Push Me On! 君の声が聞こえる

フェイマスファイブ

第1話

オープニング

駆け抜けた まぶしい夢 覚えてる? 

厳しくて 優しい声 覚えてる?

切り裂いた シュートの音 覚えてる? 

溢れ出す 涙の色 覚えてる?

Sha-La-La-La ここからさ 涙こらえて走り出せ

どこかでもう一度会えたら 本気の今を伝えたい


燃え尽きた 尊い夏 忘れない  

別れ際 切ない冬 忘れない

ふるえていた 不安な夜 忘れない 

できること 届けた朝 忘れない

Sha-La-La-La ここからさ 何度だって走り出せ

思い出に口づけしながら あなたに感謝を伝えたい


Sha-La-La-La ここからさ 涙こらえて走り出せ

どこかでもう一度会えたら 本気の今を伝えたい

Sha-La-La-La ここからさ 何度だって走り出せ

思い出に口づけしながら あなたに感謝を伝えたい

(♪ リトルキヨシ『REMEMBER 何度だって走り出せ』

Bay City Rollers のCover曲)



 たった4ヶ月前の出来事が、何だか遠い昔のような感じがするのは何故だろう?

おそらく、一生のうちに、今、感じているような清々しい変化を実感できるチャンスはそれほど多くないに違いない。


 あの頃の僕は生まれ変わりたいと願っていた。しかし、その自分自身の願いもよくわかっていないまま必死にもがき苦しみ、気がついたら生まれ変わっていたようだ。いや、生まれ変わったこともある人に出会い、指摘されなければ自覚できないまま時間が過ぎていたのかもしれない。


 過去、現在、未来は人間が作り上げた概念であって、実際には「永遠に続く今」があるだけでなのではないか? 最近では4ヶ月前の自分では考えなかったような自問自答が繰り返されるようになり、大きな体質変化が実感できている不思議な感覚が自分の体を包んでいる。


 大切なリーグ戦キックオフ2時間前にサン・ライフアリーナ入り口に集合してチーム全員で入館した。以前のような不安から生まれる緊張がなくなっている。むしろ、試合に臨む心地いい緊張とワクワク感に近い興奮が混じり合っている。

 ここにはいない誰かの想いが何かを動かしている。蒸し暑く湿ったこの体育館の中で、目に見えない祈り、願い、感謝、約束、誓いが大いなるチャレンジと向き合う僕やチームひとりひとりの背中を押してくれている。ゆっくりフットサルシューズの紐を結んで試合の準備をしているとなぜかそんな気がしてくる。

 もがき苦しんでいた自分を客観的に思い浮かべ、今の自分に重ね合わせる。ヘッドコーチの源太郎さんからウォーミングアップ開始の指示の声が飛ぶ。同じタイミングで大きなブザーの音がアリーナ全体に響き渡った。僕はゆっくり静かに我に返った。




 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでる一つ一つの言葉による」と教壇に立つギルバート・マクロイは言う。もちろん、パンにはジャムやバターが必要だとかいう話じゃなくて、「パンのみのため」、つまりは肉体的欲求だけを生きる目的にはしないことを言いたいらしい。


 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。

すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」

今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々と栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。(新改訳聖書 マタイ四章) 



 大学とは何て退屈なところだろうか? 入学まで「あり得ないほど厳しい受験勉強」を強制されたわりには、さらに「あり得ないほど退屈で無意味だと思われる講義」が続く。ただ、僕にはこのマクロイの「比較思想概論」はなぜか興味を持つことができた。

 理由は二つあった。ひとつは外国人講師にキリスト教文化や仏教思想をはじめ、聖書が伝える深い世界を教えてもらえる新鮮さが自分に必要と感じたこと。2つ目は3月にフラれた彼女とかぶらない授業をできるだけ履修したいという、まったくもって学習意欲とは無関係の動機が存在したこと。早い話が、よくわからないまま受講したわりには、今では退屈な大学の、数少ない楽しみのひとつになっている。

 わけがわからない。いや、もしかしたら、世の中、「わけがわからないこと」こそがスタンダード、つまり大多数で、「よく理解できること」の方が少数なんじゃないか?


 リズから別れを言いだされたのは3月中旬。ちょうど、コロナウィルス対策のために続けられてきた「マスク着用の義務」がなくなったころだったと記憶している。リズは(本名を高山利子といったが)、「オバさんっぽいから自分の名前がイヤだ」と考えていた中学生の頃、通っていた塾の英語教師が考えてくれた別名を名乗っていた。「リズはエリザベスのショートネームだし、利子と書いてリズとも読めなくもない」という言葉に心から救われたそうだ。

 

 あれは確か、僕が大学に入学してすぐ、掲示板の呼び出し通告をのぞいていたときのことだ。

「大橋会(おおはし かい)っていう名前なんだ~」と横から人差し指が伸びてA4用紙に書かれた自分の名前の上にとまった。

「なんか、建設業界の親睦団体みたいな名前だね。たのしそう・・・」

そう言って紫色のリュックサックを翻して去って行った、それがリズだった。「おおはしかい」だから、変わった名前と言われることはよくある。でも、「楽しそう」と言われたのは初めてだった。


 そんなわけのわからない人と付き合っていたわけだから、別れも、わけがわからないのも当たり前と言える。「ほしいものができた」というのが関係を終える理由だった。

「『好きな人ができた』じゃなくて?」と何度も聞き返したくらいだ。

「たぶん私ね、そのほしいものを手に入れようと必死になるから、カイ君の期待にこたえられない人になっていくと思うの。早い方がいいでしょ。こういうのって・・・」

その「ほしいものが何か?」について僕は一切質問しなかった。尋ねたところで無駄だと思った。たぶん、大半の女性という種族はこの手の決断を絶対に覆さない。いきなり部屋の模様替えを始めたり、長い髪をバサッと切ったり、年末でもないのにとっさに大掃除を始めたりするのと同じだろう。理由ではなくて、衝動なんだと思う。

 それに、まさかとは思うが、もし、そのほしいものが自分のイメージより小さいものだったら、例えば車とかテレビとかパソコンとか、そのレベルだったら、その時はもう立ち直る自信がない。


 僕はいつも、自分に不都合なことがあっても、ありのままを受け取ってしまう。なぜだろうか。反論はしない。「そういうものなんだ」という思いが先に心を満たしてしまう。リズとの時もそうだった。ただ、現実を受け入れる努力に徹していただけだった。


「お前のプレーはすべてが受け身だよな。別に悪いわけじゃないけど、もう少し、自分からゲームを組み立てようとか、相手の裏をかいてみようとか、ないの? それにさあ、わからないなら質問して来いよ。自分の中だけで納得してどうするんだよ」

フラれた直後の3月末に入団したフットサルチーム、湘南ハイビースのキャプテン、高松誠也さんにそう指摘された時は、さすがに自分で個性だと信じていた「考え方」や「キャラクター」が欠点に思えてきた。現実を受け入れるのも才能だと、どこかで自負してきたからなのか、「受け身」と表現されたショックは予想外に大きかった。




 そう、リズから一方的な関係解消を宣告された頃、ひょんなことから、地元平塚のフットサルチームに入団した。別れが先か、初めてチームの練習に参加した日が先か、よく覚えていない。ただ、幸いにリズがいなくなった時間をさみしく感じないで済んだし、以前にもまして「熱中するものがある」という新鮮さが心地よかった。


 このチームには他のフットサルチームにはない細かいコンセプトが設定されている。活動方針が明確で、目的と手段が言語化されていて、僕の心をとらえる言葉が頻繁にコート内外で発せられる。ここでの言葉が胸を打つのか、反対に僕が変わったから、心を打つように聞こえていたのか。今さら考えても仕方ない。

ただ、これまで何度か「かつての同級生や知り合いたち」に誘われ、サッカーチームやフットサルチームの練習に参加したが、結果として入団することはなかった。その中には神奈川県フットサル1部リーグで活動する湘南ハイビースよりさらに上のレベルで戦っている集団もあった。でも、なぜか興味が持てないままで、次の一歩を踏み出すことはなかった。


 その頃も「わざわざそこまでしてプレーしなくても・・」という受け身の心が僕を支配していたんだと思う。勝利のために必死になることは重要だし、当然の努力であり、競技団体として正しい姿勢だ。しかし、今思えば「ただ勝てばいい」という考えを第一とする集団、相手に対するマナーやリスペクトは二の次で、人間力が乏く思える人たちの集まりに違和感を感じて何らかの抵抗を示していたんだろう。高いレベルの競技スポーツにチャレンジすればするほど「勝ちと負け、良し悪し、得か損か、好きか嫌いか、できるかできないか、などなど」の2極化された価値観に自分が拘束されてしまう気がしていた。勝つことに目的を置くことは当然だ。でも、「勝ち」の中に反省点や問題点はあるし、「負け」の中に学びや成長だってある。「勝ちゃーいいんだよ」という理論はビジネスで言うなら「儲かればいい」と言っているのと同じように聞こえた。


 勝ってバカ騒ぎをして、負けて不貞腐れる。そんな雰囲気を感じたチームにはなぜか全く魅力を感じなかった。心のどこかで「熱くなりたい」想いを認めながら、適当な理由をでっちあげて入団の誘いを断っていた。


 何度目だったか、湘南ハイビースの練習に参加した日、ひらつかサン・ライフアリーナの2階席の周りでストップウォッチやタイマーを片手に中学生ぐらいの男の子を走らせたり、ヨガマットを敷いてフィジカルトレーニングを指導したりしている中年男性に声をかけられた。

「自分の考えが味方にハッキリわかるようにプレーした方がいい。それ以外はやりながら何とかしようか・・・、ハッハッハ」

といって去って行った。その時は「変な人に声をかけられたのかな」と疑って背中を見送ったが、驚くことに、数分後、その人は監督、およびクラブ代表者としてチームの輪に対して2分ぐらいのメッセージを伝えた。

「全力を出すということにもっと貪欲になった方がいい。全力を出すこと以外に人間にできることはないんだからさ。勝ちも負けも、どっかで最後は運命でしょ。運命を受け入れるには全力が出せたかどうかしか、頼れるものはないんだよね」

 

 このチームは他のチームで目標とされること、つまり「勝ちたい」とか「優勝したい」あるいは「残留したい」などを口にしない方針を貫いている。その時その時に全力を尽くすことそのものが選手の目標であって、勝利へのマネジメントは監督とヘッドコーチの仕事であるという前提が守られている。勝敗やリーグの昇降格は結果であって、決して第一の目標であってはならない。それを間違えないための内部ルールが細かく設定されている。

全力を尽くし、最高のプレーができれば最高の結果がついてくるのは当然だ。それが湘南ハイビース監督、多度津健章の考えだった。この人は「死中生有り 生中生無し」という上杉謙信の言葉をよく引用するらしい。


運は天にあり

鎧は胸にあり

手柄は足にあり

何時も敵を掌にして合戦すべし

疵(きず)つくことなし

死なんと戦へば生き、生きんと戦へば必ず死すものなり

家を出ずるより帰らじと思えばまた帰る

帰ると思えば、ぜひ帰らぬものなり

不定とのみ思うに違わずといえば、

武士たるの道は不定と思うべからず

必ず一定と思うべし

(上杉謙信が春日山城の壁に書いたとされる文)


 たしか、最初の練習参加前に渡された事業計画書にもその文章が書いてあった気がする。プロ集団でない限り、プレーの報酬はプレーの中にしかない。真剣勝負を楽しく全力で、納得いくまで味わうことそのものが報酬であり、勝利や敗北はその結果と捉える考えには心から理解ができた。

 勝利を目標にすると、かえって勝利に近づけなくなる。勝って勝とうとしてはいけない。「勝ちたい」は局面で「逃げたい」にかわる。こう話す多度津さんの理論は、一見、戦闘集団として非現実的な理想論に聞こえるが、攻守の切り替えが早く、集中力と展開力が必要とされるフットサルというボールゲームにおいては、もしかすると最も現実的な戦略の土台となる「革新的な本質」なのではないか。


