第6話 月が綺麗とはどういう意味なのですか?
季節外れの豪雨が窓を強く叩いていた。
部室の隅にある定位置で読書に勤しんでいた双葉だったが、いつものように物静かにと言うわけではなく、つま先でコツコツと床を叩いている。
「…………」
――雨は、嫌いだ。
双葉はパタン、と勢いよく本を閉じ、雨粒で濡れる窓に視線を向けた。
雨量だけではなく風も強い。台風とまではいかないまでも、それに近い状況には間違いなかった。
実際殆ど多くの生徒は放課後になっても帰らず、教室に居残って駄弁っている。
あわよくば雨脚が弱まらないか、あるいは車による親の迎えを待っているか。
そんな中、AI研部室は静かなものだった。
いつものように姦しい女性の声も、静かに談笑する男二人の声も、そして甲高い合成音声の音もしない。
聴こえるのは雨音と窓が揺れる音だけ。
『――双葉さん』
双葉は身体をびくりと震わせた。
見れば、先ほどまで消灯していたパソコンモニタが点灯し、青いオーディオスぺクトラムが揺れている。
「……なに」
『メグルくんたちは今日はまだ来られないのでしょうか』
「……さあね」
――ただでさえ、いらいらしているのに。
双葉はそんな風に思いながら、再び本を開く。
これは彼女なりのコミュニケーション手段。
こうしていれば親しくない相手だと、話しかけて来ることはない。
『双葉さん』
「…………」
『メグルくんたちは、来ないのでしょうか』
「……はぁ」
双葉は本を閉じ、立ち上がると中央の机に近寄った。
「まだ来ない」
『なぜでしょうか』
「説教と補修。めぐるたち、揃いも揃って小テストの追試から逃げまくってたけど、ついに捕まったのよ。日本史の先生、かなり厳しいからね。一ヶ月分の小テスト合格ってなると、今日中には終わらないでしょ」
『なぜですか』
「なぜって、それは時間的な――」
『違います』
無機質で、平たんな声色。
しかし双葉はその声に押し留められていた。
『双葉さんは、普段めぐるくんのことを「名高くん」と呼びます』
「え」
『なのに今、「めぐる」と呼び捨てで呼びました。クオリアは、これがおかしいのではないかと提言します』
「……そう。呼んだの、私」
双葉はモニタに背を向けて、今度は窓辺に寄った。
雨粒に濡れて冷たい窓に触れ、ふっ、と息を吐く。
「呼んでたの私」
『メグルくんのことでしょうか』
「そう。昔、小さい頃、ね。幼馴染――っていうとあれだけど、似たようなもん。小さい頃、よく三人で遊んでいたから」
『では、なぜ呼び方を変えたのですか?』
「さあ……なんでだろ」
双葉はくるりと反転し、窓に背中を預けて天井を見上げた。
古い記憶を呼び起こすように、目を瞑る。
「その、クオリア、さんはさ」
『はい』
「"I love you."を日本語で訳すとどうなるか分かる?」
『"愛している"となります』
「いいえ、違うわ」
双葉は定位置の椅子に置いてあった本を手に取り、表紙を眺めながら小さく呟いた。
「日本人はね、愛している人に愛してるって直接言わない」
それはあまりにも有名な比喩表現。
日本人であれば、何時か何処かのタイミングで、必ず耳にしたことがある慣用句。
「だから、"I love you."を日本語に訳すとき、それは"月が綺麗ですね"とでもしておけば事足りるのよ」
『確かにそれは、日本の有名な文豪に纏わる逸話ですね。しかし、"愛している"という訳が間違っているというわけではありません。あくまでその文豪が詩的に表現を変えたというだけのものです。"I love you."は"愛している"で間違いありません』
「……ふふ、なんだ。似てるのね、貴方たち」
『申し訳ありません。クオリアは確かにAIですが、クオリアはクオリアとして独立した存在であり、他に同じと言える存在はありません』
「違うわ。作った人と似てるって言ったの。……めぐるも、昔同じように答えてた。私もね」
双葉は席に着くと両腕を組んで机に置き、右耳を付けるようにして突っ伏した。
「クオリアさん。その文豪の逸話って、出典となる作品何だかわかる?」
