第3話 真実

 樹海の閉鎖が決まったのは、敦の自殺死体が発見されてから一年後だった。

 敦の死体が発見されたことで、ネット上であることないことが騒がれ始めた。今まで樹海の存在を知らなかった人が興味本位で樹海を見に来る。普通だったら、鉄条網が張り巡らされているので、入り込めないはずなのだが、どこから情報を得たのか、神社の裏庭から入り込む人が多くなった。

 それだけならいいのだが、ここでの自殺者も増えてきた。閉鎖前には、一か月に数人の自殺死体が発見され、社会問題にもなりかねないほどだった。

 地元と警察が話し合って、結局神社側にも鉄条網を敷くと決まった。

 鉄条網が張り巡らされるようになると、今度はまったく誰も樹海に興味を持つものはいなくなり、この街にやってくる人もいなくなった。街としては、死活問題となってきたのだ。

「こんなことなら、樹海の閉鎖などしなければよかった」

 町長はそう言って悔やんでいた。

「でも、決まったものは仕方がないですよね」

「それはそうなんだが、新しく何か観光スポットを見つけないといけないな」

 として、観光スポットの建設が急務となった。

「既存のものだけに頼っていては、どうしようもない。少しの出費は先行投資ということで、何か新たなものを作らないといけない」

「今からですか?」

「他に何か策はあるかね? このまま手をこまねいて見ているというわけにはいかないだろう。確かにリスクはあるかも知れないが、何もしなければ確実にこの街の将来はないんだぞ」

「……」

 そう言われてしまうと、従うしかない。

 幸い、田舎街なので、活用されていない土地は結構あった。

 土地代を気にすることはないのだから、町長の言う通り、何かを建設するというのも、まんざらでもないのかも知れない。

「この街は、今までとは違って生まれ変わったんだ」

 と町長が言うと、

「以前のことは知りませんが、いろいろ曰くのある土地なんですよね」

 と部下は言った。

「ああ、わしは元々警察にいたので、ここの街に起こったことはいろいろ知っているつもりだよ」

「そんなにいろいろあったんですか?」

「十五年くらい前までは何もなかったんだけど、急にそれからいろいろなことが起こるようになったんだよ。と言っても事件性のあることもあれば、事件とまでは言えないことも多くて、警察の間では、『不気味な街』として位置付けられた街だったんだ」

「どうしてそんな街の町長になろうなんて思ったんですか?」

「どうしてなんだろうね。俺にもよく分からない。だけど、この街には因縁のようなものが感じられるんだ」

「実は僕も何ですよ。それに町長がどうして僕を引き上げてくれたのかというのも、気になるところです」

「君は元々優秀だったし、勉強することですぐに政治家に転身できると思ったんだ」

「ありがとうございます。僕もあのまま出版関係の仕事をしていたら、今、どうなっていたのか分かりませんからね」

「君はいろいろなところから引き抜かれて今までやってきたんだ。その実力は私にも分かるよ。そういう意味でも、この街の再興には、君の力がぜひとも必要なんだよ」

「頑張ります」

 町長執務室で、このような会話が繰り広げられていた時、すでに、水面下では街の活性化にも助力している人がいた。

 彼の名前は門脇将門と言った。

 彼は、一年前にどこからかやってきて、この街に住み着いた。最初は何者なのか分からずに、誰もが敬遠していた。なぜなら、毎日のように神社にお参りをし、裏庭にいっているようだった。

 どうして彼がそんなことをするのか、誰も分からなかった。

 実は本人にもそのわけはハッキリと分からなかったので、

「誰かに聞かれたらどうしよう」

 と思っていたようだが、幸いにも誰にも聞かれることはなかった。

 そのかわり、

「どこか不気味な人」

 という印象が根付いてしまって、普通に話しかけてくれる人もいなかった。

 だが、彼はそれでよかった。

 人との関わりを極端に嫌う人だったが、就職先は、何と「のぞみ出版」だったのだ。

 人は見かけによらないというが、彼の出版社での仕事ぶりは優秀だった。まるで前からここにいたかのようにいろいろ知っていて、前からいた人と遜色ないほどの仕事ぶりは、まわりを驚かせた。

 ただ、彼は樹海に対しては、一切何も言わなかった。

「近づきたいとは思っていない」

 と言った方が、正解なのかも知れない。

 門脇は編集長に、

「この土地の過去に起こった事件について調べてみたいと思うことがあるんです」

 と話した。

「それはいいが、あまり詮索しても何も出てこないことが多いのがこの街の過去の事件なんだぞ」

 と言われた。

「分かっています」

「どの事件なんだ?」

「一つではないので、一言では言い表せません。途中でお話をすることもあるかも知れませんが、それでご容赦願えますが?」

「まあいいだろう。せっかく調査するんだから、気が済むようにしたまえ。中途半端だと寝つきも悪いしな」

 と言ってくれ、その言葉に暖かさを感じた門脇は、

「ありがとうございます」

 というと、自分の仕事に戻っていった。

「あいつは一体何を考えているんだろう?」

 という疑問を抱いていたが、

「彼なら何か発見してくれるかも知れない」

 という期待があるのも事実だった。

 その時編集長の頭に浮かんだのは、以前ここにいた敦と安藤のことだった。

「あの二人がいてくれたらな」

 と、いまさらのように思った編集長は、思わずため息をついたのだった。

 この街の町立図書館には、昔の事件のことを記した記事の保管室があった。普段は誰も立ち入ることはない。一般にも公開されていないので、実質埃まみれと言ってもいいだろう。

 公開はされていないが、申請すれば見ることはできる、

 例えば、学校で地元の勉強に使う教材だといえば、簡単に手続きしてくれるし、以前は大学の考古学研究チームがしばらく資料室を貸切ることもあったくらいだった。

 門脇のように、

「町おこしをしたいので、そのためには、街のことを知りたい」

 と言えば、すぐに許可も出る。

 彼は、午前中町役場で仕事をして、昼から資料室に籠って、研究する日々が続いた。図書館でも、

「彼はやけに熱心だね」

 と、町長に話していたが、研究熱心すぎて、

「何をそんなにいろいろ研究する必要があるんだろう?」

 と、図書館の館長も、町長も少し気になり始めていた。

 彼が図書館に通い始めて一か月が過ぎた頃、

「ありがとうございます。大体分かりました」

 と言って、館長に礼を言った。

「それはよかった。でも、結構長いこと熱心に研究していたようだけど、町おこし以外にも何か調べたいことがあったのかい?」

 と聞かれて門脇は、

「ええ、この街に起こった事件について、いろいろと調べてみました」

 彼は隠すこともなく、正直に話した。

「何か気になることでもありましたか?」

「はい、ここで起こった十五年前の殺人事件が気になりましたね」

「殺人事件?」

「ええ、厳密にいえば、殺し合いなんだって思いますが、仲間割れの事件です」

「廃工場で起こった三人が死んだ事件ですね」

「はい、とても興味を抱きました。三人とも覚醒剤を使用していて、その幻覚症状による殺し合いのような記事でしたね」

「ええ、私もそう聞いています。当時、それまでこの街では事件らしい事件は起こっていなかったんですが、ちょうどその頃に都会で幅を利かせているやくざの組が、この辺りにも進出してこようとしていましたので、ちょうどその矢先に持ち上がった事件でした」

「そうだったんですね」

「その事件がきっかけで、結局その組は、この街に進出してくることはなかったんですよ。そういう意味では、あの連中が殺し合ってくれたのは、街のためにはよかったということですね」

 と、館長がいうと、それを聞いていた門脇は、急に深刻な顔をして、やりきれないような表情になった。館長はその時の門脇の顔を見なかったので、彼が何を考えていたのか、分からなかっただろう。

 もし、その時に、館長が門脇に別の質問をしていれば、門脇はすべてを答えただろうか?

