第10話 クオリアは夢を見られないのですか?
「ん……」
――夢を見ていた。
双葉はぼんやりとした頭で、そんな風に現状の確認に努める。
むくりと身体を起こし、スマホで時刻を確認する。
五時三十分と少し経過。
いつもの起床時間よりもずいぶんと早い。
しかし、もう一度寝ようという気にはなれなかった。
「ふあ……」
大きく伸びをして、二段ベッドから降りる。
たまに足を踏み外して二階から一気に転げ落ちることもあるので、慎重に、一歩一歩、梯子を降る。
無事に降り立つことが出来たなら、今度は締め切ったカーテンを開けて窓から光を部屋に招き入れる。
これは双葉のルーティンワークだった。
「あ」
そこで、目撃する。
二階のこの部屋を見つめる影。
薄暗い中でも、背格好と……その顔を見れば、分からないわけがない。
「…………」
青年はばつが悪そうに後ろ頭をかいて顔を背けた。
双葉は息を吐き、窓を開く。
「朝から何を?」
「あ、いや。あれだ。日課でさ。ランニング」
嘘ではない。
双葉も知っていた。
青年――メグルは毎朝、欠かさずにランニングを行う。
近くのスーパーに置いてある激安のジャージとランニングシューズはくたくたで、傍目から見ても使い込んでいることは簡単に分かるだろう。
何より、双葉は彼のその日課を知っている。
彼はずいぶんと前から――それこそ、あの日からずっと、その日課を続けている。
メグルとは家が近所。今しがた家を出て、そしてこの部屋を見上げていたのだろう。
「……未練がましい奴」
「え? なんだって?」
聞き返されて、双葉は首を振った。
――違う。あいつだけじゃない。私も。どこまでも。
「なんでもない」
窓の"さん"に肩肘をついて、頬杖を作って青年を見やった。
「寄ってく?」
「え?」
「……珈琲ぐらい、作るけど」
「……はい」
「……じゃ、開けるからちょっと待ってて」
窓を閉め、それから部屋の中央へ。
テーブルに乗せていた眼鏡を拾って付ける。
二段ベッドを見上げて、ため息。
「未練がましい奴」
***
「お! めぐるちゃん! 朝からどうしたの」
目が覚めた双葉の父が店内にやって来る。にこやかな笑顔とは対照的に、その手には金属バットが握られていた。
大方、店内で音がしたから、泥棒かなにかと勘違いしたのだろう。
そんな風に父の思惑を察した双葉は「残念でした」と、平たんな口調で言った。
「ランニングに行こうと思ったら」
淹れられた珈琲を口にしながら、メグルは横目でちらりと双葉を見る。
双葉はむっとしたような顔をして、もう一杯珈琲を作った。
「ありがとん、愛しの娘」
「私のよ」
カウンターに座るメグルとは離れたテーブル席についた双葉は、そっとカップを口に付けた。
――苦い。
「っ」
「どうした? 双葉」
せっせと自分の珈琲を入れる父からの言葉。
双葉は首を振って、「なんでもない」と強く言い返す。
――言ってないよね。
「……無理すんなよ」
ほっと一息ついたのもつかの間。
メグルは素知らぬ顔であらぬ方向を見ながら、小さく、しかし聞こえるような声量でそんなことを言う。
「無理ってなによ」
「別に……」
双葉も分かっていた。
メグルも分かっていた。
当然、双葉の父親も分かっていた。
「夏だねぇ……」
店内に訪れる静寂。
つんざくような蝉の鳴き声が、解放された窓から聞こえてくる。
「冷房入れようか」
「いい」
父の言葉に、双葉は言い返す。
熱いからじゃない。
彼女の父は、蝉の声を聞きたがっていない。
「夏だねぇ……」
それから、特にこれといった会話はなかった。
***
夏休みはもうあと一週間で終わる。
殆どの学生は自宅で大量に残った宿題に四苦八苦しながら、集中できず、結果としてネットサーフィンやアプリゲームに興じていることだろう。
かくいうAI研にとってもそれは変わらなかった。
夏休みだというのに部室に集まった面々は、顔を突き合わせてせっせと問題を解いている。
テーブルの中央、入り口から見て最奥に一台のモニタと仰々しい設備が整っている。それはAI研の生み出した人工知能"クオリア"そのものである。
