6.淡い目覚め
声のすぐ後に、廊下の曲がり角から白い服を纏った人物が現れた。その人を囲むようにして、ばあやと数人の男が歩いてくる。
全身を覆う白いマントと肩に提げた大きな鞄、
会うのは初めてだが、その姿で誰かわかる。三番町の魔術師だ。
一緒に歩いている人たちは緑色の礼服を着ているので、中央宮殿の中級家臣だろう。彼らは魔術師を避けるように少し離れて囲み、強い言葉で魔術師を急かしている。
魔術師は脚が悪いようだ。両腕を足掻くように動かしながら、がくり、がくりと歩いている。
杖のようなものはない。それなのに誰も支えようとしない。
あまりにつらそうで見ていられなかった。頭を下げ、腰を屈めながら魔術師のもとへと駆け寄る。
家臣たちが怪訝そうな顔で俺を睨む。俺は額を床につけて礼をしてから魔術師に声を掛けた。
「突然の無礼をお許しください。おそれいります魔術師様。もし歩きにくいようでしたら、俺に支えさせていただけませんか」
「支えさせていただけませんか」と言いながらも魔術師の背丈に合わせて屈み、肩を貸す。家臣たちは「なんだお前」と呟きはしたものの、俺を追い払うことはしなかった。
魔術師は仮面の顔をこちらに向け、おずおずとした様子で俺の肩に腕を回した。そのまま少し歩いたが、そもそも「歩く」ことそのものが難しそうだ。
「歩くの、つらいですか」
俺の問いかけると僅かに頷く。そこで俺は魔術師をひょいと抱え上げた。
魔術師から、えっという声が漏れる。
マントに覆われた魔術師の体は驚くほど軽く、肩掛け鞄を抱える両手は子供のように小さい。もぞもぞと動く魔術師をしっかり抱え込み、早足で姫の部屋に向かった。
「よし奴隷。そのままイスー様の部屋へ向かえ」
家臣の一人が言ったので、歩を進めながら軽く頭を下げる。「既に向かっています」なんて勿論言わない。
魔術師が俺に顔を向けた。仮面の鼻部分に詰められた、魔除け草の匂いが強く漂う。
「あなたは、私に触れるのが怖くないのですか」
仮面の下から発せられた声は不自然に割れており、男のものとも女のものともつかない。
「はい」
「私は三番町の魔術師。日々、重症の患者から発せられる強毒性の
「はい」
なんでそんなことを訊くのか、よくわからない。
俺が今思っているのは、「歩くのがつらそうだから助けたい」「早く姫を診てもらいたい」、それだけだ。
そもそも名魔術師として有名な「三番町の魔術師」ともあろう人が、瘴気の浄化もせずに城へ上がったりするわけがない。だから怖い理由など何もないのだ。
姫の部屋の前に到着する。ばあやが声を掛け、引き戸を開けた。
魔術師を抱えたまま、できる限り頭を下げる。戸が開くと、ひやりとした空気が頬を刺した。
魔術師が呻くような声を上げる。
「これは……」
だが、その声は俺以外には聞こえなかったようだ。
ウィー様が丁寧に頭を下げる。顔を上げた時に俺と目が合ったが、なぜかどちらからともなく目を逸らしてしまった。
ウィー様の礼を受け、家臣の一人が前に出た。
「『お
言葉に潜む錆びた棘が胸に刺さる。ウィー様が膝を折って座り、深く頭を下げた。
「申し訳ないことでございます」
その姿を見て、棘が胸を強く引っ掻く。
姫の許嫁とはいえ身分上は商人であるウィー様が、中央宮殿のまあまあ偉い家臣にこう言われたら、こういう対応をするしかない。だけど。
国王や他の王子たちが皆帰ってしまった後、姫にずっと付き添っていたのはウィー様だけだったのに。
姫の城にいると忘れてしまいがちな「世の中の常識」を目の当たりにして、何か嫌なものがぐつぐつと湧きあがる。
「君。ええと、名前は」
ウィー様に気を取られていたら、魔術師に声を掛けられた。
「あっ、ケンと申します」
「ああ、ケン。このままイスー様の所まで連れて行ってもらえますか」
「はいっ」
大きな声を上げてこの場の空気の淀みを破る。姫が眠っているそばまで来ると、魔術師は俺に顔を寄せて囁いた。
「診察の間、私のそばにいてくれませんか。ケンの
魔術師の言うことは、少し専門的でよくわからない。だが「俺がそばにいると診察に集中できる」と言いたいのであろうことは理解した。
魔術師の指示でばあやが大きな椀に水を満たして持ってくる。魔術師はそれを脚がついた台に載せ、台の下に蝋燭を置いた。
小枝の先に何かが塗られたものを取り出し、床に擦りつける。すると小枝の先端からいきなり火が現れた。それで蝋燭に火を点け、あっという間に湯を作る。
初めて目にする魔術に、思わず口をぽかんと開けてしまう。
魔術師の手際は鮮やかだった。迷うようなそぶりは一切見せず、淡々と診察と治療をこなす。
脈を取り、髪を調べ、口の中を覗き込む。何かの粉を湯で練って足の裏に塗り付けたり、湯で温めた
魔術師が特に気にしていたのは胸元のようだった。軽く叩いたり温めた石で擦ったりといった動作を繰り返している。しばらくすると、姫の口から小さな声が漏れた。
間近で覗き込んでいた家臣たちから声が上がる。魔術師は家臣たちの方に少し顔を向けた後、湯で温めた小瓶から橙色の液体を盃に移し、姫の唇に当てた。
遠い異国の言葉のような呪文が仮面の奥から流れ出す。盃を傾けるたびに姫の喉が僅かに動く。
空になった盃を唇から離す。
姫の長い睫毛が揺れる。
軽く肩を震わせる。
やがて姫の目がゆっくり、ゆっくりと開いた。
家臣たちの間から、おお、という声がする。姫は焦点の合わない目で天井を見ていた。俺は嬉しくなって姫の顔を覗き込み、振り返ってウィー様に笑顔を向けた。
微笑を浮かべていたウィー様と目が合う。だがウィー様は俺を見て、少し驚いたような、困ったような、なんともいえない表情を浮かべた。
魔術師が家臣たちの方へ向こうとしていたので手を貸す。魔術師は俯き、長い息を吐いた。
「イスー様は目覚めましたが、まだ意識は完全に戻っていません。しかしそれも、あと
花瓶に飾られた花に顔を向ける。
「この花は、いつ頃から飾られているのですか」
この雰囲気の中、俺が話していいのか迷ったが声を上げた。
「魔術師様がお見えになるほんの少し前からです」
「その時の花の状態はどうでしたか。このように枯れかけた花は混ざっていましたか」
「いいえ。
「やはり、そうなのですね」
沈黙の中、冷たい空気が流れる。
「この花は、イスー様から発せられる
再びの沈黙。
そして魔術師は俯き、顔を上げ、割れた声を張り上げた。
「診断は確定です。ですが今となっては原因に関わる真偽は誰にもわかりません。ですからくれぐれも浅慮な行動は慎んでください」
魔術師の強い言葉を受け、家臣たちが何かを言いかける。そこに魔術師の声が被さった。
「イスー様は、呪いによる『
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