 門脇という男は、人に黙っておくことのできない性格なのに、肝心なことは何も言わない。

「木を隠すなら、森の中さ」

 と考えていたのかも知れない。

 彼は、今まで地道に仕事をこなしてきたが、そんな彼は、優秀であるがゆえに、何か心に秘めているものがあると感じたのは、町長だった。元々警察官だった町長なので、人を見る目の鋭さは、他の人には負けないだろう。

「私と門脇君は、まるで『キツネとタヌキの化かし合い』のようなものだ」

 と感じていた。

 だが、その時はさすがの町長も、門脇が十五年前の事件を気にしているとは知らなかった。そのことは図書館の館長から聞かされたのだが、それを聞いた時、町長は悔しさを表に出した。

「くそっ、何で気づかなかったんだ」

 町長は、門脇が何かの目的があって、この街に来たことは分かっていたが、それを最初に見つけるのは自分だと思っていた。それなのに、まさか本人から別人を通して教えられるとは思いもしなかったからだ。

 そこまで門脇は分かっていて、町長の悔しがる顔を想像してほくそ笑んでいるに違いないと思えた。

 実は館長には、そこまでのことは分かっていた。館長も警察出身者で、町長とは警察自裁、上司と部下の関係だった。

 ただ、警察時代の上司というのは、館長の方で、町長は部下だったのだ。

 しかし、警察を辞めたのは町長の方が先、警察を辞めたのも、最初からの計画に入っていた。

「いずれは政治家に」

 というのが町長の考えで、その目的を見事に果たした。

 しかし、このことがその後、

「県警から、この街へ」

 というルートが出来上がってしまったようで、それも実は、町長のやり方だった。

 自分のまわりに、同じ警察関係者を置いておきたいという考えがあり、それまで自分の上司だった人であっても、町長としての権威を使えば、今までと立場を逆転できると考えた。

 町長というのは、これから中央に出て行くための第一歩としての土台作りであり、地元に強力な地盤を作ることが成功への第一歩だと思っていた。元々いた警察に太いパイプを持っていれば、今後の自分に有利に働くと思ったのだ。

 そんな町長は、元上司であった館長から、手玉に取られたような気がしたのは、実に気に入らないことだった。門脇のこともさることながら、図書館で調べ物をしているということだったので、逆に門脇に館長を探らせるという秘密任務も負わせていたのだ。

「このままでは、門脇も信用できないではないか」

 町長は、ある程度、この街で独裁を築こうとしていた。

 完全な独裁にしてしまうと、今後動きにくくなってしまうので、今は、自分の片腕になる人間や、誰が味方で誰が敵なのかということを見定める時期なのではないかと思っていた。

 そういう意味で自分に有利な相手ということで、警察からのルートを気づいたのだが、実際には、町長のことをよく思っている人はあまりいなかった。そのあたりが思い上がりであったり、考えが甘かったりしていたのだが、えてして自分に不利なことにはなかなか気づかないものだ。

 特にまわりがペコペコしているイエスマンばかりだと思っていれば、自分の手足だという思いで、それほど重要視していない。

 しかし、これはこれから起こることの前哨戦だった。

 町長から中央に行かれてしまっては、これからのことが心配なので、何とか町長の間に、クーデターを起こそうという計画が水面下で踊っていた。

 実は門脇という男も、水面下での工作の一環だった。

 彼の正体は、謎に包まれていたので、彼を仲間に引き入れるかどうか、賛否両論いろいろあった。しかし、彼が敵ではないことが分かれば、

「それだけでいいだろう」

 という意見が通り、彼を工作員の一人に加えた。

 ただ、彼がどうしてこの街に来たのか、彼の目的は何なのか、まったくの謎だった。図書館でいろいろ調べている間、館長は彼の性格を読み取ろうと試みたが、結局は分からなかった。

――しかし、彼が調べている十五年前の事件、彼はあの事件の何を知りたいというのだろう?

 館長は気になっていた。

 館長はその時、捜査課長として、捜査本部に詰めていたが、入ってくる情報が、まるで錯綜していて、どこまでを信じていいのか分からない状態だった。県警本部から出張ってきているのに、この体たらくは一体どういうことなのか、苛立ってばかりだった。

「お前ら、どういうことなんだ。捜査のプロなんだろう。もう少し気合を入れて、捜査せんか。たるんどる」

 と罵声を浴びせた。

 その時の捜査主任が、今の町長なのだが、その頃はまだまだ新米に感じられた。何しろ彼の考えには一貫性がなかったのだ。誰かが意見を言えば、そっちに流され、他の人が言えば、最初の意見を簡単に覆し、収拾がつかなくなってくる。

――あんなやつがどうして捜査主任なんだ?

 と、警察機構の弛みに情けなさを感じた。

 実は、彼の父親が政治家で、裏から手をまわしていたようだ。そうでもなければ、捜査主任なんて大役が務まるわけもない。

 当時は、

「県警きっての出世頭」

 とまで言われていたが、それは実績に基づいた出世ではなく、裏から回った手による出世だったのだ。

「町長は、何かを隠している」

 と、館長は思っていた。

 町長は確かに警察を辞めて、政治の世界に入ったことで成功した。しかし、あまりにも出世が都合よすぎる気がしていた。

 警察を辞める時、ちょうど政治の世界の人と、町長は繋がりを持った。誰が推薦したのか分からない状態で、町長はその政治家の人のバックボーンを使い、町長選挙でも票を伸ばした。

 選挙では圧勝に近い得票だった。元町長も立候補していたが、選挙運動中に元町長のスキャンダルが明るみに出たのは、得票を伸ばすきっかけだった。

「こんなに都合のいいタイミングもないものだ」

 と、館長は疑っていた。

 しかし、しょせんは田舎町での選挙、そんな疑いを誰も持つことはなかった。

――クリーンが一番――

 というイメージが田舎の人にはあるのだ。

 たとえその裏にどんな暗躍があっても、そんなことを気にする人もいない。

 ただ、権力を持っている人が自分の権力を脅かされるのだけは危惧することだろう。そのあたりも裏で研究している人がいて、町長にアドバイスしていた。その連中からすれば、是が非でも、

「彼には町長になってもらわなければ」

 という思惑があったのだろう。

 そんなことを画策するのは、組の連中しかなかった。昔からこの土地に土台を持っていて、政治家とも水面下で繋がっている。そのため、自分たちのいうことを聞くような人を町長に推すのは当たり前だ。

 町長は元警察官である。

 ということは、警察官時代から、組の連中と画策があったのかも知れない、

 ひょっとすると、ガサ入れや、内偵がある場合など、警察内部から情報が流れていないと、一斉検挙に繋がって、とっくに組は潰れていたかも知れないのに、今でも生き残っているということは、町長の力が働いていたという憶測は、憶測の域を出たとしても、それは当然のことだった。

 町長は、自分の腹心として採用した門脇が、十五年前の事件を調べているというのが気になっていた。

 しかも、それを隠すこともなく、町長に話した。さらに、その話は館長を通してのことだった。

――あの男、話をするのに、館長を通したということは、私が怖いと思っているからなのか、それとも、館長にも知っておいてもらいたいという意識なんか、侮ることのできないやつだ――

 と感じた。

 町長を怖いと感じたとすれば、それは町長が裏でやくざと繋がっているということを知っているということであり、館長に話したというのは、館長が町長と同じ警察出身ということを知っていて、わざと話をしたのだと考えてしまう。

 町長が、裏でやくざと繋がっているというのは、誰も知らないはずだ。町長が警察関係からの転身だということは知っていても、館長がどこの出身かなどということを知るはずもない。それを考えると、

――私の考えすぎか?

 とは思ったが、人間権力を持ちすぎると、どうしても猜疑心が強くなり、しかも、いつ裏切られるか分からない連中が後ろにいるという覚悟をしているつもりではいるが、まさか前からも自分を脅かす相手が現れるなど、想像もしていなかった。

――裏に手をまわして、やつを始末してもらおうか?

 とも感じたが、やくざというのは、根拠がないと動かない。

 特に町長と自分たちが結託しているということが露呈すると、町長と心中することになり、そんなことは許されなかった。

 特に、隣町に中央から強力な力を持った別の組が張り出してきているので、今表に出ることはご法度だったのだ。

 町長も、そのことは理解している。したがって、あまり目立つことはできないのだ。下手をすると、秘密裏に消されるかも知れないという思いもあり、この先のことを思うと、気分的にはピリピリもしていた。

 門脇は、記憶を一部失くしていた。そのことを門脇本人は意識していない。たまに自分の知らない記憶がよみがえってくることがあったが、それをデジャブだと思い、自分の存在意義について、あまり考えたことはなかった。

 町議会の呑み会で、先輩議員から、子供の頃や、学生時代のことを聞かれて、

――あれ? どんな過去だったっけ?

