1.向日葵の想い【十二歳】
1.太陽の香り(1)
花壇の手入れが終わって大きく伸びをすると、草の香りを含んだ風が汗ばんだ額をひんやりと撫でていった。
柔らかで心地よい、
そうか。
俺は今、十二歳だから、イスー姫の城に来て四回目の暖季を迎えることができた、ということか。
俺はこの季節が好きだ。風も日差しも穏やかで過ごしやすいから、というのもあるが、初めて姫に出逢ったのが暖季だったから、というのが最大の理由だ。
「あ、あの、ケン」
傍らにいた奴隷仲間の少年が、怯えたような目をして俺の名を呼んだ。
「手を休めるなよ。同じ班の奴がさぼると、おいらまで
周りに聞こえないよう、小声で
彼は城に来たばかりだ。その前はどこかの屋敷で働いていたらしいので、そこでの習慣、というか「世間の常識」が、まだ染みついているようだ。
確か八歳と聞いた。丁度俺がこの城に来た時と同じくらいの歳だ。彼もまた、それなりに厳しい八年間を過ごしてきたのだろう。
俺は少年と目線を合わせた。
「ここはイスー様の城だよ。このくらいで折檻されたりはしない」
「そうそう。よほどのことでなければ、折檻なんてことにはならないわ。人の体を痛めつけて従わせるのなんて嫌だもの」
背後から物凄く自然に話しかけられ、思わず「うんうん」と相槌を打ちそうになる。
少年は凍りついたような目で俺の背後を見、次の瞬間、鼠捕りの罠のように飛び跳ねた。
そして額を地面に叩きつけるように礼の姿勢を取る。
そこでようやく、背後の人物が姫であることに気づいた。
ああ、今日も気配に気づけなかった。振り返ると、姫が腰に手を当てながら俺を見てにやにやしていた。
アガラッツ王国の王女にして、この城の城主であるイスー姫。今日もまた、世間が思う「お姫様」とは正反対の道をひた走るような姿をしている。
くたくたの上着と異国風の太いズボンは、どちらも男物で、姫お気に入りの普段着だ。いわゆるお姫様っぽいドレスを着ているところなど、四年間で数回しか見たことがない。
髪は潰れた饅頭を頭に載せたような形に結い上げられており、折角の豊かな栗色の髪が台無しだ。
饅頭を束ねる
「ケン。今、私の気配に気づいていなかったでしょう」
「はい……。ああ、今日も俺の負けです」
「よし。じゃあ、今日も私の鍛錬につきあう、ということで」
突然現れる姫の気配に、俺が気づけなかったら「姫の勝ち」、気づいて挨拶ができたら「俺の勝ち」。
いつの頃からか始まったこの「勝負」に負けたので、俺は姫の鍛錬につきあわ「される」ことになった。
だから自らの立場を
それを見た姫が、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
その愛らしい表情に心が吸い取られないよう、わざとらしいため息をついて俯き、視線を逸らす。
鍛錬につきあうことが、姫と共に過ごすことが、嫌なわけがない。
でも、俺の立場では「げんなりしているが、命令には従う」という態度でなければならないのだ。
姫は少年のそばに膝をつき、微笑んだ。
「顔を上げて。私と目が合った時は、立ったまま少しだけ腰を折ってくれれば充分なのよ。そうすれば私がみんなの顔を見られるでしょ」
少年が恐る恐るといった様子で顔を上げる。
姫と目が合う。微笑む姫を見て、彼は口を半開きにしたまま固まった。
あとで彼に教えておかなければ。
この城では世間の「常識」は通用しない。奴隷だからと蔑まれることはないし、学びの機会も、ある程度の自由も与えられる。だからこそ皆、そういう状況に甘えることなく、誇りと向上心を持って働いているのだ、と。
「さあケン、今日も鍛えるわよう」
勢いよく立ち上がり、俺に向かって笑みを見せた。
白く粒のそろった歯が、ちらりと覗く。
王族らしくぴんと背筋を伸ばし、歩き出す。俺は少年に後片付けを頼んだ後、姫の後を追った。
淡い色をした暖季の太陽が、ほかほかと頭を温める。
庭師が姫の姿を認め、挨拶をした。彼が整えていた木の周辺から、鮮やかな緑の匂いが漂っている。
俺は姫の三歩後ろを歩いていた。
八歳の時から、こうして何度も姫の後姿を見てきたな、と思う。
八歳の俺には同い年の姫が物凄く大きく見えた。
身分の高さからくる貫禄のせいもあるが、もっと物理的な理由の方が大きい。
姫は背が高く、武術を嗜んでいるせいか同年代の子供よりも体格がよかったのだ。
俺、いつの間に姫と同じ背丈になっていたのだろう。
姫の頭上で、潰れた饅頭が揺れている。
饅頭を支える首筋が目に入る。後れ毛のかかった首筋は、すんなりと細く、長く、暖季の日差しを受けて
視線を逸らす。自分の視線がひどく汚らわしいような気がして、姫を視界に入れてはいけないと思う。
息を止め、奥歯を噛み、己の心を押しつぶす。
「ケン、どうしたの。お腹痛いのかしら」
突然振り返った姫の大きな瞳が、俺の視界に飛び込んでくる。突然のことに心の臓が変な音を立てた。
どうやら今の俺の表情が、腹痛に耐えているように見えたらしい。
「あ、いや、大丈夫です。お気遣いいただきありがとうございます。俺、腹は丈夫なんですよ」
俺の腹の強さなどどうでもいいのに、ついそんなことを言った。
「あはは、そうなのね。私もよ。この間、城を抜け出して市場に行って、肉の串揚げを食べたのだけど、七本食べたところで市場のおかみさんに止められちゃったの。でもその日のウィーさんとの晩餐も全部食べられたし、お腹も痛くならなかったわ」
鼻を膨らませ、自慢げに笑う。
確かにそれは凄いことだ。姫の言う串揚げのことは俺も知っている。あれを七本なんて、大人の男でも無理だ。そのうえ一般的な晩餐は確か八皿。姫が自慢したくなるのも無理はない。
だが。
「ウィー様、との、晩餐、ですか」
「そう」
姫の許嫁の名前が頭に響く。
言葉に詰まり、顔を上げ、姫に向かって微笑みかける。
「それは凄いことですね。さすがです。ですが、晩餐前の間食はお控えになったほうがよいのではないでしょうか。そのほうがウィー様とのお食事の時間がより楽しいものになると思いますよ」
普通なら「奴隷ごときが」と言われかねない発言だが、姫は誰の意見でも、納得できるものなら素直に受け入れる。
だが俺が話し終わると、姫の表情からすうっと笑顔が消えた。
「間食をしなければ、ウィーさんとの食事がより楽しくなる、と」
なぜか「より」に力を込める。
「はい」
「それって、ウィーさんと一緒に食事をするのは楽しいものだ、という前提よね」
「え、ええ、はい」
「そう」
姫は立ち止まり、大きな目で俺を見つめた。
目を逸らしてはいけないような気がして、戸惑いながらも見つめ返す。
しばらく見つめ合う状態で時間が過ぎたが、やがて姫はふいっと背を向け、再び歩き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます