二-2
「なぜ、目立ちたくないと? 主上の勅に従う姿で注目されることは、悪いことではないと思うけど?」
右近少将という人物は、基本的にいい噂しか流されたことがないのかもしれない。実績がどうであれ、悪意があれば悪い噂を流されるのが、後宮である。そこに、臣民としての頑張りなど考慮されないのだ。
「いえ、絶対に悪い噂になりますよ。……右近少将様といえば、数々の華々しい噂が宮中を飛び交う御方。そんな少将様とご一緒にお仕事するとなれば、もうこれ以上なく目立ちますし、様々な思惑から悪い噂を流されまくるに決まっています。わたしは地味でいいのです。宮中で名の知れた女官になるといった大望は、これっぽっちも抱いてはおりません。宮中で粛々と働き、それなりの歳になったら出家するというごくごく平凡で普通の生き方ができればそれで十分です……」
梓子の当世貴族女子にありがちな人生設計を、少将は話半分に聞いている。
「華々しい噂ね。女性の
典侍が『女性関係の噂にまみれた』と言った人物が出家?
「少将様が出家ですか? ……すみません、本当に世の噂に疎い身で、宮仕え後の最近の噂はともかく、二年前ですと宮中の方々のお噂が聞こえてくる場所にもおりませんでしたので」
母を亡くした梓子は、乳母の実家である屋敷の奥で、世間から隠れるようにして暮らしていた。より具体的には、実父とその北の方から隠れていた。そのため、長く屋敷の外との交流がなかったのだ。
何かとがめられるかと思えば、御簾の向こう側で少将が少し扇を開き、小さなため息をついた。
「そうか、もうあの話はなかったことになっているのか。宮中は次から次へと新しい噂が流れてくるから、埋もれてしまったんだろうね」
涼やかな声に鋭さが加わる。梓子は思わず身を硬くした。それを察してか、御簾の向こう側の気配がまたやわらかなものに戻る。
「まあ、とにかく二年ほど前に、私は志を同じくする親友とともに仏門に入ろうとした身だ。宮中を流れる華々しい噂に見合う実などないよ。……ここにいるのは、
「それは、出家を許されなかったということで合っていますか?」
梓子の指摘に、御簾越しでもわかるように、少将が大きめに
「半分は合っているよ。離京の翌朝には、養父である左大臣様が寺までいらしてね。都に帰ることになったんだ。おそらくあの寺史上最速の還俗じゃないかな……。もっとも、お
俗世に引き止められたのは、自身ではない。それは、俗世を捨てると決めた身であっても、
「帰京して、主上が落ち着くまでの間、ずっと出家を思いとどまるように説得したんだ。出家を志して寺の門をくぐった身で、出家は良くないと説く羽目になってしまった……」
軽い笑い話の口調で終わらせようとする語尾が、空笑いに
「ずっと……ですか?」
早く話を終わらせるつもりだったのに、つい、問い掛けていた。
「そう、ずっと。あげく、出家しないように説得しすぎて、私自身も出家する気が
なんて表情豊かな声だろうか。少将の当時の虚しさも、今はそれを苦笑い浮かべて話せるくらいになったのもわかる。
「こ、こう言っていいのか解りませんが、少将様はお戻りになりましたし、主上は出家をお取りやめになられたわけですから、左大臣様の一人勝ちではないかと……」
絞り出せたのは、彼が望むように軽い話に持っていくための言葉だけだった。
「いや、君は、ちゃんと解っているよ。まさに、そういうこと。すべて、お養父上の望まれる形で落ち着いた。さすが、当代最高位の政治家のなさることは違う」
今上の
「あの……ご一緒にいらしたご親友の方は?」
「彼も、お養父上と一緒にいらした彼の父親に説得されたけど、そのまま寺に残った。今も修行僧をやっているよ。そもそも彼が出家を望んだのは父親との確執なんでね。その本人が説得に来てもねぇ」
それは、親友の判断の正しさを擁護しているというより、出家の意志を貫いたことを少し
「まあ、昔話はここまでだよ。いまの話をしよう。……ともかく、君が不安になるようなことはないよ。私との間にどんな噂が流れようとも、実がなければ、早々にほかの噂に埋もれていくからね」
手にした扇を閉じて、梓子の返答を待つ少将に、梓子もまた御簾越しであってもわかりやすいように大きく頷いて見せた。
「なるほど、理解しました。少将様は、一度は俗世をお捨てになった身なので、すでにお噂の実となるような情欲は枯れていらっしゃるということですね!」
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