11.花の簪

 姫の部屋に続く廊下を歩く。

 布靴が立てるヒタヒタという足音さえも大きく響くほどに静かだ。荷物の運び出し作業で騒がしかった昨日までが幻だったのかと思うくらいに。

 視線を落とす。ひと月前までは綺麗に拭きあげられていた廊下は泥や砂で汚れ、嵐が過ぎ去った後のようだ。

 明日、姫は隔離塔に移り、この城は閉鎖される。




 引き戸を開けた途端、悲しいほどに冷たい空気が流れ出てきた。部屋の奥にある寝台に臥せっていた姫が上体を起こし、微笑みかけてくれる。


 このひと月の間に、姫のやまいは誰の目からも見ても明らかなほどに進行していた。

 瞳は色褪せ、淡い金色。かれていない下ろしたままの髪は、既に所々水色に変色している。

 頬は石膏のように白く、かつての健康的な血色はどこにも見られない。

 姫はスウッと一つ息を吸うと声を上げた。


「忙しいでしょうに、ありがとう。時間、大丈夫かしら」


 よく通る快活そうな声に却って胸が痛くなる。それに気取られぬよう頬に力を込め、口角を上げた。


「はい。城内の作業は殆ど終わりました。お気遣いくださりありがとうございます。あ、俺の塔への引っ越しは先ほど済ませましたので、これからよろしくお願いいたします」


 成年式の日、式典を見るために庭師見習いたちと昇った謎の塔が「隔離塔」だと知ったのは、城閉鎖の話を聞いた時だった。

 もともと牢屋として建てられたものだった、という噂もある塔だが、姫の部屋になる最上階は、それなりに広さもあるし見晴らしも悪くない。

 だが、わざわざ城を閉鎖したうえで同じ敷地内のそのような場所に姫を軟禁する、ということに、俺はなんとなく国王の歪んだ悪意を感じた。

 勿論、そんなことは口が裂けても言えないが。


「ケン、本当にいいの」

「何が、でしょうか」

「他の所へ行かなくて。ケンはアガラッツ語とウィンジョウ語の読み書きができるし、園芸の知識もあるから、中央宮殿だって喜んで引き取ると思うわ。いいえ、今なら奴隷身分から解放されて街中で働く機会だって」

