4.火の降る島と水の国

23.出発

 窓を開けると薄群青色の光が仄かに射し込み、朝の空気がつんと鼻腔を刺した。

 大きく伸びをする。肩や背中に滞っていたものがめりめりと音を立てて流れ出し、徐々に体が温まってきた。

 よし、と口の中で呟く。

 寝台を整え、姫の部屋へ向かう。


 昨夜は結局、花園に誘ってくれた理由を聞くことはなかった。

 姫が最後に話していたことも殆ど聞き取れなかったし、その後は深い眠りに入ってしまったので、そのまま荷車に姫を乗せて塔に戻ったのだ。


 胸に手を当てる。

 服の下にある硬い感触を意識する。

 姫から貰った花園の鍵は、紐を通して首から下げられるようにした。紛失するのが怖いし、こうしておけば常に姫を感じ、無事を祈ることができるからだ。


 鍵の感触が、抑えていた想いを呼び覚ます。

 首を大きく振り、階段を上る。




 姫の部屋の入り口で声を掛けたが、やはり返事はなかった。

 少し大きな声で呼んでも返事はない。昨夜、相当疲弊してしまったのだろう。

 俺は戸の前で深く頭を下げた。


「イスー様、行ってまいります。ひと月の間、どうかご無理はなさいませんよう。ばあやの作った粥は俺のより美味しいと思いますので、たくさん召し上がってください」


 話しかけても聞こえていないことはわかっている。それでも俺は延々と「生活上の注意事項」みたいなことを並べ立てた。

 溢れそうな想いから目を背けるように。


 言葉が途切れる。

 膝を折って座り、手を床につける。


「イスー様。必ず、火焔の実を持って帰ってまいります」


 指先が震えている。


「理不尽な呪いを祓い、イスー様が再びあの太陽のような笑顔を取り戻せるように」


 胸の中に想いが溢れて苦しくなる。

 だめだ、抑えきれない。

 言ったら最後だ。絶対に言ってはならぬ。だから秘め続けていたのに。

 でも。


「イスー様」


 今なら誰も聞いていない。誰にも知られることはない。

 だから。


 顔を上げる。


「お慕い申し上げております」


 十五年の間、胸の中に抑え込んでいた言葉が、声になって朝の空気に溶ける。


 立ち上がってもう一度礼をし、部屋の前から立ち去った。

 背後でごとりと音がした、ような。だが姫は眠っているので、おそらく気のせいだろう。




 ばあやに挨拶をしようと部屋に行ったが、いなかった。どうしたのかと塔を出ると、丁度ばあやが歩いているところに会った。

 小ぶりの籠を背負い、俺が作った杖をつき、長いスカートをわさわさと揺らして歩いている。


「ああ、おはよう。もう出かけるんだねえ」


 声は緩やかだが、いつもより瞳の力が強い。まっすぐに俺を見ている。

 

「おはようございます。はい、行ってきます。おそれいりますが、ひと月の間、姫と塔をよろしくお願いします」

「わかったわ。任せて」


 その瞳の強さに、かつての姿が重なる。

 わさわさと俺に近づき、見上げた。手を伸ばし、肩をぽんぽんと叩いて微笑む。

 小柄な彼女の手は、骨ばっていて大きかった。


「無事に帰っておいで。そして呪いを解いてちょうだい。誰も信じてくれないから、もう言うのも嫌になっちゃった。呪いなんてねえ。お后様は国王陛下だけをねえ。他の男なんて、くだらない話だよう。くだ……」


 瞳が濁り、視線が曖昧になる。

 しかしそこまで言って我に返ったのか、再び俺に視線を定めた。


「イスー様のことは守ってみせるわ。だから安心して。気をつけて行ってらっしゃい」


 ぱん、と力強く肩を叩く。

 俺は微笑み、ぐっと拳に力を入れてみせた。




 空が明るくなってきた。

 歩きながら、先ほどのばあやの言葉を思い返す。

 ばあやは姫が生まれた時からお世話をしている。だから多少は后のことも知っているはずだが、噂の件も含めて殆ど后の話をしない。

 だが、心の中には何か深い思いを抱いているのだろう。


 そして、やはり、と思う。

 ばあやの話は要領を得なかったので、俺の思ったことを言いたかったわけではないかもしれない。それでも俺の疑問に一つの答えを示してくれた気がした。


 輿入れ前の事情はわからない。しかしその後の后は、不義の関係は結んでいなかったのだろう。

 もし関係が続いていたら、男は呪いを掛けるほど恨まないのではないか。自分が差し出した恋慕の情を完全に断ち切られ、その後見向きもされなかったからこそ恨んだのではないか。

 そう考えたほうが自然だ。そんな俺でも辿り着く答え、国王ならとっくにわかっているはずなのだが。


 もっとも。

 愛する人を呪ったり、幸せを壊そうとする男の考え自体が理解不能だ。




 多分そうしているだろうなと思っていたが、やはりエオウは全裸で俺のことを待っていた。


「エオウ、おはよう。準備できている? ちゃんとチュニックも持ったよな」

「大丈夫。準備万端。ああ、削蹄さくていしたてって脚がめっちゃ軽いよ」


 そう言って嬉しそうにどすどすとその場でジャンプをした。


 ふっと真顔になる。

 手を差し出し、力強い握手をする。


「ケン、よろしくな」

「こちらこそ、よろしく」


 馬の力に負けじと手を握り返す。


「俺、役に立つ馬になるからさ」


 ぽつり、と言葉を零す。


「俺もみんなも、エオウを頼りにしているよ」


 俺の言葉に、彼はにこりと笑って手を地面についた。

 馬の姿になる。

 鞍を装着し、乗る。

 歩き出す。


 ウィンジョウへと続く道を歩いていく。

 薄紅色に染まった朝の空を見上げる。この空の色に染まった姫の頬を思い浮かべると、肚の内から力が漲ってくる。

 胸に手を当てる。


 見知らぬ国がなんだ。火の雨がなんだ。

 姫の幸せのためならば、俺は何も怖くない。

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