一-2

  声掛けなしに御簾を上げて入ってきた女房が、白い顔をさらに白くして叫ぶので、全員の筆が止まる。

 中納言は、大納言と同じく太政官で、大納言に次ぐ重責にあり、現在は正員三名と員外の権中納言二名で構成されている。この下のさんまで含めてぎよう、あるいはかんだちと呼ばれ、帝の御前にこうするわけだが、その権中納言が内裏に来ていないらしい。

「噓でしょう? 東宮様の作文会に中納言様がいないなんて、誰が進行役をやるのよ、紙の用意だって確認したいのに!」

 作文会は、出された句題に沿って漢文詩を作り、その優劣を競う会だ。きんじようのみかどは、これに力を入れていて、宮中でも頻繁に催されている。問題の会が開かれる梨壺は、正式名をしようようしやと言い、東宮の御在所である。

「……ならば、しよどころへ」

 できるだけ自分から話し掛けることはしないように典侍から言われているが、ここは致し方ない。自分以外の人と会話が成立しているなら、常の人であると思って間違いないだろうし、なにより、筆を止める時間が惜しまれる。

「…………は?」

 梓子の存在に初めて気づいたらしく、を上げて入ってきた女房は、慌てて御簾を下げた。外から見えないように気遣ってくれたようだ。その礼を兼ねて、梓子はようやく慣れてきたお仕事用の笑みを浮かべた。

「本日は、御書所でも作文会が行われると聞いております。出席される方はほぼ変わらないはず。それでしたら、そちらで進行役をされる方にお願いするのがよろしいかと」

 帝が力を入れているので、皇族、上級貴族もそれに倣い作文会を積極的に開催していた。そのため、同日に複数会場で行われることもある。なにせ、行事の多い宮中で、殿上人が集まれる日は非常に限られているから、私的な集まりは日が重なりがちだ。

「御書所ね、行ってくるわ。ありがとう」

 再び御簾を上げて女房が出ていく。本当に急いでいるのだ。簀子を進む衣擦れの音がやたら早くせわしげだ。よもや、立って小走りしているのではあるまいか。

「ねえ、権中納言様といえば、最近お通いの方がいるって噂があったわよね。まさか、参内されていらっしゃらないのは、寝過ごされたのかしら。……それとも……」

 そんな声に、視線を御簾から奥の文机に移す。

「ああ、例のなかなか夜が明けなかったっていう話?」

 正確には『一晩のはずが三日三晩経っていた』というものだ。内侍所で、梓子が典侍と話していた件である。予想通り、続いてしまったようだ。

「……となると、やはり」

 ごく小さくつぶやいたつもりだった。だが、すぐ背後の御簾越しに、問う声がした。

「なにが『やはり』なのかな?」

 驚きすぎて、文机ごと御簾の前から下がった。

「な、なによ、小侍従殿? なにかいるの?」

 ほかの女房たちも梓子を真似て文机ごと御簾から離れる。どうやら、悪い噂もちゃんと耳には入っていたらしい。

「大丈夫です。……常の人……、生きている人間のようです。たぶんですけど」

「たぶんじゃなくても、ちゃんと生きている人間だよ。……うん、その声だ、間違いない。捜したよ、小侍従殿。宮仕えを始めて、まだ日が浅いのかな。手が足りないところに入っている段階なんだね、いくら内侍所周辺でその声を捜してもいないはずだ」

 穏やかな声が、さらに御簾の際まで近づいてくる。

「……どちら様でしょうか?」

 こちらこそ、その声に聞き覚えがある。だが、その声の主に捜される理由に身に覚えがない。きっと人違いだ。

「私は右近少将を拝命しているみなもとのみつかげと申す。……君と同じく、なにかと噂される身だ。聞いたことぐらいはあるでしょう?」 

 ほかの文机がガタガタと音を立てて、御簾ににじり寄る。三人の女房がこちらを見ている。急ぎの写本作業が吹っ飛んだような期待のまなざしだ。人違いでお帰りいただく雰囲気ではなくなってしまった。だが、梓子に期待の圧を掛けずとも、そもそも相手が去ってくれそうにない。御簾越しなのに、逃がすまいとする圧で、肌がピリピリするのを感じるほどだ。

「……その右近少将様が、どういった御用件で?」

「君も『一晩のはずが三日三晩経っていた』って噂を知っているんだよね?」

 もしや、あの時の典侍との会話が聞こえていたというのか。では、チラッと見ていたことも気づかれたのだろうか。梓子は、再び文机を御簾から離しつつ、これに応じた。

「さあ……? なにぶん噂というものに疎い性分でして。どなたかと勘違いなさっておいでなのではありませんか?」

「私の耳は特別にできていて、誰の声でも聞き分けることが出来る、という噂も知らないかい? 御簾越しであっても、一度聞いた君の声を間違えたりはしないよ。内侍所で典侍様と話していたのは、君だよ」

 たしかに、右近少将が聞き分けの特技をお持ちだという噂を聞いたことがある。だが、それこそ根も葉もない噂だと思っていたのだ。そんな耳、もう常の人のものとは言えないだろうに。

 梓子の沈黙に、相手は確信を深めたようだ。

「さあ、答えてもらおうか。君はなぜ、『これは続く』と言ったんだい?」

 噂通りの優しく穏やかな気性を表すやわらかな声色で、梓子にそう尋ねてくる。ほかの女房たちは、文机の端を握り、せいをあげたいのを必死にこらえていた。なのに、梓子は恐怖に引きつった表情で、悲鳴をあげたいのに耐えて文机の端を握るよりない。

「お、お話ししますから、少し御簾からお下がりください……」

 今、この宮中で、この人から逃げたいと、これほど強く思っている女房は自分以外には居ないのではないだろうか。

「でも、まずは、上の方のご許可をいただきたいと思います」

 こんな状況になるなら、この殿舎に出るモノに声を掛けて、また異動になるほうが、まだマシだったかもしれない。並のモノより、よっぽど『怖い』ではないか。そう考えると、やはり噂は根も葉もないものなのかもしれない。

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