8.噂

 ――胎児がであっても


 その言葉の持つ意味くらい、俺でもわかる。

 家臣は、「姫は国王の子でない可能性がある」と言いたいのか。


 床が、空間が、ぐらりと揺れるような感覚を覚える。

 両足に力を込めて床を踏みしめ、姫を見る。表情から感情は窺えなかったが、掛布を握った両手が微かに震えていた。

 魔術師に問いかけた家臣が片頬を吊り上げ、口を開く。何か嫌な言葉を吐いてくるかと身構えていたが、彼らは目くばせをして頷き合い、無言で部屋を出ていった。

 姫に向かっての一言の挨拶もせず。


 ばあやが慌てて引き戸を開け、見送りの姿勢を取る。戸が締まり、家臣たちの姿が見えなくなる。途端に俺の中に正体のわからない感情が湧きあがり、突き動かされるように駆け出した。


 あの態度。あの表情。姫に向かって。なんだあれは。姫が、姫が、やまいに倒れたというのに――。


「ケン」


 薄い刃物のような声に足が止まる。振り返ると、腕を組んだウィー様が俺を見ていた。


「今、何故家臣の方々に向かって駆け出したのかね」

「え……え、と」


 漆黒の瞳に射られ、俯く。


 何故、と言われても答えを言語化できない。ただ一つ確実なのは、ウィー様に呼び止められたことで、俺だけではなく姫の立場も救われた、ということだ。

 もし、あのまま家臣の前に立ち塞がったりでもしたら、俺や姫がどうなっていたかわかったものではない。


 それなのに俺はウィー様に対しての詫びや礼の言葉すら思いつかず、無言のまま額を床につけて礼をすることしかできなかった。




 家臣たちとばあやのいなくなった部屋に、歪んだ静かさと冷気が漂う。

 姫は喉に手を当て、ひとつ咳をしたのち口を開いた。


「ねえ、あなた。三番町の魔術師さんよね」


 いつもの良く通る声ではなく、ひびの入った硝子のような細い声だ。魔術師は急に声を掛けられたからかびくりと身を震わせ、ぎこちない仕草で膝を折ろうとした。

 それを姫が手で制す。


「お礼を言わせて。私の目を覚まさせてくれてありがとう。さすが三番町の魔術師さんだわ」

「いえ……おそれいります」

「ウィーさんもありがとう。あなたのことだから、きっと私の病について詳しく知っているのでしょうに。魔術師さんの口を通して正しい情報を伝えてくれたのよね」


 苦し気に息をつきながらも、精一杯快活に話そうとしているのが感じられる。

 その声一つ一つがちくちくと痛い。

 魔術師は固まったように動きを止め、ウィー様は曖昧な表情で頭を下げた。


 姫の瞳が俺を捉える。

 口元に淡い笑みを浮かべる。


「ケンも、ありがとう」


 何もせず、何もできない俺にまで「ありがとう」の言葉をくれる。

 だが、俺はこの場で一番の役立たずだ。


 姫は胸を押さえ、ほうと一つ息を吐いた。


「氷華病、ね」


 色褪せた瞳が、ここではないどこかを見つめている。


「私なら可能性はあったでしょうね。ウィーさんも、それはわかっていたのでしょう」

「いえ……」


 ウィー様が曖昧な返答をする。視線は誰もいない壁に向かっていた。


「いいのよ。母の良くない噂は小さなころから嫌というほど聞かされていたから。今となっては真偽のほどはわからないけれど、少なくともを立てられてしまうくらいには、母に人望がなかったのでしょう」


 ウィー様が姫に顔を向けないまま俯く。


 「そういう噂」。

 それが「どういう噂」なのかは察しが付く。

 俺はその噂を聞いたことがない。城住みの俺が知らないのだから、下々しもじもの者の間では広まっていないはずだ。

 だがウィー様や家臣たちの様子からして、ある程度の立場の人の間では、それなりに広がっているのだろう。


 いや。

 そんなもの、どうでもいい。

 「国」としては重要なことなのだろうが、誰が呪いを掛けたかとか、姫が国王の子かどうかなんて、本当にどうだっていい。

 俺にとって姫は姫だ。何も変わらない。

 そんなことより。


「お、お、おそれいります魔術師様」

 

 立ち上がり、小柄な魔術師を見下ろすように迫る。これから返されるであろう言葉に怖気づく喉を奮い立たせ、再び声を上げる。


「氷華病は、な、治すことが、できるのでしょうか」


 魔術師は俺を見上げ、曖昧に頷いた。


「手段はあります。ただ、特効薬に必要な果実の入手が非常に困難なので、『はい』と答えるのは……難しい、です」


 その言葉に少し肩の力が抜ける。

 今までの流れからして、絶対治らない病な気がしていた。だが、そうではないのだ。

 果実の入手が「不可能」ではなく「非常に困難」だというならば、なんとかなるのでは――。


「魔術師さん」


 姫の声で思考が途切れる。姫は魔術師に向かってゆっくりと頭を下げた。


「今日はどうもありがとう。治療費のことなどは、もうすぐ戻ってくるばあやに伝えてもらえるかしら」


 話を終わらせるように掛けられたその言葉は、魔術師に帰ることを促すものだ。もっと魔術師に薬のこととかを聞きたかったのだが、こうなった以上俺には話を続けることができない。

 俺が一歩下がると、姫はウィー様に顔を向けた。


「ウィーさんもありがとう。お忙しいでしょうにごめんなさい。……あ、ばあやが戻ってきたわ」


 ウィー様が俯き、唇を噛む。

 顔を上げ、優雅な仕草で姫に挨拶をする。

 そしてウィー様と魔術師は出口に向かった。




「ケン」


 ウィー様たちと一緒に部屋を出ようとした時、姫に声を掛けられた。

 手招きをされたので姫のもとに向かう。背後で戸の閉まる音がした。

 

「はい」

「ちょっと、いいかしら」


 ちょいちょいと手招きをされるのにつられて寝台のそばに立つ。姫は俺をじっと見つめた。

 戸惑いと気恥ずかしさの混じった心を気取られぬように見つめ返す。

 姫の色褪せた瞳が揺れ、ゆらゆらと涙が満ちてゆく。


 ――お体おつらいのではありませんか。ゆっくりお休みください。

 ――どうぞお大事になさってください。

 ――三番町の魔術師でしたら、きっと病を治してくれますよ。


 どの言葉もぺらぺらと軽く、その軽さは紙の端のように姫を傷つけてしまいそうで、何も言えずに姫を見つめる。


 無意識に右手が姫の方へ伸びる。それに気づいて引っ込めようとしたら、姫が俺の手首を掴んで、そっと引き寄せた。

 その力があまりにも弱くて、動かすことができない。


「ごめんなさい。ちょっとだけ、ちょっとだけ、ここにいてくれるかしら」


 頷く。姫はゆらりと微笑んだ後、俯いた。

 涙が零れ落ちる。凍えるように冷たい涙は、俺の手に落ちて溶けるように広がっていく。

 俺の体を巡る熱の全てが、手首を通して姫に移ればいいのに、と思う。




 この日、姫が流した涙の本当の意味を知ったのは、翌朝だった。

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