第31話 師匠
此処は精神と体が乖離する冷たい意識の底。
疲れ切った。もう動かない。
血は通っているのか、心臓は動いているのか、それすらも分からない。
冷たく、何より寒い。
命の熱を失ったこの体は、死の抱擁を受け入れ、ゆっくりと海底に沈んでいくように、闇はコウの身体を引きずる。
抵抗はしない、否、できるはずもない。
胡乱としたこの世界で、口から漏れた小さな泡が一つ、光の先へ登った。
死を受諾したこの体は、もうすぐ終わりを迎える。
少年の夢は潰え、自身が何者であったかすら、思い出せなくなり始めていた。
記憶は霧となり、自分の名前すらも失って、少年は最後を目の当たりにする。
ーーーーーさようなら。
常しえの園へ。命が堕ちるその時、
一筋の光が少年の眼を差し込んだ。
僅かな救いの恩光は瞼に熱を与え、少年は凍り付いた瞼をこじ開ける。
まだ……。諦めない。死んでたまるか。
名前も、記憶も、肉体も、全てを失った。それでも、この魂だけは揺らいでいる。
死を拒絶する光の指す方向へ、少年は手を伸ばす。
『契りは交わした。起きろ、傀儡の時間だ。』
誰かがそう呟いた時、少年は自身の名を思い出す。
身体は浮き上がり、ただ真っすぐ輝く行路へ。
その時、コウは意識を取り戻した。
ーーーーーーーー
「………っ……。」
花の匂いに擽られ、ついにコウは意識を取り戻した。
まるで、何年も眠り続けていたかのような、長い目覚めの倦怠感に浸りながらも、徐々に頭と身体が正確に繋がっていくのを感じる。
初めに取り戻したのは息の仕方。その次に青空を認識する。
疲れ切った曖昧な身体は、少しずつ普通を取り戻していく。
その垂れ下がった白髪を理解したのは、もう少し後の事だ。
「シア……。」
何時しか、コウは覗き込んだエルフの名を口にしていた。
「はい。」
優しく、そう呟くだけだった。シアはコウの髪をいじりながら、ただ待つのみ。
「……あの。なんで僕……」
この状況……。
コウは後頭部の温かさと、滑らかな肌触りにひと時の至福を覚える。
そう、これは膝枕だと理解できた時、コウはやっと現状を把握しだす。
「疲れたでしょう、コウ様。」
「はい……えっと。僕……いつの間に、膝枕されてたんですか。」
「そうですね、コウ様は思い出せますか?」
「いえ……花園に着いた所までは思い出せるんですけど……。」
「そうですか。」
シアは何処か、安心したような顔で此方に温かい眼差しを向けてくれていた。
その暖かさで溶かされるように、コウは数年ぶりに師の膝下で甘えた。
今思うと体が痛く無い。無茶を続けた肉体は確実に軋んでいたはずだが……どうやらこれもシアが寝てる間に治してくれたらしい。
だがそれも、左手を除いてだが。
「身体、治してくれたんですよね。」
「はい。ですがその左腕は時間がかかりますよ。魔力を正常に流れるようになるまでは、 自然治癒です。」
「はい……。受け止めます。」
陽は沈みかけ、陽光が映える時間に差し掛かった今、シアはいつも以上に綺麗に見える。
……そうもう日暮れか……。日暮れ……夜?
