5.睥睨する満月
栗毛の馬姿になったエオウは、了解の返事の代わりに鼻を一つ鳴らし、駆けていった。
下僕とばあやがその姿を見守っている。俺は彼らに声を掛けようと口を開き、言葉に詰まった。
鼓動が痛くて息が吐けない。
姫が。姫が。一体。何を。
城と契約している魔術師ではなく、わざわざ三番町の魔術師を呼んだ。ということは、倒れた原因が風邪や寝不足といった類のものではない、と判断されたのだろう。
姫は今、どうしているのか。何が原因なのかわかっているのか。重い病なのか。不調の兆候は誰も気づいていなかったのか。
姫は。
ばあやと目が合う。彼女は困ったような表情をして視線を逸らした。
「もういいよ。ありがとうね。さ、仕事に戻りなさい」
早口でそう言い、視線を逸らしたまま歩きかける。だが一歩踏み出したところで立ち止まった。
俺と目を合わせ、小さな溜息をつく。
「イスー様は今、眠ったような状態よ。苦しそうとか、そういうことはないから。そこだけは安心して」
「そう、ですか。でも、あの、もし見間違いでしたらいいのですが、成年式の時からイスー様が少しふらついていたように見えたので、その」
「何、あなた会場に紛れ込んでいたの」
「いえ、あそこの塔の一番上の部屋にある窓から見ていました」
「はあ。あんな遠くから、よく気づいたわね」
ばあやは俺を見上げるようにして顔を覗き込んだ。
そしてもう一度小さな溜息をつき、城の方を窺うような仕草をしてから俺に向き直る。
「確かにイスー様は式典の時から少し具合が悪そうだったよ。……って、私にそんな顔されても。だって考えてもみなさいよ。今回みたいな大きな式典、そうそう予定の変更や中止はできないでしょ。折角来てくださった方々に申し訳ないし、異国のお客様に『自分の祝い事の日に体調を崩す王女がいる』という『弱い』印象を持たれるわけにはいかないの。ケンだってこの城に来て長いんだから、その位わかるよね」
そんなもの、全然わからない。
アガラッツ王国は、『ウィンジョウ』と『ヴェ』という二つの大国に挟まれた小国だ。土地も痩せており、目立った産業もない。「侵略する価値もないから両国に放置されている」なんて聞いたこともある。
そんな国が、姫に無理を強いてでも保ちたかった印象って、なんなのだ。
「まあ私もね、正直なところ、ケンがそんな表情をしちゃう気持ちは凄くわかるわよ。でも我々ではどうしようもないでしょう。とにかく。現時点で私から話せるのはこれだけ。今から国王陛下がお帰りになるから、準備があるの。じゃあね」
スカートをわさわさ揺らし、小走りで去っていく。その後ろを下僕がついていった。
日が傾き、空の黄金色に赤味が差してきた頃、庭師経由で指示が下りてきた。
「ケン。イスー様の寝室に飾る花を見繕って持って来い、ってさ。目を覚まされた時に花があったら嬉しいかも、っつう心遣いらしい」
「かしこまりました。どういう花がいい、といった要望はありましたか」
「いや、特にこれというご要望はなかったけど」
庭師が上を向いて顎に手をやる。
「ウィー様からのご指示だから、ウィー様のように華やかな花の方がいいかもしれんな」
「華やかな花」ならば、南国産の花がいいだろう。ウィー様のようかはわからないが、大きく色鮮やかな花があれば、姫の心が晴れるかもしれない。
城を見つめる。
姫が倒れてから、城全体が砂のようにざらざらとした空気に満ちている。
エオウはまだ帰ってきていない。彼は有能な馬なのだが、多忙な三番町の魔術師を捕まえるのは難しいのかもしれない。
晩餐の参加予定者たちは、晩餐が中止とわかるや皆、すぐに帰ってしまった。真っ先に帰ったのは国王だ。
俺は親子の情も王族の事情もわからない。だが、娘が倒れたら心配で一緒にいたいと思わないのかな、なんて思う。
頭を振る。
今、俺にできることは、姫が目を覚ました時に少しでも心が晴れるような花を選んで届けること。そして姫の体が早く回復するよう祈ることだけだ。
それに。
花の束を持って小走りで城内に入ると、番人に「姫の部屋まで直接花を持っていくように」と言われた。
石造りの廊下をひたひたと歩く。俺の布靴が立てる微かな足音が響く。
ざらざらとした空気の中、歪んだ静寂が漂っている。
奥まった場所にある姫の部屋の前に着いた。引き戸の向こうからは何の音もしない。
引き戸の前で両膝をつき、軽くしわぶく。
「誰か」
部屋の中から、良く通る低い声が響いてくる。
「に、庭係のケンと申します。花、花を持ってまいりました」
「ああ。入りなさい」
自分でも嫌になるくらい声が震える。
両膝を折って座り、左手で戸に手を掛け、少し開ける。その手を戸の下の方へ滑らせ、さらに少し開ける。
ひやり、とした空気が室内から流れてくる。
花を持ち替え、右手で大きく開ける。
額を床につけ、花を両手で頭上に掲げる。
「ケン、はじめまして。顔を上げて」
花を掲げたまま、声のするほうにゆっくりと顔を上げる。
視線が床を滑り、声の主を捕らえていく。
磨きこまれた靴、金糸や宝石が縫い付けられた黒い羽織。ウィンジョウの民族衣装で特徴的な帯には、精緻な模様がびっしりと織り込まれている。
「素敵な花だね。あそこに花瓶が用意されているから生けておくれ」
声の主――ウィー様と目が合う。
赤みを増した日の光の中で、滑らかな
涼やかな切れ長の目が俺を捉える。
俺は立ち上がり、深く一礼して姫の寝台に向かった。
寝台のすぐそばに用意された花瓶に花を生ける。花の位置を調節しながら姫の顔を窺う。
ばあやが言っていた通り、姫は静かに眠っているように見えた。顔色も悪くない。少しだけほっとしかけた時、ふと違和感を覚えた。
姫の栗色の髪が、なぜか色褪せて見える。
光の加減のせいだろうか、と花を見る。すると、ついさっきまで生き生きとしていた南国の花々が、弱々しく艶を失っていた。
まるで、長時間寒空に放り出した時のように。
そういえば、この部屋に漂う冷気はなんだろう。日当たりのいい部屋なのに、少し寒いくらいだ。
それは姫の近くでより強く感じる。
姫の方へ手を差し出す。
やはり、この冷気は姫から発しているみたいだ……。
「イスー様の容体が気になるのかね」
突然声を掛けられて、思わずびくりと身を震わせた。
それと同時に、自分が今、姫に向かって手を差し出していることに気がつく。これでは見ようによっては姫に触れようとしているみたいだ。
手を引っ込め、詫びの言葉を言いかけた時、ウィー様はすっと手を俺の口元に近づけ、制した。
「君の名前はイスー様から聞いているよ。子供のころから鍛錬に付き合ったりしているのだろう。イスー様と距離が近かった分、心配な気持ちが強いのだろうね」
穏やかで丁寧な声色。それなのに。
彼の全身から発する何かに気圧され、俺はなんの言葉も発することができずに俯いた。
「ご苦労様、ケン。イスー様のことは私が見守っているから大丈夫だよ」
やんわりと退室を促される。俺は腰を屈めて出口に向かい、入室した時と同じように床に額をつけて礼をした。
戸を閉めて立ち上がる。すると廊下の向こうからざわざわと声が聞こえてきた。
「もっと早く歩けんのか、三番町の魔術師。こちらがイスー様の部屋だ。ほら早くしろ!」
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