序-2

「そうでした。……小侍従殿、実は、私も最近噂の人になりました。小侍従殿が頻繁に異動するのは、私が内部調査をさせているからだ、と。……貴女様を私の子飼いのように言われるなんて、本当に噂なんてものは根も葉もないことばかり。きっと、承香殿に出るという噂も……」

 自身に言い聞かせているようにつぶやく典侍をなだめようと、梓子は、そっとささやく。

「噂のすべてに、根も葉もないとは言えません。ここに来る前に、殿でんのあたりで、ごんのだいごん様のお姿をお見かけいたしました。例の件で、弘徽殿のによう様に、主上へのとりなしをお願いにいらしたのだと思われますが……。あの方の噂、本当かもしれません」

 大納言は、まつりごとを担うじようかんの中でも大臣に次ぐ地位にある。現行制度での正員は二名と定められているが、員外の大納言として権大納言が置かれ、現在は二名の権大納言がいる。員外とはいえ、職掌は大納言と同じく、帝の御前に仕え、政務を勤める重役だ。

 先ごろ、この二名いる権大納言の一人がせちに遅刻するという大失態を演じた。

 節会とは、帝が臨席される公的な宴会のことをいう。くだんの権大納言は、この節会でしようけいに指名されていた。上卿とは宮中の諸行事での執行責任者として指名された人物であり、そのような立場での遅刻は大失態と言える。

 これにより、権大納言には、上の方々のお𠮟りに加え、自邸での謹慎処分が下っていた。その謹慎期間が終わり、ようやく本日から参内しているわけだが……。

「権大納言様の噂というと、例の……」

 そこで言葉を止め、聞こえてくるきぬれの音に、二人で耳を傾けた。ほどなくして、典侍に声が掛けられた。

「典侍様、失礼します。右近少将様が典侍様にご相談したいことがあるといらしておいでですが」

 声を掛けられ背筋を正した典侍が、れいで有能な内侍所の次官の顔になる。

「右近少将殿が? ……主上の御用命かしら?」

 どうやら、さきほど噂されていた人物が内侍所にいらしているようだ。そうなると御簾の中の女房たちも一緒に戻ってきてしまったのだろうか。

「先日の節会で、上卿の指名を受けた権大納言様が遅刻なさった件で、とのことです」

 曹司とすのを隔てる御簾の外から尋ねる女房の声は、上擦っていた。噂の右近少将の取次ぎに、やや興奮気味という感じだ。

 こちらとしては、ちょうど話していた件で、梓子は典侍と意味ありげな視線を交わしてしまう。

「……例の『一晩のはずが三日三晩経っていた』などと言い訳なさった件ですね。わかりました、少将殿をお通ししてください」

 の外に許可の返答をして、典侍が梓子のほうを見る。梓子はそれにうなずいた。

「やはり、その話を典侍様も耳にしていらっしゃいましたか」

 権大納言は、当初、節会遅刻の理由を『一晩のはずが三日三晩経っていた』と主張したのだ。これを耳にした上の方々が、言い訳にしても、もう少しましな話はなかったのかとあきれ、謹慎処分やむなしと判断したわけだが、ここにきて、ほかにも同じ話をしていた人物がいたという噂が出てきたのだ。

 おかしな事象が続いているのであれば、それは怪異のたぐいではないかという話になってくる。

「……これは、おそらくまだ続きます。行事関連の確認は、いつもよりこまめに行って、連絡がつかない方が出た場合に備え、代わりになる方を、あらかじめ決めておいていただいたほうがよろしいかと存じます」

 典侍がまゆを寄せる。

「……そうおっしゃるということは、やはりそちら関係ですか。貴女様がおっしゃるのなら、その予感は本当になるでしょう。ご忠告、心に留めておきます。少将殿のご相談というのも、おそらくは、女房たちの間で同じような話が出ていないかを知りたいということでしょう。さあ、小侍従殿、少将殿がおいでになるそうですから、急ぎお戻りを。……どうか、承香殿での仕事、くれぐれもお気を付けくださいね」

 促されて、梓子はぞうを下がる。

「はい。典侍様もお気をつけて」

 鉢合わせを避けて、入ってきた簀子とは違う方向の御簾から出ようとしたところで背後から、典侍に挨拶の言葉を掛ける男性の声がした。

「お久しゅうございます、典侍様。どなたかとお話中のようでしたが、大丈夫ですか?」

 この声の主が、右近少将だろうか。

 ほんの少しの興味から、梓子はそっと振り返った。

 声の主は、けんえいのかんけつてきのほう、武官の出仕時の衣装をまとっていた。やはり噂の右近少将のようだ。

 端整なようぼう、わずかに伏せた目の色香、やわらかに閉じられた薄い唇に浮かぶ品の良い笑み。物語の女君たちを惑わせるぼうの貴公子というのが、実在しようとは……。なるほど、たしかに『輝く少将』である。これは宮中の女房たちがこぞってその噂で盛り上がるのも無理はない。宮仕えから半年、噂をあまり耳に入れないようにしている梓子でさえ、右近少将との仲を噂される女性の名をたくさん聞いている。常にやや寝不足の気だるげな様子が、通う相手の多さの証左だとされ、つやめいた噂に事欠かない方ではあるが、梓子は話半分ぐらいに聞いていた。だが、これは華々しい噂にも納得がいくと言わざるを得ない。

 噂も時には、根も葉もあるものだと納得して、梓子は内侍所を離れた。

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