第2話 昭和① ラーメン食べて1両きりのディーゼルカーに乗り込んで旅は始まった

 昭和58年のある夏の日。


 その日は日曜日だったが、母親は朝から家にいなかった。

 西郷団地の実家に帰ったのだと、豊は察した。


 前の晩遅くか未明頃か、父親と母親が茶の間で激しく口論する最中に豊は目が覚めた。

 しかし、それはよくある事。

 蒸し暑い夜で、もうとっくに止まっていた足元の扇風機のタイマーをセットし直し、またすぐに寝た。

 しかし眠りに入る前には、胸が強く締め付けられるような悲しさを感じ、その胸を両腕で包み、自分をなだめるように体を丸くして目を閉じた。


 その年に入ってから、両親の仲が急に悪くなるのを豊は子供心にも感じ取っていた。

 もとから少なかった二人の間の会話が途絶え、休日に家族で山形屋やジャングルパークに行く事も全くなくなっていた。

 母親は、諍いの苛立ちを豊かに向けるかのように、彼に辛く当たり、例えば以前ならテストで70点を取って帰宅しても、


「もうひと頑張りだったのにね」


と微笑んでくれたのに、それが、


「またこんな点を取って来て!」


などと叱責したり、以前は自由に見る事ができた夕方のアニメ番組も、


「こんなのばかり見ていて勉強しないからテストができないの!」


と、コードを乱暴に引っ張りコンセントを抜いてテレビを消したりした。


 平日の父親の帰りは、日を追うごとに遅くなっていった。時には、豊が寝た後に帰宅する事もあった。

 覚えているのは、休日も、背広を着て出勤していく父親の背中。

 もともと父親は、それよりずっと以前から家を不在にする事が多かった。だがそれは、仕事に打ち込んでいたためだったのは、確からしい。

 当時市内の地場商社の課長だった父親は、真面目で厳格で無口で、家庭よりも何よりも仕事を最優先にしていた。

 豊が抱く当時の父親のイメージは、庭に面した六畳間にテーブルを出し、会社から持ち帰った書類を広げ、常に煙草の煙を吐き出し続け、しかめっ面をして貧乏ゆすりまでしていた、その背中。


 少ない楽しみのひとつが、ビールで晩酌をしながら巨人戦のナイター中継を見る事だったが、それでも難しい顔をして、巨人に点が入った時に嬉しそうに身体を左右に揺する程度。

 豊にとっては、ただおっかなく、近寄りがたい存在。

 叱られた事すらほとんど無かったにもかかわらず。


 そのように家庭を顧みなかった事が、母親との不仲の根本的な原因だったのは容易に想像できたが、実際に後になってから、それを母親から幾度となく愚痴として聞かされた。

 その、取っ付きにくくて怖い父親と家で二人きりとなってしまった、豊の心細さ。


 朝食はテーブルの上に、冷めたご飯と味噌汁、前晩の残りのおかずが用意してあったから良かったが、昼食はどうなるのだろうか。

 父親を変に刺激しそうで外に遊びに行くとも言えず、もう読んでしまった『学研の学習』などを流し読みするだけだったが、その内容は全く頭に入ってこない。

 時間だけはゆっくり経過して昼になり、腹も空き始めた頃、父親が部屋に入ってきた。


「父さんな、これから加世田に行くけど、一緒に来るか? 来るな?」


 加世田には、父親の実家があった。

 父方の祖父母はすでに亡くなっていたが、伯母夫婦と高校生だった一番下の従姉が住んでいた。

(苦手な父親と一緒に加世田に行っても、年の離れた従姉はこの頃遊んでくれなくなったし、行きたくないなぁ)

 そう逡巡する豊の胸中など無視して、父親は家中の鍵をかけ始めた。


 加世田へは、いつものように父親の運転する車で行くのかと思ったが、そのまま歩いて薬師の家を出た。

 校庭の隅の、林のように樹々が繁る一角で蝉がせわしく鳴くのを聞きながら、西田小の側を通り、西田本通りのラーメン店で昼食。

 食事を終え、閑散とした西鹿児島駅西口までさらに歩いていったが、家を出てからそれまでは、二人ともほとんど無言だった。


 西駅西口の小さい窓口で、加世田までの切符を購入。


 よく見る国鉄の切符は、子供用は大人用と同じ券面に「小」と赤くスタンプが押してあった。しかし豊が渡された子供用の切符は、大人用の切符の端を鋏で切り落としたものだった。