 どういうわけか、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでる一つ一つの言葉による」というマクロイが講義で発した言葉を思い出す。マクロイの顔を思い出したことが自分の背中を押してしまったんだろうか。この瞬間、僕はこの湘南ハイビースへの入団を決心した。

「監督、こいつに9番のユニフォームを与えたいと思うんですが・・・」

というセイヤさんの言葉に多度津さんはニコやかに「おめでとう」とだけ言い、男子中学生にチームの備品が詰まったキャリーバッグを持たせ、街灯が滲む土手に面したサン・ライフアリーナの駐車場に向かって歩き出した。



 マクロイは初老のスコットランド人で俳優のイアン・マッケランに少し日本人らしさを混ぜたような外見の持ち主だ。僕はそのマッケランが誰かも知らなかったが、同じクラスの学生にスマホで動画を見せられた時はあまりの類似性に笑いが止まらなかった。

日本に長く住むと西洋人であっても日本人のような顔つきや仕草を無意識に身につけてしまうのだと本人は言う。やはり、どこなく日本人のルーツを持つスコットランド人に見えなくもない。

 哲学的な理論を諭すように、そして語るように講義することから、受講生の間ではマッケランの当たり役だった「ガンダルフ」(映画『ロード オブ ザ リング』シリーズ)というあだ名が付けられていた。彼の講義は「聖書をキリスト教やユダヤ教の本としてではなく、世界の文化、思想、哲学の根底にある書物として読むこと」が基本軸にある。それにより、国際的な政治、経済、軍事、社会、音楽、芸術が深く理解できるようになるという。また、いずれの西洋文化も少なからず聖書的な発想が土台となっているため、聖書を知らないと西洋文化が大半をリードするこの時代を読み取ることはできないとこのガンダルフは熱弁する。


すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

(新改訳聖書 新約ルカの福音書4章)


「カイ、ここでイエスが言うパンとは何を意味するんだろうか? わかるか?」

「食べるもの、飲むもの全般・・・、いや、肉体的な欲求すべてだと思います」

確か、ここまでは以前の講義で習ったことがあったから、簡単に答えられた。

「すばらしい。でも、他にはないのか? 次にイエスは『パンだけでなく、神の口から出る一つ一つのことばによると書いてある』と言っている。では、その『ことば』とは何だろうか? あなたから皆にわかるように説明してくれないか・・・」

 今日に限らず、いつもがこんな調子だ。堅く、気まずい空気に受講生は日に日に減っている。僕と言えば、そんな中で、何かとさされ、答えさせられているから、そのうち、きっとほかの受講者に「フロド」というあだ名が付けられるだろう。


「自分にとってパンとは何かを常に考えられるよう心がけてください。そして、パンのみのために生きない生き方で過ごしていく人生はどのように尊いものなのか? それらを自問自答できる人格を得たならば、皆さんにとって『人間としての第一段階』はクリアですね。本当の幸福とは、そういう人にしかやってこない」とマクロイは結んだ。


 前回の彼の講義で、明治維新に始まった日本の近代化は世界トップクラスの偉業である半面、西洋の技術やシステムだけを導入しただけで、その根本にある聖書的な発想に裏付けられた「文化の土台」を無視してきてしまった「歴史のツケ」が説明された。枝や葉をもいで持ち帰ったところで、長く成長を続ける木を育てることはできない。根にあたる精神を長い時間をかけて育んでこそ、大木への成長が約束される。ある意味で、明治時代に内村鑑三が主張した理論こそが正論であった。


 そんな話を毎回聞かされているうちに、何となくマクロイの言葉を覚え、生活の中にその意味を確かめる習慣が定着しつつあるから驚きだ。

 人はパンだけで生きるのではない。もし、このパンが物質的、あるいは肉体的な欲求を指すのであれば、「ほしいものができた」と言って僕のもとから去って行ったリズはイエスと違い、悪魔の試みに負けてしまったことにならないか?


すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」

(新改訳聖書 新約ルカの福音書4章)


 僕に別れを告げた時、もしかして、リズは僕を試していたのかもしれない。急にそんな想いにつつまれた。そのとき僕が得意の「受け入れ男」に徹してしまっただけで、リズは僕の「ちょっと待ってくれ、どうしてだ」というような、半ば強引な抵抗姿勢を期待していたんじゃないか? そして、その期待を僕は簡単に裏切った。

胸を締め付けるような後悔が襲ってきた。でも、もう遅い。遠い遠い過去の話だ。それに、僕は神様ではないけど、試みてはいけないという言葉が正しいなら、ここでもリズは悪魔に負けて僕を試みたことになる。自分を正当化しているのか、慰めているのか、とにかく僕は「試みてはならない」という聖書の言葉を心の中で繰り返した。


今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々と栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。

(新改訳聖書 新約ルカの福音書4章)


 ここに書かれている「高い山」と「高山利子」という名前の一致は偶然だろうか? 「自分の欲望にひれ伏して拝んでくれたら、ワタシ、もう一度、カイ君とやり直したいと思うの・・・」というリズの声の幻聴が今にも耳に飛び込んでくるような気がする。あの子は悪魔の使者だったのか・・・。そんなことはない。膝の上、握りしめた拳の中、べっとりとした汗を感じる。呼吸が荒い。

 講義の途中にもかかわらず、トイレに行くふりをして教室を飛び出した。狭い多目的グランドに続く道に空気の抜けた柔らかく汚れたサッカーボールが落ちていた。僕は無意識でそのボールをコントロールしてドリブルを始めると誰もいないサッカーゴールに向けて突進した。いつの間にか足の裏の感触がアスファルトから土にかわる。次の瞬間、ゴールに向けて右足で大きくボールを蹴った。フニャフニャのボールはゴール手前にポトリと落ち、弾まずにその場で止まった。


 心が震えている。興奮とか感情のせいではない。僕の中を支配する何かが震えている感じがする。その震えは時間と共に少しずつ緩やかになり、僕の肉体と一体になっていく。

心が穏やかになっていくにつれて、マクロイの講義と湘南ハイビースでプレーするフットサルが、いつしか新しい自分を引き出していく役割を果たしているのではないかと感じる新しい自分を意識できるようになった。


心が闇にさらわれて ぽっかりと穴ひとつ

確かに感じたしあわせは 幻みたいに消えてった

最後の最後 優しさは いつでも残酷だから

耳を塞いで 目を閉じて 気づかないふりしてた


いつだか一緒に観に行った 外国映画のラストシーン

背をむけ一歩ずつ、遠く離れてく2人

お別れはいつだって 笑顔で見送りたいけど

僕はまだ踏み出せてない 膝を抱えてる


君とつくった思い出が 今日も夜に手を引かれ

儚く切ないステップで 朝まで踊る


ずっとそばにいたかった ああ

最後の最後にひとつだけ 

僕は元気です

(♪ リトルキヨシ『ハードボイルド』)




 湘南ハイビースの練習はハードだったが、楽しかった。多度津監督はエンジョイ(enjoy)とファン(fun)を上手に使い分ける。エンジョイは英語で真剣勝負をやりきる中で感じる楽しさを言うらしい。それに対してファンはチャレンジを含まない単純な楽しさのことだという。本当のエンジョイを追求するこのチームは、あくまでも「完全燃焼から得られる楽しさを手に入れる」が目標であって、「目の前の勝利」や「シーズンを終えた後の昇格や残留」を第一の目標にしないルールが基本にある。

 このコンセプトとその方針によって設定されたトレーニングは決して楽な内容ではなく、かえって厳しいチャレンジが続いていく。入団して間もないころ、ゲーム形式の練習中、相手陣内右サイドにフリーな味方がいたにもかかわらず、僕が相手DFに中央で1対1の攻撃を仕掛けてボールを奪われ、相手のカウンターアタックを食らい、危うく失点しそうになったことがあった。

「お前さ、どうでもいいけど、ゲームがつまらなくなるんだよ、この受け身野郎!」とキャプテンのセイヤさんに怒鳴られた時は本当にへこんだ。

断わっておくが、パスではなく1対1のドリブルの仕掛けを選択したことに後悔はない。「つまらない」と言われたことで、なぜか「楽しそうな名前」とか「ほしいものができた」といって僕の存在を過小評価したリズの存在を思い出して、不覚にも「やるせなさ」と「もどかしさ」を感じてしまった自分がたまらなくイヤになった。

生きる楽しみの大半が湘南ハイビースのフットサルになったと自覚している今になっても僕は、このような受け身タイプの人間だという評価を受けていると思うと、自分で自分が嫌いになりそうだった。だったら「ヘタクソ」とか「視野が狭い」とか言われて注意された方が、よっぽど気持ちが楽だ。「つまらない」と表現されることは、どのような分野の人間関係においても、最も傷つく言葉なんだと教えられた気がした。


暖かさが暑さに変わり始めた4月末だったか、平塚スターモール商店街にあるスポンサー企業の法事会館を貸し切って行われたミーティング兼会食の後だったと思う。閉まっているシャッターが並ぶアーケードの下、監督はかなり酔っていたが、ふらふらと伸ばした右手を僕の左肩に乗せると驚くことを口にした。

「カイ、お前な。いつまで何を引きずってるんだよ。捨てちまえよそんなもん。人生は身軽のほうがいいぞ。この封筒に額は少ないけど2次会資金を入れておいたから、あとはお前が責任を持ってみんなとうまくやれよ」

そう言って僕の手に右手で封筒を握らせ、その上からさらに左手を被せてきたこの人に今の自分はどのように見えるのだろうか? 監督に何かを言い返そうかと思ったが、息が詰まって言葉にならない。酔ったボスはケラケラ笑いながら、滑り込むように止まったタクシーの後部座席に転がるように乗り込み、そのまま去っていった。


とにかく今の自分の中に、捨てられる「かたより、こだわり、とらわれ」があれば、可能な限り捨ててみよう。意外に自分の予想よりも大きなゴミ箱が必要になるかもしれない。自分の考え方や価値観が別の方向にシフトするだけで本棚も多くの本や辞書が入れ替えられると同じように、もしかすると自分の中にある「大切だとされてきた項目」の多くが消去される対象となるのではないか。そうだとすれば、まず、このハイビースでのレギュラー獲得に全力を注ぎ、すぐにでも「自分革命」をスタートさせなきゃいけない。

リーグ戦開幕を前に、いまさらかもしれないが、このチームの一員として全力プレーの楽しさを作り出せる選手でありたいと思えるようになった。まあ、その結果として、新しい自分に出会えれば、それはそれで大成功じゃないか。


 「カイ、何か引きずっているな。ほら、後ろだよ・・・」

平塚駅北口方向に歩き始めると僕の後ろを歩く、ゴールキーパーの西条浩太さんが笑い出したいのをこらえるようにつぶやく。振り返ると、古くなった「商店街にあるようなプラスチックの桜の枝」が紐に絡みつき、それが僕の足のかかとにつながっていた。靴の裏には黒いガムが張り付いていたからだ。

「捨てちまえよ、カイ。そんな季節外れの汚れたプラスチックの花なんか、お土産に持って帰ってもだれも喜ばねえぞ」

 そう言って、絡みつく紐を勢いよく踏んづけたセイヤさんの足の力を借り、次の一歩で桜の枝は僕と切り離された。そのまま僕たちはほとんど口をきかずに平塚駅まで一緒に歩いた。



ほんの少しだけ バラードの歌

憧れ色していた ロッカバラードブルージー Oh Yeah


なんとなく過ごす時の中 開いた目には映らない

思うことが 目を閉じれば そこにある

届かなくてもいいんだぜ 一人で咲いた花だから


遠い道のりの 長い坂みたいな 

大好きなあの人へ ロッカバラードブルージー

朝焼けの空が眩しすぎて なんて僕はちっぽけなんだろう


ほんの少しだけ バラードの歌

憧れ色していた ロッカバラードブルージー

遠い道のりの 長い坂みたいな 

大好きなあの人へ ロッカバラードブルージー

(♪ リトルキヨシ『ロッカバラードブルージー』)



