一-1
■ 一 ■
承香殿へ向かう梓子の足取りは重い。簀子を進む衣擦れの音も重い。
「せめて、写本作業が終わるまでは勤めさせてほしいなぁ」
噂に根も葉もあるのなら、やはり異動先の承香殿はモノが出るかもしれない。そう思うと、ため息のひとつも出るというものだ。
モノとは、怪異を起こしているかもしれないナニカのことで、物の
今回の『一晩のはずが三日三晩経っていた』のように、事象として存在するだけで、具体的に
梓子は、ごく幼いころからこのモノが視えていた。物の怪ほどハッキリとした存在になると声を聞くこともできる。言葉を発することができる物の怪とは会話も可能だ。だが、ここに、大きな問題がある。梓子の目は、常の人と人の姿をした物の怪の見分けがつかない。ついうっかり、ほかの人には視えていない存在と、廊下ですれ違う際に
「どうか、最初に話しかける相手が、常の人でありますように……」
異動するたびに増えていく梓子の怪しき噂の数々も、全部が全部根も葉もない噂ではないということだ。
もっとも、常の人は常の人で、モノとは別方向で怖い存在でもある。
宮仕えする者のほとんどは、自らも仕えられる立場にある。というのも、宮仕えの女房もその多くが、貴族の妻、あるいは娘であり、
それでも宮仕えには、屋敷の奥に
それらの目的をひとくくりにすれば、同じ宮仕えの女房という職に就いていることは、共に働く同僚であると同時に、野心をぶつけ合う間柄でもあるといえる。
したがって、新人女房に、仕える場での立ち位置の確認をさせることは、
「
承香殿の南に面した簀子から
「写本のお仕事を賜り、本日よりこちらに参りました小侍従にございます」
一礼してから顔を上げると、女房装束の女性が三人、それぞれの
「典侍様の
予想外に、数少ない梓子のいい噂のほうを口にされた。それでいて、これだけ冷たい声となると、これは相当の修羅場状態にあると考えていいだろう。
「尽力いたします」
それでは……とばかりに空いている文机の前に座り、
「かげろふの日記でございますか……」
大臣にまで昇られたある御方の、数多い妻の御一人が書かれた日記だ。ものすごく大雑把に要約すると、夫婦生活における夫への不満と、ほかの女性への
「任地へ下向する夫とともに
人に贈るのに適した内容なのか疑問に思わなくもないが、近い机の女房の勢いに押されて、梓子は担当箇所を聞くとすぐに持参した筆を取り出し、作業に入った。
黙々と作業すること体感で
これは、円満に作業完了までいけるのではないか。そう期待したのが悪かったのか、
「大変!
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