宮中は噂のたえない職場にて

天城智尋/角川文庫 キャラクター文芸

壱話 あかずや

序-1

■ 序 ■


 の内から、噂話に興じる女房たちのひそやかな声が、あずさの耳に入ってくる。

「まあ、廊下を行くのは、例の……あやしの君ではないですか? あの方でも昼にお姿を見せるのね。お珍しいこと」

「あら、ダメよ。じゆう殿とお呼びしないと。どうも典侍ないしのすけ様がお召しらしいわ」

 宮仕え名物、聞こえるようにヒソヒソ話である。これでおくして足が止まるのは新人女房だけだ。宮仕えも三カ月を超えたあたりから、なんかもうひるむ気はしなくなった。

「じゃあ、またご異動かしら? 後宮にいらして半年も経つというのに、まだ仕える方が定まっていらっしゃらないなんて。お若くもないのに、落ち着かないこと……」

 宮仕えを始めるのに二十歳は、たしかに若くない。だが、子を産み育ててから、夫の出世に伴って宮仕えを始めた者だってそれなりにいる。二十歳が遅すぎるということはないはずだ。ただし、梓子の場合、子を産む予定はおろか、婿を迎える予定もないわけだが。

 紫と白を中心にして配色した冬色の女房装束で先を急いでいるつもりだが、忍び笑いはまだ耳に入ってくる。うつから進みが遅くなっているのだろうか、そんなことを思っていると、突如御簾の中で声が上がった。

こんのしようしよう様がさんだいされているそうよ! 後宮にもいらっしゃるかもって話が……」

「うそ、輝く少将様が、こちらに! どちらの殿舎にいらっしゃるのかしら?」

 一瞬にして、御簾の中の気配が遠くなる。なにごとだろうか。噂話にも止まらなかった足が思わず止まる。

「おや、小侍従殿、そのようなところでどうなさいました? なにやら騒がしいようですが、また口さがない者たちがなにか妙な噂を……」

 ぼうぜんとしていた背に声がかかった。振り向けば年配の女性が心配そうな表情で立っていた。

「典侍様。……いえ、なにやら右近少将様がいらしたとかで、皆さんどこかに行ってしまわれたようです」

 典侍は、みかどに近侍し、身辺の世話をするないどころに所属する女房の一人である。長官である尚侍ないしのかみは、最近ではすっかり后妃に準ずる扱いなので、本来は次官である典侍が実務を仕切っている。

 その実質的な宮中女官のまとめ役である典侍が、目の前の年配の女性だった。

「ああ、右近少将殿が参内されたのですね。……では、姫様、こちらへ」

 手招かれるままに御簾を上げてぞうに入ると、声を潜めて典侍に詰め寄った。

「典侍様、宮中では『姫様』はやめようって……」

「そ、そうでした。ほかの者がいないと聞いて、つい。……先ほどまで(ほぼ現在の岐阜県)から届いた手紙を読んでおりましたので、よけいに。姉も貴女あなた様のことを心配しておりました」

「わたしにもおおからの文が届きました。できれば、大江が安心できる内容の返信を書きたいところですが……。典侍様のお召しということは、そうはならなそうですね」

 梓子は、いまは美濃に居る乳母めのとを想い、ため息をついた。

 これに、典侍はせきばらい一つして腰を下ろすと、梓子のほうをまっすぐに見た。

「小侍従殿。お呼びした用件はひとつにございます。本日よりしようきよう殿でんにて、写本作業の手伝いに入ってください」

 先ほど御簾の内で噂されていたとおりだったようだ。

「……やはり、また異動ですか。今回の仕事は滞りなく勤めていたつもりでしたが……。いったい、何が問題だったのでしょうか、典侍様?」

 まだ幼いうちに母を亡くした梓子を、(女子の成人儀礼)を済ませた後も長く養育してくれたのが、典侍の姉であり乳母の大江だった。彼女は、半年ほど前に三人目の夫の任地下向に付き従って都を離れることになった。その際に、都に残る梓子がちゃんと生活していけるように、妹の典侍に頼んで、宮仕えの道を開いてくれたのだ。

 だが、宮仕えを始めて半年経っても、いまだ梓子は、決まったあるじに仕えているわけではなく、人手の足りないところにその都度送り込まれる不安定な身である。

 昨日までは、かつては殿とのもづかさで担当していた、夜の後宮で各殿舎を回ってとうろうに火をともす仕事に従事していた。后妃やとうぐうにお仕えするのとは異なり、地味に黙々と仕事を行うのが梓子の性に合っていただけに、今回の異動は、とても残念だ。

「問題ありまくりです。人影もない廊下で誰かと擦れ違ったかのようにあいさつをしたり、どなたもいないはずの部屋に声をかけて入っていき、火を灯したり……。『小侍従殿と組んで作業を行うのは、もう無理です』と懇願されました。どうか殿舎を歩き回る仕事は、今後なさらないでください。あと、ご自身から話し掛けるのもなしです。しばらくは、言葉が少なくて済む、記録を取る仕事や写本作業でいきましょう。それで、さっそくですが、承香殿にて急ぎの写本作業をお願いしたいとのお話をいただきましたので、小侍従殿に行っていただこうと思います」

 梓子は少し考えて、再び声を潜めて典侍に問う。

「あの……、典侍様、本当にそれで大丈夫でしょうか? 承香殿、……出るので有名な寿じゆう殿でんが近いせいか、けっこう出るという噂が」

 これに、典侍が短い悲鳴を上げる。いや、恐怖の悲鳴でなく嘆きの叫びだった。

「またですか? この宮中には、貴女様がなにごともなくお過ごしになれる場所はないのですか? 私とて、姉上に言われるまでもなく梓姫様には、ひとところに落ち着いていただきたいのです。そして、姫様の出自に相応ふさわしいきんだちを婿にお迎えいただきたい。そう切実に願っておりますのに!」

「お、落ち着きましょう、典侍様。その『梓姫』は、誰かに聞かれるとマズいので」

 指摘に慌てたのか、落ち着こうとしたのか、典侍が近くのきようそくを引き寄せて伏せた。

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