第2話 過去の暴行事件

 週末の金曜日の昼下がり。何もなければ、その日は、バーにでも行ってみようと思っていた日だった。以前安藤さんと一緒に行ったバーが気に入っていて、時々行くようになったのだが、なぜか安藤さんと一緒になることはなかった。マスターに、

「最初に来た時、僕と一緒だった人って、この店に来たりしている?」

 と聞いてみると、

「ええ、安藤さんでしょう? ちょくちょく来てくれてるよ。でも、なぜか敦君とは一緒にならないんだよね。別に示し合わせているわけではないんでしょう?」

 と、笑いながら言っていたが、

「もちろん、示し合わせたりしていませんよ。そんなにちょくちょく来られているんですか?」

「ええ、敦君よりも頻繁に来てくれているよ」

 敦は、週に一、二回くらいのものだったが、毎週来ているのは間違いない。たまに週三回ということもあるくらいで、十分常連と言ってもいいくらいだと思っていた。

 そんな敦よりも多く来ているというのに、会わないというのは、本当に示し合わせていると思われても仕方のないことだ。よほどタイミングが悪いのか相性が悪いのからだが、逆にこれほどタイミングが合わないというのは、却って何かの因縁めいたものを感じてしまう。

 敦は、午前中までは、

――今日はバーに行く日だな――

 と思っていた。

 しかし、最近自殺のことを意識するようになってから、さらには樹海が呼んでいるとまで感じるようになると、どうしても、樹海を見に行かないと気がすまなくなっていた。

――本当に、僕は今まで自殺を考えたことがなかったんだろうか?

 今回の自殺を意識した感情は、初めてではないような気がする。以前にも同じような考えを抱いたことがあるのを感じていたが、その時は、自殺までは考えなかった。

「人は誰でも一度は自殺を考えることがある」

 と言っていた飯塚君の話が思い出された。

――本当にそうなのかな?

 と、自殺を考えたことのない自分が、まるで少数派のように思えて、何とか、自殺をイメージしようと努力してみたが、できなかった。

 やはり、自殺などというのは、自分から意識したのではできないものだ。何か外的な影響から、自殺のイメージが頭に沸いてくることで、どうして自分が自殺を意識するようになったのかという疑問から始まって、次第に自殺に向かってまっしぐらになっている自分に気づくものなのかも知れない。

 もちろん、自殺など考えたことのない敦だったので、確証があるわけではないが、飯塚君の手首を見た時や、冷蔵庫に閉じ込められたり、生々しい死の場面に直面したりしたのを思い出すと、自分の気持ちが自殺というものに惑わされているということに気づくのだった。

 その日はちょうど、昼から有休を取っていた。これは前から計画していたもので、衝動的に自殺を意識したことで、急遽休みにしたものではない。

――何か虫の知らせのようなものがあったのかな?

 と思ったが、今までなら、

――そんなバカなことはないよな――

 と言って、一蹴しただろうに、その日は、妙に納得できた。

 仕事が終わって、さっそく樹海に行こうと思ったが、目的地は決まっていた。

 この間首つり自殺が発見された、神社の境内の裏である。仕事を終えてホッとする反面、早く会社を出ようと表に出ると、さっきまで元気だったはずの自分の身体が急に重たくなってくるのを感じた。

――一体どうしたんだろう?

 そう思いながら、歩いていた。

 歩き始めてすぐに、足の裏の土踏まずの部分に痺れを感じた。左足だけだったので、なんとかびっこを引きながらでも歩くことができた。ただ、思ったよりも身体にだるさが感じられ、進んでいるつもりでも、前を見ると、なかなか先に進んでいるようには思えなかった。

――石段、上ることができるかな?

 という一抹の不安があったが、それは取り越し苦労だった。

 何とか歩いて目的の境内の前まで歩いてくると、今度は疲れは取れていた、ただ、足の裏の痺れだけは残っていて、上りながら痛みに耐えていた。だが、痛みに耐えている間、何とか意識が足の裏だけに集中していたからなのか、気が付けば境内の前まで上ってきていた。

 目の前に広がる境内は、左右対称のはずなのに、左側が少し傾いているように思えた。きっと足の痛みから来ているのだろうが、すでに足の裏は熱を帯びていて、感覚が半分マヒしていたのだ。

 ゆっくり石畳を歩いて、百度石のところまで来ると、正面に見える境内が、さっきよりも小さく感じられた。

――こんなに小さかったかな?

 と感じたのと同時に、

――近づいたはずなのに、まだまだ遠いじゃないか――

 と感じた。

 そして、後ろを振り返ると、今まで歩いてきた距離は確かに存在していた。本当ならちょうど半分くらいまで来ていていいはずなのに、まだまだ倍くらいは歩かないと、境内まで辿り着けないように見えた。

 しかし、境内が小さく感じるわりには、目の前にある一対の狛犬が、やけに大きく感じられた。

――今にも動き出して、襲ってきそうだ――

 という思いもあるくらいで、

――襲ってきたらどうしよう――

 という意味のないことを考えたりした。

 元々、自殺を意識してここに来たのに、狛犬を怖がるというのも、不思議なもの。狛犬が死への道筋を立ててくれるとでもいうのだろうか?

 歩きながら、自分に、

「死への覚悟」

 があるのかどうか、考えていた。

――今だったら、もし死んだとしても、後悔はしないかも知れないな――

 生きることへの執着であったり、自殺する時の後悔というのは、何かこの世でやりたいことがあったり、やり残している中途半端なことがあったりした場合に感じるものだ。

 そんなものが敦に果たしてあるのだろうか?

 仕事、プライベート、どちらを取っても、やり残したことや、やりたいことがあったようには思えない。

 そういえば、

「死んだ気になれば、何だってできるじゃないか」

 と、テレビドラマなどで自殺しようとしている人を止める時の定番のセリフである。

 敦は、

――白々しい――

 と思いながらも、そんなテレビドラマを見るのが好きだった。

 それは、自分に自殺という影がまったくなく、自殺する人など、完全に他人事だと思ったからだろう。

 確かに、そのセリフは説得力が感じられる。しかし、それはドラマを見ながら、他人事だと思うから感じられるものであり、次の瞬間には、白々しさがよみがえってくる。説得力は一瞬だけのものなのだ。

 しかし、自分が自殺の覚悟を固めた時はどうなのだおる?

 自殺の覚悟には二種類ある、

「実際に、死にたいと思うほどの何かがあって、生きることに失望した時」

 もう一つは、

「いずれは死ぬのだから、いつ死ぬのが一番楽に死ぬことができるだろうか?」

 と感じた時に、できる覚悟である。

 ほとんどの人は前者しか思い浮かばないだろう。敦もそうだった。

 しかし、死というものを実際に意識してしまうと、

――いかに楽に死ぬことができるか――

 ということを考えるようになって何が悪いというのだろう。

 もちろん、生きている間に、やりたいことや、達成を目指しているその途上である時はそこまで考えないかも知れない。

 しかし、目標を達成してしまって、その次のことを何も考えていなかったり、何も思い浮かばなければどう感じるだろう?