 先を行く父親の背中を追いかけ、湿った匂いのする地下道を抜けて、特急列車も発着する5番のりばに上がり、目にした光景。

 長いホームにぽつんと、どこか肩身狭そうに停まる、全身朱色に紺色の帯を巻いた一両きりのディーゼルカー。

 車体の側面には、緑地に白の毛筆体で「枕崎行」と書かれた行き先札。

 それを見るなり、豊は父親に聞いた。


「父さん、この汽車、何?」


 薄黒く汚れてもいたし、何両も連結した周りの国鉄の列車と比べて、明らかに異質だった。


「南薩線よ、南薩線。知らんのか?」


 ぶっきらぼうにただそれだけ答え、乗り込んだ。豊は黙って後に続いた。

 室内灯が全て消された客室は、暗かった。

 窓は全て開け放され、その向こうに四角く切り取られて広がる、真夏の太陽に照らされた西駅の構内。

 車内には扇風機さえなく、窓の外から鉄と油とディーゼルエンジンの排気の匂いの混じった熱い空気が流れてくるだけ。

 黒光りした板張りの床からも、油のような独特の匂いがした。

 緑色のビニールレザーの窮屈な座席が並んでおり、だいたい半分ほどのボックスが埋まっていた。

 父親はボックスのひとつに腰を下ろし、豊は、その斜向かいに座った。

 父親は、胸ポケットの煙草の箱から一本取り出し、ライターで火を点けた。


 南薩線のディーゼルカーは、禁煙車でもなく、そもそもその当時は禁煙車というものすらほとんど無かったと思うが、それにも関わらず南薩線の座席には灰皿が無かった。


 父親は構わず、灰を窓の下に落とし、吸い終わると窓框でもみ消し、そのまま下の線路に落とした。

 今思えば、当時でも表向きは認められないマナー違反の行為ではあっただろうが、黙認はされていたと思う。

 そんな時代だった。


 カラカラカラカラカラ……


 程なくして、発車を知らせる電子ベルの音が流れた。深い息を吐き、身体を左右に揺する父親。

 豊は不思議に感じた。


(あれ、父さん、機嫌が良い?)


 身体を左右に揺するのは、機嫌の良い現れだと思っていたからだ。

 しかし父親は相変わらず難しい顔をしたまま、今度は腕組みをしだした。

 ベルが止み、ディーゼルエンジンの音を高鳴らせて、一両きりのディーゼルカーは、ゆっくりと動きだした。

 西駅を出て曙陸橋をくぐり、左に国鉄や専売公社の工場を見ながら右へ大きくカーブして指宿枕崎線と別れ、鹿児島本線をのんびりと走っていく。

 寺之下の踏切を過ぎると、急に街並みが途絶えて緑の多い車窓となり、流れ込んでくる風もいくらか涼しくなった。

 上り坂になったせいか、余計に速度は落ちたが、それでもそれなりに走っていく。


 ガタン、ゴトン……ガタン、ゴトン……


 揺れも少なく、単調にディーゼルカーはレールを刻む。

 ふと豊は、父親の眼が柔らかくなったように感じた。どこか楽しげでいるような。

 やはり、普段と違って気持ちが弛緩しているようだった。

 ディーゼルカーは、トンネルに入った時だけ車内灯が点いた。古ぼけた室内を照らし出す、白熱灯の黄色い光。

 薩摩松元を過ぎる頃、父親はウトウトしかけたが、やがて加世田方面への分岐点の伊集院。


「降りるぞ」

「なんで?……このまま加世田まで行かないの?」


 豊は戸惑った。父親はこんなことも知らんのか、とでも言いたげに答えた。


「こないだ、梅雨の時に大雨が降ったろ。その時に、途中の日置まで不通になった。だから代行バスが出とる」


 確かに、車内の他の乗客たちも、降りる準備をしていた。

 ディーゼルカーはゆっくりと速度を落として、伊集院駅のホームに停止。

 駅の前には代行バスを待つ列がすでにできていた。西駅から乗ってきた他の乗客たちとともに、豊たちもその後ろに並ぶ。

 手書きの「列車代行」の札をフロントガラスに掲げたバスはすぐに来た。

 みな乗り終えるとバスはほぼ満席になり、日置に向けて走りだした。


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