2.太陽の香り(2)
庭の先にある、ちょっとした木立を通り抜けたところに鍛錬場がある。
鍛錬場、といっても、平らにならした空き地と石造りの小さな物置があるだけだ。姫はここで師匠たちから武術や体操を習っている。
俺は姫と同い年ということもあり、たまに師匠立ち合いのもと武術の相手役をしたりする。
だが今日は正式な鍛錬の日ではないので、師匠もお付きのばあやもいない。
ここにいるのは姫と俺だけ。鍛錬中の姫の安全を守れるのは俺しかいないのだ。
「さ、まずは走りで勝負しましょう。ここから物置までね。はい、始めっ」
「始めっ」の「め」の時に姫は走り出した。慌てて俺も走る。本当は裸足のほうが走りやすいのだが、それを伝える間もなかった。
後を追い、追いつき、追い抜く。布靴が土を掴み、後ろで縛った髪の毛が揺れる。
物置の扉に手をつき振り返ると、目の前に迫った姫が突然、ぐらりと体勢を崩した。
姫が転んだ、と頭が認識するよりも早く駆け出す。姫の体を支えると、腕にずしりと衝撃が伝わり、目の前で髪の饅頭が大きく揺れた。
「イスー様っ」
なんとか転ぶ前に支えることができた。姫が顔を上げる。視界が饅頭から姫の顔に変わり、心の臓が飛び跳ねる。
俺の顔が近かったせいか、姫は驚いたような表情を見せた。そして、さあっと頬を染め、視線を逸らす。
それほどの距離を走ったわけではないのだが、これだけ頬が赤いということは、姫は相当力を入れて走ったのだろう。
「だ、大丈夫よ。ありがとう」
俺の手から離れ、はにかんだ。かと思うと悔しそうにぷうっと頬を膨らませる。
「あああ、転んでしまったのを抜きにしても、負けちゃったわ。ケン、こんなに走るの速かったかしら。ああもう、せっかくズルをして先に走り出したのにい」
「あはは、あれ、やっぱりズルだったんですね」
俺は鍛錬の時、「お姫様だから」といってわざと負けたりしない。姫はそういうことを望んでいないからだ。まあ、今はズルしたが。
以前は何をしても姫に負けていたが、最近は体操や武術で勝負をしても俺が勝つことが多くなった。とはいえ負けん気の強い姫なら、そのくらいのほうが良い相手役と思ってくれるのではないかな、なんて思っている。
どんなことでもいい。姫の役に立てるのならば嬉しい。
姫がふと真顔になり、頭を軽く振った。すると饅頭が崩れ、腰まである髪の毛の一房がだらりと落ちた。
「あら、崩れちゃった」
俺に背を向け、武骨な簪を引き抜く。
簪に縛られていた髪が解放され、背中に滑り落ちる。
栗色の豊かな髪は、日の光を受けて黄金色に縁どられている。
「ぎゃあ、ぎょういっわい、わしうわおう」
簪を口にくわえ、頭頂部でぐるぐると髪をねじり上げながら話しかけてきた。「じゃあ、もう一回走るわよう」と聞き取れた自分が凄いと思う。
どうやら今日は走りたい気分らしい。ほっとした。師匠のいないところで武術の手合わせをするのは危険だからだ。
視線を落とす。
自分の両手を見る。
俺、いつの間に、姫を簡単に支えられるほど大きな手になっていたのだろう。
鍛錬場に来てから、一体何本走っただろう。途中から数えるのが面倒になってしまった。
まだ風が涼しい季節だというのに、首筋や背中に汗が流れる。頬に張りついた後れ毛をつまんで取ったとき、指と髪が視界に入った。
日に焼けた、ささくれだらけの指。土で汚れた爪。艶のない赤茶色の髪。
普段なら気にも留めないそれらを見て、思い出す。
姫の許嫁のウィー様。
何度か見かけたことがある彼は、ウィンジョウ国人の血を引く人特有の、滑らかな
金糸や宝石をふんだんに用いた、一目で豪商とわかる服を見事に着こなし、王女である姫の前でも堂々と振る舞う。
あの方なら、きっと姫を幸せにしてくれる。
姫の隣に立つのは、ウィー様のように美しく豊かな人でなければ。
そんな思考に入り込んでいると、すぐそばで姫が拳を振り上げて叫んだ。
「くうう。全然勝てないい。でも勝負はこれからよっ。さあもう一ぽ」
「イスー様」
遠くから良く通る女性の声が聞こえた。姫がびくりと体を震わせる。
二人で声のした方向を見る。案の定、ばあやが険しい顔をしてこちらに向かっていた。
古風な
「イスー様。何度も申し上げておりますが、王女の皆様がそれぞれにお城をお持ちなのは、降嫁された家で立派に采配を振るうことができるよう、しっかりご自分のお城で練習するためです。決して奴隷とかけっこをするためではありませんっ」
「わかっているわよ。ちょっとした息抜きじゃない」
「イスー様の場合、既に抜く息もございませんよ。そのご様子ですと、今夜のご予定をお忘れでしょう」
ばあやの言葉に、姫は「げっ」という声を漏らした。
「お、お、覚えている、わ。中央宮殿で、お父様とお食事……よね」
心底嫌そうな顔をする。そんなに露骨に表情に出していいのだろうかと心配になるくらいだ。
ばあやは一礼し、わっさわっさと歩き出した。その後を姫がとぼとぼと続く。俺はどうしたものかと思ったが、とりあえず姫の三歩後ろを歩いた。
木立を抜け、庭に出る。鍛錬場に来たときよりも太陽が深い色に変わっている。
風が吹く。穏やかな、
姫を見る。
くたくたの服を着て髪を潰れた饅頭のように結い、俺と走り比べをして本気で悔しがる。
それでも姫は、「姫」なのだ。
あと四年で、この城は「イスー様の城」ではなくなる。
姫は、十六歳になったらウィー様のもとへ嫁がれるからだ。
この城で働く者たちのその後は様々だ。姫のお世話係として嫁ぎ先についていく者、管理のため城に残る者、別の働き口を探す者など。
俺はどうするか決めていない。できることならずっと姫のそばで働かせてほしいが、自分から希望を述べるつもりはない。
もし姫が俺を必要としていないのならば、仕方がない。
空を見上げる。
太陽の眩しさに目を細める。どんなに穏やかな光に見えても、太陽は太陽なのだ。
そう。
どんなにその輝きに心奪われても、暖かさに安らぎを覚えても、姿を追い求めても、太陽は遥か遠く、手が届くわけがない。
そして太陽に相応しいのは、
それはまるで。
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