葉は大樹のように伸びるけど

 雨の音で目が覚める。時間を確認しようと首を伸ばす。良く見えなかったので眼をこれでもかと細め、さらに首を伸ばそうとする。瞬間、音を立ててベッドの端から落ちる。何年経っても狭い布団で寝ていた癖は取れないらしい。ズキズキと痛む頭を抑えながら立ち上がり、部屋を後にする。



 広いベッドには微かに、もう一人の熱が残されていた。



 洗面台の前に立ち顔を洗う。顔を上げれば鏡に自身の顔が映る。もう十七歳になるというのに未だ少年の面影が残っている。黒い髪と日焼けではない、やや褐色の肌。これは僕に日本人以外の血が流れているなによりの証拠だった。確か、東南系の血だったか。



 あの日、僕は母に捨てられた。外の国から来た母に当然、僕を引き取ってくれる人間がいるはずもなく。僕は然るべき対処を取られる……はずだった。だが、何を思ったのか僕はあの日の夜、独りで逃げ出した。


 逃げ出したはいいものの、大都会で五歳の子供がたった一人で生きていく力が備わっているわけが無かった。ゴミ箱を漁り食べ物をかき集める生活をしていたが、それにもたった一週間で限界が来た。やはり、捨てられた食べ物は衛生的に良くなかったのだろう。自身の体の不調に今度こそ死を覚悟した。


 東京は雨に包まれていた。路地裏に座り込み、雨に打たれながら死を待つ。激しい雨音と共に死神の足音が路地裏に響く。

 


 あぁ――――僕もここまでか。



 そう思い静かに目を瞑る。死神の足音が目の前で止まる。途端に雨が止んだ。目を開ける。目の前に立っていたのは死神ではなく、傘を自分に差し出す一人の少女だった。


「こんなところで何をしているの? 風邪ひいちゃうよ?」


 悪意のない声で少女は僕に問いかける。何か言葉を返そうと声を出そうとするも出す力が無い。本当にギリギリで生きていたのだ。返答がないことに少女は少し困った顔をする。彼女はしばらく何かを考える素振りを見せてから突然、僕の手を掴み歩き出した。


「ずっと一人で寂しかったんだー」


 なんて彼女は笑いかけながらそう言った。どこに向かっているのか分からないまま僕は無言で重い足を動かした。彼女に連れられるがままに歩き、辿り着いたのは到底、一人で住んでいるとは思えないとあるマンションの一室だった。


 彼女は僕を部屋に連れ込むと、雨で濡れた体をシャワーで洗い、汚れた服を着替えさせ、温かいご飯を食べさせた。


「どう……? 誰かに振舞ったことが無いから、口に合うといいんだけれど……」


「お……いし…………ぃ……」


 たった一言。喉から絞り出した声は震えていた。感じたことのない温かさが僕の身体を包んだ。


「そっか。よかった」


 彼女は微笑む。


 これが、僕が初めて人の温もりを感じた瞬間だった。



 あれから十二年。人生の大半を共に過ごしてきた。僕を拾った当時、彼女はたった十四歳の中学生だった。そんな彼女も今年で二十六歳になる。一度だけ、彼女に僕を拾った理由を聞いたことがある。


「え? いや、なんか……そこにいたから?」


 そう聞いた僕は心底呆れた。やっていることは誘拐と何も変わらない。彼女はそこに困っている人間がいれば無差別に手を差し伸べる、救いようのないお人好しだったらしい。それでも、そんな彼女の善意に僕は救われた一人の人間だった。



 そんなことを思い出し、考えながらリビングに向かう。僕より先に起きていた彼女は朝食の準備をしながら鼻歌を歌っていた。病人のように体は細い。触れれば簡単に壊れてしまいそうな、まるで白銀の雪のように綺麗な彼女を、僕はリビングの入口でぼーっと眺めていた。そんな僕に気付いた彼女は手を止めて僕に声をかける。


「あ、起きたのね。おはよう」


「……おはよう」


「もう、なんでそんなに不機嫌そうなのよ。今日は――――貴方の誕生日なのに」


 そう、今日で僕は十七歳になる。実の母に祝われた記憶は無いが、この家に来てから彼女は毎年欠かさず祝ってくれた。戸籍も無く、学校にも行けない。することのない僕にとって誕生日は一つの大きな楽しみだった。


「朝食べたら私、ちょっと出かけてくるね。あ、もちろん夜までには帰ってくるから楽しみにしてて」


 そう言われ僕はこくんと静かに頷いた。朝食も食べ終わり、彼女を見送った僕はソファに寝転ぶ。やってきた睡魔に身を任せ目を閉じる。彼女が帰ってくれば起こしてくれるだろう、そう思いながら僕は眠りについた。

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