『いいえ。クオリアのデータには明確な出典を示すようなものは見つかりませんでした』
「そう。この逸話は有名だけど、本当にあの文豪が発した言葉であるかは定かじゃないの」
そういった言葉は珍しくない、と双葉は思う。
何時どこで発言したかもわかっていない彼ら。公的な記録に残っていないのに、それでも人から人へ、数多の想いを乗せて運ぶ言葉という船に乗って、彼らは現代社会を生きる彼女たちの元へとやって来る。
「でも、誰もが彼が言ったと疑っていない。これって、どういうことか分かる?」
『いいえ。クオリアには分かりません』
「彼の作品をみんなが知っているからこそ……紛れもなくこの例えは彼の中から生み出されたのだろうって、信じて疑わないってことだと。私はそう思う」
『申し訳ありません。クオリアには、文章だけを読んで、その作品の著者を推測することが出来ません。ですので、双葉さんのおっしゃっている言葉の意味は分かりますが、理解はできないと答える他ないと考えます』
「本当にそっくり。同じ言葉を聞いた気がするもの。『オレは文章を読んで作者を当てるゲームなんてできない』って。……私も、そう思うわ」
双葉の瞼は落ちていた。
夢現の中、遠くからその声は聞こえていた。
すでに双葉はそれが誰の声であるのか分からなくなっていた。
何時の声なのか分からなくなっていた。
何時か、何処かで聴いた、知っている人の声。
『月が綺麗だね』
『そうか?』
『もう! 趣ないんだから! 和葉もそう思うよねっ?』
「――葉……」
***
「お、……きてますねはい」
眼前にあった男の顔に、双葉は眉間に皺をよせ、そっと身体を起こした。
睨みつけるような視線を送るが、男はどこ吹く風のような態度でパソコンに触れている。
窓の外は僅かな明るさも消え、常闇の中にある。
雨音は止んでいた。
「……みんなは」
「帰ったよ。お前、ぐーすか寝てるからさ。……珍しい、よな?」
「さあ。でも、よく寝たのは本当」
双葉は立ち上がるとぐっ、と身体を伸ばす。
時計を見るとすでに七時を回っていた。
そろそろ、教師たちも残業を終え、生徒は学内から締め出される時間だ。
「……かちゃかちゃ、何してんの」
「クオリアに異常がないか見てんだよ。外からはアクセスできないから、ここでするしかない。毎日やってるから、見たことあるだろ」
「ない」
「あ、っそ」
――嘘だ。前にも聞いたことある。
クオリアは複製不可能なAIであるとメグルは常日頃から口にする。
不可能と言うより、必ず「しないように」している。
名高輪が作ろうとしているのは、人間と同程度の思考をする存在ではない。
人間"そのもの"だ。
であれば、同一の存在が二つ以上存在して良いわけがない。
双葉は窓辺に立ち、夜の闇に浮かぶ月を見上げた。
眩しいほどに輝く球体に、その視線は釘付けとなる。
「……っし。終わりっと。オレ帰るけど」
「うん」
「帰らないのか?」
「帰る」
「……なら、一緒に――」
双葉の近くにメグルが近寄ったその時、すでに聞きなれた合成音声が聴こえた。
そしてそれは、双葉にとって「過去に聞いたものと」同じものであるような錯覚を起こす。
『メグルくん、月が綺麗ですね』
「あ?」
見えていた幻は消失し、双葉の視界に広がるのはただの生物準備室。
声以外に、何の音だって聴こえやしない。
窓を閉め切っているから、冷たい風が頬を撫でることもない。
古民家でもなければ、屋外でもない、そして「あの日」でもなかった。
「いきなりどうしたクオリア」
『いえ……双葉さん。伝わりませんでした』
「ふふ、みたいね」
「……え? あれ? お前ら、話したことあったっけ?」
慌てふためくメグルに、双葉は「さあね」と答えて一人出口へ向かった。
その手には机の上に置いてあった部屋のカギが握られてある。
「あ、おい! ちょっと待てって! ってか、教えろよ! 釘宮、お前いつからクオリアと――」
「さあ? とりあえず……"月が綺麗だったから"とでも――そう、答えておくわ」
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