 と返事に困ってしまったことがあった。

 そういえば、過去のことを改めて思い出したりしたことがなかった。その時は、

「どうだったんだろう? 記憶にはないんだけど」

 と言ったが、

「えっ? 覚えていないの?」

「ええ、あらためて思い出そうとすると、記憶にないんです」

 というと、先輩議員はさらに驚いて、

「今まで、過去のことを思い出そうとしたことなかったの? それとも、以前は過去のことは思い出せたけど、今は思い出せないということなの?」

 と聞かれた。

 どちらにしても、尋常ではないことだ。

 過去を思い返してみたことのない人などいないと思っているし、以前は思い出せて今が思い出せないのであれば、それは、痴呆症か記憶喪失のどちらかである。もし、後者であったとすれば、病院に行かなければいけないことだろう。

 しかし、門脇は、

「そうですね。過去のことを思い出そうという気になったことがなかったのかも知れませんね」

 と答えた。

 先輩議員は、そっちの方が意外だった。

 記憶喪失や痴呆症であれば、病気なのかも知れないが、治療すれば治るかも知れない。しかし、最初から思い出すことがなく、そのため、過去の記憶がすぐに出てこないのであれば、病気ではなく、その人の性格上の問題だ。これからも付き合っていくのだから、自分の中での想定していなかった性格の人を相手にするということなのだから、どう接していいのか分からなくなってしまう。

「じゃあ、ゆっくりと思い出してみるといいですよ」

 と、先輩議員はその場を立ち去ろうとしたが、

「いえ、きっと思い出すことはできないと思います」

「どうしてなんですか?」

「僕が過去のことを思い出そうとしなかった理由は、本当に過去の記憶が頭の中にないからではないかと思うんです。記憶喪失のように、一時的なものだったり、半永久的なものであっても、実際には過去の記憶というのはどこかに存在していて、それを思い出すかどうかというところでの問題ですよね。でも、僕の場合は、本当に過去の記憶がないことから、思い出すという気持ちにならなかったんじゃないかって思うんです」

「なるほど、一理はあるけど、あまりにも発想が突飛すぎてついていけないところがありますね。正直、門脇君の性格が僕にはまったく理解できない」

 最初は、過去のことをどうして自分が思い出そうとしなかったのか、分からなかった。というよりも、過去のことを思い出すのが普通だという発想が、門脇にはなかったのだ。しかし、先輩議員と話しているうちに、次第に自分がどうして思い出そうとしなかったのかということが理論立てて、発想できるようになった。相手の質問に、今だったら何とか答えられるかも知れない。

 しかし、過去の記憶が残っていない人間なんているのだろうか? 記憶喪失の人であれば、記憶装置から引き出せるかどうかという手段の問題で、最初から格納されているというのは、大前提だったのだ。

 その時は、それ以上、過去の記憶の話題に触れることはなかった。しかし、門脇の意識は、

――どうして、記憶がまったくないんだろう?

 という今まで持ったことのない意識が初めて湧いてきたことで、時間が経つにつれて、その思いはどんどん強くなってきた。

 親の記憶も、学生時代の友達の記憶もなかった。なぜそんな自分が町議会の中にいて、町長の下で働きながら、この街で起こった過去の事件を探ろうとしているのか、自分でもまったく分かっていない。

――前世という言葉があるが、僕の少年時代から学生時代にかけてというのは、前世のようなものだったのかも知れない――

 とも感じた。

――いや、そもそも、過去なんて本当にあるのだろうか? 他の人には過去の記憶が存在しているが、その記憶が本当に間違いないものだということを誰が証明できるというのだろうか?

 そんな考えも浮かんだ。

 いろいろな発想が頭の中を走馬灯のように駆け巡ったが、一つ言えることは、自分が他の人とはまったく違った思いを抱いているということだった。

 しかし、人間なのだから、本能であったり、潜在意識のようなものは、他の人と同じなのではないだろうか。子供の頃や学生時代の記憶がなくとも、他の人と遜色なく仕事も生活もできているのだから、過去の記憶というのは、それほど大切なものなのではないという考えも成り立つというものだ。

 門脇は、意識して思い出そうとすると、過去の記憶がないのだが、眠っていて夢を見る時、時々過去の夢を見ることがある。

――だから、普段意識して思い出そうとして思い出せなくても、不思議はないと思ったんじゃないかな?

 と感じた。

 その時の夢に出てきた意識は、過去のことだけではなく、今の自分の意識でもあった。ただ、それは門脇本人ではなく、他の誰かの夢なのだが、夢の中では、

――自分のこと――

 としての意識に違和感はなかった。

 それは、夢に出てくる過去の記憶の延長線上にいる人が夢に出てきているからだ。

 つまり、夢に出てきた記憶を持っているであろう人間になり切っているということであった。

 その人は、どうやらもうこの世にはいないようだ。

――自殺したのか?

 と考えたが、どうにも自殺をした理由が思いつかない。

 どうして自殺だといきなり感じたのか分からないが、ゆっくりと考えていくうちに、誰かに殺されたわけでも、事故に遭ったわけでも、病気で亡くなったというわけでもない。もし、そのどれかだとすると、明らかに違和感があるのだ。

 しかし、自殺ということになると、違和感がなかった。ただ、自殺するにしても、理由が見つからない。

――自分で自殺をしたという意識がないうちに死んでしまったのかも知れない――

 そう思うと、未練があったのではないかと思う。

 だが、未練は感じられない。自殺する理由がなく、自殺が本人の意思ではなかったとしても、そこに覚悟は存在していたということなのだろう。

 覚悟というのは、死ぬことへの覚悟であるが、覚悟の種類について考えてみた。

――死ぬことの怖さは、その時の痛みや苦しみなのか、それとも、これからずっと生きていくであろう将来を、自らが断ってしまうことへの思いなのかで、「覚悟」というものも変わってくる――

 という思いである。

 目先の苦しみとして死ぬまでの思いに耐えることも、確かに覚悟は必要であるが、やはり、その後の人生を自らが切断することへの思いを覚悟というのかも知れない。

 それは、

――死にたくない――

 という思いであり、その思いが未練であり、未練を断ち切ることが覚悟になるというものだ。

 だが、夢に出てきた自分は自殺をしたのだが、覚悟も未練も何もない。普通なら、覚悟か未練かのどちらかがあってしかるべきだろう。死んでしまった人の考えたことを聴くのは不可能なことだが、もしあの世でも感情を持つことができるのだとすれば、どちらかがあるに違いなかった。

 自殺をするのには、何か理由があるはずだ。

 死ぬまでの苦しみ、将来を犠牲にしてまでも、今の苦しみから逃れたいという思いと比較しても、死を選んでしまうのだから、よほどの理由のはずである。

――俺は自殺したんだ――

 という思いは強くあるのだが、自殺するまでの気持ち、そして、自殺した後のぽっかりと空いてしまった意識、死んでからも、しばらくの間、考える意識は存在していたのだった。

――人って、そう簡単に死ぬことはできないんだ――

 その夢の中で一番強く感じた思いだった。

 自分が自殺をする前のことを考えていた。

 自分は、編集者に勤めていて、事件の記事を書いていた。

 それも、過去に起こった事件の記事だったように思うが、事件の記事を書いているうちに、事件以外に興味を持ったのだ。

 それが樹海だった。

 その樹海は、この街に存在している樹海であって、富士の樹海のように、自殺の名所というわけではなく、別に死体が発見されたりしたわけでもなかった。そのためこの街の人間以外は誰も知らないところであった。

――どうして、そんな樹海になんか興味を持ったのだろう?

