22.可惜夜《あたらよ》(3)
「えっ」
意外過ぎる言葉にどきりとし、その勢いで大きな声が出る。
「い、いやいや、さすがにそれはできません」
「そん、なあ。大丈夫、よ。もう、見張りは、いないのでしょう」
「確かに見張りはいませんけど。でもやはり花園は」
いくら閉鎖された城とはいえ、あの花園は本来姫が愛を語り合う場所。だから立ち入ることができるのは、手入れをする庭師一人と姫、そして姫が恋い慕う人だけだ。
灯りに照らされた姫の瞳に俺が映っている。
姫はもう一度鍵を掲げた。
「ねえ、ケン。明日から、旅に出るのでしょう。だから、お願いよ。どうしても」
体が揺らぐ。支える俺の腕にもたれ掛かりながらも、顔を上げ、震える唇で言葉を続ける。
「今夜は、あなたと一緒に、花園に入りたいの」
暖かな、月の明るい夜だ。
荷車に姫を横たえ、アブラヒツジの毛で織られた掛布で体をしっかりくるむ。塔の階段を降りることで体力を使い果たしてしまった姫は、上体を起こすこともままならないようだ。
月と手持ちの灯りを頼りに花園へ向かう。荷車を引きながら時折姫の様子を窺うと、静かに目を閉じ、まどろんでいるように見えた。
月が姫の白い頬に光を落とす。
その頬が健康的な薄紅色に染まる日を思い、荷車を引く手に力が入る。
八年間放置され続けた花園は、外側から見ても分かるくらいに荒れ果てていた。
姫の冷気は花を枯らす。だから枯れる花を見て姫が悲しまないかと心配だったが、どうやら悪い意味で心配ないようだ。
扉の錆びた鍵穴周辺には、細かな傷が無数につけられていた。誰かが無理やりこじ開けようとしたのだろう。
預かった鍵を回す。錆びのせいかうまく回らない。それでも鍵は開き、扉は鈍い音を立てて開いた。
花園が姿を現す。
中は大変な有様だった。草花は好き勝手に生え、枯れた枝葉は方々に積みあがっている。そんな状態の中に漂う濃厚な緑の匂いは、見捨てられてもなお生き抜こうとする植物たちの静かな叫びのようだ。
荷車で中に入るのは難しそうなので、姫を抱きかかえた。
掛布から滲み出す冷気と体の軽さが悲しい。姫が緩やかに目覚めた。
目が合う。
姫の澄んだ瞳を見て胸が音を立てる。それでも目を逸らすのに妙な罪悪感を覚え、平静を装って見つめ直した。
姫の瞳の中に月の光を見つける。
静かな夜の海というのは、きっとこんな色なのだろうな、と思う。
美しさに吸い込まれていく。
すると姫は「ひゃあっ」という小さな声を上げた。くるまれた掛布の中からもぞもぞと両手を出し、顔を覆う。
「す、すみません。じっとお顔を見るなんて失礼なことを」
「しつ、失礼では、ないの。ええと」
「イスー様の瞳が、あまりに美しかったものですから」
「ひゃああ……」
流れ続けていた冷気が、なぜか弱まった気がする。その後何度か謝ったが、姫はしばらくの間、顔から手を離さなかった。
道なき道を歩くと、茂みの中から小さな建物が姿を現した。
白い石で作られた、屋根と柱だけの簡素な建物。中には大きなベンチとテーブルがあったが、テーブルの方は倒れて壊れ、使い物にならなくなっていた。
姫をベンチに横たえると、上体を起こしたそうな仕草を見せる。だがなんとか起き上がっても、その姿勢を保っていることができない。
そこで俺が並んで座り、姫にもたれかかってもらうようにした。
「ごめんなさい。冷たいの、嫌よね」
姫の言葉に首を横に振る。
「イスー様は暖かいでしょう」
「そう、ね」
「であれば、いいんです」
空を見上げる。星々が月に負けじと精いっぱい輝いている。
姫が顔を動かし、俺を見た。
「明日、やはり行ってしまうの」
「はい」
「そう……。では、一つだけ、約束してほしいの」
「はい。なんでしょうか」
「絶対に、絶対に、帰ってきて」
掛布が外れる。姫は俺の手を握り、声を強めた。
「火焔の実なんて、いいの。私は、ただ、ただ、帰ってきてほしいの。だからお願いよ。約束して」
握る手に力がこもる。胸が詰まり、上手に声が出ない。
「はい。必ず」
姫の表情がほろりと緩む。
――どうして花園に入れて下さったのですか。
――ここはウィー様と入る場所なのではないですか。
そんな言葉が何度も心をよぎる。だがそれらは口に出さなかった。
出したくなかった。
並んで月を眺める。草木がざわざわ揺れるたび、姫の冷気が流れ去る。
どれだけの時間、こうしていただろう。やがて姫は耳元に飾った簪に触れて微笑んだ。
「この簪はずっとつけているわ。そうすれば少しだけケンを感じられるもの。そして毎日こうやって触れて、あなたの無事を祈り続ける」
その言葉に、微笑みに、頬と胸が一気に熱くなる。
ありがたい。勿体ない。畏れ多い。そして。
愛おしい。
「え、あ、お、おそれ、いります」
「あと、ね」
懐から金の鍵を取り出す。
「
いたずらっぽく笑うと、俺の手を取り、鍵を握らせた。
「はい。ケンにあげる」
「ええっ」
突然のことに一瞬固まってしまう。
そこで姫は目眩がしたのか、眉間を押さえた。しばらくして息を大きく吐き、俺を見る。
「これを、私だと思って、持っていて。そして、帰ってきたら、また、ここに、来ましょう」
「そんな、これ、これは俺なんかが」
「あのね、ケン」
上体が大きく揺れる。倒れそうになった所を抱え込み、俺の膝の上に横たえた。
目の焦点が合わなくなる。徐々に目が閉じて言葉が曖昧になる。
「私、はじめて、ここに、一緒に、入るひとは、あなたって、ずっと、決め……」
言葉は途切れ途切れで、聞き取ることができなかった。
再びまどろみの中に入っていく。
姫の寝顔を見つめる。表情は穏やかだが、氷の花は着々と姫を蝕んでいるのだ。
冷たく白い頬に触れる。無礼かもしれないと思いつつ、少しでも温まるようにと頬を手で包み込む。
すると姫は、ほんのりと柔らかな笑みを浮かべた。
月の光が静かに降り注ぐ。
明日の朝は早い。それはわかっている。それでも。
この、明けるのが惜しく、震えるほどに美しい夜を、もう少しだけ抱きしめていたいと思う。
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