道は鉄に潰れる

九嶋

道は鉄に潰れる


「なんで言う通りにできないの!」

 俺の家は昔からピアノの音と怒声が絶えない。

 数百万円以上でお買い上げしたらしいグランドピアノの音の残響を、母親のヒステリックな声が掻き消してしまう。

 あーあ、もったいない。せっかくいい感じに弾けてたのにね。

 黒々と光るピアノの前には細い背中を丸くして怯えるように鍵盤をなぞる弟。その隣には目尻を吊り上げて楽譜を床に叩きつけて喚く女がいた。これの腹から俺とあの子が生まれたんだから、人間という存在はあまりに神秘で不可思議だ。

「母さん」

 俺が足で防音室の扉を蹴るように少しだけ押し開けその隙間から宥める声を出すと、彼女は釣り上げた目尻のまま俺を睨みつけた

「あんたは入ってこないで!」

 懲りずに鼓膜にキンと突き刺すような叫び声をあげるから、弟は細い肩をきゅっと縮こませた。この子はいつまで経っても素直に怯えてしまう。

 繊細な心は、感受するスイッチをオフにする方法を知ることができない。

「入ってないよ。開けただけじゃん」

 そう返せば彼女は俺を拒絶してそのまま俺が少し開けた扉をガチャンと大きな音を立ててまた閉じてしまった。ドアの覗き窓から、恨めしそうに俺を振り返る弟が見える。

 ごめんね、と肩をすくめて見せれば弟はまた肩を小さくしてピアノに向き合った。

 再びピアノが鳴る。綺麗な三連符にトリル、レガート。実に譜面に誠実な旋律。

 ただ譜面を再現するような音は、我が愛しい弟ながらあくびが出てしまう。

 コン・フォーコ、火のように激しく。

 アパッシオナート、熱情的に。

 それからフォルテ。少しずつクレッシェンドしてフォルテッシモ、フォルテッシモ。さらに、さらに強く!

 殴るように奏でられる懸命な音は、グランドピアノ全体を鳴らせていない。

 小さな子供が一生懸命大人の手を引くような、微笑ましくなってしまうような間抜けな音だ。

「違う!」

 また悲鳴が上がる。それから乾いた音。またあいつ、弟のこと殴りやがった。

 俺は助けてあげられないから、そのまま防音室のドアのそばにしゃがみ込んだ。

 しばらく繰り返し同じフォルテッシモのフレーズが繰り返される。体に覚え込ませたって無駄なのはあの女が一番よく知っている。なんせ早々に彼の才能に見切りをつけたのも彼女だ。どんなに繰り返し繰り返し指に馴染ませたところで、弟は自動再生機としての精度を上げるだけで、演奏者としての魅力が開くわけじゃない。

 わかってるのに、やめられない。

 彼女だって苦しんでいる。自らその痛ましい渦に身を投じて悲劇のヒロイン振るのがお好みだから。

 それから数時間、俺はずっと泣きそうになっている弟の音を聞いていた。

 壁に預けた背中がすっかり痺れてきた頃、ようやく音が止んで扉が開いた。先に出てきたのはあの女だ。どうやらあのフォルテッシモのフレーズを百回弾き終えるまで、弟はこの部屋を出てはいけないらしい。