「ッ!!??!!」
その時、コウはやるべきことを思い出して飛び上がった。
往復して何度も空と太陽を見返すが、陽は沈み、夜の帳が空に広がっている。
「シアさん!? 今何時ですか!!?」
一瞬にして青ざめたコウは、焦るあまり腰を抜かしながらも、すがるようにシアの方へ迫る。一方で、シアは主人の心境を察しながらも、一向に動じることはない。まさにそれは、長寿であるが故か。
「そう焦らなくとも大丈夫ですよ。」
少し引き下がると、シアは懐の銀時計を確認。針が差した数字は。
「現在、7時30分ですね。」
「7時……ご、午前?」
「午後ですね。」
「え……あ、汽車は?」
「とっくの前に出発しましたね。」
「それって。」
「ご愁傷さまという事です。」
あっさりと告げられた試合終了は、容易にコウ・マードックの思考を置き去りにした。
死に物狂いでやったたどり着いた花園。
これまでの数々が美化され、記憶が過去の走馬灯のように流れていく。そしてその結末が、まさか眠りこけて終わってしまうとは……。
最大の失敗を犯したコウには、今発言する余地すらなかったのだ。ただ馬鹿みたいな面で、筋肉が引き攣る事しかできない。
「ふふっ、コウ様。そんな顔をしなくても、言ったでしょう? 大丈夫ですから。」
悪戯のように笑うシアを見たその時、コウは本来の目的を思い出す。
考えてみれば、そう。此処へきたのは目の前のエルフに会う為だった。そのために、メッセージやら、とんでもない遠回りをして、やっと此処へ辿り着いたのだ。
元々、この賭けに乗ったコウにとって、汽車など取るに足らないものなのだ。
だから、その根拠のない大丈夫に、コウは全てを期待せざるを得ない。
「コウ様は私に会いにきてくださったのではないのですか?」
シアが見せた笑みはコウにとって、此処へ来た勝者への褒美をと同義だった。
「……はい。そうでしたよ。忘れちゃってました。」
眠りこけてたせいですかね、とコウは言いたげな苦笑で、後ろに手を回して癖づく。
心のは準備は整ったと、目を合わせる。望む者と、望まれる者が揃った時、二人は同時に立っていた。
風が吹く。静かに、そして流れるように。二人の間を通り過ぎて、熱が運ばれていく。
そして一言。
「悔いはありませんか。」
「はい。ありません。」
シアは選択に悔いはないかと、そう最後の覚悟を問うが、その真っ直ぐな少年を前に愚問だったと改めた。
使えてきた主へ、導く師として。
シアもまた大きな選択を下すのだ。
「ではこちらを授けましょう。」
既に腹は決めている。
陰の空間より、シアはある物を引っ張ってきた。丈にして一メートルと数十センチ。紫を基調とした長細い入れ物に、コウはその中身を刀剣と推測する。
「刀……ですか?」
「はい。」
そして、シアは後生大事にしてきたであろう刀をコウの前へ、託すように突き出した。
「これは師匠としての選別、と言っておきましょう。もし貴方に守りたい者ができた時、この刀を抜きなさい。」
私はもう守ってはやらない。これから先は自分の力で乗り越えろと、コウは師から託された思いと共に、その選別を受け取った。
「名は『神威』。真に必要とする時、その名を呼べば必ず、この子は貴方を助けます。」
名を聞く限り、東和の一振りであろう。
コウは縛りを解いて、袋の中身に触れる。そして、その刀身と会合を果たす。
抜き放たれた剣は黒。
柄はなく、鞘もない。剥き出しとなった刀身は吸い込まれぬような漆黒と幾何学な模様。黒曜石などとは明らかに違う、別次元の異質と存在感を放つ得物からは、目利きの素人であるコウであっても、容易に業物であると勘づかせた。
「こんな凄いものを……僕に?」
「ええ。それは貴方が使いなさい。貴方しか使えない。」
言葉の真偽は分からないが、そこまでして託そうとしてくれている事は十分に伝わる。
魔術師を目指す自分に、この刀が本当に必要なのだろうか。正直、そう頭に過ったのは本当だ。でもコウは師の思いを受け取り、深く考える事なく、その選別を手にする。
「ありがとうございます。でも出来れば刃物を使わなくていいような、平和な日常を心掛けたいですかね。」
「当たり前です。それに越した事はありませんから。その刀は護身用とでも思っていればいいのですよ。」
そう言って、次にシアはある魔術紙を取り出しその場に広げる。
「そして、こちらは長年コウ様に使えた者としての贈り物です。」