「もう、この世に未練なんかないよな」

 と思うかも知れない。

 その時にできた覚悟は、生きていると苦しいだけなので、死ぬしかないと思っている人よりも、強いものではないだろうか。

 目標を達成した人は、死に対して怖いとは思わないかも知れない。

「痛い、苦しい」

 ということだけを考えるなら、躊躇もあるだろうが、この世に未練がないと思っている人には、

「痛い、苦しい」

 を凌駕したものが存在していると言っても過言ではないだろう。

 ただ、敦には、何かを達成したという思いも、

「この世に未練はない」

 という思いもない。

 中途半端な思いだけで、死というものを意識してしまっている。

――こんなことを考えるのは僕だけなのかな?

 と思ったが、敦はそうでもないという根拠のない気持ちが、心の中にあるのを感じていた。

 敦は、、何とか狛犬のところまで辿り着き、その表情を見ているると、恐ろしいというよりも、

――どこに逃げても、こいつらからは逃げられない――

 という思いがあった。

 しかし、顔は穏やかなもので、狛犬に対して穏やかな表情を感じるなど、今までにはなかったことだ。

――いよいよ死が近いのかも知れないな――

 そう思って、狛犬から離れると、さっきまで重たかった身体が急に軽くなり、マヒしていた足の裏も回復していて、痺れも消えていた。

「狛犬が治してくれたのかな?」

 と、苦笑いをしながら呟いたが、境内を振り返ることなく、裏に向かった。

 さっきまでカッと照っていた日が刺さなくなると。まったく無風だったはずの今日の昼下がり、境内の影に入った瞬間に、冷たいと思えるほどの風が吹いてきた。

 掻いていた汗が、一気に乾いてしまうほどで、

「このままなら風邪をひいてしまう」

 と思った。

 さっきまでの身体のだるさは、まさしく風邪を引いた時のだるさだった。

「ここに来て風邪の症状が治まるなんて、逆じゃないか」

 と思った。

 さすがに、表の明るさから一変して、影となっている境内の裏は、目の前に広がる樹海の入り口の壮大さもあってか、明るさはまったく感じられなかった。

 しかし、夜という雰囲気でもない。目が慣れてくると、徐々に見えてくるものがあることは分かっていた。

――一体最初に何が見えるというのだろう?

 最初に見えてきたのは、怪しく光る二つの光。

 それは自分の背よりも明らかに低いもので、真っ赤に光っているように見えた。

 風が強かったので最初は気づかなかったが、風に慣れてくると、

「うぅ~」

 という呻き声のようなものが聞こえた。

「犬でもいるのか?」

 と思ってみると、どうやらオオカミのようだった。

「こんなところにオオカミが?」

 考えてみれば、樹海には、誰も入り込む人はいないのだ。中に何が住んでいるのか知っている人はいない。

「入ってはいけない」

 という場所で、研究する人もいない。

 樹海の生態系は一体どうなっているというのだろう?

――まさか、次元の違う世界では?

 富士の樹海を思い出していた。

「入った人は見つからない?」

 違う次元に入り込んでしまって、行方不明になってしまったのかも知れない。

――それとも、サルガッソーやブラックホールのように「宇宙の墓場」と呼ばれるような場所が、こんな身近に存在していたということなのか?

 ワームホールなどはすぐに消えてしまうが、樹海は消えることはない。ひょっとすると、樹海の中には、ワームホールが発生しやすい場所が至る所にあったりするのではないかとも感じられ、樹海を目の当たりにしているだけで、こんなにも想像力が高速回転でたくさん浮かんでくるものだとは思ってもいなかった。

「やはり樹海には、信じられないような力があるんだ」

 と感じさせられた。

 今は科学が発展しているので、富士の樹海であっても、今まで言われていたような都市伝説が、

「そうでもない」

 と、科学的な根拠のないウワサとして言われるようになったあが、昔はいろいろな話があった。

「一度入ったら、出られない」

 であったり、

「方位磁石が通用しない」

 などもそうだが、今の研究では、そこまではないようだ。ただ、それは富士の樹海のことだけであって、地方にあるあまり知られていない樹海には、却って何があるか分からないだけに、不気味さもあった。

 特に、自殺の名所として噂にならなければ、それほど危険なものだと言われることもない。一人か二人、別の時代に行方不明者がいたくらいでは、誰も気にしないだろう。

 もちろん、樹海も捜査対象になるのだが、そんな時に限って、樹海に入った人は、別に何もなく、普通に出てこれたりするものだ。

 一度捜査が入って何も異常がなかったり、不可思議なものが発見されなければ、二度とここを怪しく思う人はいない。ある意味、自殺の名所としては、死角になるのかも知れない。

 忘れた頃に、首吊り自殺者が見つかったと言っても、樹海でなければいけないという死に方ではないので、

「人知れず死にたい」

 という気持ちが強かったことが、自殺の場所を樹海にした理由だと思う。

 ただ、この街の人間ではないということなので、どこでこの街の樹海の話を聞いたのか分からないが、彼女の自殺と、樹海の神秘とを結びつけるのは、無理があるような気がした。

 重たい身体で、彼女の死体が見つかったというところまで来てみた。すでに捜査によるロープは取り外されていて、そのロープの跡が、木に残っているようだった。

「こんなところで一人で死んでいったんだ」

 と思うと、さっきまで自殺を考えていた自分が信じられない気がしてきた。

 人がぶら下がって、ダランとしている姿を想像すると、その時の断末魔の表情が自分を睨んでいるように思えてならない。

 どんなに苦しまずに死のうと思っても、苦しくないわけはない。断末魔に歪む顔を見たこともないくせに、想像しようと思うのは、どうにも虫が良すぎるような気がした。

 以前見た惨劇では、その人の顔を見ることはできなかった。血まみれだったのを思い出すと、血が出ないだけ、首吊りの方が、

「綺麗な死体」

 だと単純に思った。

 しかし、木にぶら下がっている人間というのも、苦しんでいるはずだ。交通事故なら即死もありえるが、首吊りだと、なかなか死にきれない場合もある。そんな時にどんな苦しみ方をするのか、数十日前に人がぶら下がっていたはずのその場所で想像してみると、想像だけなのに、リアルな寒気を感じるのは、相当な感情移入があるからに違いない。

 死を覚悟しても、自ら命を絶つというのは、それなりの代償があるのではないかと思えてならなかった。

 敦はしばらくそこで佇んでいたが、すっかり『死』というものを意識しないようになった。

――僕がそんなことを考えていたなんて――

 一瞬でも覚悟を緩めると、それまで考えていたことが水泡に帰してしまう。敦はそのことを、初めて思い知ったのだ。

 自殺を考えていたことが急に怖くなった。ブルブルと背中が震え、どうしてここに来たのか、その意義を見失ってしまいそうだった。

 しかし、ここに来たことで我に返ったのも事実である。ここに来ると自殺しようと思っていた人が思いとどまる効果もあるのかも知れない。

 ただ、本当に自分が自殺しようと思っていたのかということすら忘れかかっているので、後から考えて、自分を納得させることができるのかどうか、分からなかった。

 身体のだるさは、さっきから噴き出してくる汗に吸い取られているようで、時間が経つほど、すっかりよくなってきた。しかし、咽喉がカラカラに乾いていて、早くこの場から立ち去りたいと思うようになっていた。

 敦は踵を返して、その場から立ち去った。気が付けば石段の下まで降りてきていて、いつの間にか西日が水平線の向こうに沈みかけているのが見えていた。

――そんなに長い時間、ここにいたんだろうか?