 と思っていると、すぐそのあとに、首吊り自殺が発見された。

 元々樹海というのは、入り込んだら出られないという意味での「自殺の名所」なのだが、この樹海は入り込んでも出られないということはまずない。ここは樹海と言っても、森としては大きいが、樹海と言えるほどの大きさがあるのかどうか、その定義が分からなかった。しかし、地元の人が樹海と言っているのだから、樹海なのだろうと思っている。

 地元の人でも、樹海があること自体、意識もしていない。しかも、首吊り自殺をわざわざ樹海しなくてもいいという思いも確かにあった。何か樹海でしなければいけない理由があったのだろうか。

 その人の遺書には、

「私は二回目の死を迎えます」

 という内容の言葉が記されていた。

 まったくの意味不明だったが、なぜか夢の中では、その理由が分かるような気がした。

「いや、俺だから分かるんだ」

 という思いである。

 そう思うと、自分が自殺をした場所がどこなのか、分かる気がした。

「そうだ、俺も樹海で自殺したんだ」

 と考えた。

 そうなれば、

「私は、二回目の死を迎えます」

 という言葉の意味が分かった気がした。

 門脇は、その時に死んだ人の生まれ変わりなのかも知れないと思った。

 樹海で死ぬということは、二度目の人生を、まったく別の人間が歩んでいるということである。かなり突飛な発想だが、自分の過去の記憶がないということの理由としては信憑性がある。

――記憶を思い出せないのではなく、記憶自体が物理的にないのだ――

 という理屈を納得させるには、

――自分が誰かの生まれ変わりだ――

 という発想をするのが一番いいに決まっている。

――どうしてそのことに気づかなかったのだろう?

 後から考えると、何とでも言えるものだとはよく言われるが、まさしくその通り、まったく狂ってしまった歯車も、一つが噛み合えば、すべてがうまく回転するということは、えてしてあるものだ。

 すべてが一つの結論に向かって結びついている時というのは、爽快なものなのだが、この時の門脇は、夢の中とはいえ、

――知らぬが仏という言葉もあるよな――

 と感じていた。

 慎重になっていたのだが、夢の中だから慎重になったのか、本当の自分の記憶ではないが、かつての自分の記憶だと思うと、慎重になるのかも知れない。

 そう思うと、これ以上の、過去の「自分の記憶」を知るというのは、してはいけないことではないかと思うようになっていた。

――知りたいと思うことが怖いと思うのは、今までになかったことだ――

 と感じたが、それを感じたのは、門脇なのか、それとも夢の中の過去の記憶の自分なのか、ハッキリとしなかった。

――両方なのかも知れないな――

 そう思った方が、よほど自然な気がした。

 門脇は、その夢が、

――このまま覚めなければ、どうしよう――

 という不安に駆られた。

 しかし、逆に、このまま覚めないということは、過去の記憶の自分が自殺せずに、目覚めることを意味しないかとも思った。ここで自分が夢を見たということは、何かの因縁ではないかと思う。その因縁を考えると、

――俺がこの夢に対してどう考えるかによって、一人の人間が自殺せずに済むのかも知れない――

 とも思った。

 またしても突飛な発想だが、門脇は、自分が本当は誰なのか知りたくなった。そう思うと、門脇という人間は、元々の記憶の中の人の自殺を抑止するために存在しているのではないかと夢が言っている気がしたのだ。

 門脇は今自分が図書館で過去の事件について探っているのを、最初は自然なことだと思っていた。

 なるほど、政治家になるためには、地元のことを知っておくのは当然であり、当たり前のことだが、

――この場合の当然という言葉が、本当に当たり前という言葉に結びつくのか?

 と考えた。

 そう考えると、当然が自然ではないと思えてきて、過去の事件を調べていて自然な感情になれるのは、自分の中にいる誰かであった。

――そういえば、二回目の死を迎えると言っていたが、一回目の死も自殺だったのだろうか?

 そのことを確かめることは不可能だ。

 しかし、門脇はそう思えて仕方がなかった。一度、自殺で死んだ人が、その思いを抱いたまま、誰か他の人になって生きる。

 それが、

――生まれ変わった――

 というものなのか、それとも、

――その人になって生き直す――

 というものなのか、分からない。

 生まれ変わったというのであれば、自殺をした、ちょうどその時、あるいはその直近に生まれた子供の中に乗り移ったと考えられる。

 逆にその人になって生き直すというのであれば、死にかけている人の身体に乗り移って、そのままその人になって生きていくというものだ。

 後者の方がいいと門脇は考えた。ただそれが、死ぬつもりの人だったのか、あるいは、病気や事故で、放っておけば死んでしまう人だったのかによっても変わってくる。

――ということは、放っておけば、僕は死んでいたのかも知れないということになるのではないか?

 と思った。

 過去の記憶がまったくないというのは、最後には死を覚悟したことで、記憶がまったく抹消されてしまったと考えるか、あるいは、勝手に死を選んだことへの制裁からか、過去の記憶を抹消されるというペナルティを負ってしまったのか、どちらにしても、

「俺は、自殺した人間だったのかも知れない」

 と思わずにはいられない。

 では、なぜ他の人になってまで、生き直さなければいけないのか?

 そこには、何かの因縁であったり、死んでも死にきれないと言われるような未練をこの世に残していたと考えられないだろう。ただ、記憶がなくなっていたということは、死ぬことに対しての覚悟はあったということなので、

「未練を持ちながら、死を覚悟していた」

 という中途半端な状態が、死にきれずに、誰かの中で生き直すことを選んでしまうことになったのだろう。

 本当に自分が門脇という人間なのかどうか、今では分からない。もし、「門脇という人間なのだとすれば、門脇の肉親や親戚は、どうして探そうとしないのだろう。

 ひょっとすると、荼毘にふしたと思っていた人間で、完全に死んでしまったと門脇(と思われる男)のまわりの人は、信じて疑わないのではないだろうか。

――未練というのは、持つものなのか、それとも残すものなのか?

 死にきれないほどの未練、それがどれほどのものなのか、持つという言葉と、残すという言葉とでは、少しニュアンスが違ってきているように思えた。

 未練を持つというのは、死んでいく過程で、自分の中に未練があることに気が付いた場合であり、残すというのは、死んでいく過程では自分の中に未練があることを知らず、そのまま死んでしまったのだが、他の人間として生まれ変わったり、生き直す時には、未練があったことを潜在意識の中に残していることから、「残す」という表現がピッタリである。持つにしても残すにしても、その後の人生では、潜在意識の中にその感情が残っているのは必須である。それが、次に生き直すために必要なエネルギーであり、死んでしまいそうな人を生き返らせるのだとしたら、相当に強いものでないと難しいのではないかと思えた。

――やはり、生まれ変わるのではなく、生き直すという方が、強く感じる――

 生き直すという方の発想しか浮かんでこないからだ。

 門脇は、自分が自殺した人間だという自覚を持っていたが、その理由は分からなかった。出版社に勤めていた自分は、かつての事件をいろいろ探ってみて、記事になるネタを手に入れて、何か結論めいたものが頭に思い浮かんだような気がした。

――思い浮かんだ――

 という意識はあるのだが、意識があるだけで、その内容が分からない。

 さらには自殺するまでの過程は分かっているような気がしているのに、自殺の原因が分からない。

――まわりを意識で固めることはできるのだが、肝心の部分がどうしても思い出せない。これはどういうことなのだろう?

 門脇は、自分がいつになったら、肝心な部分に辿りつけるのかということを考えてきたが、そのうちに、肝心な部分には、どうしても辿りつけないように思えてきた。

 根拠があるわけでも、考え方が変わった時に、何かが起こったわけではない。何かが起こらない限り、心境の変化があってはならないという考え方は、門脇の中にはなかったのだ。

 門脇は、自分がどうして、今の町長の下で働くようになったのか、記憶にない。気が付けば、町長の下で働いていた。

 普通なら、そんな納得のいかないような状況に耐えられず、

「辞めます」

 と言って、半ば飛び出してくるような態度を取りそうなものだが、その時の門脇は、

「君にはいつも期待しているよ」

 と、言われると、その言葉に逆らえない自分がいるのを感じた。

 実は、町長にはその力が以前から備わっていた。

 持って生まれたものではないことは確かで、特に学生時代などは、なるべく目立たないように、いつも隅の方にいるようにしていた。それなのに、なぜこんなにも、まわりに対しての影響力を強く持てるようになったのか、自分でも不思議に思っていた。

 しかも、それがいつの頃からのことなのか、町長自身も分かっていない。

 少なくとも、学生時代にはなかったことだ。警察に入って、下っ端のいつ頃のことだったか分からないが、ある事件がきっかけだったことには違いなかった。

――あの事件からだ――

 と思うところはあった。

 しかし、確実にその事件だとは正直言って自信がない。なぜなら事件というほど大げさなものではないほどのちょっとしたことだったので、まさかそんなことで自分が変わることになるなど信じられるはずもなかった。