 床にしゃがみ込む俺に気づいた女は舌打ちして顔を歪めた。

「邪魔する気?」

「しないよ。見守ってるだけ」

 首を横に振れば、女は苛立たしげに足音を鳴らしながら廊下の奥へ消えていった。

 じっとりと重たい沈黙がいくらか経ってから、また旋律が再開される。

 何度聞いても正確だ。再現率なら百パーセント。

 これもまた技術で才能。ただし評価はされない。

 打ち込みによる楽器演奏はとっくのように当たり前になってしまって、繰り返し素晴らしい演奏を聞ける録音機器はまるで生演奏のような精密さを持っている。

 つまり、弟の弾く音はもうありふれた凡庸なるものなのだ。

 律儀に百回同じフレーズを繰り返し弾いた弟の音が終わった。

 ガラス窓から覗くと、弟もこちらを見ていた。彼の口がにいちゃん、と俺を呼ぶ。

 ドアを開けて、と口パクで伝えれば、彼は雑巾を引きずるような足取りでドアを開けてくれた。壁を支えに立ち上がれば、弟は真っ黒な瞳で俺を見上げていた。

「頑張ったね」

 労えば心底嫌そうな顔をされる。それ、あの人にそっくりだからやめた方がいいよ。

「にいちゃん」

 弟はもう一度そう呼ぶと、俺の肩を掴んだ。そのまま引っ張られて、ピアノの前に座らされる。さっきまで長時間弟が座っていたそこにはまだ彼の体温が残っている。

「弾いて」

 彼の声は震えていた。

「にいちゃん、弾いて」

 そう繰り返した彼は俺の顔なんか少しも見れていない。ずっと俯いて、手なんかぶるぶる震えちゃって、今にも泣き喚いて崩れそうなほど体も震えている。

 俺は椅子に座り直して、足をペダルに置いた。目の前にある楽譜はあの日俺がコンサートで弾くはずだった曲。譜面なんか見なくても、指が勝手に覚えている。

 俺は腕を持ち上げた。瞬間、脳がぐらりと錯覚を起こす。

 指が鍵盤に触れている感覚があるのに、音が鳴らない。鍵盤も沈まない。

 なぜならそこにはそもそも、指がない。

「……ごめんなあ、にいちゃん、弾けなかったわ」

 そう言って笑って見せると、弟は唇をかみしめて、真っ青な顔で俺を見ていた。

 俺の両腕は、途中でぷつりと途切れている。

 右腕は、肘より少し下の辺りで。左腕は、二の腕の真ん中で。

どちらも先端はするりと窄まっていて、ぶよぶよと柔らかい。まだ付き合いの浅いそれをまじまじと見ると別の生物がくっついているように思う時もある。

 腕を持ち上げることはできる。ピアノを弾くときのように、背中がまっすぐになるように、ふわりと伸ばして──でも、その先が届くことはない。

「ごめんな」

 俺がもう一度そう繰り返せば、弟は自分の頭を抱え込みしゃがみこんだ。震えた体は泣いていた。俺はそれを抱きしめることもできなくて、ただ椅子に座ったままぼんやりと小さく縮こまった体を見つめる。

「ねえ、僕、どうしたらいいの?」

 弱々しい弟の声に俺は思わず笑みをこぼした。

 その言葉は、あの日俺がこいつに突きつけた言葉と同じだ。

「どうしようね」

 俺の言葉に、弟は絶望の表情で俺を見た。

 そうだ、こいつがほしい言葉はこれじゃない。

 あの日、弟が俺へ返してくれたあの言葉がほしいんだ。

 その夜は、大きなコンクールの前日だった。最終選考まで残った俺は優勝候補だのなんだのと持て囃されていた。それと同時に、立っているのやっとなくらいの恐怖と重圧に喘いでいた。上手に息ができなくて、見慣れた鍵盤の白と黒にすら視界が眩んだ。

 俺は怖かった。失敗すれば絶望される。だけど成功したって次の重圧が待っている。

 情けない俺は弟に縋った。

 天才の俺に比べられ続け、呆気なく見放された秀才の弟に。

 ──もうピアノなんか弾きたくない、助けてくれ、どうしたらいい?

 彼の目には、俺がどんなに間抜けに見えただろう。どんなに憎らしく見えただろう。

 そうして弟は俺に言った。

「腕がなくなったらいいんじゃない」

 彼の提案に、俺はまるで目が覚めたような感覚になった。

 そうだね、と俺は笑顔で頷いた。弟は目を丸くしていた。まさか肯定するとは思っていなかったのだろう。俺はそのまま跳ねるような足取りで家を飛び出し交通量の多い交差点へ向かい、歩道橋を駆け上がり、その上から身を落とした。