 あっという間だったような気がしたのに、不思議なものだ。

 このまま帰宅するのは、却って気持ち悪い気がした。咽喉が乾いていることもあって、いつものバーに寄ってみようと思った。本当なら、最初に寄ってみようと思っていた場所である。

 樹海のある神社からは、さほど遠くはなかった。徒歩でも十五分くらいなので、少し考え事でもしながら歩いていれば、きがつけば着いていたという程度の距離である。

 普段から歩く時は、いつも何かを考えている。その時々で違っているが、今日は何を考えるのであろう。

 神社に来るまでに、何を考えていたのか、忘れてしまった。きっと死について考えていたのだろうと思うが、それほど切羽詰まったような心境ではなかった。気持ちに余裕があったからこそ、覚えていないのだと思うのだが、神社の石段を昇る時、覚悟を再度決めていたのを思い出していた。

――あれ? 確かあの時は、いつの間にか石段の一番上まで来ていたと思ったはずだったのに――

 その瞬間には、いつの間にかというほどの意識しかなかったのに、時間が経ってから思い出すのは、その時に意識していなかったことだった。記憶装置というのは、一体どういう構造になっているというのだろう。

 バーの近くまでくると、薄い紫色の看板が見えた。

 書かれているのは、バー「エッセンス」。どうしてそんな名前にしたのかとマスターに訊ねると、

「バー自体が隠れ家のようなところなので、出す料理にも、ちょっとした隠し味をと思って、この名前にしたんだよ」

 と教えてくれた。

「なかなかいい名前ですね」

「ええ、ここに店を開いた時、アルバイトに来てくれることになっていた女の子がつけてくれた名前なんですよ」

「その人は今もいるんですか?」

「いえ、二年ほどで辞めました。もう三年くらい前のことですね」

「いくつくらいの人だったんですか?」

「三十歳くらいだったかな? 名前は鈴子ちゃんといったっけ。不思議な女の子で、ライラックの花が気になると言っていたので、『じゃあ、お店の名前はライラックにしよう』というと、『いえ、それはやめてください』って言われたんです。どうしてなのか聞こうと思ったんですが、睨まれているような気がしたので、それ以上何も聞きませんでした。今から思えば、確かに彼女は、ライラックの花が気になっているとは言っていましたが、好きだとは言っていませんでしたからね。何か彼女にとって曰くがあるのかも知れません」

「誰にでも、人に知られたくないと思うようなこと、一つや二つ、あるものなんでしょうね」

 というと、マスターは考え込んだように、

「そうだね」

 と一言答えた。

「最近、アルバイトで入った女の子がいるって聞いたんだけど、僕はまだ会ったことないよね」

「あれ? そうだっけ? じゃあ、安藤さんが来る時に、ちょうど彼女が入っていただけなのかな? でも、今日は彼女出勤日なので、会えると思うよ」

 ずっと会えなかったというのも、偶然ではないとすれば、今日、樹海に行ったことで、最初はここに寄るつもりはなかったはずだ。

 だから、彼女が出勤日だったのかも知れない。客とスタッフの相性というのは、本当にあるのだろうか?

 しばらく世間話をしていると、その女性が現れた。

「おはようございます」

 入ってきた女の子は、どこにでもいるような普通の女の子で、化粧も派手ではないので、薄暗い部屋では、地味にしか見えなかった。顔色が悪そうに見えたのは、あくまでも店内が暗いだけだったのだろうか。それとも、まだ来たばかりで、接客モードに入っていなかっただけなのか、敦は見てみぬふりをしていた。

「輝子ちゃん。こちら常連の敦君。よろしくね」

 とマスターが紹介すると、

「初めまして、照子です。安藤さんからお聞きしていますよ」

「安藤さんから? どんな話を聞いているのかな? 少し怖い気もしますよ」

 というと、

「あまり詳しいことは聞いていないんですが、同じようにここの常連になっている部下がいるってお話ですね」

「そうなんですね。僕もまだ安藤さんとは付き合いが長いわけではないので、お互いに分からないことが多いんですよ。ただ、似たところがあるんじゃないかなって思ってはいます」

「私は、ここに入った時、結構安藤さんが来てくれていることが多かったので、いろいろお話しましたけど、安藤さんという人は、一見ちゃらんぽらんに見えて、先を見つめてお話する人なんじゃないかなって思っています」

「それは僕も感じています。唐突に話が変わって、思い立ったように話しだすことがあるんですけど、話の内容に引き込まれてしまって、最初に何を話していたのか、分からなくなることがあるんですよ。その時はお互いに話しに集中しているので分からないんですが、冷静になって考えると、安藤さんのペースに引き込まれていたんじゃないかって思うことが多いです」

「安藤さんという人とお話していると、私も身構えてしまって、なるべく引き込まれないようにしようと思ってはいるんですけどね」

 と言って、輝子は笑った。

「はい、安藤さんは最近、この街に入ってこられたんですが、どうやら、樹海に興味を持っているようなんですよ。出版会社の人なら、一度は興味を持っても不思議はないんですが、樹海と言っても、別に何かあるわけではないですよね。確かにこの間、自殺した人が発見されたということですが、『樹海ならでは』という死体ではなかったので、興味をそそるに値するものではないように思うんです」

 というと、

「どんな死体だったんですか?」

「首吊りだったんです。樹海での自殺というと、富士の樹海にあるような、『一度入ったら出られない』であったり、『方位磁石が狂ってしまう』という話から、死体が発見されにくい場所を狙って自殺するというのがイメージなんですが、これは違うでしょう? 出版社の人が注目するような記事ではないように思えるのは、僕だけかな?」

「そういうことであれば、私も同じように思います。でも、富士の樹海と言っても、言われているほど、大げさなものではないという話ですよ」

「僕もその話は聞いています。今はちゃんと抜けられるような工夫が凝らされていたり、死体も、見つからないところにあるわけではなく、道になっているところから少しだけ入ったところにあったりするらしいんですよね。方位磁石も通じないわけではないらしいし、かなり誇張されて伝わっていることが多いらしいですね。でも、輝子さんは詳しいですね」

 輝子が思ったより詳しそうなので、少し気になった。

「ええ、安藤さんからいろいろ教えてもらいました」

「なるほど」

 敦の想像した通りだった。

 しかも、この想像は敦にとって、あまりありがたい想像ではない。自分の知らないところで、安藤さんと輝子が親密になっていくことに嫉妬していたのだ。

 何しろ、自分は今日初めて輝子と会ったのに、安藤さんは、ほぼここで毎回会っているのだ。輝子に対して自分がどう考えているかという以前に、安藤さんとの仲を嫉妬しているという心境は、自分の中にある嫉妬深い本性の表れなのか、それとも、人に先を越されたことへの焦りなのか、それとも、輝子と自分が会えなかったということは、何を意味しているのか、その中に暗示が含まれているように思うからだった。

