二-3

 やはり噂というものは、大抵が根も葉もない代物であり、実がなければ消えていくものなのだ。噂に事欠かない先達の言葉に、梓子は勇気づけられた気になって、力強く返事した。だが、の向こうからは、やや力の抜けた声が返ってきた。

「…………うん、なんかもう、そういうことでいいよ。この上、君になにか気になることがあるとしても、私は人を説得するのに慣れているし、君がうなずいてくれるまで、どれほど時間がかかっても平気だよ。なんだったら、一晩と言わず、三日三晩を費やすこともいとわないよ。情欲抜きの三日三晩も、なんら苦にならないからね」

 先ほどは、半刻と待てないと言っていたのに、今度は三日三晩だって待つと言う。もう完全に狙いを定められた。噂の真相を知って満足している場合ではなかった。逃げ道をふさがれてしまったではないか。

 御簾越しにもかかわらず、にらまれているのがわかる。心なしか、逃がすまいとする空気感が話し始めよりも増している。たかの前の雀、蛇に睨まれた蛙。再び硬直した梓子に、救いの声が聞こえてきた。

「少将殿、小侍従殿、よろしいでしょうか?」

 このぞうあるじである典侍が、若干焦った様子で戻ってきた。

「典侍様? なにかございましたか?」

 曹司に入ってきた典侍は、梓子の隣に腰を下ろすと、まだ息も整わぬ状態で話し出す。

「また一人……、参内予定の権中納言様がいらしていないとのお話を耳にいたしまして、お伝えすべく急ぎ戻りました」

 例の東宮の御前での作文会に来ていない権中納言の話が、せいりよう殿でんにも届いたようだ。

 典侍はみかどに近侍する上の女房の実質的な長であり、帝の身の回りの世話をするのが本来の職掌である。この場を離れて帝の居られる清涼殿まで行ったものの、すぐに戻ってきたということは、それを指示した帝から少将への『さっさと解決してこい』という催促なのだろう。

「そうか。……ねえ、小侍従殿。君は、これがまだ続くと言うの?」

 なぜだろう、怪異が続くのは、さっさと解決に協力しない梓子のせいだと責められている気がする。

「そのようなことはございませんよ、少将殿。小侍従殿であれば、怪異のひとつやふたつ、筆をさっとはらう如く、あっという間に消し去ってくださいますとも。無論、二度と宮中の業務の邪魔などさせぬよう徹底的に、です。ねえ、小侍従殿?」

 断言して梓子を見る典侍の目が鋭い光を放つ。

 梓子は忘れていた。梓子の乳母の大江は武士の家の出だった。それは、同母妹の典侍も武士の家の出ということだ。モノのたぐいは、はっ倒して、突き飛ばして、完全排除する対象であるというのが、基本の考えなのだ。

 ここに至って、梓子の逃げ道は、完全に塞がれた。

「……あ、はい。よくよくお勤めに励みます」

 宮仕えの女房なんて、こんなものだ。上からの命を断るという選択肢はないのだ。

 梓子は宮仕えの女房の闇に、また一歩踏み入った気がした。


 典侍が、来た時の勢いのまま、清涼殿に戻っていくと、梓子は少し御簾に寄り、少将へのお願いを口にした。

「……とはいえ、少将様には、まず正確な情報を集めていただきたいです」

 仕事をやると決めたなら、やり遂げるまで全力で、が梓子の信条だ。何はともあれ、なにが起きているのかを知る必要がある。だが、それでも少将にとっては、いきなりのことだったようで軽く止められた。

「一足飛びだね。君は、今回の件が怪異であると確信した理由を、私に教えてくれないのかい?」

 ここは内侍所だ。最初に少将がここを訪ねてきた時と同じように、彼がいるだけで、目には見えない耳目が増えている状態だ。

「少将様、宮中には……というよりも貴方あなた様の周りには、目に見えぬ耳目がたくさんございます。うかつなことは口にできません。そこで、情報を三点、揃えていただきたいのです。それを聞けば、わたしには、それがいずれ落ち着くモノであるか否かがわかりますので」

 梓子は立てたちようの横から御簾の端近まで手を伸ばすと、指を順に折って、求めるものを指定した。

「ひとつに、始まりはどこか。ふたつに、こちらの怪異に遭われたと主張される方々が、どのような一晩を過ごされたのか。みっつ、お通い先はいずこか。この三点です」

 譲らぬ姿勢に、少将が折れた。扇の裏で一つため息をついてから、御簾の前から少しばかり身を引いた。

「私にはわからないが、君には君の理論があって、それに沿って判断を下すということだね。わかったよ。帝の勅は私自身にも下されている。私も勤めに励むとしよう」

 そこで話を区切って立ち上がった少将だったが、思い出したように御簾の中に尋ねてきた。

「ところで、小侍従殿。私がその三点を集めてくる間、どちらでなにを?」

 新たなお役目をいただいた以上、先に片付けるべきものがある。梓子は、しごく当たり前とばかりに、問いに応じた。

「もちろん、承香殿で写本作業の続きです。与えられたお仕事を、半端で放り出すことなど、わたしの信条に反しますから」

 なぜか、少将が扇の後ろで小さく笑う。

「……わかったよ。君が望むものをそろえて、承香殿にうかがうとしよう。締め切りが明日の朝なんだっけ? あとで、皆で分けられるから菓子くだものでも差し入れるから、頑張って」

 きっと、この人は、その容姿ばかりでなく、こうした心遣いこそが、女房たちに騒がれる要因なのだろう。

「ありがとうございます。きっと、皆さんお喜びになって、作業もますます勢いづくことでしょう」

 御簾の内側、几帳の裏で梓子は深々と頭を下げた。

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