けれど、いつか花は咲く

「今更、何の用かしら?」


 月明りが差し込む病室。開け放たれた窓。カーテンが風に吹かれ踊り子のように舞う。窓の淵には自らが二年前に別れたはずの少年が立っていた。彼の顔は良く見えない。二年という歳月は私の病状を悪化させ視力を奪うには十分だった。


「そんなところに立ってないで、もっと近寄ってくれないかしら?もうほとんど見えていないの」


 少年は無言で飛び降りて、黒いブーツで足音を立てず近寄ってくる。私はベッドから体を起こし、彼の方を視る。少年だと思っていた顔つきは既に立派な大人になっていた。


「なぁんだ……私がいなくても大丈夫そうじゃない……どうやってここに来たの?」


「――――――」


 彼の口が動く。それなのに、彼の声は聞こえない。そこで私は思い出す。最後に人と言葉を交わしたのはいつだったか。


「あぁ……そっか、気付かなかっ……た…………」


 私の耳はもうとっくに聞こえなくなっていたらしい。


『部屋は売った』


 目の前で見せられた紙にはそう書いてあった。どうやら彼は親切にも筆談をしてくれるらしい。


「そのお金で私を探したと……凄いじゃない」


 一昨日やけに人の出入りが多かったのはそういうことかと納得する。彼は少し照れくさそうにして顔を背ける。それから彼はしばらく悩む素振りを見せてから再びペンを走らせた。


『ギリギリになった。すまない』


 そんな、謝るのは私の方なのに――――


 二年前、もう先が長くないことを知った私は彼を一人置いてこの病院に来た。医療の進歩したこの時代にも不治の病は存在する。日々、衰えを感じながら私はただ一人死を待っていた。


『謝らなくていい。今は』


「今は、ね…………ちょっと意地悪じゃない?」


 そう言って私はあの時と変わらない笑い方をする。彼はその言葉に少し困った顔をしていた。


 彼と同様に私も愛を知らない人間だった。難産の影響か母は私を産んですぐに死んでしまった。父はと言うと、まだ母が生きていた頃、父は温厚な人間だったらしい。そんな父も母が死んでから豹変した。記憶に残るのは酒に入り浸る父の姿。酒が切れると周りの物に当たり、時には私にも暴力を振るってきた。


 そんな生活も小学校半ばで終了した。ある日、父が出ていくと言い出した。どうやら後妻が見つかったらしい。一度だけ、その女性を見たことがある。腰まで届く長く、黒く綺麗な髪を持つ、東南系の女性だった。その女性は子を身篭ってる、と聞いて私は全てを察した。当然、出ていく理由を深く尋ねることはしなかった。


 不幸中の幸いか、金銭面に苦労することは無かった。父から毎月口座に三桁ほど現金が振り込まれていたからだ。そのお陰であの広い部屋に独りで暮らし続けることができたし、バイトをする必要もなかった。時には金で愛を買った。容姿には恵まれていたおかげで、簡単にその人たちは寄ってきた。けれど、何度身体を重ねようと私が欲しい物は得られなかった。あの雨の日、金で愛は買えないとようやく理解した私は一人、街を彷徨っていた。



 そうだ、生まれ変わってみよう。そうしたらきっと――――



 そう思った私は漠然と高いところを目指した。雨の影響か街にはほとんど人がいなかった。途中、何かを見たを気がして私は路地裏を覗き込んだ。少年が座り込んでいた。歳は三、四歳ぐらいに見えた。家出でもしたのかと思ったが、それにしては汚れが酷く、痩せこけていた。体は震え、雨に打たれながら死を待つその姿を私は自身と重ねた。私は、道を引き返しコンビニへと走った。ポケットに入っていた一万円札を握り締め、ビニール傘を買い少年に近づいた。

 

 そうして私と彼の同居生活が始まった。最初、彼は私から離れるのが嫌だったらしく、私が出かけようとすると泣いて喚くほどだった。そんな彼も段々と経験と知識を得てきたのか、私がいなくならないと分かってくると笑顔で送り出してくれるようになった。

 

 彼との暮らしは私の知らない事を教えてくてた。誰かと暮らす難しさ、家族と食べるご飯の味や愛しい存在に祝ってもらう誕生日の楽しさを。私は初めて『愛』と言うモノを知れた気がした。私は幸せだった。


 しかし、同時に不幸が私に忍び寄った。初めは些細な事で朝目覚めた時、軽く頭が痛む程度だった。だが、日に日に症状は酷くなり、彼が十七歳を迎えるころには一日に大量の薬を飲まなければ活動することが出来ないほどであった。やはり、私に『幸福』は余分なモノだったらしい。


 弱っていく私を見せない為にも、彼を再び独りにしない為にも、私は出ていくことを決心した。本来ならばあんな風に拒絶する必要は全くなかった。何も言わず出ていき、手紙でやり取りをしていつか病気を伝える計画だった。だけど、無理だった。私の心がそれに耐えきれそうになかった。辛かった。彼と離れるのが。苦しかった。彼と話せなくなるのが。彼を思うたびに気がどうかしそうだった。


 結果、私の身勝手な理由で彼の傷をえぐり、私は一人で出ていき彼を再び独りにした。後悔ばかりが私を襲う。あの時、彼に打ち明けていたら未来は変わっていたのか。彼になんて言えば……そう考えていると再び紙を見せられた。


『ケーキ、美味しかった。ありがとう』


「っ…………!!!」


 あの日の出来事が鮮明に思い出す。彼から伝えられたのは恨みでも、哀れみでもない感謝の言葉だった。涙が零れそうになる。また、彼に救われた気がした。


 ありがとう、そう口にしようとした瞬間激しく咳き込んでしまう。口を覆った手には血が付着していた。もう命の灯は消えかかっていることを改めて自覚する。彼は私のことを心配そうに見つめながら背中をさすってくれている。



 私は最後とも言える力を振り絞って、彼の頬に手を添える。そして、出来る限り、時が許す限り、命が許す限り、彼との空白の期間を埋めるように距離を縮めていく。



 そして、私達の距離はゼロになった。



 私の事なんか忘れて生きて欲しいけど、本当に忘れちゃったらちょっと寂しいな……年に一回ぐらい、やっぱ月一で思い出してほしいかも……なんて重い言葉ゆいごんが思い浮かぶけど、もう長く声を出せそうにもない。本当に弟のような存在だった。弟のように接してきた。だから、彼に恋愛感情はない。きっと。別に後悔は無かった。でも、やっぱり私は彼に忘れて欲しくなかった。



「——————」


 

 だから、のろいを吐いた。



 彼の心の底から驚いた顔を目に、脳に、心に焼き付ける。最後の最後に良い物が見れたなぁ……そう満足した瞬間、全身の力が抜け彼から倒れるように離れる。



「ありがとう」



 そう一言、それが私の言葉だったのか彼の言葉だったのかは分からない。どうせなら彼の言葉だと嬉しいなぁ……そう願いながら瞼を閉じる。全身から力が抜けていく。意識が遠のいていく。もう何も感じない。



 あぁ――――私もここまでか。



 呼吸の聞こえない部屋に紫のラナンキュラスが一つ、残されていた。



 月明かりはもうない。一枚の紙が夜風に吹かれ飛ばされる。それは花びらのようにヒラヒラと舞って、彼女の左手にそっと収まった。




『偽りだとしても、貴女に愛されて幸せでした』


 


 紙にはそう、書かれていた。

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春夏秋冬、三度繰り返せども金鳳花は咲かず 甘木 @kiritania1003

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