「安藤さんとは、どんなお話をしているんですか?」

 聞いてはいけないことなのだろうが、聞かずにはいられなかった。

 ルール違反というよりも、聞いてしまうことで、輝子に、

――何て心の小さな男なんだ――

 と思われる方がよほど気になってしまう。

 しかし、輝子はそんな考えなどまったくないのか、臆することなく話し始めた。

「安藤さんは、仲良くなるまでは、雰囲気として、大きく手を広げて、目の前の相手を抱きしめてしまおうとするようなオーラを発するんです。オーラだけなら、こちらは身構えてしまいますよね。だから、それを補うかのようにおどけた話をし始めるんです。ちゃらんぽらんに見えるのはそのせいなんでしょうが、そこで安藤さんを見切るような人であれば、あの人の性格から考えると、『この人はしょせん、そこまでの人なんだ』と、冷静に分析していると思うんですよね。そこで安藤さんを見切るような相手ではなければ、初めて自分を出してくれる。その時が安藤さんとの初対面のようなものなんですよ」

「なるほど」

 敦はそれ以上、何も言えなかった。

 確かに鋭い観察眼だ。そこまで敦は考えたことはなかった。ただ、おどけた性格には何かあるとは思っていたので、見切るようなことはなく、逆に彼に興味を持った。まるで子供のような雰囲気を、正面から見ていいものなのかどうか、それが最初の難関に思えたが、一緒にいる時は、そんなことを感じさせない雰囲気があった。それは、安藤さんがこちらを正面から見つめ、その視線を決して切ろうとはしないからだった。

「安藤さんという人は、魅力的な人ですが、私には男性として見る気が今はしていません。将来的には分かりませんが、安藤さんも今まで、本当に好きになった女性はいないと言っていました」

「その話は僕も聞いたことがありました。でも、酒の上でのことだったので、どこまで信じていいのかと思ったのが本音で、話しながら、適当に流していたような気がします」

「それでいいと思いますよ。安藤さんは人に対して根に持つことはないと思います。最初に見切ることはあっても、一度信じた相手を簡単に信じなくなることは決してないと思います」

「どうして、そう言い切れるんですか?」

 輝子の話を聞いていて、言葉だけだと、かなり自信をもって話しているように思えたが、会話として聞いていると、そこまで自信があるように思えない。だから、どうして言い切れるのか、聞いてみたくなったのだ。

 すると、輝子は少し黙り込んで俯いていたが、意を決したかのように頭を上げると、

「私の以前知っていた人に似ているんですよ」

「その人は、どんな人なんですか?」

「私が、高校時代に好きだった人です」

「好きになった人がいたんですね。お付き合いしていたんですか?」

「いいえ、私の勝手な片想いの人です。なぜなら禁断の恋になるからですね」

「先生だったんですか?」

 敦子は軽くうなずき、

「ええ、そうなんです。なるべく悟られないようにしていたんですが、先生には分かっていたんだと思います。なるべく恋愛感情を私は表に出さないようにしながら、それでも一緒にいたいという思いから、よく先生と二人きりになることがありました。ひょっとすると、まわりの人は皆分かっていたのだと思いますが、一緒にいるのは学校の中だけのことだったので、大きな問題にはなりませんでした」

「先生といろいろなお話をして、そう感じたんですね」

「ええ、そうです。立派な先生でした」

 また悲しそうな顔をした。

「その先生とは、高校を卒業してから会われたんですか?」

「いいえ、会っていません。私が卒業してから半年もしないうちに、先生は自殺したんです」

「えっ……」

 敦はその話を聞いて、そこまで言わせてしまったことに申し訳ないという気持ちと、自殺というキーワードが最近の自分の感情を敏感にさせていることへの再認識とで、鳥肌が立ってしまったような気がしていた。

 敦は、その先生と面識があるわけではもちろんない。しかし、輝子が話しているのを聞いていると、その先生がどんな人なのか分かってきたような気がした。

 最初は安藤さんと重ねてみていたのだが、

――微妙に違う――

 と思うようになると、決して安藤さんとその先生を重ねてはいけないと思うようになった。

 そう思うと、輝子の考えていることが少しずつ分かってくるような気がして、そうなると、その先生がどんな人なのか、おぼろげに見えてきた。

 顔まで想像できたのだ。

 今までにも、他の人の話をする相手の話を聞いて、その人がどんな人なのか想像することはあったが、まさか顔まで想像できるようなことはさすがになかった。

 しかも、思い浮かんだ顔には、自信があった。

 誰かに似ているのであれば、話を聞いて、自分のまわりに今までにいた似たような性格の人の顔が思い浮かぶというのが普通だと思うが、そういうわけではなかった。

 まったく自分のまわりにいたことのないはずの顔なのに、想像できるというのは、一度も会ったことがないというわけではないだろう。知り合いというほどではなくとも、何か印象に残る相手だったから思い浮かべることができたのかも知れない。

 敦が、誰かの話を聞いて人の顔を思い浮かべることができるようになっていくとすれば、そのきっかけはこの時だったと思うに違いない。

 その日は、その後も話をしたのだが、ほとんど覚えていない。そのあたりから酔いが回ってきて、ほぼ記憶が途切れる領域に入ってきていたのだ。敦は酔いがまわるのは遅いのだが、回ってくると、後は早い。

「そろそろペースを緩めよう」

 と感じた時には時すでに遅し、まわりから見ると、かなり危ない状態になっているようだ。

 輝子はそんな敦の状況が分からなかったので、制することができなかったこともあって、気が付けば、ソファーで寝ていた。その日は、他に客は誰もいなかったので、敦の貸し切りだった。

 敦が来る時は、今までにもほとんど他に客がいたという記憶はない。マスターと二人の時は、適当に話をして自分で酔いのまわりも分かっているので、ここまで酔いつぶれることはなかった。

――そんなに楽しいお酒だったのか?

 と、意識が戻ってきている間に考えたが、そんなこともなかった。

 意識が戻ってくると、ソファーに横になっていたのに気づいたが、これは誰かに抱えられてここに来たのではなく、自分から動いてここに来たのだった。意識が戻りかけているのをマスターも輝子も分かっているはずなのに、別に話しかけてこない。きっと完全に意識が戻ったところで、敦の方から話しかけるのを待っているのだろう。敦としても、その方が願ったり叶ったりだった。

「酔っぱらってしまったようだ」

 ある程度意識が戻ってきた敦が、誰に言うというわけでもなく呟いた。

「気持ちのいい酔いですか?」

 最初に聞いてきたのは、マスターだった。

「うん、気持ちのいい酔いだよ」

 と答えたが、もし聞いてきたのが輝子だったら、どう答えただろう?

 きっと違う答えだったに違いない。

「そうだね。でも、ちょっときついかな?」

 と言って苦笑いしていたかも知れない。

 それは、別に気持ちのいい酔いを否定しているわけではなく、輝子に対しては、一歩仲が進んだということを自分に納得させるための自分への言い訳のように思えた。

 輝子の方を見ると、彼女は先にマスターが聞いてくれたので自分の出番はないと思ったのか、テーブルを拭いていた。しかし、敦が、

「気持ちのいい酔いだよ」

 と言った時、ニッコリ笑ったような気がしたのを、敦は見逃さなかった。

 最初から答えた内容に輝子がどんな反応をするのかだけが、気になっていたからだ。

 その日は、考えてみれば、いろいろあった一日だった。

 まだ終わったわけではないが、時計を見ると、もうすぐ一日が終わる時間が近づいていた。

――どれだけ僕はここで眠っていたのだろう?

