遠い夏の日の南薩線

@masakiyoshimatsu

第1話 令和① 家庭に目を向けていなかったら妻から離婚を切り出された

 豊が妻から離婚を切り出されたのは、8月初旬の金曜日の事だった。


 蒸し暑い夜だった。


 彼は仕事の帰りに、南海なんば発の準急電車を自宅最寄りの泉北高速線の栂・美木多駅で降りた。

 それは、普段通りの事。

 しかしまっすぐ帰らずに、少し遠回りをして、商業施設の中にあるシネコンへ。

 妻には、また残業だとLINEを送ってあった。

 それもまた普段通りの事。

残業や休日出勤だと嘘をつき、外で自分の時間を過ごすのは、ほぼ毎日の事だった。

 その夜も、映画の後に食事までした。


 そして、一人息子の淳も寝てしまったはずの時間に帰宅。

 玄関からダイニングキッチンにそのまま向かい、ドアを開けた。

 目に入ってきたのは、普段はテレビドラマなどを観ている妻の、黙ってテーブルに向かう背中。


「どないしたの?」


 胸を、冷たい風が静かに撫でるのを感じる豊。

 しかしわざと明るく声をかけて、妻の向かいに腰を下ろした。

 そこで妻が、思い詰めたような表情で、独り言をつぶやくような低く小さい声で豊に告げた言葉。


「もう、私たち、終わりにしようか」


 しかし実のところは、豊はさほど驚きもせず、うろたえもしなかった。

 無理もない。彼にとっての妻との婚姻関係は、結婚当初から、役所に出した紙切れ一枚ほどの価値しかなかったからだ。


 彼は家族という制度に対して、元から懐疑的だった。

 小学校の5年生の時に両親が離婚し、父親とも友達とも離れ離れになり、母親の再婚とともに鹿児島から関西に移り住んだ。

 その一連の出来事から発する心の混乱が彼の心に、暗い影を落としていた。

 そのせいもあってか、幸せな家庭というものは、社会が作り出した欺瞞ではないかとさえ思っていた。

 結婚も、成り行きでしたに過ぎず、そのような自分が妻と子供を持っているという事実に時折、得体の知れない恐れと不安さえ感じる事があった。


 だから、妻からの離婚話に彼はほとんどショックを受ける事なく、まだ話をしたそうな妻をやんわりと制し、シャワーを浴びてから自分の部屋に入り、そのままベッドに潜り込んだ。


 二人は、大阪の大学で同じサークルの先輩後輩として知り合った。

 友達になり、恋人になり、別れた事もあったがまた近付いて、そのような煮え切らない関係を続けた末に三十代も後半になってから結婚し、それからすぐに一人っ子の淳を授かった。

 結婚から間も無かったので、いわゆる『できちゃった婚』かと思った者も、周りにはいた。

 あるいは、


「この歳でこれだけすぐに子宝に恵まれるって事は、それだけ相性がええんやろ」


と言ってくれる者もいた。

 しかし、夫婦仲は良かったかと言えば、それほどでもなかった。と言って、悪かったわけでもなかったが。

 どこか希薄な関係ではあった。

 表現すれば、夫婦というより、同居人同士に共通の子供がいるかのような関係。

 そして今回、離婚の話が持ち上がるまでの経緯も、なんとなくそうなったような感じだった。


 年明けから急に豊の仕事が忙しくなり、残業や休日出勤でなかなか家に居られない日が半年ほど続いた。

 その間、淳が淋しがっていると妻から聞いたり、淳が書いた「早く帰ってきて。そして遊んで」という内容の手紙を何通か受け取ったりした。

 それなのに、仕事が山を越えて、以前ほどの残業も休日出勤も必要なくなったのにもかかわらず、以前のように家を空けがちにしてしまったのだ。

 勤務先の部署に残業ぐせのようなものが染み付いてしまい、大してすべき仕事がなくても、同僚たちとだらだらとオフィスに留まりがちになっていた。


 しかしそれすら、言い訳かもしれない。


 実際に早くオフィスを出ても、同僚たちと飲み食いしたり、あるいは休日も一人で家を出て映画館やカフェに行き、時間をつぶすように過ごしたりした。

 家庭を省みなくなったと言うよりは、捨ててしまったと言った方が近いのかもしれない。

 しかし、そこに強い意志があった訳でもなく、どちらかと言えば家にいるより一人の方が気楽だったから、という軽い気持ちからだった。


 要するに、逃げたのだった。


 それほどに弱く、執着もない、妻あるいは家庭との関係。

 世間的な建前または伝統的な価値観に照らし合わせると、有り得ない関係なのかもしれない。

 しかし、せっかく結婚したのに簡単に別れてしまう夫婦が多い現状を見ると、程度の差こそあれ、自分たちと似たような関係にある夫婦は多いのではないかというのが、豊の感想だった。


 言ってしまえば、仮面夫婦。


 表面だけは仲の良い家族のように取り繕っていても、結局は他人同士の関係。

 しかもそれを、妻の意思とは関係なく、豊一人で作ってしまった。

 その末に、かつて彼の両親が離婚の直前にしたような諍いも激しいやり取りもなく、ただ妻から静かに、離婚を切り出された。


 翌日からは、彼自身も妻も、そして淳も、どうなるのかは分からない。

 しかしとりあえず、眠ろうと思った。

 だが、自分の離婚の話に触発されたかのように、小学校5年生の時以来、一度も会えず終いになってしまった亡き父親の事が、強い印象とともに思い出された。

 その父親との思い出を代表するものが、互いに離れ離れになる直前に二人で私鉄の南薩線に乗って、鹿児島から薩摩半島の南西にある加世田の町まで小旅行した事。


 真夏の空の下、ガタガタで草ぼうぼうの線路の上を激しく揺れながら走る、旧式の一両きりのディーゼルカー。

 車窓は雑木林や松林や田んぼや畑が列車の進行に合わせて移り変わり、それぞれの匂いがゆっくりと吹き込んできた。

 無口で愛想のない父親が珍しく上機嫌で列車に揺られ、普段よりは少し饒舌になっていた。


 その思い出が激しくフラッシュバックし、彼はなかなか寝付けず、あまり眠れないまま朝を迎えた。

 そして、ほとんど衝動的に加世田を再訪しようと思った。

 父親との南薩への小旅行の時に、何か心の中の大切なものを現地に忘れたままになってしまい、それを急に思い出した、そのような気がしてきて、それを取り戻せずには居られない思いが湧いてきた。


 まだ妻と息子が寝ているうちに財布とスマホだけ持って家を出て、栂・美木多の駅から中百舌鳥駅まで行き、そこで地下鉄御堂筋線に乗り換え、さらに新大阪で鹿児島中央行きの新幹線に乗り換えた。

 時速300キロで山陽路を疾走する『みずほ号』の速さすら、もどかしく感じる思いだった。

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