一-1


■ 一 ■


 承香殿へ向かう梓子の足取りは重い。簀子を進む衣擦れの音も重い。

「せめて、写本作業が終わるまでは勤めさせてほしいなぁ」

 噂に根も葉もあるのなら、やはり異動先の承香殿はモノが出るかもしれない。そう思うと、ため息のひとつも出るというものだ。

 モノとは、怪異を起こしているかもしれないナニカのことで、物ののようにハッキリとは認識されない、ごくあいまいな存在の総称だ。

 今回の『一晩のはずが三日三晩経っていた』のように、事象として存在するだけで、具体的にに化かされたとか、何某なにがしおんりようたたりといった姿形や名前を持たない怪異は、モノにあたる。怪異としては、ごく初期段階の状態と言える。

 梓子は、ごく幼いころからこのモノが視えていた。物の怪ほどハッキリとした存在になると声を聞くこともできる。言葉を発することができる物の怪とは会話も可能だ。だが、ここに、大きな問題がある。梓子の目は、常の人と人の姿をした物の怪の見分けがつかない。ついうっかり、ほかの人には視えていない存在と、廊下ですれ違う際にあいさつを交わしてしまうこともあるのだ。

「どうか、最初に話しかける相手が、常の人でありますように……」

 異動するたびに増えていく梓子の怪しき噂の数々も、全部が全部根も葉もない噂ではないということだ。

 もっとも、常の人は常の人で、モノとは別方向で怖い存在でもある。

 宮仕えする者のほとんどは、自らも仕えられる立場にある。というのも、宮仕えの女房もその多くが、貴族の妻、あるいは娘であり、じようろう・中﨟・下﨟の違いはあれども、自身も貴族層に数えられ、自邸に女房を抱える身だからだ。ただ、時に兄弟にも顔を見せない貴族女子が、男性の前に顔を出す女房になるというのは、あまり良く言われないことではあった。

 それでも宮仕えには、屋敷の奥にこもっているだけでは到底お近づきにはなれない上流貴族とのいの機会がある。究極の幸運を得たならば、みかどしんのうちようあいを賜ることもまれとはいえ皆無ではない。もっとも、出逢いばかりが宮仕えの目的ではない。仕えるあるじを介して、親兄弟の出世を、あるいは、すでに夫のある身であれば、夫の出世を願うこともある。また、屋敷で日々を過ごすだけでは決して得られることのない知識、教養を身につけ、多くの人々との交流もかなう、自己けんさんの場とする者もいる。

 それらの目的をひとくくりにすれば、同じ宮仕えの女房という職に就いていることは、共に働く同僚であると同時に、野心をぶつけ合う間柄でもあるといえる。

 したがって、新人女房に、仕える場での立ち位置の確認をさせることは、ひつの通過儀礼となっており、そこらへんを漂うだけのモノより、生きている人間のほうがはるかに怖いと実感させられることでもあった。

貴女あなたが、噂の小侍従殿かしら?」

 承香殿の南に面した簀子からみなみびさしに入ったところで、歓迎の雰囲気など皆無の、冷たい声がすいする。噂の……とは、声の感じからいくと、よくない噂なのだろう。

「写本のお仕事を賜り、本日よりこちらに参りました小侍従にございます」

 一礼してから顔を上げると、女房装束の女性が三人、それぞれのづくえの前で筆を握ったままこちらをにらんでいる。

「典侍様のしんせきだとか? 筆が正確で速いと噂に聞いているわ、期待しているわよ」

 予想外に、数少ない梓子のいい噂のほうを口にされた。それでいて、これだけ冷たい声となると、これは相当の修羅場状態にあると考えていいだろう。

「尽力いたします」

 それでは……とばかりに空いている文机の前に座り、つぼねに戻って持参してきたすずりばこを取り出す。

「かげろふの日記でございますか……」

 大臣にまで昇られたある御方の、数多い妻の御一人が書かれた日記だ。ものすごく大雑把に要約すると、夫婦生活における夫への不満と、ほかの女性へのしつ、子育ての悩み、やがてはていねんに至って、周囲を冷静に観察するようになる……というところか。

「任地へ下向する夫とともにたんへ向かう女房の送り出しに、こちらの写しを贈ると女御様がおっしゃって……。ただ、急に決まった出立だから、なにを贈るかお決めになったのも昨日のこと。作品として、長くはないけど短くもないから、手が足りなくて、典侍様に手伝いの派遣をお願いしたの。小侍従殿は、ここからここまでをお願いね!」

 人に贈るのに適した内容なのか疑問に思わなくもないが、近い机の女房の勢いに押されて、梓子は担当箇所を聞くとすぐに持参した筆を取り出し、作業に入った。

 黙々と作業すること体感ですうこく。梓子からすると、今回の写本作業は、ありがたい仕事だった。ひたすら写本作業をしている状態なので、常の人ならざるモノと擦れ違うこともうっかり声を掛けてしまうこともない。

 これは、円満に作業完了までいけるのではないか。そう期待したのが悪かったのか、すのを慌ただしく進むきぬれの音が近づいてきて、間近で止まった。

「大変! なしつぼの作文会が始まるっていうのに、権中納言様が参内されていないって!」

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