 結構深い眠りだったように思えたので、二時間近くは眠っていたのかも知れない。

 二人での話が今から思えばあっという間だったように思うのは、考えてはいけないことだが、

――話をしたこと自体が夢だったのではないか――

 と感じたからだった。

 明らかに夢を見たと分かる時と、夢か現実か分からないという時ではまったく心境が違っている。明らかに夢だと思う時は、夢と現実の境目が分かるほど、意識はしっかりしているが、夢か現実か分からない時というのは、色も匂いも時間の感覚も、まったく分かっていない時なのかも知れない。

 その日、敦は自分でも分からないほど酔っていたようだ。いつ家に帰ってきたのか自分でも分からないが、目が覚めてみると朝だった。

「う~ん、呑みすぎたかな?」

 と、布団からなかなか出られない自分を感じた。自分で感じているよりも寒さを感じる。寒さというよりも、震えが止まらない感覚だ。

――汗を掻いたのかな?

 身体に服がまとわりついている。

「あれ?」

 思わず声が出てしまったが、どうやら、着替えずに眠ってしまっていたらしい。

 しかし、上着はちゃんとハンガーに架けてある。酔っぱらっていながらもハンガーを使うという意識はあったのだろう。やはり、本能というのは、意識が朦朧としている時ほど発揮されるもののようだ。

 カーテンが微妙に開いていて、その隙間から日差しが差し込んでくる。すでに夜は明けているようだ。

 時計を見ると、午前七時十五分だった。そろそろ起きないと、仕事に間に合わない。何とか眠い目をこすりながら意識を戻そうとするが、そう簡単には戻ってくれなかった。

 しかし、不思議なのは、身体が重たいという意識はあったが、酔いが残っているような感じではない。最初に、

――目覚めの悪さは酔いのためだ――

 と思ったが、どうもそうではないようだ。

 身体の重たさは酔いによるものではなく、他に原因がある。汗が噴き出しているのも、それが原因ではないだろうか。思わず、

――熱があるのではないか?

 と感じた。

 まずは体温計を胸に挟んで、熱を測ってみた。

 しばらくすると、ピピッという音がして、胸から体温計を取り出す。

「三十六度一分、平熱だ」

 熱がないと分かると、現金なもので、身体が急に軽くなった気がした。遅刻しないようにするには、さほど時間に余裕はない。何とか身体を起こして洗面所に向かう。まずは顔を洗いたかった。

 洗面所に向かうと、

「あれ? こんなに洗面台が近かったかな?」

 と思ったが、気のせいだと思い、まずは、水で顔をジャブジャブ洗った。

 タオルを取って、顔を拭きながら、まだ眠気の残った顔なのかどうか確かめるために、洗面台の前の鏡を見た。

「えっ? 誰だ、あんた」

 思わず鏡の中の人物に話しかけた。そこに写っているのは、今までに見たこともない人で、それが鏡であるということを、すっかり忘れてしまうほどのショックを受けたに違いない。

 確かに自分の顔というのは、鏡を見なければ確認できないので、意外と自分の顔を普段意識していないものだ。鏡を見て、

――こんな顔だったんだな――

 と、再確認すると言っても過言ではない。

 すぐに自分の顔でないことに気づかなかったのは仕方がないとしても、目の前にあるのが鏡だということすら忘れてしまったというのはどういうことだろう。それだけ自分ではない顔がそこにあったのは、鏡ではないという一種の辻褄合わせをしたのかも知れない。

 ただその意識は無意識だったのだろう。本能によるものだというのが、一番考えられることだった。

 洗面台の鏡に写った「自分ではない自分」を見ながら、いろいろなことが思い浮かんだ。

「もし、このまま表に出ていったら、ここの住民ではない人が出てきたということで怪しまれたりしないだろうか?」

 あるいは、

「このまま会社に行っても、誰も自分だとは信じてくれないだろうから、こちらも警察に通報されるだろう。僕は何と言って言い訳をすればいいんだ?」

 しょせんは、目の前のこと、つまりは、これから起こりそうなことを時系列で考えることしかできない。

 根本的な解決など、元々どうしてこんなことになったのかという理由が分からないので、考えようもない。考えることができるとすれば、予知能力を持った人間でもない限りありえないだろう。

 敦は、予知能力など持ちたいとは思わない。この期に及んで予知能力を持ったとしても、悲惨な結末が、先に分かるというだけで、まったく何の役にも立たない超能力である。

 敦は、家にこのままいても仕方がないと思った。何とか表に出てしまえば、とりあえず、自分が誰であっても、関係ない。ただ、一度表に出てしまうと、もう一度家に帰ってくるというのには、リスクが伴うことを、考える余裕もなかった。

 とりあえず、スーツを羽織ってみた。

「あれ? 大きいとは思わないな」

 先ほどの洗面台を見た時に感じた身体の小ささから感じると、もう少しダブダブでも不思議はないと思えたが、そうでもなかった。

 玄関で靴を履いてみたが、靴のサイズも変わりはない。歩いていても、最初に感じたっ背の低さは感じることはなかった。

 一気に扉を開けて、表に出た。扉を閉めながらカギを差しておいたので、後は回すだけ。手間取ることもなく、スムーズに済んだ。

 廊下を歩いて階段までは少し距離がある。しかし、部屋を出てきてしまえば、後は誰に遭おうと気にすることはない。

 どう思ってゆっくりと、階段に向かって歩いていると、ふいに隣の奥さんが表に出てきた。

「おはようございます。高橋さん」

 奥さんは、まったく戸惑うこともなく、いつもの調子で敦に挨拶してくれた。

 敦の方が戸惑ってしまって、

「あっ、これは奥さん、おはようございます」

 と、戸惑いが明らかに分かる素振りを示してしまった。

 きょとんとしている奥さんを横目に、苦笑いをした敦は、何が起こっているのか分からないまま、その場を通り越した。

――少なくとも、奥さんには、僕が他の人には見えていないようだ――

 となると、先ほどの鏡に写った自分の顔が幻ということになるのだろうか?

――いや、マジマジと鏡を見つめたはずなのに――

 と、あくまでも自分の目を疑うことができなかった。

 しかし、奥さんが普通に自分の顔を見れる方が、どう考えてもまともな考えだ。どちらを取っても納得のいかないことではあるが、この場合は、他の人には自分の顔が他人に見えない方がいいに決まっている。

――でも、奥さんだけなのかも知れない。他の人がどうなのか、気になるところだ――

 と感じた。

 それを確かめるには、会社に行くのが一番だ。

 キチンと出社する態勢で表に出てきた。頭の中がパニくっていたわりには、思ったよりも冷静だったのだろう。

 電車に乗って会社に向かういつもの通勤中、不安は払しょくされていくように感じたが、ふとした時に我に返り、朝の鏡に写った誰とも知れない顔が思い出されて、額から汗が滲んでしまうのが感じられた。

 会社に向かうと、その間、誰とも会わなかった。いつもであれば、会社の人間の誰かと顔を合わせるのだが、今日に限って誰とも会わなかったというのは、気持ち悪い限りだった。

 小さな会社ではあるが、会社自体は、大きなビルの中にある。同じ会社ではなくとも、顔見知りの人は何人かいて、廊下ですれ違った時など、挨拶を交わすくらいの人は少なくなかった。

「おはようございます」

 その日も普通にそう言って挨拶をしてくれる女の子に対して、

「おはよう」

 というと、別に訝しそうな表情をすることはなかった。

 知らない顔の人であれば、いきなり「おはよう」と言われたのでは、馴れ馴れしいと思うからである。女性であっても、男性であっても、年下であればいつも、「おはよう」という。そんな敦の気持ちを分かっているのは、同じ会社の人だけではないと敦は思っていた。