 その事件というのは、一人の少年が行方不明になった時のことだった。その少年は、地元の有志の息子で、母親は狂ったかのように、警察に駆け込んできた。本来なら家に最初に報告すべきなのだろうが、それすら分からなくなっていたほどパニくっていたのだ。

 最初は、

「誘拐事件じゃないのか?」

 と言われた。

 何しろ地元の有志の息子なので、いつ身代金の要求があるのかと、警察側も緊張していたが、実際にはどこからも身代金の要求はなかった。すると、翌日の朝、

「子供が冷蔵庫の中で閉じ込められているようだ」

 と通報があった。

 冷蔵庫と言ってもスクラップで、翌日には潰されてしまう運命にあるものだった。

――もし発見が遅れていれば――

 と思うとぞっとする。

 まだ誘拐の方が相手が人間なだけに説得の余地もあるが、閉じ込められたままで気づいてあげられなければ、確実に死が待っていたのである。

 その時に町長は思った。

「思っていることをハッキリとさせなければ、誰からも見つけてもらえずに、潰されてしあう運命だ。潰されてたまるもんか」

 というのが本音だった。

 恐ろしさに身体が震えながら、武者震いも一緒に起こしていた。こんなことは初めてだった。

「死中に活を求める」

 という言葉があるが、まさに、

「死んだつもりになれば、何でもできる」

 というものだ。

 何か自信がなくなった時でも、

――冷蔵庫の中に閉じ込められた時の心境――

 を、想像することで、活を求めることができるのだ。

 町長は門脇の中に、もう一人誰かがいるのを感じていた。それが誰なのか分からなかったが、門脇にも分からない、

――どうして、町長の下で働くようになったのか?

 という疑問を感じてもいた。

 町長は、彼の中のもう一人が、自分に関係しているのではないかと思っている。何しろ自分は元々警察の人間で、刑事として長年、第一線で捜査したりしていた。その中で数えきれない人と関わりを持ち、その中には、決定的な人との運命を感じさせるような人もいた。

 数々のエピソードや劇的なシーンを目の当たりにしていたので、ある程度は感覚がマヒして来たと言ってもいいだろう。その中には、自分を恨んでいる人もいるだろうし、慕ってくれている人もいたはずだ。

 門脇の中に誰か他に存在を感じることができるとすれば、できることなら慕ってくれている人であってほしいと思う。しかし、悲しいかな慕ってくれている人よりも、恨んでいる人の方がはるかに多いのは分かっていることである。

 町長は一人の男性が自殺したことをずっと気にしていた。

 その人は、何の理由もなく自殺したようで、まわりの誰からも、

「どうして自殺なんかしたのか、まったく分からない」

 と言われていた。

 調べれば調べるほど、彼には自殺の理由が思いつかず、かといって、状況は自殺以外は考えられない。

「人間って、理由がなくとも、自殺するものだろうか?」

 そんなことを言えば、

「そんなバカなこと、あるはずないですよ」

 と言われるに決まっている。

 実際に町長もそう思っていた。ただ、ありえないことが起こるのも、人間の心境の変化が自分の想定を超えているからだと思う。超常現象よりも、可能性は高いように思えたが、心理としては、ありえないとしか思えないのだろう。

 まわりの人は感覚だけえ判断するが、町長は冷静に分析した結果で考える。その時に思うのは、

「本当に、自殺する覚悟がなくとも、自殺してしまう人っているんじゃないか?」

 と思うことだった。

 それは衝動的に思いつくことのようには思えない。それよりも、本人の意思とは別に、自殺しそうな人をそそのかしたり、背中を押す「見えない力」というものが、どこかに存在しているのではないかという考え方だった。

 そんなことを考えるようになると、不思議なことに、それからしばらく、自殺の原因が見つからないのに、自殺したという人が頻繁に発見されるようになった。

「何かの社会現象ですかね?」

 と、若い刑事は言っていたが、

「それは連鎖反応のようなものなのだろうか?」

 と、町長は感じていた。

 確かに、鉄道や飛行機などの事故は、続くという。それを連鎖反応という言葉で片づけていいものなのかと、前から思っていたが、動機不明の自殺が流行るというのを、連鎖反応という言葉で言い表すのは、どこか違うと思いながら、思わず口から出た言葉だった。

 自殺が流行る時期というのはあるようだ。

 よくあるのが、列車に飛び込むという轢死事故である。

 人身事故というのは、自殺が多いと言われる。他の利用客からすれば、いい迷惑であるが、実は列車に飛び込んでの自殺というのは、一番質の悪いものである。

 なぜなら、残された家族には地獄しか残っていないからだ。

 天涯孤独の人が自殺したのであれば、いいのだろうが、自殺することで被った分は、鉄道会社から、遺族に請求される。

 下手をすれば数百万の賠償金が課せられて、それを拒むことはできない。

 ある意味、サラ金よりもたちが悪いのだ。

 それなのに、列車に飛び込む人は後を堪えない。その理由は分からないが、何度も悲惨な状況を見てきた町長にとって、自殺というキーワードは特別な意識があった。

 自殺の理由が見つからない人の中には、列車に飛び込む人も多かった。

「まさかとは思うが、死ぬつもりなどない人が、死神にでも導かれるように、急に死にたくなったりするんじゃないか?」

 と刑事部屋で話したことがあった。

「何をおかしなことを言ってるんですか。課長らしくない」

 その話をしたのは、刑事課長をしていた頃で、第一線でバリバリだった頃だ。

 ちょうどその頃に自殺が多発していた時期で、

「だけど、これだけ自殺の原因のない人が急に飛び込んでみたりとか、おかしいじゃないか」

「そうですね、確かに誰かに突き飛ばされたわけではない。ホームにはたくさんの人がいたので、その人たち全員がウソをついていたり、突き飛ばした人に気づかないというのもおかしいですよね」

「というよりも、そんなに頻繁にまったく関係のない人を突き飛ばす理由がどこにあるっていうんだ。もし別人の仕業だとしても、偶然というのはできすぎているし、模倣犯だとしても、こんなすぐに見つかってしまいそうな犯罪は、それこそ割に合わないよな。恨みがあるわけでもない相手を殺そうとするのは、それだけ自分のストレスを人殺しで発散させようという思いが強いわけだ。そんな人が同じ時期に、急に人を殺したくなるなんてこと、考えにくいよね」

「そうですね。それを考えると、死神という説を笑うこともできませんね」

 とにかく、おかしな感覚であることに間違いはなかった。

「こっちまでおかしな感覚になりそうだ」

 やはり、尋常な感覚で、不可思議な状況を捜査するのは、避けられないようだ。

 町長は、その時の会話を思い出していた。

 門脇がもしその時に自殺した、

「理由もなく命を捨てた男」

 だとすると、門脇の中にいる人と、直接話をしてみたいような気がしていた。

 門脇が町長の下で働くようになったのは、ひょっとすると、そんな町長の気持ちを分かっていて、

「この人だったら、自分の気持ちを少しは分かってくれるかも知れないな」

 と感じたからなのかも知れない。

 その思いは門脇には分からないだろう。

 ただ、町長が気になっているのは、

――どうして自殺したその人が、門脇という人間に乗り移ったのだろう?