 2023年、神奈川県フットサル1部リーグの開幕は例年より遅い6月第2週目と決まった。関東甲信越の梅雨入りはほぼほぼ平年と同時期になる予報だから、5月中であれば体育館が確保できない日の屋外フットサルコートでのトレーニングも雨の影響を受けずに開幕を迎えられそうだ。フットサルはサッカーと違って交代が何度でもできるルールになっている。しっかりと準備をすれば、きっと僕だって開幕までには何らかの形でチームの戦力になれるかもしれない。


 しかし、チームが順調に仕上がっていく一方で、僕自身の調子は一向に上がっていかない。厳密に言うなら、コンディションは悪くない。ただ、このフットサルというスポーツの奥深さを知れば知るほど自分の至らなさを痛感し、かえって自信が持てなくなってしまっている。

 ただでさえ、コートが狭く、人数が少ないサッカーよりもスピードの強弱、ポジショニングのバランス、動き出しのタイミングが試合を左右する競技であるにもかかわらず、いつもの「受け身の男」の悪いところなのか、何かを自分から仕掛けていくタイミングがつかめずにいた。不安を解消するために関連サイトを検索したり、「フットサル上達マニュアル」とか、「フットサル基本戦術」といったタイトルの本を必死で集めて読んだりしていた。


今回のテーマは前回と反対に、「どうやってパスを受けるか?」です。キーワードは「フェイク」。偽物の毛皮のことをフェイクファーと言いますが、あのフェイクです。フェイントという言葉もありますが、フェイントというと、ドリブルのときに相手を抜く技を指すことが多いですが、フェイクはボールをもらう前の動きを指すことが多いです。

 では、フェイクとは???これも簡単です。パスを受けるときに、わざと反対側に1、2歩ダッシュします。すると、マーカーもつられて位置と重心が移動します。その瞬間に元の位置に戻ってパスを受けます(もしマーカーがつられなかったら、そのままダッシュしてパスを受ければよい)。

 なんで、わざわざフェイク入れるの?と思った人もいるかもしれません。確かに、フェイクを入れなくてもパスが受けられるかもしれません。しかし、フェイクのポイントは、相手をまくことだけではなく、ボールを受けたときに、一瞬フリーになる余裕を作ることにあります。パスを受ける前には必ずフェイクを入れるように体に覚えさせましょう。       

(Futsal Club - Tiger Lilies FCのホームページから)




 このチームのエースで僕より1歳年上の、佐川仁太郎さんが関東フットサル2部リーグの試合を練習前に見に行こうと誘ってくれた。寒川総合体育館の2階席から眺めるフットサルの試合は今まで自分が練習してきた競技とは別世界のスポーツに見えた。このように関東2部のような上位リーグの真剣勝負を見に来たのは初めてではない。でも、今はこれまでと違って新鮮でワクワクとさせる何かを含んでいるような気がした。


「それは自分の中身の変化だととらえるべきじゃないのか。変化の初期症状ってさ、『好き嫌い』が変わってくることじゃないかな。ありきたりなアドバイスになるかもしれないけど、よく、心が変われば行動が変わる、行動が変われば習慣が変わる、習慣が変われば人格が変わる、人格が変われば運命が変わる、運命が変われば人生が変わる、なんて言うから、もしかしたらカイの人生も変わり始めたのかもしれないね」

 と仁太郎さんは嬉しい分析してくれる。そうかもしれない。この人は本当に優しい。仁太郎さんのように普段は穏やかでプレーになると熱くなる選手は僕の目標だ。


 今、こうしてフットサルと向き合ってみると、今までは気が付かなかった「細かい動き」がよく見えてくる。それらを楽しく見ている自分もいる。まず、ボールを持っていないプレーヤーのポジショニングだ。コートがサッカーより狭いため、小さな違いは瞬時に大きな違いを生むことになる。

 仁太郎さんの解説によれば、両サイドに構える選手(アラ)の「立ち位置」がゲームの組み立てる重要な要素であるという。目の前で展開させる試合をベースに、その理由と基本戦術を、ハイビースが学ぶべきポイントを混ぜながら40分ほどの説明を受けた。「なるほど」と思う反面、本当に自分にもできるのか、心配になってきた。

 背後に気配を感じたと思った瞬間、僕の後頭部を小突く人影が見えた。

「カイ、何かつかめたか?」

仕事帰りなのか、スーツ姿のセイヤさんだった。ゴールキーパーの西条浩太さんと僕と同じ年のフィールドプレーヤーの今治悠もいる。

「この顔だと、サッパリって感じですね。むしろ混乱していますよ、この男は。まあ、悩んだってなんだって、知ることは早いほうがいいっしょ」今治はこちらを見ずに、コートの試合を眺めたままつぶやいた。こいつは仁太郎さんから社会人としてのマナーやコミュニケーションを学んだ方がいい。言葉には優しさと思いやりが大切だ。


 この日の夕方の練習で、ヘッドコーチの江田島源太郎さんからあらためて局面に合わせたポジションの取り方、守備の決まりごと、ボールを奪ってからの攻撃の仕掛け方が確認された。動くほど暑さを感じる神奈川県立スポーツセンターで行われた、体より頭を使う練習だった。神奈川県フットサル1部リーグはフットサルのプロリーグであるFリーグと同じ横20メートル、縦40メートルの体育館コートで前後半それぞれ20分のプレイングタイムで試合が行われる。この県立スポーツセンター体育館が試合会場として利用されることもあるため、リーグ戦に向けて「会場が持つ特融のピッチとボールの感覚」を習得する作業も同時に行われた。

 頭でわかっていることを体現するというのは本当に難しい。マクロイの言葉にもあった。この世の中で「言葉で表現できること」は我々が考えているより恐ろしく少ないらしい。たとえば夕日の色は何色か? 実は本当の意味では誰も的確に表現することはできない。文字も同様、ひとつの表現は百人に百通りの解釈やイメージをもたらす。

 だから、言葉で説明を受け、本や雑誌やネットで情報を集めてみても、自分のプレーとして身につけるまで、血のにじむような努力を必要とするのだろう。

 開幕まで、だんだん時間がなくなってきた。だからと言って、今さらやり方を変えたり、新しい何かにチャレンジしてブレるわけにはいかない。結局、何かを体得できたとは言えないまま、この日の練習が終わってしまった。それでも大きな充実感があった。


 翌日の1時限目、ギルバート・マクロイの講義を、重い体にこの時期特有の生温かい「じめっとした空気」を感じながら受けていた。瞼が重い。眠ってしまいそうだった。


その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。すると、大ぜいの群集がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群集はみな浜に立っていた。イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。

「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のあるものは聞きなさい。」

すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」

イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。

(新改訳聖書 マタイ13章) 



「カイ、これらの種の話を通じてイエスは何を伝えようとしていたんですかネ? 同じ種でも芽が出る種とでない種がありますネ。たとえば、ここで言われる『種』が、私たちのひとつひとつの言葉だったり、出来事だったり、絵だったり、写真や音楽だったり、なんでもいい。それらが育っていくのか、それとも枯れてしまうのか、決めるのは何だろう?

イエスがたとえた『良い土地』とは何だと思いますか?」


 外国人特有の訛りある日本語と伝道者のような仕草から語られる言葉には深さと重みがあるが、眠さとだるさで、質問の意味が理解できない。こんなときに限って、なぜかこの人は目をキラキラ輝かせて次々に質問してくる。

種の話だろ。だから何か種に関係することを答えなくちゃいけない。でも、真っ先に頭に浮かんだのは、電車の中刷り広告で見た「どこかで見たことがありそうなビールのロゴ」で、缶のラベルに麦の穂が丸くしなっているマークだった。まずい、それは種じゃなくて麦だ。


 何かを言わなくてはと思った次の瞬間、「興味ってやつじゃないですか?」という言葉が無意識に口から出ていた。マクロイがつられて眉間にしわを寄せる。そこから先は、子供が言い訳するように僕は言葉を続けた。

「興味があれば全ての出来事は勉強になりますし、行動すれば経験は自分の財産にもなります。興味がなければ、どんな高価なギフトも貴重なチャンスもゴミと同じですから・・・

つまり、『良い土地』とは興味を持った心だと思います。」

マクロイは僕の回答にコメントすることなく、あごひげをさすり、沈黙を守った。ひと呼吸おいて、静かにメモに何かを書き込んでいく。マクロイが授業を再開させるまでの数分間、教室は西洋の教会のようにシーンとしていた。



 6月中旬の土曜日、神奈川県フットサル1部リーグが開幕した。湘南ハイビースは横浜の藤沢市にある秋葉台体育館で海老名アスレFCと対戦した。結果からいってしまえば、湘南ハイビースは初戦ということもあり、立ち上がりに硬さが見られたものの、少しずつリズムをつかみ、辛くも勝利を手にした。


 押されに押された前半、多度津監督は、各チーム前後半に各1回ずつ認められるタイムアウトを早めにとった。


「あんまり楽しそうには見えないねえ。邪念が多くて心が曇っている感じだ。勝利を意識するなよ。伸びる手足が伸びなくなるし、打てるシュートが打てなくなる。」

 そう言いながら笑って選手たちをベンチで迎え入れた。


 「そろそろカイ、行くぞ!」

多度津さんが僕の二の腕をつかむ。

「ヘイ、カーボーイ! 短い時間になるけど、そのままのお前でいい。練習試合のつもりで楽しく自分らしくやってこい」

それだけを口にした。オレンジ色のビブスを脱ぎ、交代でベンチに戻る今治に右手をタッチしてコートに入った。


 フットサルの専門用語で「ボールを保持する選手」と「パスを受ける選手」の間に相手DFが立ち、パスコースがふさがれたままになっていること、もしくは相手DFの裏に受け手が隠れてしまってパスが出せないでいる状態を「受け手が死んでいる」という。パスを受けようとポジションを取ろうとする僕にベンチから「カイ、死んでいるぞ」という言葉が連呼される。それほどに僕のポジショニングは機能していなかったんだろう。

 早い話が、常に僕とボール保持者との間に相手DFがいて、いい加減な自分の立ち位置のせいでパスの出しどころがつくれていないのだ。いてもいなくても同じという意味で「死んでいる」とはよく言ったものだ。


 あまりのパスの出しどころのなさにゴールキーパーの西条浩太さんにボールがバックパスされる。西条さんは相手ゴール前で待ち構えるエースの佐川仁太郎さんに右足できれいな弧を描く浮き玉のロングパスを蹴った。そのボールに相手DFが詰め寄る。競り合ったボールはDFに弾き返されて右サイドにいたセイヤさんの前へと転がっていく。

 誰の声も聞こえなかった。

「―――カイ、止まれ―、それ以上前に出るな―」

なぜか、僕は左サイドを全速力で相手ゴールに向って走っていた。ベンチの声は聞こえない。後で聞いた話だと、この時、ボールを持っていたセイヤさんは、僕が前に出すぎて、自陣が手薄になっていたため、自陣の近くでボールを奪われるわけにはいかないと、一度、相手コートの深いところでボールを外に出そうとしたようだった。自陣で相手にボールを奪われれば僕がすぐに戻れるポジションにいない分だけ失点につながる可能性が高い。

一度安全な形でプレーを切った方が相手のカウンター攻撃になるようなパスミス、つまりゴールキーパーにキャッチされたり、DFにインターセプトされるよりマシだと考えていたという。一度、ボールを外に出し、相手がセットしている間に、僕を自陣に連れ戻そうとしたらしい。

 セイヤさんが相手ゴールのコート左側のファーサイドに流れていくボールを強く蹴った。そのボールは前線の仁太郎さんと相手キーパーの間を矢のように横切っていく。

僕は必死になって、そのラストパスをゴールに押し込むため、木製のフロアをスライディングし、左のファーポストに向って足を伸ばした。慌てた相手DFのマークも僕についてくる。ボールは僕とDFのわずかな隙間に勢いよく転がって来た。それでも、パスコースをきってから僕に向かって間合いを詰めてきた相手DFは遅れながらも何とかつま先にボールを当ててこのラストパスをクリアしたが、ゴール左にそれるように蹴られたボールの弾道はなぜか向きを変え、不規則な回転で相手ゴール左隅に転がっていく。ボールは僕が伸ばした左足と地面の空間をくぐるようにすり抜け、ポストにあたり、ゴールラインを割った。