 腕を宙に突き出して、捧げるように倒れた。そして狙い通り、俺の腕は衝突してきたトラックと乗用車の間に挟まれ、捻り取られるように潰れた。

 世間は騒いだ。日本最大のピアノコンクールでの優勝候補が、本番前夜に自殺未遂を果たして、そしてピアニストの命とも言える腕も手も指も全て失ったのだから。

 そして心の闇だとかなんだとかで我が家は突き回された。事実、虐待じみた音楽教育がなされていたのだから、父も母も追い詰められた。

 父はそして本当に自殺して、母は心が壊れた。

 遺された弟はそんな母からの暴力性に日々晒されながら、動けないでいる。

 兄である俺の腕がなくなったのは、自分の責任だと思っているからだ。

 ぼろぼろの家の中にあるやけに立派な防音室とグランドピアノ。

 目の前には泣いている弟と笑っている俺、少し離れた部屋には今頃怒っている母親。

 リビングには口を持たなくなった父親の骨が眠ってる。

 この家はもう、何もかも調律が狂ってる。

「にいちゃん」

 弟はすがるようにもう一度俺を呼んだ。

 言っておくけど、俺はこいつに感謝してるんだ。

 だってピアノを弾かなくて済むようになったから。だけどね。

「ある程度指は使える方がいい。まるっとないと、結構不便だよ」

 俺のアドバイスに、弟はきょとんとした表情で俺を見上げた。

 そう、やっぱり手指っていうのは神様が作りたもうた精巧な芸術品で、かなり利便性の高い装置だったわけだ。それがなくなると、フラストレーションはやっぱりたまる。

 そう伝えると、弟はほころぶように微笑んだ。

「わかった」

 彼は今にもスキップし出しそうなほど楽しそうに部屋を出ていった。

 取り残されたのは、ぐちゃぐちゃに書き込みされた譜面と、グランドピアノと、俺。

 俺は前傾しながら中途半端な短い腕を伸ばして、鍵盤を鳴らした。

 太くて柔らかいせいで濁った浅い不協和音しか鳴らせない。

 でもその音は俺によく似合ってる。

 いくつか不協和音を鳴らして遊んでいるうちに、母親の悲鳴が響き渡った。

 これはフォルテだ。強く。強く。強く。

 喚き散らすような、言葉になっていない声が鳴る。

 アジダート、苛立つように!

 何かのものがぶつかる音、砕ける音。

 フェローチェ、荒々しく!

「なんであんたまで!」

 悲鳴。いい悲壮感だね。

 ラメンタービレ、哀れに。

「どうして、どうして、どうして、どうして!!」

 叫び声は止まらない。

 ダ・カーポ。頭から、繰り返し、繰り返し、繰り返し。

 演奏会場まで辿り着くと、そこにはなるほど、悲鳴を上げたくなる光景があった。

 弟は、高音に熱されたアイロンに指を押し付けていたらしい。皮肉にも、弟が明日出場するはずだった大会で着る予定だった白いワイシャツにかけていた、そのもので。

 母親から強奪して自分の指を焼くその光景は、きっと愉快だっただろう。

 俺は静かに笑った。弟は痛みと高揚が抑えられないのか、口をぱくぱくと開閉しながら荒い息をしていた。母は泣き喚いて、ぐちゃぐちゃになった顔で叫んで、それから弟を何度も殴りつけていた。

「にいちゃん、これくらいならいいかなあ?」

 そう言って弟が俺に披露してくれた真っ赤に爛れた指は皮膚が捲れていて痛そうだ。

 俺はその痛みを想像してちょっと顔をしかめながら頷いた。

「うん、ちょうどいい塩梅だと思うよ」

 その言葉に弟は嬉しそうに笑った。ああ、そんな笑顔は数年ぶりにみたな。

「ねえ、出かけよっか」

 ちょうど外は雨が降っている。焦げた指を冷やすにはちょうどいい。

 俺は手を差し出すように腕を動かしてから、そういえばもうないんだったと笑った。

 弟はそれでも、真っ赤な指で俺の腕が収まるべきだった袖の部分を掴んだ。

 不思議なもので、そこに肉や骨がなくとも弟の熱い体温を感じられる。

「どこまで歩く?」

 俺たちはいつも音に追われていたから。たまには雨音や雑踏を追いかけてみよう。

「アンダンテのリズムで、どこまでも」

 弟はそういうと引き攣った指で宙の鍵盤を叩いた。

 ド、ド、ソ、ソ、ラ、ラ、ソ、ソ。

 きらきらひかる星もない夜空と明日だ。だけど俺たちは確かに道から降りた。

 それのなんと、息のしやすいことよ!

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