 という思いだった。

 今は、門脇の中に誰かがいるという意識を持っているが、最初はすべてが門脇だと思って接してきた。

 つまりは、門脇本人がどんな人間なのか分からない。それだけ、町長は自分が見えているのは、

――二人で一人――

 という思いで見ているということだ。

 最初一人だと思っていた相手に二人を感じても、まったく違いを感じないことから、そう思ったのだが、本当であれば、もし誰かの中にもう一人いたとすれば、表に出るのは一人だけで、もう一人は眠っているのか、後ろに隠れているのか、表には出てきていないように思える。

 まるで「大どんでん返し」のようである。

 歌舞伎の舞台などで、上下、あるいは表と裏でまったく違った舞台を作っておいて、紐を引っ張ることで、急に場面が一変するという、あの「大どんでん返し」のごとくではないか。

――だから、門脇の中に誰がいるか分からないんだ――

 と感じたが、逆を言えば、

――門脇の中にいる人にとって、自分に気づかれることは都合が悪いという思いから、わざと二人同時に表に出るように仕向けたのかも知れない――

 とも感じた。

 しかし、もしそうであれば、門脇の中にもう一人がいるという思いを感じやすくなる危険性があるのではないかと思った。

 一人一人が表に出るのであれば、

「あいつは二重人格だ」

 として、怪しまれることはないだろうが、人間性が急に変わってしまうようなのに、二重人格というイメージではない様子を見ると、町長のような発想をする人も出るかも知れないと感じた。

 特に町長は、自殺をする人は、自分の意志とは関係なく自殺する人もいて、その原因を「死神」のせいとして考えることのできるような元刑事としては、まわりに対して柔軟な考え方を持てる人である。それを思うと、町長と接するには、他の人を相手にするようなわけにはいかないことを分かっておく必要があるのだろう。

 門脇は、ある空き地に注目していた。そこは昔廃工場があり、そこでは三人のチンピラが殺し合ったという曰くのある場所だった。

 新聞記事を見つけた門脇は、しばらくその記事から目を離せなかった。記事自体は数行の短いもので、普通なら見逃すほどのものであるが、明らかに不気味で不可解な要素を秘めていたのだ。

 その時の殺し合いが目に浮かんでくるようだ。

――自分の中にいる誰かが、この場面を見ていたような気がするくらいだ――

 けたたましい金属音とともに、それぞれをなじる声が聞こえる。それぞれにすべてを相手のせいにして、自分は関係ないと訴えている。

 三人の男たちは、必要以上に汗を掻いている。いくら何かに焦っていたとしても、ここまで汗が出るものかと、思うくらいだった。

 そのうちの一人は、顔が真っ赤で、目が血走っている。もう一人は真っ青な顔に、目の下にはクマができている。もう一人は、半分放心状態で、叫んではいるが、心ここにあらずという雰囲気で、この男が一番、この場にふさわしくない様子だった。

 しかし、最後のこの男が、この状況では一番現場にふさわしかったのだ。三人とも、覚醒剤中毒で、それぞれの症状が時間差で出ているようだ。禁断症状のやつもいれば、これから禁断症状に入る寸前のやつもいる。そして、放心状態のやつは、今まさに、覚醒剤が効いている状態だった。

 最後の覚醒剤が効いている男であっても、まわりの異様な雰囲気から言い知れ分不安や猜疑心が浮かんでくるのは同じだった。最後の放心状態は、普段の気持ちよさではなく、死後の世界を想像しているかのようで、後の二人の異様な雰囲気に、苛立っていた。

 だから、殺し合いに参加もしたのだし、自分が今まで行ってきた悪行が走馬灯のように巡っていたのかも知れない。

――こんな修羅場と言える場面、他人事としてしか見ることはできないよな――

 と思っていた。

 その場にいなかったことを幸運だと思い、もし巻き込まれていたら、間違いなく殺されていたことが分かっているだけに恐ろしい。

――もし、この場に何も知らない第三者が現れたら、殺し合いなんか起こらなかっただろうな――

 と思った。

 なぜなら、彼らは保身のためだけに動いている、他の人はどうでもいいのだ。

 同じ立場の三人だからこそ、三人だけになった時に、お互いへの猜疑心と疑心暗鬼から殺し合ったのであって、ここに第三者がいれば、彼らは自分たちが同じ立場であることを思い出し、その第三者を葬ることに一致団結することだろう。

 何しろ悪知恵だけでここまで生き残ってきた連中だ。これだけの悪いことをしてきているのに、今まで生き残ってこれたのは、それなりの知恵と、要領のよさが原因に違いない。覚醒剤が効いている時、頭の回転が天才的に早くなるのだろう。悪いことへの知恵はどんなに立派な博士であっても、叶わないほどではないかと思えるほどではないと、こんなに危ない橋を渡ることなどできないだろう。

 それだけに反動も大きく、相手の頭の良さも認めることで、自分の保身が危うくなると思うと、猜疑心も最高潮になるというものだ。

――こいつら、つくづく救えないやつらだ――

 と、殺し合いの場面で声を掛けてやりたいくらいだった。

 どんな惨劇であっても、こんな連中が殺し合っているのであれば、見ていれば爽快な気分になってくるかも知れない。

 ただ、その時は完全に感覚がマヒしていなければいけないので、自分も覚醒剤を打っていなければ、そんな気分になることはできないだろう。

――覚醒剤に手を出してでも、あいつらの殺し合う姿を、爽快な気分で見てみたい――

 と、過去の新聞記事を読みながら、門脇は感じた。

 覚醒剤がどんなものなのか分からずに感じているので、その考えは、実に浅はかに違いない。

 それでも、門脇の憎しみは、やつらに向けられている。

――俺はどうして、こいつらをこんなに恨まなければいけないんだ。自殺したことに関係あるのだろうか?

 と考えた。

 自殺してでも、やつらの殺し合いを爽快に感じたいと思ったのではないかと想像すると、十五年以上も前の事件が、まるで昨日のことのように思えてくるから不思議だった。

――俺は、自分の中にいる男に、同情的になっているのは間違いないようだ――

 と感じられた。

 しかも、何かを考えている時でも、どっちの自分が考えているのか分からない時がある。やはり、二人同時に表に出てきているという証拠ではないだろうか。

――やつらは、どうして殺し合いなんかしたんだろう?

 何か罪を犯して、そのことに対して、誰かが自首でもしようとして、その危険性に気づき、お互いを罵りあったのか。もし、そうだとすると、よほどのことをして、そのことがどこかからか、露呈しそうになったからではないだろうか。

 やつらがそれまでにやったことは、一つ一つの罪を取ってしても、重大な犯罪であり、下手をすれば、何十人も殺害していてもおかしくないほどの罪の量である

 中には普通の殺害なら、まだマシなものさえあった。

 自分たちがその人にしたことに対し、その人が恥辱とその後の人生を憂いて、自殺した人も一人や二人ではないという。自分たちの手を汚さず、本人が死を選ぶのだから、やつらが反省することもなく、その後も似たような犯罪を繰り返すのも当然のことだろう。

 また、中には自分が受けた恥辱を口外されたくなくて、やつらの言いなりになっている人もいた。まるで奴隷のように扱われ、

――このまま、こんな連中に一生付きまとわれて、奴隷扱いされて、死んでいくんだわ――

 と思っていた人もいるだろう。

 何しろ、やつらには覚醒剤があった。そして、バックにはやくざが控えている。警察に話しても、やつらを抹殺してくれるわけもなく、もし捕まったとしても、やくざにもみ消されるか、あるいは、実刑を食らっても数年で出てくる。そうなると、きっと自分に報復にくるに違いない。そう思うと、とても警察に出頭する気持ちになれるはずもなかった。

 そう思うと、

――神も仏もないものか――

 と、世の中を恨みたくなって当然であろう。

 こんな世の中に未練などあるはずもない。

 やつらに報復できて、この世からいなくなれるのであれば、こんなに幸せなことはないと思った人もいるに違いない。

 やつらのために自殺した人も少なくないと聞いている。被害者は被害者で、他の人に分からないところで、どういうわけか繋がっていたようだ。どうしてどこからその繋がりができたのか分からないが、どういうわけか、そのカギを握っているのが、「樹海」なのだという。

 門脇が見つけた新聞記事にはそこまで書かれていた。

「普通なら、ここまで書いたりはできないはずだ」

 どんなに腐った人間であっても、一応「人権」、「プライバシー」というものが存在しているらしく、表現の自由は、人権を侵すことはできない。

 しかし、この図書館の秘蔵所と呼ばれる分厚い資料には、表に出せない記事が保管されている。そのことを密かに館長から聞かされていた。

「私はこれでも昔は警察官だったんだよ」

 と言っていた顔が思い浮かぶ。

 ドヤ顔に見えたが、その心の奥を覗いてみたかったが、そう簡単に心の奥を覗かせないのは、さすが元警察官、感心なものだった。

「本当なら、この記事は誰にも公開はできないんだが、君ならこのことを誰にも口外することはないと信じたんだ。だから、君に閲覧を許可したんだが、理由はそれだけではない」

