか種類のある唐菓子の中でも、米粉をこねて、
「……ということで、右近少将様から唐菓子が届きました。小腹を満たしたら残りも気合を入れて頑張りましょう」
唐菓子を受け取った梓子が、各
「唐菓子もありがたいですが、眠気覚ましに、なにか目の覚める話はありませんか?」
部屋の視線が梓子に集中したが、首を振って断った。すでに夕刻、外も暗くなってきている。こんな時間に梓子が語る話では、モノを呼びかねない。
「……じゃあ、写本作業の士気に関わるかと思って黙っていた話をひとつ。この写本、突然決まった夫の下向に付き添うことになった女房に渡す……って話だけど、突然下向が決まったのは、噂の『一晩のはずが三日三晩経っていた』のせいなんですって」
語る女房を除く全員が、えっ、と口にして、菓子を持ったまま動きを止める。
聞けば、その女房の夫、新たな
少納言も太政官ではあるが、大納言・中納言とは異なり
「同じことがまた起こったから、右近少将様が小侍従殿に話を聞きにいらっしゃる類の話かもしれないということになったんでしょう? でも、最初だと、どうにも言い訳でしかないじゃないですか。それで上の方々のお𠮟りを受けて、
思わぬところから右近少将に頼んだ情報のひとつが判明した。
「丹波なら都から遠くはありませんが、急だと北の方様は大変そうですね」
梓子が言えば、場の全員が深く
「こういうときに、正妻格って微妙だと思うのよね。この本を受け取られる北の方様といえば、承香殿だけでなくほかの殿舎でも名を知られる
丁子大納言は、正員の大納言で、もっとも大臣の位に近いと言われている人物であり、その影響力も大きい。その丁子大納言が丹波守の北の方に琵琶を下賜したということは、丹波守が──正確には降格前の少納言が──朝廷において自身の
「離京されるなら、せっかくの琵琶も返却……というかお取り上げでしょうね。とはいえ、一時のことであっても名のある琵琶に触れられる機会に恵まれるのが宮仕えの利点よね。
一番
「わかる。宮仕えでしか得られないものってあるわよね。写本は地味で優雅さのかけらもない作業だけど、手に入りにくい物語を読めるのがありがたいわ。
今回のような写本作業で声がかかるのは、能筆と評判の女房になる。そのほとんどが、日頃から自分用の物語の写本をしているから筆慣れしていることが多く、物語好きだ。
「時間があれば、担当部分以外も読みたいですよね」
梓子は墨の乾いた紙を集めて順番に並べながら
「まあまあ、それなら、小侍従さん、左の女御様のところに呼ばれた時に、自分を売り込んでみてはいかがでしょう? さすが左大臣家から
宮仕えの先輩女房が持つ情報には、多少話題に偏りがあれども、仕え先を探している身にはありがたいものが多い。これもまた宮仕えの利点だ。
「ですが、左大臣家から入内された女御様となれば、家格が……」
梓子は、典侍の縁者としてやや強硬に宮仕えを許された身だが、左大臣家の女御に仕えるとなると、出自の詳細を問われることになる。それは避けねばならない。
「大丈夫でしょう。少し前までならともかく、今のあそこは、家の格よりも一芸持ちであるかどうかで正式採用が決まるらしいから。あなたは、噂にお聞きしていたとおり、作業が正確で速いわ。十分に一芸持ちで売りこめるんじゃないかしら」
全体としては高評価のようだが、言葉の細部に
ここは、どう返すのが今後の宮仕え生活の安寧のために良いだろうか。頭の中で必死に考えを巡らせていると、
「悪いけど、小侍従殿には、私と一緒に来て、一芸を披露していただきたいかな」
御簾の向こうから声がかかる。きゃー! と、ほかの文机から声があがった。夜とは思えぬ興奮状態だ。眠気は完全に覚めたらしい。写本作業に楽しみを
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