 そのまま事務所に向かうことなく、敦はトイレに向かった。洗面台でもう一度自分の顔を見たかったからだ。会社に入ってから、数人の人に出会ったが、誰も疑うことなく、迎えてくれたが、ただ他人に遭ったから挨拶をしただけなのかも知れない。家を出る時、

「高橋さん」

 と確かにいってくれたのを信じないわけではないが、万に一つということもあるからだ。

 洗面台に恐る恐る向かうと、そこに写っている顔は、やはり知らない顔だった。

「どういうことなんだ?」

 まわりの人は自分のことを高橋敦に見えるのに、自分だけがまったく知らない人に見えてしまう。それは自分の目がおかしいのか、それとも、鏡を通すから違う人に見えてしまうのかのどちらかでしかない。信じられない現象が起こっているのだから、そのどちらも信じがたいことであるのだろうが、どちらが正しいとしても、信じるしかないのだろう。

 その日は、何となく気持ち悪い思いをしながら、何とか仕事をこなした。さすがにどこにも立ち寄る気もなく帰宅したが、帰宅するとすぐに睡魔が襲ってきて、気が付けば眠っていた。

――このまま目が覚めなければどうしよう――

 という思いが頭をよぎったが、それでも睡魔には勝てず、眠ってしまった。

 しかし、不思議なことに、眠ってしまったはずの自分の意識が、真っ暗な部屋で息を潜めるようにして佇んでいるのを感じた。

 眠っている自分が息をしているのかを確認している。

「もう、息が切れてしまったかな?」

 あまりにも静かなので、寝息が聞こえてもいいはずだった。それなのに寝息が聞こえてこないということは、息が途切れてしまっていると思った方が自然だった。

 佇んでいる自分の意識は、これが夢ではないことを自覚していた。

「苦しまずに死ねたのは、よかった」

 と感じると、そこに寝ているはずの敦の姿が見えなくなっていた。

――やっぱり、俺は敦じゃないんだ――

 と感じた。

 そういえば、敦なら、自分のことを「俺」とは言わないはずだ。こんなちょっとしたことから自分ではないと感じる勘の良さに普段の自分との違いを感じるなど、実に皮肉なことだった。

 真っ暗な部屋に差し込んでいた明かりも、すでに見えなくなっていて、完全に暗黒の世界が広がっていたのだ。


「大変です。今朝樹海の入り口のところで死体が見つかったそうです」

 と言って、血相を変えて入ってきたのは、安藤さんだった。

「どうしたんだ。その死体というのは、この間の首吊りのように、神社側にあったのかい?」

「ええ、そうです。自殺には変わりないようなのですが、今度は首吊りではなく、睡眠薬の服用だったようです」

 安藤が飛び込んできた部屋というのは、のぞみ出版の営業所長室だった。

「睡眠薬というのは、また地味なものだね。楽に死ねると思ったのかな?」

「確かに睡眠薬は、楽に死ねるように思えますが、服用量を間違えたりすると、却って苦しんだりするらしいですからね。万が一死にきれずに生き残ってしまうと、今度は後遺症が残ってしまったりで、生き地獄を見ることになるんじゃないですか」

「しかも、一度死を覚悟して死にきれなかった場合というのは、二度と死のうとは思わないようですね。そう何度も死ぬ勇気なんか持てるものではないと言いますからね」

 二人は、睡眠薬での自殺について、冷静に自論を戦わせていたが、所長が急に我に返ったかのように、

「ところで、大変というのは、何が大変なんだね?」

 と言われて、安藤もまた我に返った。

「実は、その死体というのが、うちの社員なんですよ」

「何だって?」

 一気に緊迫した空気が部屋の中に充満した。

 さっきまでの落ち着いた雰囲気はまるで二人とも、相手が別人だったのではないかと思えるほどだった。

「その死体というのは、高橋敦君なんです」

 それを聞くと、所長は身体の力が一気に抜けてきた気がした。

「安藤君は、彼が死を覚悟しているように見えたのかね?」

「まさか、そんな死を覚悟しているような素振り、あるわけないですよ。分かっていれば、私の方で何とかしようと思うはずだからですね」

 少し、沈黙が続いたが、先に落ち着きを取り戻したのが、安藤だった。

「とりあえず、警察からの報告を待ちましょう。もうすぐここにも警察が来て、いろいろ聞かれると思いますので、まずは驚かないようにということで、私の方から、事実だけをお伝えにまいりました」

「そうか、ありがとう。でも、死にたいと思ってもいない人が急に自殺したりするものなのかね?」

「それは分かりません。素振りに出さないだけで、実際には、ギリギリまで我慢していたのかも知れませんからね」

 今は何を言っても、空想でしかない。何しろ本人は、もうこの世にいないのだから……。

 しばらくしてから、警察がやってきた。初動捜査も終わり、ある程度自殺の現状の捜査で分かったこともあるのだろう。ここからの捜査は地道なものであり、動機などの解明へと背景の問題に関わっていくものだ。

 まずは、身近な人からの話を聞くことから始まった。彼の隣の席の女性から呼ばれた。

「高橋さんが亡くなったと聞いてビックリしています。自殺するようには見えませんでしたからね」

「それは、どうしてそう感じたんですか?」

「高橋さんは、今新しい企画を任されていて、本人はやりがいを持って仕事をしていたと思っていたからです。悩んでいるのであれば分かったと思いますからね。でも、それ以上深いことは私も分かりません。プライバシーに関しては少しうるさい人だったので、私たちも高橋さんのプライバシーには気を遣っていました」

「なるほど、分かりました」

「でも、確か高橋さんにはお母さんがいないと聞いたことがあったんですが、取材をしている時でも、母子関係になると、少し普段と違う高橋さんになることがありましたね」

「それはどういうことですか?」

「高橋さんは普段から冷静沈着なところがあると思っていたんですが、母子家庭の取材をした時、やたらと子供に同情的なところがあったんです。私たちは、子供を育てている母親に焦点を当てて、注目してもらえるような記事を書くべきだと思っていたんですが、高橋さんは、子供の目線からの記事になったので、どうしても、母親に対して少し恨めしい感情をあらわにしたような記事ができてしまったんですよ。編集長に書き直しを言い渡されたんですが、その時は、顔を真っ赤にして、何とか描き直したんですが、その日の呑み会では荒れに荒れて、ひどいものだったようだそうです」

「よほど、子供に思い入れがあったんでしょうね。母子家庭で育ったということで、子供に感情移入するというのは当然に思えますが、とても冷静沈着という言葉で言い表されるような人ではないですね」

「ええ、そうなんですよ。その日の呑み会でも、まるで小さな子供が駄々をこねているような酔い方で、課員全員で、何とか宥めたのを覚えています」

「そんなことがあったんですね。これは参考になりました、ありがとうございます」

 と言って、その女性の聴取を切り上げた。

 二人目も女の子だったのだが、彼女に対しては、今度はこちらからその話をぶつけてみることにした。最初は、ありきたりの質問に終始していたが、ある程度質問を終えたところで、一人の刑事が口を開いた。