「どういうことなんですか?」

「君はこの記事を見てどう思ったかね? 他人事のようには見えていないように思えたんだが」

 館長の言葉を聞いて、ビックリした。何でも見透かされているようだ。

 しかし、それは元刑事としての勘なのか、それとも、貪欲に相手を見ることに長けているからなのか、どちらにしても、その洞察力には驚かされた。

「はい、確かに他人事のようには見えませんでした。こいつらが犯した犯罪が、この記事からではすべてを把握できるはずもないのに、見ているだけで、やつらがどれほど冷徹な人間であり、どれほどむごいことをしてきたのかということが分かる気がしたんです。 少なくとも、覚醒剤中毒だったというだけで憎むべきなのに、その犯罪がどれほどのものだったのかというのを想像していると、この世のものではないほどの憎悪が、湧いてくるんです」

「君は、身体全体でやつらの犯罪を感じているようだね。どうしてそんなにやつらのことが分かるのか、理解できるかね?」

「いえ、分かりません。なるべくなら、こんな嫌な気分になんかなりたくないと思っているのに、気持ちは裏腹なんですよ。こいつらを憎んでも憎みきれない思いが、まるでたくさんの人の恨みが自分の肩にのしかかってくるようで、押しつぶされてしまいそうな気分になってきています」

「その苦しみは、よく分かる。私も同じだからね。こいつらだけではなく、この街には許しがたい連中がいっぱいいた。まるで無法地帯だった時期があったんだ。発見されていないけど、この街の人で殺されたり、自殺したりした人が、たくさんいたんだよ」

「その人たちはどこに?」

「樹海さ」

 そう言った時の館長の顔を、恐ろしくて正面から見ることができなかった。

 樹海に関しては、門脇も気にはなっていた。

 いや、門脇というよりも、門脇の中にいる誰かの意識の方が強かった。館長から、

「樹海さ」

 という言葉を聞いた時、門脇が明らかに自分の中にいる人間のシルエットを確認できたような気がした。

「でも、樹海というのは確かにこの街にはありますが、自殺死体が発見されたというのはほとんど聞いたことがありませんよ」

「そうでしょうね。樹海に入って自殺した人は、その人自体が死んでしまうわけではないんです。他の誰かに乗り移ることで、生き延びることができるんです。乗り移られた人は、最初はその存在について意識はないかも知れませんが、一度意識してしまうと、頭から離れなくなってしまう。なぜなら、乗り移られた人と、同じ意識の中に存在しているんですからね」

「というのは?」

 門脇には何となく館長の言いたいことは分かっていたが、それでも聞いてみた。

「普通、誰かに乗り移られたという発想をする時というのは、自分が表に出ている時は、もう一人は後ろに隠れている。そしてもう一人が出てきた時は、自分は隠れてしまう。眠っているという感覚になるのかも知れないですね」

「まるでジキルとハイドのようですね」

「その通り、あの小説があるから、余計にそういう発想が強いのでしょうが、実際には、一つの意識の中で二人が共存していると思う方が、僕には自然な気がしているんですよ」

 警察出身の人というのは、もっと現実的なものだと思っていた。まさか、こんな信じがたいおとぎ話のような話をされるなどと思ってもいなかったので、かなり拍子抜けしているというのが実感だった。

 館長はさらに続けた。

「このことは、ウスウス君には分かっていることではないかと思っていたんだけどね」

「はい、自分の中に誰かがいるような気がしていたんですが、同じ意識の中にいるのに、こちらの考えを相手は分かっているのかどうか、まったく反応がないので、理解できないことが多かったんです。でも、自分の行動指針が、彼によって培われていることは分かりました。しかも、そのことを抗う気持ちが自分にはないんですよ」

「君の中にいるのは、かつて樹海の中で自殺を試みた人だったんだ。だけど、彼には自殺をする動機がなかった。だから、実際には彼は最初、行方不明とされて、捜索願が出されたんです。でも、そのうちに今度は、彼の存在を知っている人がどんどん減ってきた。本当は知っているはずの人の意識や記憶から消えていったんです。もっとも、彼も自殺をする前から、記憶の欠落を感じていたようなんですが、そのことと、まわりが彼を忘れてくるという事実とがどのように結び付いてくるかは謎ですね」

 館長の話を聞いていると、何となく思い出してきた気がした。

「高橋敦……」

 思わず、門脇はその名前を口にした。

「そう、高橋敦。君の中にいる男の名前だよ。彼はのぞみ出版で働いていて、樹海について取材を試みようとしていたようなんだ。そして、彼はなぜかいきなり自殺した。本人の意思とはまったくの裏腹にだよ。ひょっとすると彼は、自分が死んでも、誰かの中に乗り移ることができることを知っていたのかも知れない。だから、樹海に興味を持ち、誰も気づかないところに気づいたことで、人知れず、君の中に入り込み、人の記憶や意識の中から、自分を抹殺することができたのかも知れないね」

「そんな夢のような話」

 と、門脇は呟いたが、

「そんな夢のような話であっても、今君は、高橋敦と言っただろう? 君には分かっているんだよ」

「私が分かっているというのは、分かる気がしますが、そのことをどうして館長がご存じなんですか? 館長も何か樹海やこの街の何かに思い入れがあり、調べていたということなんでしょうか?」

「それは言えると思うんだが、それよりも、僕が思っているのは、許せない事実の多さからなんだ。それが、例の三人の男たちが殺し合ったという事実に繋がって行くことになるんだ」

 門脇は固唾を飲んで聞いていた。

「でも、自殺を考える人がこの樹海を訪れるのは、この樹海にくれば、苦しまずに死ねるという意識があるようなんだよ。どこからそんなウワサが出ているのか分からないけど、自殺を考えた人だけが知る迷信のようなんだ」

「夢にでも見るんですかね?」

「そうかも知れない。でも、樹海に来て死を選んだ人は、死ぬわけではなく、誰かの中で生きるのだとすれば、本当の苦しみというのはないのかも知れないね」

 その話を聞いていると、まるで自殺を奨励しているようにも聞こえ、少し納得がいかない気がした。自殺しても誰かの中で生きられるのであれば、それはそれでいいのだろうが、入り込まれた人は溜まったものではない。門脇本人は、それほど嫌な気はしていないので気にはならないが、他の人は嫌な気分がすることだろう。何しろ、自分が表に出ている時、入り込んできた人も表に出るのだ。本当の自分をアピールできる機会が減るのだから、嫌な気分にならないことはないはずだ。

「樹海という場所に、死への思いを封じ込めて、楽になりたいという思いを抱くのかも知れない」

「この間、首を吊った女性がいたけど、あの人はあの場所で直接命を絶ったんですよね。あの場所でなければいけないなかったのかな?」

 と門脇がいうと、

「あの人は、実はすでに誰かが入り込んでいたんですよ。入り込んだ人がいたおかげで、何とか自殺を思いとどまってきたんですが、どんどん追い詰められてくるうちに、入り込んだ人が表に出ることもなくなってきた。そのために、彼女の気持ちが最高潮になって、結局命を絶ったんですね。彼女としては、最初からあの場所で首を吊ることをずっと考えていたんでしょう。言い方は変ですが、彼女にとっての『大願成就』というところですね」

「あれを大願成就と言われると、何と答えていいのか分からなくなりますね」

 苦笑いをしながら、門脇は答えた。

 門脇は次の瞬間我に返ると、

「僕の中に入り込んでいる人は、樹海の中で自殺を試みた人だって言っていましたが、どんな人だったんでしょうね。彼は自分が表に出ている間も表にいるというのは何となく分かるのですが、その人がどういう人で何を考えているかなどということは分からないんですよ。それが気になってしまいます」

「その人はさっきも言ったように、のぞみ印刷で樹海について意識していた人なんだけど、彼は最後まで知ることはなかった。急に自殺したくなったのは、彼が樹海のことを知ろうとしたからに違いはないんだけど、樹海が知られたくないという思いから、彼を自殺に追い込むような意識を植え込んだわけではないんです。彼の自殺は樹海が絡んでいるのは間違いないんですが、自殺は彼にとって悪いことではなかった。その証拠に、今彼が乗り移ったあなたが、樹海や過去の事件について調べているでしょう? 彼は自分が何も知らずに自分の身体の中で生きていくよりも、誰かの中に入ってでも、知らなければいけないことを知りたいと思ったんでしょうね」