「ゴール! ハイビース9番」

レフリーは右手をセンターサークルへ水平に指し示し、両手で9本の指を立てて得点者をオフィシャルに告げる。チームの誰もが僕のゴールと信じて駆け寄ってくる。ベンチから歓喜の大声が聞こえる。

「開幕ゴールはカイか、大穴だな、こりゃあ」

給水のペットボトルを音を立てて捻り潰しながら僕と交代した今治がぼやいた。

 でも僕はボールに触っていない。つまりは正しくは相手のオウンゴールだ。僕が左足で押し込んだように見えただけで、ラストタッチしたわけではないのだ。セイヤさんのキックに相手がたまたま触ってしまった結果、コースが変わりオウンゴールになっただけだ。


 この先制点が生きて、落ち着いた後半12分にベテランのレフティー、大洲亮平さんの追加点をよびこんだハイビースは海老名アスレのパワープレーを耐えて2対0のスコアで初戦を勝利で終えることができた。

 試合直後、レフリーが僕のところに寄って来た。

「君、あの1点目、触っているよね。公式記録のために確認させてもらいたいんだけど」

ここまで来て、触っていませんとは言えない。

「はい、触ってます」

と答えてベンチを後にした。

 その時、本来ならうれしいはずの勝利が、僕の中で急に後ろめたいものにかわっていくのを感じた。追い打ちをかけるように、後ろから声がする。

「カイ、お前、ウソがうまいな。まあ、いいけどさ」

多度津監督に耳打ちされた。「見ている人は見ている」とはこのことなのか? 「誰にも言わないけど、俺はわかっている」というような顔をしている。

 「1点目を記録すれば自信がつき、次に続いていく」。よく、野球でも初ヒットがでたり、ホームランがでたりすると勢いがつくと言われるから、ここは自分の得点ということにしてもらって、弾みをつけたい。そんな安易な考えからの発言だった。でも、かえって嘘をついてしまったという事実が僕を暗い気分にしてしまった。


 初戦の重圧から解放された選手たちはニコやかに帰り支度をしている。先制のゴールシーンを思い出してみる。触った感触のないスロー映像が頭を駆け巡り心を締め付ける。次の試合こそは、しっかりと自分の役割を果たそう。そして、できるなら、本当のゴールを体感してみたい。勝った集団の中で、僕はひとりだけ、なぜか負けたチームの一員のような反省を続けていた。




 翌日の夕方、クールダウンを兼ねて、平塚ビーチパークから花水川の河口までの砂浜を西に向かってゆっくり歩いて往復した。今まで考えてきたこと、学んだこと、試合や練習を通じて体感したこと。全て一度白紙にしてから新しく組み立ててみたくなった。

 波打ち際に沿ってゆっくり歩いてみると、やっぱりオウンゴールを正直に伝えなかった事実が反省と違和感の大半を占めていることに気がついた。後味の悪さというか、後ろめたい感覚が今も心を支配している。

 でも、ゴールでいいじゃないか。だって、もう、公式記録は自分が得点者だ。今からでは、もう、変更はできない。

「ウォーーーッ!」

 突然、そして無意識にシューズを脱ぎ捨て、キラキラと輝く波打ち際を白い水飛沫を立てながら走りだす。たった今、ゴールを決めたサッカー選手のように喜びを表現するかのような走り方で湿った砂の上に裸足でステップを刻んだ。これでいい。もう、自分のゴールだ。

「あれ、カイじゃねーか?」

ビーチセンターの水道で水を飲み、足を洗っていると、ビーチバレーをしている集団に声をかけられた。ほとんどが僕を不思議そうな顔で見つめている。「さっき、大声を張り上げて、変な走り方をしていたのはお前か?」と言いたげな表情だ。中学時代の同級生が何人か混じったメンバーの中に、今でも多少の付き合いがある鳴門吉彦、通称サミット、がいた。『サミット』は、確か亡くなった彼の伯父が経営していた雀荘の名前から取られた愛称だった気がする。


「何だ、ひとりか? 半年ぐらい前にシネコンで一緒だったあのカワイイ彼女はどうした? こんなところで大声出して走っているところをみると、フラれたな、こりゃ」

正解! でも、叫んで走っていた理由はその彼女じゃありません。(でも、久々に、しばらく前の自分には彼女がいたことを思い出した。別れてから何年もたったような気がするから不思議だ)

 サミットにハイビースの話をする気になれなかったから、僕は笑ってごまかした。

「カイ、実はさあ、次の日曜日、7月9日の七夕祭り最終日の夜だよ。ある程度、仕事が片付いたら気の合う仲間で簡単な打ち上げをやろうかと思ってるんだ。どうせ彼女もいなくなちまったんならカイ、お前も来ないか? 歓迎するよ。俺のバイト先の女の子達とか、その友達とかも来るから、いいチャンスになるじゃない。お前の大学のテストやレポートが忙しくなきゃ、どうかな」

 梅雨明け前にもかかわらず日焼けしたサミットは僕の顔ではなく、沖に浮かぶ波浪観測塔を見つめながらつぶやくように話した。

「いつも気にかけてくれてありがとな、サミちゃん。実はその日、フットサルの大切な試合があるんだ。それが終わってからでもいいかな。テストは心配ないし、次の日も大学は休みだから、僕で迷惑じゃなければ、よろこんで行くよ」

 コートでビーチバレーの再開を待つサミットの友人たちをチラリと見ながら僕は答えた。サミットは僕が来ている胸に背番号と「サン・ライフ」、背中に「トータルライフサポートクラブ」のスポンサーロゴがプリントされているトレーニングシャツを見つめる。

「急にどうしたんだよ、現役選手に戻ったんか。そりゃ、彼女もいなくなるわなあ。まあいいよ、その話はいずれゆっくりしようか。試合が終わって準備ができたら電話かメールをくれよ。ただな、絶対にシャワーを浴びてら来いよ。楽しい宴席に汗臭い奴はお断りだ。それと、これだけの皆さんにサポートされているチームにいるんだろう。こんな人目につくところで、変な行動は慎めよ、この受け身野郎!」

中学時代、同じサッカー部に所属していたサミットは、僕の一番気になるキーワードを吐き捨てて友達が待つビーチバレーコートに戻っていった。


 自販機で買ったスポーツドリンクをすすりながら、笑い声や優しさのこもった穏やかな言葉が飛び交うサミットたちのビーチバレーをしばらく眺めていた。少し前まで僕も成長とか進歩とか、あるいはそれらをコートで体現すると言ったハードな目標と無縁の世界にいた。真剣勝負に身を置くまでは「試合を控えている人」、つまり、戦う場を持っている人を心のどこかでうらやましく思っていた気もする。

 でも、いざ、自分自身を厳しい競技の世界に放り込み、明確な目標を持って生活してみると、サミットのように「純粋にスポーツを楽しむ姿勢」も別の意味でうらやましく思えてくる。


 いつかマクロイが言っていた。ヨットに乗ると丘が恋しくなり、丘にいるとヨットに乗りたくなるように人間はできていると。

どちらがいいとか悪いとかではない。どちらがその時の自分に必要かという問題だと思う。リズと別れた僕に「自分革命」が必要だった。いや、運命的にその課題に流れついてしまっただけかもしれない。僕にとって湘南ハイビースを通じた「今、目の前にある新しいチャレンジ」こそ、必要だっただけの話だ。


 7月9日の七夕祭り最終日の夜の打ち上げは、もしかすると、これまでの自分自身の変化を確認する大切なチャンスになるかもしれない。新しい出会いや発見があれば、それはそれで嬉しい。直前まで神奈川県フットサル1部リーグという真剣勝負の世界で全力プレーをしてから、楽しそうなサミットとその仲間に合流したら、どんな気持ちになるだろうか。フラれたことから始まったとはいえ、チャレンジの道を選択した僕の運命みたいな現実が、僕自身の中でどう解釈されているのかを知る機会が欲しい気もする。

セイヤさんや仁太郎さんに七夕祭り後の打ち上げの話をしたら、僕の人格が疑われてしまうだろうから、絶対に黙っておこう。

 ここまでの「僕の選択」は間違ってはいないことを、日曜日、七夕まつり最終日に証明しよう。これも、目標としてきた「自分革命」の大切な作業であり、効果測定じゃないか?


 梅雨の時期独特の曇り空が途切れ、湘南平のテレビ塔の方角と箱根の山の間に夕日が輝いている。南風が心地いい。乾いた砂浜にはハマヒルガオが花を咲かせている。植物は生きる場所を選ばず、逞しく、そして力強く花を咲かせるから不思議だ。この様子だと今年の梅雨は短いかもしれないな。今年の梅雨と一緒に、自分の中にある曇った何かも、少しでも早く晴れてくれることを祈った。


僕が一番好きな花を 君の胸の中に咲かそう

なんとなく君が淋しそうな夜に あふれる想い

君の部屋の窓から見えていた あの花の温かさ感じていた

なんとなく君が淋しそうな夜に あふれる想い

あの花のように まっすぐ前を向いて

咲き誇る君を僕は見ていたい

あの花のように 何度踏みつけられても

咲き誇る君を 僕は見ていたい

(♪ リトルキヨシ『花』 喜久本浩二クランクシャフターズcover)




 決戦1週間前の日曜日の夜、我々湘南ハイビースは格上、関東1部リーグ一部の強豪、川崎ホットスパーフットサルクラブと練習試合を行った。なぜ、大切な試合の直前に強敵と対戦するのか?

 多度津監督はプレスの早いチームとのゲームで試合の準備をするべきだと、その理由を説明した。相手のレベルが高ければ、当然、プレスや寄せも厳しくなる。我々がボールを持った瞬間から相手の足が伸びてくるまでの時間が短くなるわけだ。試合前にこの「厳しいプレス」を経験していれば、神奈川県フットサル1部リーグに戻った時に、相手選手が寄せてきても、あわてずにボールコントロールができると考えたようだ。

 ただし、どのようなメニューや戦略にも一長一短があるものだ。このきついプレスが調整となる選手もいれば、かえってマイナスになってしまう僕のような選手もいる。予想以上に相手選手の寄せが早く、味方のパスをもらった瞬間、相手の足が伸びてくる。そのため、思うようなトラップができない。できないから、パスは僕の次の選手に回っていかないし、ひどい時は、ボールを奪われ、その瞬間から相手のカウンター攻撃が始まる。

 何度か失敗を繰り返しているうちに、リズムがまったくつかめなくなってしまった。それどころか、「何をしたらいいか」すらもよくわからない悪循環に陥った。サッカーの9分の1の広さしかない小さなフットサルコートの宿命、攻撃の失敗でカウンターを受けないことが大切なセオリーがあるにもかかわらず、明らかにこの日は僕が相手のカウンターのオープニング、つまり震源地になっていた。


「カイ、ボールだけをみるな。味方も相手も、とにかく人とボールを同時に見ろ!」

 仁太郎さんは前線のピヴォのポジションから大声で僕のプレーに注文をつけてくる。頭ではわかっている。でも相手の寄せの早さに戸惑っているうちに普段のプレーすらもできない心理状態になっている。

「カイ、交代だ。戻ってこい」

ベンチから多度津監督の声がする。公式戦前の貴重な練習試合にもかかわらず、僕のプレーでチームの成果は激減しているように思われる。監督として当然の判断だ。

 ベンチに腰をおろし、ため息をついたのが先か、声をかけられたのが先か、多度津監督によばれた。

「いいか、あわてる必要な何にもない。まずは落ち着いてオレの話を聞けよ。このスポーツはサッカーと違うんだ。ボールをもらう前にしっかり首を左右に振って周りを見て、寄せてくる相手と次のパスの受け手になる味方の位置を確認しないと。そんで、トラップの瞬間は、ファーストタッチでいちばん最初に寄せてくる相手DFの逆のスペースに向けて、足の裏を使ってボールを転がすようにトラップしなきゃボールは次につながらないだろ。間違ってもファーストタッチで一気に前に運ぼうとか、考えなくていい」