「ところでね。高橋さんは、子供に対して異常なほどの感情を持っていると伺ったんですが、何か知りませんか?」

「そうですね。確かに子供に対して他の人と違う印象を持っていたようですね。何か、子供を憎んでいるように見えて、私は怖く感じたことが何度かあります」

 刑事二人は顔を見合わせて、お互いに訝しそうな表情になった。

「それはどのような時に感じたんですか?」

「あれは、取材である学校を訪問した時のことなんですが、その時の取材は、教育現場における教師の在り方のようなものだったんですが、子供にも取材をしたりしたんですよ。その時に、子供があまりにも言うことを聞かなかったので、高橋さんは切れかかって、もう少しで殴り掛かるくらいだったんですよ。私たちは必至で止めたんですが、その時に、

『お前たちのような子供がいるから、お母さんが苦労するんだ。母親への感謝なんか、お前たちにはないんだろう』って、悪口雑言ですよ。普段の優しい言葉遣いからは想像もできないような雰囲気に、目は完全に血走っていましたね。必死に止めていながら、目が血走ってるのを感じるのだから、相当だったんだと思います」

「でも、その言葉って、どこか違っていますよね」

「そうなんですよ。学校に取材に来て、先生をテーマにするために子供の意見を聞いていたのに、どうしてここで母親のことが話題になるのか、私たちもそうでしたが、怒られた子供たちも、何が起こったのか分からないという顔をしてましたよ。何で怒られなければいけないのかって思ったでしょうね」

 子供は怒られた時、きっと自分たちのふざけた態度を怒っているということに気づいていたのだろう。それなのに母親のことを言われたことで、何が起こったのか分からないという心境になったのも分かる気がする。そうでなければ、もう少し反発していてもいいと思うからだ。

 それにしても、母子家庭の話題を、母親を中心に記事にしようとすると、子供の方に意識が向いて、今度は学校に行っての取材で、先生を中心にしようと考えていて、取材に子供が少しふざけているのを見て、いきなり激怒し、何を思ったのか、話題を母親に向けた。まるで天邪鬼のようではないか。

 これだけの話を聞いていると、普段は冷静沈着だが、母子に関する話になると、過敏に反応し、発想が飛躍してしまうのか、怒りをあらわにするようだ。

 かと思えば、別の人に話を聞くと、

「高橋さんという人は、一つのことを気にすると、まわりが見えなくなるほど、集中してしまうことがあるんです」

 と言った。

「それは誰にでもあることではないですか?」

「それはそうなんですが、その集中の仕方が尋常ではなく、取材の案を上に上奏した時、時期尚早などの理由で反対されても、独自に調査していたりしていたんですよ。もちろん、一人で勝手に行動するので、目立たないようにしなければいけないし、仕事の時間では無理なので、時間外に取材をしたり、休みの日に図書館などに行って、一日中、資料をあさったりと、しているようなんです。ジャーナリストとしては見習いたいところだとは思うんですが、行き過ぎのようなところがあって、ついていけないという思いが正直なところですね」

 その人は、敦の二年後輩になる人だ。先輩として尊敬しているところもあったが、ついていけないと思う部分も結構あったようで、

「何を考えているか分からない」

 というのが、総合的な意見であった。

「ところで、最近の高橋さんは、何かに集中して一人で動いていたんですかね?」

「本人を見たわけではないので何とも言えませんが、課内のウワサとしては、樹海のことを気にしていたということなんですよ」

「樹海というと、この街にあるあの樹海ですか?」

「ええ、樹海と言っても、それほど大きくないので、地元の人しか知らないものなんですよ。観光には程遠いものなので、記事にはできないですよね。それに、今まで大きな事件が樹海であったわけではないですし、規模から言っても、樹海というほどのものではなく、通称は樹海と言っていますが本当は『大きな森』というところなんでしょうね」

「ええ、我々も、そう認識しています。でも、あそこでは最近自殺した人が見つかっているでしょう?」

「ええ、でも、あれは首吊り自殺であり、樹海でなくてもいいような死に方ですよね。そういう意味では、樹海の取材に値しないというのが、編集部の見解なんですよ」

「でも、高橋さんの考えは違ったんでしょうか?」

「そんなことはないと思いますよ。大体、最初にあの自殺を取材の価値はないと最初に言いだしたのは、高橋さんだったからですね」

「そうだったんですね」

「じゃあ、あの自殺死体が発見されてもされなくても、高橋さんは樹海に興味を持ったということなんですね」

「そうです」

 しかし、刑事の一人は考えていた。

――最初に首吊り自殺に興味がないと言い出したのは、自分が樹海に興味を持ったことに対してのカモフラージュのようなものではないだろうか――

 というものである。

 しかし、すぐに、

――考えすぎかもしれないな――

 とも感じた。

 もし、あれがそういうカモフラージュを計画できる人間なら、最初と二番目に聞いた子供に対しての思いを天邪鬼のように感情をあらわにしたのも、何かの計算になってしまう。常軌を逸したような態度に出ると、それだけ目立ってしまうのであって、そこまで目立つ男が、まわりに対して何の前触れもなく、ただ普通に自殺するというのは、どういうことになるのだろう。

 彼の部屋からも、自殺した場所からも、彼が研究していたという樹海の資料は発見されなかった。

「ところで、高橋さんは、取材の時に、メモを結構取る方でしたか?」

「それはもちろんですよ。特に彼の場合はメモ魔とも言われるほどメモを取って、さらに綺麗に清書するメモも別にありますからね。彼は自分の宝物だって言ってましたよ」

 一年先輩の記者の人に聞くと、そういう答えが返ってきた。

「どうも普通の自殺ではないような気がしますね」

 課員への聴取が一通り終わり、刑事二人きりになってから、一人の刑事が、呟くように言った。

「そうだな、自分が集中して調べていた樹海で自殺したというのも何を意味しているのかだよな」

「遺書は見られました?」

「ああ、実にありきたりの文章だったよ。課員の話を聞かなければ、普通の自殺で、形式的な聴取に終わると思っていたくらいだ」

「そうですね。でも、自殺には間違いないんでしょう?」

「外傷はないし、争ったあともない。睡眠薬を服用しているだけで、死に顔も安らかだったからな。ただ、話を聞いて思ったんだが、自殺をする動機がどこにあったのか、それが不思議なところだ」

「はい。自殺を考えているなら、もう少し身の回りの整理をしていてもよさそうなんだけど、そうでもない。それに睡眠薬というのも、彼は以前から不眠症に悩んでいて、医者から処方されたものだったらしい。もちろん、大量に飲みと、今回のようなことになるが、それまでは、医者の処方どおりにキチンと服用していたんだからね」

「間違って、大量に飲んでしまったというのは考えられませんか?」

「そんなまさか、痴呆症じゃあるあしし」

「でも、ずっと服用していた睡眠薬が何らかの副作用を起こして、意識が朦朧としてしまったことでの、大量の服用に繋がったとは考えられませんか?」

「確かにそれはあるかも知れないね。特に、彼の場合は、いきなりまわりの想像を絶するほど、急変することがあるという話じゃないか。それがひょっとすると、何かの薬の副作用とも言えなくもないかも知れないな」