「そんなことって……」

 門脇は、想像を絶する発想が、館長の口から語られていて、その内容を理解しかねているという今の自分の立場に、正直戸惑っていた。

「そうだよね。門脇君からすれば、何が自分の頭の中で起こっているのか分からないし、自分の中にいるであろう男性の気持ちを分からないと思っているんでしょうね。その気持ちはよく分かります。でも、あなたはその事実を分かろうとしているじゃないですか。あなたはそれを自分の中にいる男性が、そうさせているだけだって思っているのかも知れませんが、そうではないんです。もっと言えば、彼の魂があなたの身体に入ってきたというのも、偶然ではないんですよ。内臓移植のように、誰かの身体に入るというのは、適性があるんですよ。もし、適性がそぐわなければ、薬のように副作用を起こすことになるんですよ」

 門脇は、どんどん飛躍するその話にどう反応していいのか、まだまだ戸惑っていた。館長は続けた。

「その副作用を引き起こした状況は、あなたにも想像つくと思いますよ」

「どういうことですか?」

「ほら、さっきも話しに出た樹海の中で首吊り自殺をした女性。彼女は気の毒だったんですが、乗り移った方の女性と、適性が合ってなかったんですね。だから、副作用を起こして、死にたくなった。それで樹海の中で自殺をするという。他の人と違うパターンが生まれたわけなんです」

「あっ」

 門脇はその言葉を聞いて、少し納得できた気がした。

「ところで、問題にしていた過去の事件の中で、三人のチンピラが殺し合ったという事件、これにも、以前自殺した人が絡んでいるというのが、最近私には分かった気がするんです」

「どういうことなんですか?」

「あの三人は、いろいろ悪いことをしてきた連中で、私も生きる価値のない人間がいるとすれば、あいつらのような人間だって思うんですが、あいつらが殺し合ったのは、覚醒剤の中毒によって、お互いが疑心暗鬼に襲われたからだというのが一般的に言われている事実のようになっていますが、それだけではないんです」

「何か、他の力が働いていると?」

「ええ、あの三人の殺し合いは、実は復讐だったんです。表に出ていない復讐が静かに行われ、三人が殺し合ったという事実として残ったんですね。しかも、誰もが信じられないような惨劇で、しかもやつらの罪状から考えれば、自業自得であり、神様の罰が当たったと言えるような出来事だったでしょう。そうとでも言わなければ、説明も尽きませんからね」

「ええ」

「あいつらは、ほぼ毎日悪どいことをしていました。露呈している犯罪で、彼らがやったという結びつけのないものだけではなく、本当に表に出ていないことも相当ありました。あんな連中は、本当に地獄に落ちても、余りあるくらいですからね」

「そんなにひどい連中だったんですか?」

「ええ、だから彼らのために秘密裏に殺された人もたくさんいました。そして、そのために自殺した人ももちろんたくさんいます」

「……」

「そんな中の一人が、この樹海のことを知って、ここに来て、誰かに乗り移るという思いを祈りながら死んでいったんです。そして、その相手というのが、例の悪党の三人のうちの一人だったんです」

「なるほど」

「ちょうど、適用したんでしょうね。乗り移るのに問題はなかったようです。普通であれば、誰に乗り移るかというのは、自殺をする人間には決められないんですが、彼の気持ちはかなり強かったということと、復讐を終えれば、自分はどうなっても構わないという覚悟を持っていたことで、彼は適合したんだと思います。そして乗り移ってからしたことは、やつらに自分たちの罪を認めさせようという意識だったんです。でも、あいつらがそんなまともな人間であるわけはない。動物以下と言ってもいいくらいですからね。彼は、罪の意識を思い知らせることを断念すると、次に考えたのが、疑心暗鬼に陥らせての、殺し合いだったんです。そんなことで今までのあいつらが犯した罪に報いられるわけもないですが、自分の力に限界を感じたんでしょうね。殺し合いという形での復讐を企ててみると、何と、もう一人のやつにも自分と同じように復讐に燃えて乗り移ったやつがいたんです。そうなると、もう百人力でした。お互いにテレパシーのようなもので連絡を取り合って、こいつら三人を、疑心暗鬼のどん底に陥れた。一人ではできないことでも、二人いれば、何十倍もの力を発揮できるようで、頼もしい思いだったに違いありません」

 門脇は、話を聞きながら、手にグッショリ汗を掻いているのが分かった。ただ、館長の話を聞いているだけしかない自分の今の立場を流れる風のように、静かに迎えていた。

「僕も、なんだか乗り移った人の気持ちが分かるというよりも、自分ならその二人のように奴らの身体に乗り移ることのできる数少ない人ではないかと思えるような気がしてきました。どうしてなんでしょうね?」

「それは無理もないことだからですよ。実は門脇さん、いやあなたの中にいる高橋さんは、やつらの被害者でもあるんです」

「どういうことでしょう?」

「あいつらが、キャンプ場の奥で暴行し、自殺した主婦がいましたが、その人の子供が高橋さんなんです」

 それを聞くと、門脇の中にいる敦が表に出てきて、

「やっぱりそうだったんですね。僕は死にたいと思ってもいないのに、自殺することになった。最初は、どうして自殺なんかするのか分からなかったけど、こうやって門脇さんの中に入り込むことができて、死ぬということが人間にとって最期ではなく、逆に何かの目的をしっかりと持った人間にとってのスタートラインだということを知りました。門脇さんには悪いと思いましたが、彼の身体を使って、自分はできるだけ、自分の存在意義をハッキリとした形にしたいと思ったんです。ある程度のことまでは分かってきましたが、どうしても最後のところがハッキリしません。これがハッキリしないと、ほとんど見えていないのと同じなので、自分が自殺した意味も、門脇さんの中にいる意味もないと思い、図書館に来ました。それは、ただ図書館で調べものをするというだけではなく、館長とこうやって話をしたいと思ったからです。館長なら何でも知っていそうだし、分かっていることを門脇さんに対してだけではなく、僕に対しても話してくれると思ったからなんですよ」

「そこまで分かっていたんですね」

「ええ」

「これであなたも気がだいぶ晴れたんじゃないですか? 僕にはそれが嬉しいと思うんだけど、そろそろ門脇君を解放してあげればいいんじゃないか?」

「ええ、最初はそう思ったんですが、もう一つ気になることがあるんです」

「なんだい?」

「町長のことです」

「町長がどうしたんだい?」

「僕は町長も、自分と同じように、誰かが入り込んでいるような気がするんですが、今までの話を伺っていると、町長の中にいるのは、三人の男たちが殺し合った時担当した刑事さんではないかと思っているんですよ」

「ああ、その通りだよ」

「館長は、その刑事の先輩だった……。そしてもう一つ、館長、あなたの中にもいますよね?」

 というと、館長は苦笑いを浮かべて、

「ああ、よく分かったね」

「あなたは誰ですか?」

「久しぶりだね。高橋君」

「やはりあなたでしたか」

「ああ、僕はこの街で編集部で一旗揚げようと思っていたんだけど、どうもうまくいかなかった。理由は僕の中にも三人の男たちの殺し合いが引っかかっていたからさ。詳しい話はゆっくりしてあげるが、あいつらは、本当にケダモノ以下なんだ」

「分かります。だから、あなたは、僕のことも気にしてくれたんですね」

「ああ、そうだ。この街に来たのも、元々は、復讐のためだったんだ。その目的は、図らずも他の連中がしてくれたから、僕は心置きなく死のうと思ったんだ。だけど、この樹海のことを知って、他の人になって生きることを選んだ。それは間違っていなかったと思っているよ」

「僕もそう思います」

「ありがとう」

「これからは、一緒に生きていきましょう。前のように……」

「それもいいな。人間って、そう何度も死ぬ勇気なんか持てるものはないからね」

「ええ、その通りですよ。安藤さん」

 そう言って、門脇、いや敦は目に涙を浮かべていた。

 それを見て館長も目が潤んでいるようだ。

 そう、樹海は何でも知ってるのだ。

 今でも入り込むことのできなくなった樹海には、毎日のように、誰かが入り込んでいる。きっと彼らが求めているのは、どの世であっても、「幸せ」というものなのだろう……。


                 (  完  )

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樹海の秘密 森本 晃次 @kakku

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