冷たく、そして暖かく、吐き捨てるような口調で僕に細かい指示が出る。

「カイ、監督は、なあ、フットサルのトラップを覚えろって言っているんだよ。フットサルはサッカーと違ってコートや間合いが狭いから、パスをもらう前にフェイク、つまり騙しの動きを一度してからパスコースに入らないと、相手の寄せをかわせないんだよ。パスを受けるファーストタッチもインサイドトラップではなく足の裏のトラップを使えば、そのまま進みたい方向にボールを動かせるだろ。ほとんど全てのトラップは足元で止めないで、相手のいないところへボールを動かすようにコントロールしないと・・・」

大粒の汗をそのままに、スクイーズボトルで給水するキャプテン、セイヤさんが試合に目を向けたまま呟くように解説してくれた。

 確かに、そう言われてみると、エースの仁太郎さんをはじめ、ベテランレフティーの大洲亮平さん、そして悔しいけどあの今治も相手をだますような動きと相手のいないスペースへの足の裏トラップを実践している。 


 そのフェイクやトラップという細かい工夫によって30センチから50センチではあるが、相手DFとの間にあるパスを迎え受ける隙間が広がるだけでなく、次の展開に向けた選択肢を確保している。前線に走り抜ける動作を入れることで相手DFはつられて自陣に戻ろうとする。その直後にわざと止まってみると、だまされたDFとの間隔は、その瞬間だけ大きく開いていることが分かる。このタイミングでパスを受ければ、足元に余裕ができる分、確かに僕でもパスが処理できるはずだ。なるほど、この数十センチの余裕こそ、相手のプレスを回避する大切な要素だ。


 しかし現実は無常だ。まず、相手の寄せが怖くて思うようにフェイクができない。また、フェイクそのものがヘタクソで相手がつられないからパスコースが生まれない。

「フェイクを入れた分だけパスコースに入るのが遅れたらフェイクの意味がねーだろ」

大洲さんのご指摘はごもっともだ。フェイクをしてからパスを受けることが理想ではあるが、慣れない動作は次の動作を遅らせるだけだった。

 トラップの直後に相手の足が伸びてくる。結果的に簡単にボールを奪われる。最後までチームに迷惑をかけたまま、この「最後の調整試合」が終わった。当然、その日は眠れない夜を迎えることになった。


 公式戦第2節の2日前になった金曜日、何度もボールを受け止める直前の動きをイメージして過ごした。大学までの行き帰り、コロナ禍明けの七夕祭り初日で混雑する電車の中、つり革を握りしめて頭の中をフル回転させた。


 試合前日の土曜日夜、袖ヶ浜のなぎさふれあいセンター近くにある遊戯広場まで出ていき、街灯の灯りにつくられる自分の影をつかって、何度も何度もフェイクの練習をした。日中より涼しくなったとはいえ、風のない蒸し暑い夜のトレーニングに汗が止まらない。気が付いたら夜11時を回っていた。

 昨日、今日、明日と予定された「湘南ひらつか七夕祭り」は別世界の出来事だった。明日はゆっくり朝を過ごして、しっかりとした準備で夕方の試合に臨もう。待ちに待った生まれ変わりのチャンスだ。

 「――試合で全てを尽くして、サミットに会いに行く」

その想いが今の僕を支えている気がした。


 スマートフォンのニュースは関東甲信越の梅雨明けが例年よりはやくなる予測を伝えている。群馬県館林市で37度、東京都心でも33度という数字が裏付ける今日の暑さに、平年より早い夏が始まる感覚が身体中を駆け巡る。舞台は整った。あとは自分に与えられた環境で全力を尽くすだけだ。




 体が重い。何より手足に痺れるような感覚がある。頭痛もひどい。夜が明ける頃、フラフラとトイレを往復した。喉が渇いている気もする。しかし、冷蔵庫を開けても飲みたいもの(正しくは飲めそうなもの)がない。水道の水をコップ半分ぐらいすすってベッドに戻った。どう考えても普通の症状じゃない。怖くなってスマートフォンで調べてみると熱中症の症状とピタリと一致する。「寝ている間に起こる可能性がある」とも書いてある。大切な公式戦の朝だというのに体は悲鳴をあげていた。


 フェイクの切れ味を高めるために行った前日の個人練習の後、しっかり水分補給を行ったはずだったが、ミネラルウォーターを飲んだだけだったことが災いしたようだ。たまたま10円玉が財布に無く、自販機も釣り銭切れの赤いランプが点灯していたから、100円玉だけで安い飲料水を自販機で買ったんだ。今思えば家に戻ってでも小銭を用意して電解質をチャージできるスポーツドリンクを買うべきだった。検索結果によれば熱中症は「大量の発汗後に水分だけを補給して、塩分やミネラルが不足した場合に発生する」らしい。

「冷却と経口摂取による水分補給」が応急措置とされているが、何度検索しても「すぐに回復させて、運動を始める方法」はどこにも書かれていなかった。冷蔵庫にはスポーツドリンクがない。とてもではないが、この体で近所の自販機、あるいはコンビニまで歩くことはできない。


 たくさんの釣り銭を用意して自宅から最も近いクリーニング店の横に並ぶ自販機にたどり着いたのは朝9時頃だったと思う。一生懸命歩き、苦労して手に入れた「いのちのスポーツドリンク」にしては「気持ち悪さ」が邪魔をして飲み込めない。まだ朝なのに猛烈な暑さを感じて目をしかめる。七夕祭りに向かうであろう家族連れが楽しそうに袖ヶ浜のバス停に向かっていく。その先にはいつもよりも長い列がバス停に続いているに違いない。


 例年7月上旬は日照時間が長い。夕方になってもなかなか日が沈まない。そのため、晴れた日は暑さが衰えを知らずに夜まで続いていく。第2節の会場、横須賀から久里浜にそれたところにある試合会場でフォーミングアップをするハイビース選手たちはいつも以上に汗をかいている。もう、限界だ。これ以上、動けない。僕はついに自分自身にタオルを投げた。

「監督、相談したことがあります。よろしいですか?」

準備運動の列から外れて現れた僕の姿に、いつもは淡々としている多度津監督も驚いていたようだ。意外な現実に困惑した表情をしている。

「先発を直訴したいのか、カイ? 一度ゴールを決めると積極的になるもんだな」

いや、僕はそんな、積極的な男ではありませんよ。むしろ、根っからの受け身男です。それに、決していい知らせではありません。怒らないで聞いてください。そう伝えるかわりに、口に残る生温かい唾を飲み込んだ。

 熱中症のため、今日の試合に出られない事情と朝からこれまでの経過について全て伝え終えると、多度津さんはしばらく遠くを眺め、何かを考え始めた。ゲームプランや交代のやりくりを頭の中で組み立て直しているのかもしれない。

この一軍を預かる指揮官は決断するまでは静かだったが、何かの結論に到達したのか、テキパキと次なる行動に出た。選手たちに集合をかけ、クーラーボックスの底から「熱中症対策タブレット」を引っ張り出して、ひとりひとりに配り始めた。

「ぶっ倒れないように、全員最低2個は口に入れろよ。カイ、お前は4個以上だ。わかったな」

監督の思いやりは、とてもとてもうれしいのですが、こと、僕に限っては、もう、このタブレットを何個口にしても、もう手遅れなんです。


 申し訳なさと情けなさに心を締め付けられたまま、他の選手に交じって僕は何とかアップまでは済ませた。キックオフまでの時間、メンバーチェックの最中も、明らかな異変を体に感じていた。手足の痺れが残っている。お世辞にも回復したとはいえないコンディションだった。


 体育館のフロア、換気のために開けられたドアの向こうから爆発音がする。こんなときにまさかの「花火大会の開始」の合図だ。相手はここ横須賀を地元とするチーム、横須賀チーターズ。コートの2階席に集まった応援も多く、完全にアウェーの戦いの空気が漂っている。


 試合が始まっても、僕はひとり、別の世界にいるような時間を過ごしていた。開始早々、何回かあった大きなチャンスを決め切れなかった湘南ハイビースは、少しずつ、チーターズに攻め込まれ始めた。それでも、素早く攻守を切り替え、自陣内の優勢だけは維持できたことで、何とか前半を無失点で終えた。

 ハーフタイム、ベンチで給水する選手の全身から大量の汗が噴き出している。1試合で流されるチーム全体の汗の量に平均値が割り出せるなら、僕の熱中症によるご迷惑のために、今日の試合は選手のほとんどが2割増しの汗をかいているのではないか? ケガ人、諸事情のため、この日のチームベンチに人は少ない。申し訳なさに「かける声」が思い浮かばない。僕はチームのピンチが皆の体力消耗によって発生しないことを心から祈った。


 両チーム、得点がないまま掲示板の時間が減っていく。遠く横須賀の夜空に打ち上っているだろう花火はクライマックスに近づいたのか、炸裂音が激しくなっていく。

 後半のこり3分、多度津さんがタイムアウトを取った。選手たちがベンチ前で輪をつくり、互いに励ましあっている。その輪に大将は加わらず、換気のために開けられている体育館のドアを見つめて、打ち上がる花火の音を聞き入っていた。

 試合再開を知らせるブザーが体育館に鳴り響くと監督は選手の輪に近づき、全員に深呼吸を要求した。

「体にある全ての空気を吐き出せ、吐ききったか? はい、次、この周りにある全ての空気を全員で吸い込め」

 大きな深呼吸を同じリズムで3度、選手たちに深呼吸させた。直後に選手たちが自然発生的に円陣を組む。大きな掛け声が横須賀の花火大会の爆音をかき消していく。

「Woo you Woo you be, Woo you be a Hibee, Woo you Would you be, Woo you be a Hibees!!」

 言葉では表現できない一体感に包まれた選手たちに大きな力が宿ったのか。キャプテンのセイヤさんが江田島貴生さんのコーナーキックを相手ゴールに押し込んだ。その劇的シーンは実にタイムアップの30秒前の出来事だった。


ありきたりな朝日におはようさん 平凡な夕日にご苦労さん

そっちはどうです ご機嫌いかが こっちはどうにかやってます

月曜ヤンマガ スピリッツでジャンプ 水曜マガジン なぜかサンデー

木曜モーニング チャンピオン ヤンジャン

そんな街で 生きてます

毎日いろいろあるけどさ いちいち面白がれたらな

マイライフはライブ ローリングデイズ


ありのまま日々を暮らして 当たり前に君といられたらな

そっちはどうです ご機嫌いかが こっちはどうにかやってます

人生諸々あるからさ くよくよする日もあるけどさ

毎日いろいろあるからさ いちいち面白がれたらな


My Life は LIVE  Your Life は LIVE

Our life は LIVE ローリングデイズ

(♪ リトルキヨシ『ローリングデイズ』)



10

 大学もフットサルの練習もない月曜日の朝、サンデードライバーの父親から借りた車で箱根ターンパイクを上っている。暦は7月10日だ。すでに大切な試合は終わり、七夕祭りも、サミットが企画した打ち上げも過去の話になってしまった。僕はそのうちのどれにも参加することができないまま、これから始まるであろう長い夏の始まりを迎える破目になってしまった。

 直接の原因は熱中症だが、あれだけニュースや天気予報で熱中症の予防を呼びかけているにもかかわらず、何の対策も講じなかった自分の健康管理が悪いわけで、誰かに文句を言ったり、自分の不運を嘆いたりする話ではない。


 セイヤさんのゴールで呼び込んだチームの勝利を喜んだあと、今治に自宅まで送ってもらい、倒れ込んだベッドの上で、携帯電話を取り出し、サミットに「欠席のメール」を送った。熱中症にかかったことと試合に出ていないことは伏せて、試合があまりにもハードで、今夜はもう動けないこと、テストよりも課題レポートに苦しんでいることを言い訳のように打ち込み、お詫びの言葉を添えて送信した。これで「自分革命だ!」と位置づけて迎えた7月9日は歴史的な空振りで終わったことになる。