クオリアはモニタの向こう側で立ち竦み、汗を垂らしながら宿題と向き合う部員たちを見ていた。
『提案があります』
そして、そんな風に静寂を突き破る。
『問題の表示されたタブレットをカメラに写してくだされば、即座に回答を提示可能です』
「え? まじ! やったクーたんそれナイスアイディ――」
「AIなんぞに解かせたら速攻バレるぞ」
メグルが言うと、真理衣は押し黙って「分かってる」と悔しそうに、歯がゆそうに唇を尖らせた。
AI全盛期と呼ばれる現代、課題やテストと呼ばれるものは昔と比べて大きく様変わりをしていた。
より読解力の求められる設問に、ただ一つの答えが求められない解答。
数学一つとっても証明問題をはじめとしたものがその大半を占め、計算で答えを導き、その上で国語力が必要とされる現代。
真理衣は持っていたタブレットを机に放り、「もーやだ!」と駄々をこねる。
「大体、こんなことして何の意味があるってのよ! どうせ大人になったらみーんな、AIに計算させるんじゃん! 意味ないって!」
愛人は足をバタバタとさせる真理衣を見やり、くすくすと笑った。
「なにさ」
「真理衣、昨日も同じこと言ってた」
「だってさ――」
「人間に求められる分野が狭くなったんだよ」
メグルの言葉と、不満げに細められた真理衣の瞳。
分かっている。
そんなこと、言われなくても分かってる。
言葉がなくとも、そんな真理衣の声が聞こえた気がした。
「統計学的に思考可能な領域は、AIに負けた。なら、人間はそういったAIを管理する側に回るか、あるいはまだAIが未開拓の地へ行くしかない」
「だから、学校の宿題がこうなるのは仕方ないって?」
「昔より楽だって、父さんは言ってたぞ。昔は紙とペンで延々と問題を解かされたって話だ」
「あたしはぽちぽちするよりそっちのがいい」
「どうだか。結局、あっちにいったらこっちが恋しくなる。そんなもんだよ。人間ってさ」
「――本当に?」
意外な声が、その会話を断ち切る。
部屋の奥で読書に勤しんでいた双葉からのものだった。
双葉は眼鏡の奥に鋭い眼光を光らせ、にらみつけるように、メグルのことを見ている。
「誰も、分からない。誰も、あっちに行きたくて、本当に行けた人なんていない。誰もが"あっちに行けた気になる"から、現実に絶望する。本当は、"まだこっち側"だって言うのにも関わらず。……違う?」
「さあな」
メグルはちらりとも考えるそぶりを見せず、双葉に背を向けて宿題に向き直る。
双葉もまた、息を一度だけ吐き出して読書に戻った。
誰もが押し黙る。
双葉にあった、静かな迫力に気圧されてしまったのか。
あるいは、メグルの素っ気ない態度に思うところがあったのか。
真理衣と愛人はそれぞれ目配せして、困ったように眉自利を下げた。
そこで――。
『クオリアにも分かりませんか?』
再び、静寂を破ったのはそんな電子音だった。
『クオリアは今、メグルくんたちにもらった"瞳"で部室を見ています。クオリアは今、メグルくんたちにもらった"耳"で会話を聞いています。クオリアの身体は、双葉さんに描いていただきました。そんなクオリアには、"そっち"に行くことは出来ませんか?』
クオリアの顔はいつもと同じ、平たんな、無表情なそれ。
発せられる合成音声もまた、抑揚のない、感情を感じさせないもの。
しかしながら、メグルはそこに"何か"を感じた。
ポンコツで、AIの癖にどうしたって優秀に思えないクオリア。
でも、それは、その声には、その顔には――。
「クオ――」
「――そう、だね。……そっか……クオリアさんが行けるのなら、うん」
「……釘宮?」
何か思い至ったのか。
顎に手を当てて。
何度も頷くようにして、双葉は押し黙る。
それからクオリアへ、真理衣へ、愛人へと視線を移し……最後に、メグルを見た。
「なんだよ」
「クオリアさんを、連れ出すことって出来る?」
「はあ……?」
あと一週間で夏休みが終わる。
新学期を目前に控えたAI研に、一陣の風が吹き込んだ。
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