氷華の姫に焔の果実を

玖珂李奈

0.紅緋色の驟雨

 頂上に向かって岩山を歩いていると、右肩に鋭い熱を感じた。

 肩を見る。シュウッという音と共に、ミズヒツジの毛で織られた分厚いマントから細い湯気が立っていた。


 俺は急いで近くの岩陰に身を潜めた。頂上を目指すことに夢中で、周囲の変化に気づけなかった自分の甘さにぞっとする。

 そうだ。ここは住み慣れた城ではないのだ。


 空を見上げる。

 つい先ほどまで清々すがすがしい青色をしていた空が、濁った茜色から暗赤色へと変わっていく。

 黒い雲が広がる。重量感のある濃密な雲の中を、金色の光がうねるように走る。

 気温が一気に上昇する。

 そしてその雲を突き破って、糸状の火が一斉に降り注いできた。


 雨のように降る幾筋もの細い火が、音もなく地表に吸い込まれていく。


――島全体を形作っている岩は、この火を養分にして育っている。一度地表に落ちた火は岩に吸収され、表面に熱を残さない。

 だから火が降ってきたら、岩陰で小さくなって止むのを待てばいい。そうすれば火傷せず山頂に辿り着ける。


 そう、聞いていた。

 だが。


 目の前を何度も火がかすめる。頬が、唇が、燃えるように熱くなる。額の汗は流れる隙もなく乾き、息を吸うたびに熱が鼻と喉を焼く。

 顔を伏せ、マントで全身を隠すように屈み込む。

 火の粉から体を守ってくれるミズヒツジのマントは、気温の高い場所では湿気を吐き出す。息をしても湿った薄い空気が入ってくるばかりで、肺が潰れそうに苦しくなる。


 暑い。

 熱い。

 もう、嫌だ。


 奥歯を強く噛みしめ、己の弱さをり潰す。

 何を考えているんだ、俺は。この程度の熱で苦しがっているなんて贅沢だ。火の雨が降る時間はそう長くない。もう少し我慢すればいいだけではないか。

 八年間、病に臥せっている姫のほうが、ずっと、ずっと、苦しいはずだ。


 まだ元気だった頃の姫を思い出す。

 快活で、気さくで、優しい姫。王女という身分でありながら、男物のズボンを穿き、馬に乗り、武術を嗜んでいた姫。

 どこの馬の骨とも知れぬ奴隷の俺に、同い年だという理由だけで親しく話しかけてくれ、武術と学問を授けてくれた姫。

 栗色の豊かな髪と、輝くような笑顔が美しかった姫。


 あの頃の笑顔を取り戻したい。

 そのためには、この山のいただきにあるという「火焔かえんの実」が必要だ。


 少しだけ顔を上げ、様子を窺う。眼球が熱を受けて鈍く痛む。

 相変わらず暑いが、火の勢いは弱まってきたようだ。止んだら急いで登山を再開しなければ。

 こうしている間にも、病は着実に姫の命を削っているのだから。




 もうしばらくお待ちくださいませ、イスー様。

 火焔の実は必ず持ち帰りますから。

 それで作った薬をお飲みになれば、八年にわたる苦しみは終わりを告げるはずです。

 そうしましたら、国一番の商人と名高い、ウィー様のもとへ嫁ぐことができるでしょう。

 その時のイスー様はきっと、ハクトウバラの白い花弁を敷き詰めた庭園の中で、誰よりも、何よりも、美しく光り輝くのでしょうね。


 俺はイスー様の幸せのためなら、なんだってできます。

 国王陛下から下された無茶な命令にも従えます。

 この身を危険に晒すことも、命を投げ打つこともできます。

 なぜならば。


 奴隷として城に買われた八歳の時から十五年間、俺はずっと。

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