 スマートフォンのスクリーンが一瞬で真っ暗になったように、シャワーも浴びず、倒れ込んだベッドの上、気が付いたら「夜明け前」という深い眠りに落ちていた。翌朝になり、監督から頂いた熱中症対策タブレットの効果だろうか、体はすっかり元気になっており、昨日は飲み込むのも辛かったスポーツドリンクが、体にしみこむように喉を通過していく。早朝の風呂場で汚れた体を洗うと、昨日とは打って変わって「エンジン全開の朝」になっていた。


 箱根に上って温泉でも行こう。ひとりで、ひっそりと、自然に囲まれながら、再出発がしたい。イエスだって、山に登って悪魔の試みを受けたじゃないか? そんな自分都合の理由をつぶやきながらターンパイク特有のきつい坂道を走り抜ける。

これは明らかに「突然の衝動」ってやつなんだと思う。いてもたってもいられないのだ。その証拠に、30分に一度くらいは大きな後悔が自分を支配する。そのたびに、エアコンの効いた車内で大声を張り上げ、ハンドルをたたいては荒くなった呼吸を整えた。

「いったい、お前は何をやっているんだよ、カイ。このやろう。すべてをかけるはずの日を台無しにしやがって~ ああ〜」と一人しかいない車の中で叫んでいた。


 突然「その日最大の後悔の波」が襲ってきた。慌ててターンパイクの途中、砂利で広がる展望所に車を止め、周りに人がいないことを確認して、腹の底から大声を出した。一瞬だけ向いの山に響いた自分の声に驚いてしまったが、今回は誰にも見られていない。チームシャツも着ていない。騒ぎたいだけ騒いでも咎められることはない。ぬるくなったペットボトルのお茶を片手にどのくらい山々を見つめていただろうか、真夏のような日差しに耐えられなくなると、急に今度は海が見たくなった。このまま大観山の展望台前を通過し、十国峠から熱海に下れば海を眺めることも、温泉につかることも、同時に味わえるだろう。僕は車を箱根山頂に向かって走らせた。今日という一日を有意義に過ごさないと、試合と打ち上げを逃した昨日の後悔をいつまでも引きずってしまいそうな気がした。


来宮駅前から熱海の街は急に道が細くなる。静岡県の最東端に位置するこの温泉街に一足早く夏を迎えたような空が広がっていた。そのことに僕だけが気が付いているかのように、人出は少なく、オフシーズンのような静けさを感じる。それにしても一方通行がやたら多い、複雑な道路環境だ。満車ではないのに、入ろうとしたパークングに車を入れることもできない。何度も同じ道を、行ったり来たり繰りを返し、よくわからないまま熱海港第一駐車場に車を止めてしまった。街中から遠く離れた港にはカモメが宙に舞い、大きくて真っ青な空が広がっている。

 大きく呼吸をし、船着き場をゆっくりサンビーチ方面に歩きだす。立ち止まって昨日の、開幕戦とは別の意味で「死んでいる」だけで終わってしまった自分を思い返してみる。

 ゲームだけならまだしも、そのあと、招待されていた七夕祭りの打ち上げまで「死んでいる」まま、今日という日を迎えてしまったわけだ。開幕戦の時の方がオウンゴールに絡んだだけましじゃなかったか? 青く広がる海にそびえる灯台とサンビーチの間を縫うように現れた中型客船の汽笛に驚いて、僕ははっと我に返った。


 熱海から沖に浮かぶ初島へは往復2800円で渡ることができる。片道35分の船旅だ。そこには水平線を眺めながら海水を温めて利用する湯に浸かれる「島の湯」もあり、僕は迷わず停泊するイルドバカンス3世号に乗り込んだ。駐車場代とフェリー代は昨日の飲み会に使わなかったお金の転用と考えれば、懐が痛みを感じなくて済む。


航路を刻むように船の後方、青い水面に白い波がのびている。熱海はもう、遠くの世界に見えるほど、気が付いたら僕は沖に出ていた。船尾のスクリューから陸に向かって伸びていく白い気泡が、なぜか時の流れを思わせる。何かをつかまえようとすれば、かえって追いかけるものがつかまらないのはなぜだろう。拾ってきたことより、捨ててきたことが気になるのはなぜだろう。


目の前にあったはずの時間は恐ろしいスピードで過去となって僕の後ろに消えていく。だからと言って、今日、この時を大切に過ごそうともがいたところで、結局は大切にされた時間も、そうでない時間も、同じように過去や昨日になって僕の後ろに消えていく。この白い気泡は時間がたつにつれて、海の色に同化していく。僕はただ、それを眺めることしかできない。上りのエスカレーターに乗った僕が、下りのエスカレーターに乗った誰かとすれ違ったみたいに、気がついて声をかけようとしたときには「その人の背中」を見送ることしかできないようなもどかしさが体を支配している。


船が初島港に横付けされると、僕は港からリゾートホテルのバスが折り返すテラスの前まで前後の人々に挟まれるように歩いた。黄色い文字で「ようこそ初島へ」と書かれたアーチをくぐると、食堂街へ左折する人、小学校方面に上る人、第二漁港の方に右折する人にわかれる。初めての上陸に戸惑っている僕はどちらに進むのかを決められず、頭にタオルを巻き、原付にまたがった体格のいいお兄さんに道を尋ねた。

 「島を歩いて一周してみたらどう。この道を時計回りに歩き続ければ、またここに戻ってくるから。そんなに大きくない島だし」

 彼はどことなく不愛想ではあったが、優しく道を教えてくれた。僕は自販機でスポーツドリンクを買い、半分飲み干すと、熱海を遠くに眺めながら反時計回りに島を歩き始めた。




11

 新しい世界に触れているからなのだろうか? それとも暑さにやられて疲れ果てているからなのか? ちょうど島を歩いて一周し終えした頃、僕は昨日の失敗がどうでもいいように思えてきた。昨日の話だけではない。リズのことも、オウンゴールのことも、こだわるほどでもない小さな悩みに感じてきた。船に続く白波や飛行機の後にのびる細い雲のように、いずれは消えていくのだ。大切なことは、もっと別のところにある気がしてきた。


 港に向かって建てられているログハウスのような丸太小屋の公衆トイレのデッキで年配の男性が海を眺めている。驚くことに、その人は緑色の湘南ハイビースTシャツを着ていた。僕はしばらく様子を見てから、恐る恐るデッキに上り、声をかけた。

「ここで、さっきから、何をご覧になっているんですか?」

 この島の人であろう高齢者は僕の声が聞こえたのか、聞こえなかったのか、チラリとだけ僕を見ると、また、もとのように海をながめはじめる。怒らせてしまったかな、と思った。

「すいません、自分は大橋カイと言います。僕は今、着ていらっしゃるシャツのチームのものです」

 どのくらいの沈黙があったか、年配者はしばらく視線を水平線に向けたままだったが、ゆっくりと言葉を発した。

「こうやって毎日、同じ時間に、同じ場所で、同じ方向の海を眺めていると、これからしばらくの天気はもちろんのこと、我々が今、一年のうちのどのあたりにいるのか、よくわかるんですわ。それに目の衰えも防げます」

 僕は返事をするかわりに、彼の横に並ぶように立ち、同じ方角の水平線を見つめた。穏やかな海面がどこまでも続いている。

「我々は自分勝手に海の様子を口にするけどですね、同じ海は二度とないんです。毎日、毎回、ちがうんです。同じように見えるのは、同じだと思ってしまう我々の勘違なんですね。海はこの瞬間も生まれ変わっているんです」


―――生まれ変わっている。 

その言葉に胸が反応し、僕は心にかすかな痛みを感じる。

「あのう、に、人間も、人間も海のように一瞬、一瞬に生まれ変わっているんでしょうか? 船に続く白い波や飛行機に続く一本の雲が、いつか海や空に消えてしまうように、目の前の出来事が過去になって、記憶の中だけに残るだけの日々の中で、どうしたら人間は生まれ変われるのでしょうか?」


 大きな声で、初対面の人に変なことを話してしまった。マズいと思った、その時、緑のシャツを着た人物がはじめて僕の目を見た。精悍な顔に、海や空のような青く輝きを放つ目が僕を見つめている。毎日、ここから沖をながめるのと同じ観察力で僕を分析しているのだろう。じっと見つめたまま、時より目を細めては何かを考えるような仕草をしている。

「あなたは、生まれ変わりたくて、ここに来たんですね」

思うように返事ができない。それどころか、全身が固まってしまったような緊張感にとらわれる。

「私が思うにですね。あなたは何だかもう、生まれ変わっていますよ」

僕の意表を突く言葉を発すると、湘南ハイビースのシャツを着た高齢男性は初めてニコやかな顔になった。

「ただ、その生まれ変わった自分に気が付いていないだけです。せっかく羽を手に入れたのに、心はまだ地を這う幼虫のまま。そんな感じがします」

 泣きたいわけでも、笑いたいわけでも、ましてや怒りたいわけでもない。でも僕はなぜか奥歯を強く噛みしめていた。その僕の反応を見て、彼は大声で笑い出した。


 小学校を見上げる坂道から炊飯器と段ボールを抱えて男性が下りてくる姿が見えた。

「オーイ、マサオ! このひと多度津さんとこの若い衆みたいだ。せっかくだから、あれを貸して、見せてやってくれ」

 島の長老のような男性は僕のことをマサオさんに任せると、背中を向けて歩き出した。一方の僕は港から東の海に沿って並ぶ食堂外の一軒目、お土産屋と食堂がつながった建物の奥に案内された。


そこには扉が2枚あり、ひとつはトイレ、もうひとつはシャワーのついた更衣室だった。

「ゴーグル、シュノーケル、フィン、水着、ラッシュガードはこのカバンに入っています。全て多度津さんの私物ですから、好きに使ってください。でも、決して人のいないエリアで泳がないようにしてください。海からあがったらシャワーを浴びながら使った道具を洗って、この辺に干しておいてくれれば結構です」


 マサオさんは、僕が泳げるのかどうかも聞かず、さっさと仕事に戻っていった。水着とラッシュガードに着替えて岩場の真ん中に設けられたコンクリートの坂を下りると、僕は恐る恐る片足を水につけた。透き通った海水は思ったよりも冷たかった。

 慣れないマリンスポーツと初めての環境に戸惑いながら、僕は少しずつ「泳ぐエリア」を広げていった。力を抜き、ゆっくりと穏やかな水面を漂う。信じられないほど美しい光景が真下に広がっている。

 様々な形や色をした魚が力強く泳いでいる。大きさも形も泳ぎ方も違う魚たちがひとつの海に共存している世界をながめていた。輝く小さなイワシたちが大きな群れをつくって僕と海の底の間を横切っていく。夜の空ではなく、海の底で「天の川」を見ている気持ちになった。


 そういえば、いつだったか、リズと江の島水族館に行ったことがあった。一番大きな水槽の前に二人で座って随分と長い間、水槽を周回する魚を見ていたことを思い出す。僕は今、水槽ではなく、本物の海の中にいて魚たちと泳いでいる。僕を囲みながら泳いでいるのは生かされている魚ではなく、生きている魚だ。ウロコが日の光に反射して、海の中で眩しくきらめく。僕は先ほどの長老の「体は成虫、でも心は幼虫」という言葉を何度も思い返して泳いでいた。


 結局、使った道具は全て多度津監督の所有物だったので、レンタル代は一切取られなかった。それどころか、お土産に炊き込みご飯のおにぎり(たぶんサザエが入っている)までもらってしまった。お金を出そうとすると、マサオさんは「近いうちにタド君からたくさん支払ってもらうからいらない」という。


 僕は深く頭を下げて店を出ようとしたとき、壁に掛けられている何枚かある写真の一枚に目をとめた。今よりも5歳ぐらい若い多度津監督と店の人たち、それに5人ぐらいの白人男性が写っている。驚くことに、その外国人のひとりは間違いなくギルバート・マクロイだった。マサオさんにこの写真に映る集団について尋ねてみたが、明確な答えは得られなかった。爽快感の中に晴れない疑問を残したまま、僕は熱海行きの客船に乗った。



