蕾は二年経てども開かず

「ハッピーバースデー、愛斗まなと


 軽快な破裂音が部屋に響く。火薬の匂いが鼻孔を通り抜ける。


「やっぱり匂いキツイな、これ……」


「もう……! そんなこと言わないの」


 彼女は頬を膨らませる素振りを見せながら、クラッカーの片づけをする。


「いや、さすがに三十路手前でそれはきつくないか?」


「うるさいわね。心はいつまでも乙女なのよ」


 いつものように他愛のないやりとりをする。少々辛辣な言い方をしてしまったが、実際彼女は外見上はあの日からほとんど歳をとっていないようにも見える。病人のように白い肌には、シミどころかシワの一つもなく、腰まで届く長く、黒く綺麗な髪は十代の頃の艶を保ったままだった。


「ケーキ食べるでしょ? 今回のは自信作なんだ~」


 そう言って彼女は冷蔵庫からいちごがたくさん乗ったケーキを持ってくる。宝石のようにキラキラと輝くそれに目を奪われる。テーブルにケーキを置くと突然、彼女は僕を無言で抱きしめる。突然のことに僕は驚くが、すぐにそれを受け入れる。彼女がこうやって僕を抱きしめてくれるのは少なくはない。しかし、今回はいつもより時間が長く、抱きしめる力は強く感じた。目を閉じれば彼女の鼓動や体温が伝わってくる。たとえ偽りの家族だとしても、僕が彼女から受け取った愛は本物だと信じている。


「改めて誕生日おめでとう。これからもずっと、よろしくね」

 

 改まった雰囲気に僕は少し戸惑って返す言葉に詰まる。そんな僕を見かねて彼女が再び口を開く。


「あ、飲み物なかった。持ってくるね。ジュースでいい?」


 僕は無言で頷く。グラスを二つ持ってきた彼女はグラスに白いジュースを注ぐ。林檎の芳醇ほうじゅんな香りが火薬の匂いを上書きしていく。炭酸がグラスの中で弾け飛ぶのを眺める。お互いに乾杯、と言って喉に流し込む。林檎の濃厚な味と炭酸のほどよい痺れが脳を刺激する。


「わざわざ高いのを買ったかいがあったわ」


 美味しい、と声にしようとしたのに上手く口が動かない。体が熱い。熱でもあるのかと自分の額を触る。幸い、風邪からくる熱では無さそうだった。


 しかし、いくらなんでもこれは――――


「え、嘘。顔赤くない? これお酒だった? 待ってごめん!」


 彼女も僕の異常に気付いたのか、慌てて声をかける。


 違う。アルコールなんか一切感じなかった。仮に入っていたとしても、いくらなんでもアルコールが回るには早すぎる。飲んでから一分も経っていないはずだ。強烈な睡魔の暴力が容赦なく襲ってくる。



 あー、これ無理だ。



 そう思い諦めて意識を手放す。手放す直前、聞こえたのは「ごめんね」という彼女の謝罪の声だった。






 目が覚める。まだ外は暗く月明りが寝室に差し込んでいた。そんなに長くは眠っていないようだった。彼女が運んでくれたのだろうか。ベッドから体を起こし、彼女を探しに部屋を出る。リビングには薄っすらと灯りがついていた。彼女は僕の足音に気付くとハッと振り返る。僕が起きてきたことに驚いた顔をしていた。瞬間、背筋に冷たいものが走る。


「あぁ、なんだ……起きちゃったのか……タイミング悪いなぁ…………あ、私、出てくから。後は売るなり住むなり好きにしてね」


 聞いたことのないぐらい冷たい声だった。一切の感情を感じさせない冷たい表情をしていた。


「え……?」


「本当に聞き分けのない子ね。一回で分からないのかしら。この家から出て、私一人で暮らすって言ってるの。わかる?」


「なん……で…………」


 声が震えていた。恐怖を感じていた。また一人になる恐怖。愛を知ってしまった故に再び孤独になる恐怖。何かの冗談だろ、そう思って声を出そうにもかすれて出せなかった。彼女は軽く溜息をついて再び口を開く。


「なんでって……私ね……あんたのことがずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと!!!!! ずっってっと、嫌いだった……あんたのその声が! 顔が! 仕草が……! 私の視界に入り込むたびに私は気がどうかしそうだった……吐き気がした……アンタの笑った顔も、泣いた顔も全部……! 心の底から嫌いだった…………」


 それは生まれて以来の二度目の拒絶だった。一人にしないで、行かないでと僕は彼女に手を伸ばそうとする。けれど、その手が届くことは無かった。彼女によってその手は叩き落とされていた。


「触らないでよ……」


 彼女の顔はとても辛そうに見えた。僕の姿が視界に入っているからではなく、僕を突き放そうと、拒絶するたびに、彼女の心が悲鳴をあげているように見えた。

 それでも彼女から放たれた言葉だんがんは僕の心を殺すには十分すぎる威力だった。僕は呆然として立ち尽くす。彼女は何も言わずにドアの向こうに消えてしまった。最後、彼女の瞳から雫が一つ、零れ落ちたのが見えた気がした。




 そしてまた、僕は愛を失った。

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