此処までの選別をくれた上でのもう一声。
本来コウが従者に対し、行わなければならないというのに……なんて不甲斐ない主人だ、とコウは申し訳ない気持ちを顔に滲ませる。
しかし、自身の悪癖がその気持ちすらも先行し、コウはその緻密な術式に釘付けとなっていた。
「これって、もしかして転移術式ですか?」
術式を看破したコウは、驚きを隠さなかった。
転移術式。正真正銘の固有魔術相当とされる、現代の魔術師では実現不可な魔術。見るからに軍事戦略魔術の類だろう。それをさも易々と引っ張り出すとは、一体我が師匠は何者なのだと、コウは顔を引き攣った。
「お見事です。さあ、はやく陣の上へ。」
広げられた
「これでコウ様のお守りも終わりですね。」
突然の別れとは言わない。だがもう少しだけ待ってほしい。そのたった一言が、何故か喉につっかえて出ない。
「今からコウ様を帝都近辺の森林地帯まで飛ばします。お手間をおかけしますが、帝都の入国手続きもございますので、どうかご了承ください。」
一歩を踏み出せない、情けないコウを置いて、シアは淡々と最後の事務報告を上げていく。
「お荷物は汽車で御運び済です。帝都の運送窓口へ向かえば受け取れる手筈となっております。その際、此方の引換状をお渡しください。」
そうして手渡された物も、帝都でのその後も、コウにとっては全て重要な事。だがそんな事は……今はどうでも良かった。
心はただ惜しむように、彼女との時間を渇望している。でも何故か、シアとの間に隔たりを感じるのだ。
「其方はコウ様の住所でございます。僭越ながら、此方で手配させていただきました。」
書類と一緒に渡された小さな厚紙には、シアの言う通りある住所が書かれている。しかし、コウはそれを流すように見るだけで、何一つ頭には入ってこなかった。
「コウ様。どうかお元気で。」
そして……最後の時はくる。
それでいいのか。これでいいのか。本当にこれが最後で……。
しかし、未だコウは動かぬまま、頭に中身のない言い訳を反芻させるだけだった。
(そう……だよな。別にこれが最後なわけじゃない。)
よって、導かれたのはそんな不細工な結論。だから動かなくてもいい。引き止めなくてもいい。
ダサい。女々しい。
そう思われてもいい……そう思われてもいいから。
動け!!! と、コウはだらし無い自分に喝を入れた。
「ふふっ。なんですかそれ?」
「……ダメ、ですかね??」
照れ臭くて悶えそうになりながらも、美馬麗しいエルフを前に、コウの腕は大きく開いていた。
思わず、可笑しくて笑ってしまったシアだったが、満更でも無いとその脚を進める。
そして、白髪のエルフは一回りも大きな右腕に抱かれた。
「……コウ様。」
「何ですか?」
「少しだけ……私もリア様のように、甘えてもよろしいでしょうか。」
「はい。喜んで。」
体と体に包まれた両腕は、胸あたりで服の皺を作っている。少女のように顔を埋めるシアからは、師匠やメイド長の片鱗を一切感じさせない、花のような儚さがあった。
まるでこれでは子供。静かに頭を撫でやると、耳元がほんのりと赤く染まっていく。すると、顔をもっと深く疼くめて、夕焼けの過ぎゆくこの花園で、二人は心行くまで別れの抱擁を交わした。
時間が止まればいいのにと、そう思う中で進まなければと、そう思う自分がいる。
別れは辛い。それが今生と言わなくとも、ただ大好きな人と会えなくなるのは本当に辛い。
それでも、コウはその腕は解いたのだった。
シアは魔術紙の外側に立ち、魔力を流し込む。二人の間に、それ以上の会話はない。きっと、また言葉を交わせば辛くなってしまうからだろう。
陣からは蒼き粒子が登り始め、魔力が満ち溢れたとき、奇跡を起こす準備はついに整った。
交わされた最後の視線に、シアは願う。
どうかこの少年が私の希望となる事を。
「さようなら、コウ様。」
「はい。行ってきます。」
やがて、コウは天を突く光の御柱に包みこまえ、意識が遠のくような感覚を覚える。
視界は光に満ち、シアの輪郭さえも消していく。
只……本当の最後。身体が白光となる中で、コウが目に宿したのは、少女のように泣くシアの姿だった。
その時。
「どうか幸せになってね、ーーー『 』。」
僕と『 』の魔術戦戰 甘党の翁 @hosinoumi
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