12

再び35分の波に揺られ僕は熱海の港に着いた。昨日の試合は熱中症で出られず、今日は初島で元気いっぱいだったことが多度津さんに知られたらどうしようかと心配になったが、電話をかけ、すべてを隠さず報告し、お礼を述べて感謝の意を伝えた。怒鳴られることを覚悟していたが、監督は「じいさんや島のみんなは元気だったか?」とか「よく島に顔を出してくれた」とか、僕に感謝の言葉を残し、電話を切った。写真のことを思い出し、慌てて、マクロイのことを尋ねようかと思った時には電話は不通になっていた。

 どのくらい初島にいたのか、熱海港のパーキングから車を走らせ、平塚の自宅に着いたのは夜の7時を回った頃で、途中、パーキングエリアでマサオさんに頂いたおにぎりを食べた。あまく、やさしい味が口の中いっぱいに広がった。


 夕食を期待して自宅に戻ったものの、一日中、留守にしていた僕は、母親に帰りが遅くなると思われていたようで、夕食が用意されていなかった。外で食べてくるしかない。

 長時間の運転の後だったので、1時間くらいベッドで横になりゆっくり体を休めた。動き回ったわりには疲れていないし、心も穏やかだ。言葉にできない満足感、いや安心感につつまれていた。


 僕は飛び跳ねるようにベッドから起きて、シャツを着替え、財布やスマホなどの必要最低限の荷物をショルダーポーチに詰め込み、夕食を求めて袖ヶ浜から平塚駅方面に歩いた。街は七夕祭りの翌日の月曜日だ。きっと風物詩と言える七夕まつり直後の「生ゴミが発する強烈な異臭」が漂っているに違いない。今年は猛暑で期間中に雨がなかったから、例年以上に強烈な臭いがするはずだ。とてもではないが、駅より北側で食事をする気にはなれない。


中央地下道を北側にくぐらず交差点を右折し、線路の南側をゆっくり東に歩く。祭りの翌日だからか、ほとんどの飲食店のシャッターが閉まっていた。プラットホームと平行にのびるセレモニー専門学校の前の通りを南口に向かって進むと、東海道本線の『たなばたさま』の発車メロディーが聞こえてきた。グランドホテルにくくりつけられた笹飾りが風に揺れている。

特にこれといった何かが食べたいというわけではなかったが、心当たりのある飲食店は全て休みで、ファーストフードと居酒屋しか電気がついていない。少し疲労感を感じてきた僕は「再び熱中症になってしまったら・・・」と心配になって、どの店に入るかを決める前に、ひとまず足を止め、改札に続く階段横のデリに入ってスポーツドリンクを一本買った。もう真水を買うのが恐ろしくなっているから不思議だ。僕は綺麗に花が植えられ、透き通った水がはじける噴水を囲むように並べられたベンチで一休みするつもりでスーパーを出た。


 僕が向かう噴水の方から大声がする。正確には噴水前に集合した「人の輪の中心」が「その声」の震源地だった。スーパーマーケットの自動ドアをくぐった瞬間はこの時期によくあるガラの悪い人たちの喧嘩や罵り合いが始まったのだと警戒したが、その大きな声は争いの破裂音ではなく、やさしい歌声とギターの音色だということがすぐにわかり、安心できた。

 よく見ると噴水を囲むように一人の小柄な男性を中心に輪ができており、その男性は曲を歌い終えた直後に自分に送られた拍手に深々と頭を下げている。タクシードライバー、バスの乗客、通行人をはじめ、そこにいる全ての人が置き忘れられたマネキンのように、その場に立ち止まり、小さな噴水広場を向いて歌声を聞いている。


 やや小さめでナチュラル色のアコースティックギターを肩からかけている男性は、不思議なことに、自分の歌に聞き入る目の前の人々にではなく、真上の空を見上げ、息を吸って大きな声で「誕生日おめでとう」と夜空に叫んだ。次の瞬間、囁くように、絞り出すように、歌い始めた声が、弾けるアコースティックギターの音色と海岸からの南風に乗って駅前一帯をつつんだ。


君の顔を見てると 胸がドキドキして 頭の中に モヤがかかるから

想いを伝えたい けれど どうしても今ひとつ

気の利いた言葉が 浮かんでこない


君のこと考えて ココロそわそわして 頭の中を風が吹き抜けた

だから 今の僕にできるのは 一生懸命歌うことだけなのです


メッセージ 君に届くかな 願いを込めて 空に放つよ

メッセージ 風を切り裂いて 飛べ 君の心まで


君と出会うまで 昨日にしがみついていた

世の中の全てに イライラしながら

不思議だね 今は明日が待ち遠しい

目に映る全てが キラキラ輝いてる


メッセージ 君に届くかな 願いを込めて 空に放つよ

メッセージ 風を切り裂いて 飛べ 君の心まで メッセージ

(♪ リトルキヨシ『メッセージ』)



 「メッセージ」という叫びで締めくくった一曲を歌い終えると、その小柄なミュージシャンは再び拍手に包まれ、ゆっくり深々とお辞儀で応えた。

 どこかで見たことある人だ。いや、僕はこの人を知っている。この『メッセージ』という曲もどこかで聞いたことがある。必死に頭の中で遠い記憶を呼び起こす。そうだ、中学生の頃だ。この人は全校生徒を対象に行われたセミナーで歌っていた。間違いない。ものすごいスピードで当時の記憶を頭の中で掘り起こしてみる。


 少し寒さを感じ始めた秋の体育館、「いのちのセミナー」というようなタイトルで行われた全校行事でこの人は歌っていた。この人が登壇する前には、確か、ガンになっても湘南ベルマーレフットサルクラブでプロのフットサル選手を続けている久光重貴という人物が講師として「いのちの大切さ」や「今を生きる喜び」を講演していた気がする。その後に登場し、ミニライブを披露したミュージシャンが彼だ。

 残念ながら久光さんは治療も及ばず、数年前に亡くなられたと当時のインターネットのニュースで知った。そうか、だからこのシンガーは空に向かって「誕生日おめでとう」と叫んだのか?


 自分の体が中学2年の頃にタイムスリップしたかのように、眠っていた記憶が次ぎ次と浮かんでくる。あの日、僕はセミナーが終わった後、一人で講師の控え室に久光さんを訪ねた。どうしても聞きたいことがあった。聞きたいことはなんだっただろうか。自分の心に問いかけてみる。

そう、当時の僕は、これまでの人生で一度だけ、本気でサッカーをやめようと考えていた。中学2年になり、勉強も難しくなった。周りにはサッカー中心の放課後から学習塾中心の放課後に切り替える友達が増え、僕のように中学の部活ではなく、地域のクラブチームでサッカーを続ける中学生には競技と勉強の両立が難しくなりはじめていた。親からも、サッカーの時間を減らして塾の時間にあてるように勧められていた。塾には塾の決められた曜日があり、練習を休まなければ入れてくれない塾ばかりだったからだ。どうせ、プロになるわけではないのだからサッカーよりも勉強を優先する方がいいのではないかとまで言われたことを思い出す。

 しかし、僕に言わせれば、なぜ大好きなサッカーを犠牲にしなければならないのかが理解できなかった。それに、決して上手ではないけれど、これだけサッカーというスポーツに熱中し、チャレンジしている自分自身が否定された気がして、言葉では言い表せない淋しさや切なさに苦しんでいた。こんな苦しさが続くなら、いっそのことサッカーをやめてしまったほうがいいかもしれないとまで考えていた。だから、僕は、勇気を出して、震える右手で講師室のドアをノックした。夕陽が差し込む校舎の窓、乾いた扉、冷たいドアノブの感触がフラッシュバックする。




13

平塚駅の南口に梅雨明け前のじめっとした暑さの中に心地いい南風が通り抜ける。歌い終えたミュージシャンは左手を伸ばし、人差し指で信号の向こうにある雑居ビルの2階を指し、大きなかすれ声を張り上げた。


「えーと、これにて第1部の『久光重貴さんの誕生日を祝う噴水ライブ』は結びといたしますが、それでは皆さん、えーと、これからあのカフェに移って、第2部の懇親会とトークライブを30分後に始めます。よろしいでしょうか? 七夕祭りの混雑を避けるために実際の誕生日2日後の月曜日開催になりましたが、こんなにたくさんの皆さんに集まっていただき、天国の久光さんもきっと喜んでいると思います。このあとは、ここにいる弟の邦明さん、そして同じく参加してくださった今年のフットサル全日本選手権大会のファイナリスト、鍛代元気さん、岡村康平さんを交えて、楽しい時間を過ごしましょう。せっかくですから、このリトルキヨシも、最後に『本日のファイナルライブ』として、あと何曲か歌わせてもらえたらなと思います。では、皆さん、足元に気をつけて、カフェまでご移動ください。お願いしまーす」


 噴水を囲んでいた集団が交差点にゆっくり移動していく。ギターをケースにしまうミュージシャンと、たった今、紹介された数名の男性が立ち話している。その立ち話からキヨシ、邦さん、元気、オカムラという名前が漏れ聞こえる。

 そうだ、このシンガーはキヨシという名前だった。久光さんが講師室に突然押しかけた僕のために、それまでテーブルを挟んで向き合って座っていた共演者に「キヨシさん、ちょっと失礼します」と言って立ち上がった情景が浮かんだ。


「僕はサッカーが大好きです。でも、進学のためには、大好きなサッカーを減らしたり、やめたりした方がいいんでしょうか? 生きていくためには立派な学歴が必要なことは中学生の僕にもわかります。でも、好きなことを捨てることができません。自分でも、今、何を言っているのか、よくわからないんですけど、どうしたら、どうしたらいいでしょうか? 教えてください。」


僕は泣いていたかもしれない。思い出せない。でも、ドキドキしていたこと、勇気を持って質問に行ったことは覚えている。あの時は受け身キャラの僕が積極的に誰かにぶつかっていかなければならないほど追い詰められていたんだろう。今では考えられない超ハイプレスなアプローチだ。



 今だからわかる。学歴や資格取得など、収入を得るための能力や実績を聖書に出てくるパンだとしたなら、サッカーに夢中だったあの時の僕の純粋な久光さんへの質問は「神の口から出るひとつひとつの言葉」に近い。


 「君の名前は?」

 「お、大橋カイです」

久光さん問いに僕は大きく息を吸って、ゆっくり名前を伝えた。


「残念ながら、その質問に正確に答えることはできないかもしれないね。でもね、カイ君、多分、この僕も君と同じ悩みの中にるんだよ。僕のことを心配してガン治療に専念した方がいいという人はたくさんいる。でも、僕はフットサル選手でいたい。ひとりの人間であると同時に、ひとりのプロフットサル選手でいたい。治療も練習も辛いから、もう、こんなチャレンジはやめてしまいたいと思うことは何百回、何千回とあるけど、やめたら終わりだと思うんだ。僕が僕じゃなくなる気がするし、きっと絶対に後悔するだろう。でも、続けてさえいれば、成功するかしないかは別として、後悔だけはしななくて済む気がするんだ。だから、サッカーと勉強を別々の課題として考えるんじゃなくて、サッカーも勉強も同時に全力を尽くすことを『まるごとひとつのチャレンジ』として受け止めて毎日を楽しく過ごしていけばいいと思うよ。今の僕が治療とフットサルの両方に全力を尽くしているのと同じでね。」


優しく答えてくれた久光さんの、あの、丸く輝く瞳が思い出される。なぜか、昼間に初島の丸太小屋デッキで会った長老さんとのやりとりと重なる。

「サッカーを続けていればたくさんの人との出会いが続いていくし、隠された本当の自分に出会えるかもしれない。何より、カイ君が人間として成長していくよ。どんなチャレンジも、はじめから『できない』と思って取り組んでいたら、絶対にできるようにはならないでしょ。本気で立ち向かったら、もしかしたら達成できる何かがあるかもしれない。

君だってプロ選手になれるかもしれないんだよ。何かを目指して、繰り返しチャレンジして、学んで、その先に見えた景色は、たとえどんな結果が待っていたとしても、次のワクワクする世界に自分を導いてくれる。僕はそう信じているんだ。」