「ああ、そういうのは全然考えていないです」


 ぴっぴっ、と手を顔の前で振る。


「他の城の奴隷なんて恐ろしくてとてもなれません。それに俺はこの城が好きなんです。ですから、イスー様がよろしければ、このままお仕えしたいです」


 結局、隔離塔に移って姫に仕える人間は、俺とばあやだけになった。馬はエオウ一頭だけだ。

 他の人は皆、城閉鎖の作業が本格的に始まった途端に城を出ることを希望した。

 今まで良い環境で働かせてもらっていたし、姫は皆を大切にしてくれていたのだから、もっと大勢の人が城に残ることを希望すると思っていたのだが。


 奴隷仲間も。庭師も。家臣も。

 皆、あんなに姫を慕っていたのに。

 城閉鎖が決まった時は、あんなに中央宮殿を批判していたのに。

 それなのに。


 視線を姫から部屋に移す。

 寝台と質素な長櫃ながびつだけが置かれた姫の部屋。凝った意匠の施された家具、ドレスや宝石といったものは、全てどこかに持ち去られてしまった。

 姫はドレスや宝石がなくても美しい。だが、そういう問題ではない。


「そうそう、ケン、あれを持ってきてくれたのでしょう。ごめんなさいね忙しい時に我儘言っちゃって」

「あ、ああ、そうでした」


 うっかりここに来た本来の目的を忘れそうになっていた。懐から布に包んだ「それ」を取り出し、姫に差し出す。


 しかし、なあ。

 姫の持っていた宝石の類を思い出していた直後に、これを出すのは気が引ける。


「あの、一応頑張ってみたのですが、あまりその、どうかなあ、と。すみません自分で『出来る』って言ったのに。でもあの、本当、ド素人の趣味とも言えないようなもので」


 心の中のもう一人の俺が、「この期に及んで鬱陶しい言い訳するなよ」と呆れている。

 姫が目を細め、ふふっと笑った。俺の手から包みを受け取る。その時僅かに触れた指先は、俺の熱を吸い取るように冷たかった。

 俺の熱が姫に伝わり、胸に咲く氷の花が溶ければいいのに、と思う。


 姫は包みをほどくと、わっと声を上げて金色の瞳を輝かせた。


「えっ、凄い! ちょっと待って、こんなに凄いなんて思わなかったわ」


 俺が渡したのは、ハクトウバラの形をした小さな木彫りだった。


 庭仕事をするようになってから草花に興味を持った俺は、たまに伐採した枝などを使って花や葉の形をした木彫りを作ることがあった。

 いつだったか、姫にそんな話をしたのだが、姫はそれを覚えていてくれた。そして先日、「ハクトウバラの小さな木彫りを作ってほしい」と頼まれたのだ。

 自分の病は花を枯らしてしまうので、枯れない花を持っていたいから、と。


 ハクトウバラは姫の好きな花だ。

 純白の花弁がびっしりと重なった豪華な花は、果実にも似た濃密な香りを放つ。そして一度咲くと何月も枯れず、枯れても傷ついても変色しない。

 その様子から「繁栄の永続」「純潔」「甘い生活」の象徴として、王族や貴族の結婚式の際には、庭にハクトウバラを敷き詰める習慣がある。


 そんな、結婚を象徴する花を作ることには躊躇いもあった。

 姫とウィー様の婚約は破棄されたからだ。

 だが、姫がハクトウバラを希望されている以上、変な気遣いをすることはできなかった。


「あのね、ケン。私、もっとこう、小さな木の板を花の形に切り取った、みたいなものを想像していたの。こんな、本物の花みたいな、立体的な、こんな凄いものを、これ、ひと晩で彫ったのでしょう。ごめんなさい、どうしましょう。ありがとう。凄い」


 「凄い」を連発され、恥ずかしいというか嬉しいというか、どう表現したらいいのかわからない感情が湧きあがり、俯いてぐねぐねと身をよじってしまう。


 姫は木彫りの花を様々な角度から何度も見た後、髪を耳に掛け、ふっと顔をこちらに向けた。


「これ、ここにこのくらいの細い木の棒を通せないかしら。そうしたらかんざしになると思うのだけれど」

「ああ……えっと、はい。できますが、いいんですか。こんな素人の木彫りを髪に飾る、なんて」

「あら、どうして。素敵でしょ」


 花を両手で包み込み、そっと胸に引き寄せる。


「ありがとう。大切にするわ」


 その姿を見て、視界が滲む。

 拳を強く握る。


「こんな……理不尽な」


 言ってはいけないのはわかっている。それなのに一度零れた言葉は次々と唇から吐き出された。


「イスー様は何も悪くない。呪いだって、お后様のことだって、真相なんてわからない。なのに、こんな、宝石だっていっぱいあったのに、なのに」

「ケン」


 姫の鋭い声が暴れる俺の喉を塞ぐ。姫は俺の目を見て微笑んだ。


「いいのよ。私は大丈夫。確かに体はつらいわ。思うように動けないし、凄く寒い。それに、何とは言わないけれど思うところはたくさんある。でも、大丈夫なの」


 花を包んだ両手を胸に置いたまま、言葉を続ける。


「私にはこの花がある。それにケンがいてくれる。だから」


 俯き、はにかみ、顔を上げる。


「何があっても負けないし、私はなにも怖くない」


 淡い瞳が俺を映す。


 その時。

 石膏のように白い姫の頬が、微かに染まったように見えた。




 姫の部屋を辞去し、城を出て走り出す。

 既に日は落ちている。重い湿度を含んだような静寂がのしかかる。気がつくと俺は涙を流していた。


 姫はあんなにも沢山のものを持っていたのに。

 そして姫はそれらを照らす太陽だったのに。

 俺や俺の作った小さな花に、あのような言葉をくれるような今って、一体。


 本当は、こうして残る人の中に、ウィー様がいてほしかったかもしれないのに。


 わかっている。ウィー様はどんなに財力があっても「平民」だ。国王や中央宮殿の決定に逆らうことはできない。

 それにウィー様の家の事情だってあるだろう。庶民の結婚とはわけが違うのだ。


 でも。

 ウィー様とは比べようがないけれども、俺なんかでも姫の力になることができるのならば。

 俺は、姫に仕えていくんだ。

 奴隷として。


 ずっと、ずっと、胸の奥で熾火おきびのように燃えている、恋慕の情を隠したまま。

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