3.水底に射す陽光【二十三歳】

12.氷の塔にて

 鍋の蓋を開けた途端に、真っ白な湯気と穏やかな甘い匂いが溢れ出した。

 中を覗く。じっくりと炊いたサリリの実の粥は粒が曖昧になるほどに滑らかで、見るからに旨そうだ。

 隔離塔に移り住んでから、そろそろ八年になる。そして腰を痛めたばあやの代わりに俺が煮炊きをするようになってからは五年。初めての粥作りで焦げ臭い茶色の糊を大量に生成してしまった、あの頃の俺はいない。


 ボウルに盛った粥と水差しを盆に載せ、目の高さまで掲げて階段を昇る。

 薄暗い階段をこの格好で昇るのは危ない。だが、王女の称号を剥奪されても、姫は「姫」だ。口にされるものは息がかからない高さまで掲げて運ぶのが礼儀というものだろう。

 俺が粥を運ぶ所など誰も見ていない。それに姫はこういう「古典的な」作法を求める性格ではない。なにしろ市場で串揚げを買い食いするような人だ。

 それでも、八年間ずっとこうやって運んでいる。


 石造りの壁に小さく穿たれた窓から、淡い卵色の朝日が差し込んでいる。

 静かな朝。聞こえるのは俺の足音と微かな鳥の声だけだ。

 足元に気をつけ、姫の部屋に向かう。


 今日の姫の体調はどうだろうか。

 今日は起き上がれるだろうか。冷えは強くなっていないだろうか。

 北の地方で栽培される、熱の気を持ったサリリの実を炊いた粥で、少しは体が温まるだろうか。


 どうか。

 今日は一口でも食べることができますように。




 引き戸を開けると強い冷気が頬を打つ。盆を持ち替える時にボウルの中を見ると、つややかな粥の表面は、冷気を受けてみるみるうちに濁っていった。


「おはよう、ケン」


 薄氷が砕けるような、ぱりぱりと脆い声が俺を呼ぶ。姫は首を少し持ち上げ、微笑んだ。

 開け放たれた窓から差し込む朝日が姫を照らす。


 完全に変色した水色の髪と瞳。蝋のような白い肌。鍛え上げられていた体からは肉が削げ落ち、今では上体を起こすのも難しい。

 それでも、発病から八年経ってこれだけの体格や体調を維持できているのは奇跡に近いのだという。先月、中央宮殿への経過報告のために訪れた三番町の魔術師が、驚いたようにそう言っていた。