 

いつの間にか久光さんの右手が僕の左肩に置かれていた。涙で滲む目に映った、ぼやけた自分の上履きのつま先が今でも鮮明に瞼に焼き付いている。僕は突然、控え室まで押しかけたことを詫びた。


「そんなことないよ。カイ君、わざわざ来てくれてありがとう。君のおかげで、今日のセミナーを開催して本当に良かったと思えたよ。いや、君のおかげでこれまで辛い治療とフットサルを同時に続けてきてよかったとさえ思うよ。つらいのは目標があるからさ。これからも、お互いに失敗することより、チャレンジを忘れた人間になってしまうことを恐れていこうよ」

 久光さんはいつの間にか湘南ベルマーレのウェアのポケットから油性サインペンを取り出し、キャップを抜き、僕の左手を掴むと手の甲に何か文字を書いてくれた。日本語と英語が混ざっていたような気もする。なんだったか、思い出せない。どうせなら、いつまでも消えないようにシャツか何かに書いてもらえばよかった。突然の場面にサインをもらうノートや色紙もなかった。教室にノートを取りに行こうとした僕に、「大丈夫、次に会うときにしよう。僕は君との再会を楽しみにしているから」と言って久光さんは講師室に戻っていった。

 手に書いてもらったメッセージが思い出せない。別れ際、握手をした時の久光さんの大きく、柔らかい手の感触は思い出せるのに、なぜか左手に書いてもらった文字が思い出せない。僕はこれまでの人生で感じたことがないほどの「もどかしさ」を抱えたまま噴水からカフェに去っていく集団の後ろ姿を見送り、少しずつ我に返った。




14

キヨシさんは流れるような動作でギターをケースにしまい、立ちすくんだままの僕の前を風のように通り過ぎ、カフェに続く交差点を渡っていた。ギターケースを抱えた後姿を追いかけ、僕もカフェに同席させていただきたいとお願いしよう。一瞬、そんな想いにかられたが、久光さんに書いてもらった左手の甲に滲む言葉が思い出せない。そんなもどかしさが全身を駆け巡っているせいか、声をかけることができなかった。

 

とりあえず海まで歩いて行こう。カフェに行くのはその後でもいい。そんな気持ちになった。南口のロータリーに目を向けると、いつもと変わらない光景が広がっている。さっきまでの、ひとりの歌声によって永遠の世界に引き摺り込まれたような空間は完全に消えてしまっていた。むしろ、「僕が見たあの出来事そのものが現実に起こったことなのか?」と思えるほど、「いつも」に戻った平塚駅が目の前にあった。


 久光さんのメッセージを思い出すために海辺に向かって歩き始めた僕は「宝くじ売り場」の角から緑に点滅する横断歩道を小走りで渡り、ビーチパークに向かったところにある建設中の葬祭場と24間営業のコンビニを通り過ぎた。景観道路として配線が地中に埋め込まれ、電柱がひとつもない通りが国道134号線まで続いている。植え込みの中から伸びる大きな松の木が海に向かって並んでいた。

 ふと、その途中にある木の一本に明るい茶色の昆虫がとまっているのが見えた。近づいて確認してみると松にしがみ付いているのはムシではなく、セミの幼虫の姿をした抜け殻だった。背中には脱皮の際に割れた跡があり、中は空洞になっている。こんな時期に早くもセミの抜け殻が、しかも街の真ん中の植え込みに残されていることが僕にはたまらなく不思議だった。

―――

「あなたは何だかもう、生まれ変わっていますよ。ただ、その生まれ変わっている自分に気が付いていないだけです」

―――

「どんなチャレンジも、はじめから『できない』と思って取り組んでいたら、絶対にできるようにはならないでしょ。本気で立ち向かったら、もしかしたら達成できるかもしれない。君だってプロの選手になれるかもしれないんだよ。」


 初島の長老のことばと中学生の時に久光さんからもらった質問の答えがものすごいスピードで頭の中を駆け巡る。今まで何があっても受け入れるだけだった自分。受け入れることが長所だと信じていた自分。そんな僕だったにもかかわらず、セミが残した「必死で今を生きる力強さ」みたいなエネルギーに触発されたのか、涙があふれて止まらなくなった。

 僕が自分に抱く「受け身」という評価そのものが久光さんの言う「決めつけて生きる」という「初めからできない思考」そのものだ。本当の自分は「受け身が長所の人間」ではない気がしてきた。だって実際にあの時の僕は、立派に勇気を振り絞って講師室のドアをノックしたじゃないか。


 そんな想いにたどり着いた時、僕は、もしかすると、熱中症で試合を棒に振った昨日の七夕の夜、疲れ果ててシャワーも浴びずにベッドで倒れて寝ていた間に、このセミのように脱皮したのかもしれないと思うようになった。


初島の長老のことば、久光さんとのやり取り、そしてさっきのミュージシャンの歌詞が僕に生まれ変わったことを教えてくれたんじゃないか。


―――「涙は生まれ変わった時にこぼれる」

 いつか誰かに教えられた言葉だった気がする。誰に教えられたのか、今は思い出せない。涙が堰を切ったようにあふれてくる。あまりの嗚咽に僕の肩がふるえている。膝をついた歩道、アスファルトの感触が体に伝わる。あふれる涙を抑えるだけが精一杯だ。


「ダイジョウブ デスカ?」

 前から歩いてくる外国人の集団のひとりが、心配そうに僕に近寄ってきて声をかけてくれた。背の高い男の人なんだろう。大きな手のひらが背中にやさしく置かれる。

「アナタハ ドウシテ ナイテイルノデスカ?」

 頭で考えていたわけではなく、自然に心から出た言葉なのか。僕はうつむいたまま、自分でも信じられないくらい、いつもより強い口調と大きな声で答えた。

「パッ、パンのためだけに生きていないからです。今、僕はパンのためだけに生きていない自分にやっと出会うことができたから泣いているんです」

 男の大きな手が慰めるように、そして、なだめるようにそっと僕の肩に置かれた。


「JUST GO FOR IT、Pal!! ゼンシンダヨ、アシタモネ」



 その言葉だけを残して、男はまたもといた仲間の集団へ引き返し、僕が向かう海岸方向とは逆の平塚駅に遠ざかって行った。

流した涙の跡に南風が冷たく吹き付ける。もう涙は出なくなった。僕は、生まれ変わりたいという「想い」がなくなっているような気がした。そして、あの時、久光さんに左手の甲に書いてもらったメッセージが


「JUST GO FOR IT! 共に前進!」


であることを鮮明に思い出した。





『JUST GO FOR IT ~観測塔の向こうがわ~』

たったひとり 川沿いのサクラ 見上げて歩いた

焼けたビーチパーク 梅雨明け前に駈け出した

秋の交差点 残る落ち葉が カラカラ飛んでいった

忘れていた約束を 白いため息で思い出す


Just Go For It 観測塔の向こうがわ 水平線 シリウスが緑に輝く

自分は探すものではなく つくっていくもの 君の声が かすかに今聞こえる


花の季節 過ぎてく時間は 思うより短く

焦げた夏の砂浜 わざと避けて走った

すずしくなってゆく 秋の海風に 心が震えていた

置き忘れた情熱を 白いため息で思い出す


Just Go For It 観測塔の向こうがわ 水平線 続いてく 白い飛行機雲

答えはもらうものではなく 見つけていくもの 君の声が 確かに聞こえる


Just Go For It 観測塔の向こうがわ 水平線 シリウスが緑に輝く

自分は探すものではなく つくっていくもの 君の声が やっぱり今聞こえる


君の声が かすかに今聞こえる

(♪ Just Go For It ! 観測塔の向こう側  

作詞 袖ヶ浜宇宙センター   作曲 ミマス)



参考文献・参考記事 

1、『DUEL』 遠藤航 日本ビジネスプレス 2022 


2、『大好きな気持ちは力になる』 遠藤航 ハーパーコリンズ 2021


3、『運動脳』 アンデシュ・ハンセン サンマーク出版 2022


4、『自分のままで突き抜ける』 梯谷幸司 大和書房 2021


5、『凹んだ数だけ強くなれる29の法則』 金森秀晃 総合法令出版 2015


6、『納棺夫日記』新潮文庫1996 『それからの納棺夫日記』青木新門2014


7、『人は変われる』 野村克也 プレジデントムック 2022


8、『がんでもプレーを続ける元フットサル日本代表』 久光重貴 ガイドワークス 2015


9、『幸福学』ハーバード・ビジネス・レビュー編集部 ダイヤモンド社 2018


10、『教える技術 チーム編』 石田淳 かんき出版 2014


11、『すべては導かれている』 田坂広志 小学館 2017


12、『週刊ダイヤモンド』2023年1月21日号 『超階級社会 貧困ニッポンの断末魔』


13、『週刊東洋経済』2022年11月26日号 『一億「総孤独」社会』


14、映画『サンシャイン♪歌声が響く街』2014 英国 原題「Sunshine On Leith」ギャガ


15、新改訳聖書


16、聖書購読シリーズ 宇野正美 講演 リバティ情報研究所


17、『野球道とは何か』 衣笠祥雄 監修 ロング新書2008年 






あ と が き      

この拙い短編小説を今は亡き久光重貴様、現在もツアー中のリトルキヨシ様、そして小生の歌詞にメロディーをのせてくださったミマス様、この文章制作に背中を押してくださった俳優の浜田晃先生はじめ、お世話になっている多くの皆様に捧げます。10年以上前に入団者を増やすという目的から、何か、チームを紹介する文章が書けないだろうかと、試行錯誤の上に残した題材に、時代の変化と社会情勢を反映させ、完成した駄作です。

 もともと「もの書き」でもミュージシャンでもない私が、見様見真似で書いた恥ずかしいストーリーですので、自慢することは何一つありません。ただ、どうせ書くからには、しっかりしたものを書こうと、必死にもがいた末の完成であることを申し上げます。


 タイトルの「PUSH ME ON」とは、困難を乗り越えて何かを続けるとか、人に何かをするように急き立てるという意味がある「PUSH ON」の間にMEをいれた造語です。

 1999年12月27日、私はひとり、スコットランドはエディンバラ、ハイバーニアンFCのホームスタジアムにおりました。キルマーノックを相手に、0-2で押され続けたまま後半を迎え、観客の怒りは爆発寸前。不甲斐ない動きに、立ち上がったひとりの観客が顔に青筋を立て、真っ赤な目で「カモン、ハイビース! プッシュ オン!!」と叫んだのです。その後、ロスタイムまでの間に2点を奪ったハイバーニアンは2-2として、負けないで試合を終えることができました。この言葉が、ずっと私の中にあり、このたびのタイトルにつけ、副題を「君の声が聞こえる」としました。


 主人公のカイが目に見えない何かに急き立てられるようにチャレンジを繰り返し、困難を乗り越えていく様は、まさに「プッシュ オン」でした。

 クライマックスに進むにつれ、フットサルのコートを離れ、初島や久光重貴様との接点を前面に出すことでフットサルをあまりご存じない皆様にもチームが探求している真理や大切にしている哲学の本質をお伝えしたいと考えました。素人の文章につき、矛盾も多いと思われますが、熱意の一端とご容赦くださればありがたく存じます。

 さてさて、ハイビースの選手は大橋カイをはじめ、全ての登場人物は四国・瀬戸内海エリアの地名で名づけました。もともとこの原案を四国に向かう電車で書いていたので、マリンライナーの中で主人公を大橋カイ(瀬戸大橋)とし、高松のうどん屋さんでキャプテンを高松誠也にし、松山に向かう道中、『一太郎やぁーい』の多度津で監督を多度津としました。意外にうまくいった気がします。登場人物にはそれぞれモデルがおりますが、原則、全てフィクションです。お読みいただいたすべてのみなさまの益々のご健勝とご活躍をご祈念申し上げ、謝辞とさせていただきます。


2023年4月30日

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Push Me On! 君の声が聞こえる フェイマスファイブ @keisuke1875

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