 姫はゆっくりと起き上がり、傍らにあったハクトウバラのかんざしを耳元の髪に挿した。

 昔、俺が作った簪を、こうして毎日使ってくれている。

 姫はもともと着飾ることに興味がなく、元気な頃は「はし」を簪代わりにしていた。それなのにどうして、といつも思う。

 使い込まれて飴色に変色した簪は、髪を纏めることはなく、ただひっそりと姫に寄り添い咲いている。


「おはようございます、イスー様」


 姫の背中に手を添え、起き上がる手伝いをする。掌が痺れるような冷たさにも、もう慣れた。

 姫は粥を口にすると、「ほわっ」と熱そうなそぶりを見せて頬を緩めた。




 今朝は比較的体調が良いらしく、三口ほど食べることができた。粥を下げていると、姫が窓の外を手で指す。


「今日も城の方には誰か出入りしているのかしら」


 声に陰りが滲んでいる。俺は窓の外を眺めて目を細めた。


「どうでしょう。昨日は王太子様がご婦人方を大勢お連れになって遊びにいらしていたようですが」


 良くないのは重々承知だが、つい棘のある口調になってしまう。


「あと、今、王子様や王女様の間で、城を使った肝試し遊びが流行っているようです。中央宮殿の方々が城の管理を放置されていますので、があるのでしょう。全く……」

「お兄様も他の子も、こんな所で遊んでいる場合ではないのでしょうに。何をしているのかしら。これだから国民の心が王室から離れて行ってしまうのよ」


 俺は「中央宮殿が城の管理をしてくれない」ことの不満を漏らそうとしたのだが、姫は直球な王室批判として言葉を繋げた。その強い言葉を聞いて反射的に心臓が縮み上がる。


「ケン、町の様子を知りたいわ。国の皆さんの暮らし向きは相変わらずなのかしら。王室や中央宮殿への不満は高まってい」


 そこで言葉が途切れた。息を吐き、胸を押さえて低く呻く。

 姫の呼吸が落ち着くのを待ってゆっくり寝かせ、掛布を肩まで引き上げた。その上に水差しに入った水をぱっぱっと散らす。

 すると水分を熱に変えるアブラヒツジの毛で織られた掛布から、ほんわりと湯気が立った。


「以前にもお話いたしましたが、この国のあり方に思うところがある国民は、以前より一定数いたようです。ですが俺の見た感じでは、ここ数年でその気持ちを堂々と表に出して言う人が増えたような気がします。暮らし向きは、まあ、色々です。ただ、皆頑張って生活していますし、あの、えと、皆、イスー様の回復を願っていますよ」


 姫の気分が悪くならないよう、「皆、なんの不満もなく楽しく暮らしていますよ」と言うのは簡単だ。でも、それでは「姫」に対して失礼な気がして、正直なところを話す。

 ただ、それで話を終わらせたくなかったので最後の一言を付け加えてみた。それなのにそこで言葉が詰まってしまった。誤魔化すように微笑む。


 最後の一言は「半分本当」だ。

 姫が隔離塔に移った当初は、姫に同情する声や回復を願う声があった。だが今では姫のことを話題にする人は誰もいない。

 姫のことを悪く思っているわけではない。長年燻くすぶっていた国の中央に対する不満が増殖しすぎて、姫の存在をかき消してしまったのだ。


 姫は水色の瞳で俺を見つめ、手を差し出した。

 手は俺に触れる手前で止まり、下ろされる。


「ケン、ごめんなさい。面倒に巻き込んで、苦労を掛けてしまって」


 姫の言葉が終わる前から首を大きく横に振る。


「面倒とか、苦労とか、そんなのは何もないです」


 水色の瞳を見つめ返す。


「俺は、イスー様が少しでも快適にお過ごしになれれば、少しでも具合が良くなれば、って、それだけを考えています。そのためならなんだってしますし、それは苦労ではありません」


 言葉がうまくまとめられず、変な言い回しになってしまった。そんな俺を見て姫は少し笑い、目を伏せた。


「ありがとう。私のそばにいてくれて、こういう言葉を掛けてくれて」


 水色の長い睫毛が揺れる。


「私、気持ちが弱くなって、少しおかしくなっていたかもしれない。国のこととか、自分の体のこととか、色々考えてしまって。でも」


 呪いの冷気を破るように、暖かな風が窓から流れ込む。


「大丈夫。もう少し、頑張ってみる」




 姫の部屋を出、籠を背負って塔を出た。市場で良いものを買うには朝が勝負だ。


 はじめのうちは何人かいた中央宮殿の見張りも、今では一人もいない。だから出入り自由な状態なのだが、それは俺たちを信頼しているから、というわけではないのだろう。

 ごくたまに魔術師が来る以外、この塔は世の中から切り離され、忘れられている。


 先ほどの会話を思い返す。

 いつものとりとめもない会話ではあったが、姫の心が弱ってきているのが痛いほど伝わってきた。

 余計な言葉で姫を傷つけていなかったか、俺の言葉が過剰な励ましとなって姫を追い詰めていなかったか、何度も思い返し、不安になる。

 

 そうして俯きながら歩いていると、ふいに足元に影が差した。

 顔を上げる。するとすぐ目の前に笑顔のエオウが立っていた。

 全裸で。


「うおおおうっ」

「やあ、おはよう、ケン」


 塔の周りに人がいないのをいいことに、最近エオウはチュニックを着ていないことがある。彼は俺の叫びを流して手紙らしきものを渡してきた。


「ついさっき、中央宮殿の家臣が俺んとこに来てさ、これをケンに渡せって」

「ああ、どうも……って、その恰好でこれを受け取ったのか」

「ああ、急いで馬型になったから多分大丈夫」


 多分大丈夫ではなかっただろうが、今更どうしようもない。それよりわざわざ家臣が来て俺に手紙とはどういうことだろう。


 封を切る。

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