「持って生まれた性格というのも拭えませんが、確かにそれは言えますね」

「彼が今までどんな病気を患って、どんな反応を起こしたのか、また薬に対しての反応に関しても調査する必要があるかも知れませんね」

「私には、高橋という男が、話を聞いていると二重人格のように聞こえるんですが、何となく、そんなことはないように思うんです。実際に話したことはもちろん、会ったこともない相手なので、何とも言えないんですがね」

「君の発想は、まんざら外れているようには思えない。でも、俺には、まだまだわからないことが多すぎる気がするんだ」

「話を聞いただけでは分からないところがあるということですね。でも、早くしないと、このままなら自殺で片づけられてしまいますよ」

「今までの俺なら、それでもいいと思ったのだろうが、どうも簡単に自殺で片づけていいのか、疑問ですね」

「まったくの同感です」

 自殺を試みる人は、身の回りの整理をしてから、死ぬものだというのが定説になっていたが、中に、急に思い立って自殺を試みる人もいる。若い方の刑事は、そのことを、

――あまり時間を掛けてしまうと、決心が鈍ってしまうからではないか――

 と考えていた。

 つまりは、突発的に思い立っての自殺の人はいないということだ。

 しかし、先輩刑事の方は、

――いきなり死にたくなって、勢いで死んでしまう人もいる――

 という思いだった。

 そこには、死を思い立つのは無意識であり、何かの力が働いているいうことを意味していて、若い刑事の考えている、「突発的に思い立っての自殺」というのは、本人の意思にあらずということである。

 逆に若い刑事の考えは、

――無意識に自殺なんかされてたまるものか――

 という思いだった。

 先輩刑事も本音はそうなのだが、今までいろいろな自殺を見てきて、本音とは違って、無意識の自殺を認めないわけにはいかないと思うようになったのは、自分がまだ新人の頃で、若い刑事が入ってくる前のある事件がきっかけだった。

 あれは、山奥の田舎町で起こった事件がきっかけだった。

 その街には河原にキャンプ場があり、その奥には、大きな森が広がっていた。森にはキャンプをしている人は入り込むことがないほど、巨木が生い茂っていて、入り込んでしまうと昼間でも真っ暗な状態なので、地元の人でも、慣れている人以外は入り込むことはなかった。

 キャンプ場の一番奥で大学生の男子三人がキャンプを張っていたが、その奥には森が広がっていたので、他のキャンプを張る人は、そこまで入り込むことはなかった。

 大学生の連中は、怖いもの知らずというか、別に森が迫ってきていても、気持ち悪いとは思っていなかった。むしろ、誰も近づかないので、夜中でも少々騒がしくしても、気にならなかったからだ。

 本当は、女性のグループも誘うつもりだったのだが、急遽女性グループのうちの一人がいけなくなったということで、人数が合わないということで、適当に理由をつけて丁重に誘いを断った。彼らもさすがに強く言えず、

「それなら仕方がないね」

 と言って、譲歩したが、心の中では悶々としたものを抱いたままのキャンプだった。

 それだけに、騒ぎたくなるのも当然で、男性だけということもあって、森の気持ち悪さなど、意識していなかった。

 キャンプの予定は三日間だったが、二日目の昼間のこと、三人が、沢で釣りをしていると、森の中から一人の女性が飛び出してきた。

 地元の女性で、年齢的にはすでに三十歳を超えていたが、田舎育ちということもあってか、あどけなさが残っていることと、彼らが寸前になって女性陣からキャンプをキャンセルされたことへの悶々とした気持ちもあって、理性は一瞬にして吹っ飛んだに違いない。

「きゃー」

 女性は叫び声を挙げたが、後ろの森が防音効果に役立ってしまったことで、下流の方でキャンプをしている人には聞こえなかった。声はこだましたが、そのせいで、音響は完全に半減してしまっていた。

 男たちは、その時その女がどうしてそこにいたのか、そして、どこの誰なのかなど、基本的なことも頭に浮かんで来ないほど、完全に目が血走っていた。

 一人として、その場の自分たちの行動に怖さを感じた者はいなかった。三人いて、皆が同じような顔をしているのだから、集団意識が生まれたのだろう。

 普通なら、隣の人の目が血走っていれば、少しは我に返ったりするものなのだろうが、彼らにそれはなかった。それだけ飢えていたのか、それとも、三人そろって本能に目覚めてしまい、理性などまったく消えてしまうような持って生まれた性格を持っていたのか、一旦タガが外れてしまうと、歯止めは利かなかった。

 一人が足を掴んで、森から引きずり出そうとする。もう一人が口を塞ぎ、一人が上着を引き裂いていく。

 まさしく、惨状が繰り広げられたわけだが、その間、見ているのは、森の木々だけだった。

 男たちは何度も何度も女に襲い掛かった。自分たちの勝手な欲求を満たすだけ満たして、そのまま女を置き去りにしてその場を去った。

 キャンプは早々に片づけられて、警察が行った時には、すっかり何もかもなくなっていた。

 女は、しばらく放心状態だったが、男たちがあまりにも急に慌ただしくキャンプを畳んで逃げるように去って行ったのを見た他のキャンプをしていた人が不審に思って河原の奥まで来ると、河原と森の間に無惨な状況で放置されていた女性を見つけた。

 さっそく、警察と救急車が呼ばれて、彼女は入院を余儀なくされた。

 彼女はショックから記憶を失っていたようだが、暴行を受けたのは間違いなかった。その様子は見ていなくても、想像できてしまう刑事には、それだけ忌々しい事件を起こした連中に、怒りが燃え上がっていたのだ。

 しかし、記憶を失っている彼女から証言が取れるはずもないし、実際の犯人もその場から忽然と消え去っている。キャンプは許可制ではないので、誰がキャンプをしていたのかなど、分かるわけもなかった。

 彼女の身元はすぐに判明した。

 森の向こうの小さな街に住んでいる女性がいなくなったと、捜索願いが出ていた。年齢的にも風体も似通っていたので、さっそく身内の人間には来てもらい、刑事の方で、事情を説明した。

「むごい。むごすぎる」

 そう言って泣き崩れる彼女の両親を見ていて、本当にやりきれない気持ちになっていた刑事は、それ以上何も口にすることはできなかった。

「警察の手で、何としても犯人を逮捕します」

 と言い切れるほど、犯人に繋がるものがまったくと言ってなかったからだ。

 彼女には、子供が一人いた。小学生の男の子で、刑事は直接その男の子と会ったことはなかったが、

――顔を合わせるのが辛かったので、会わなくて正解だった――

 と思っている。

 彼女がどうして森の中に入り、そのまま河原の方に出てきたのか、記憶を失ってしまった彼女だったので、分からなかった。

 とにかく、こんなに悲惨な事件であるにも関わらず、あまりにも分からないことが多すぎた。

 だが、

――彼女は記憶を失ってよかったのではないか?

 と思った。

 もし、記憶を失わず、暴行されたままのトラウマを抱えていたら、一生苦しまなければいけないことになる。何かあった時、絶対に思い出してしまうち違いない。これからの人生、トラウマを抱えたまま生きるか、記憶を失ってしまってはいるが、トラウマを抱えずに生きられる人生がいいのか、正直分からなかった。記憶を失っても、ここからが人生の出発点だと思い、生まれ変わったつもりになれば、トラウマを抱えたまま生きるよりもいいだろうと思ったのだ。

 実際に、彼女は身体が回復してくるのと並行して、明るくなっていき、それまで暗くて分からなかったが、田舎娘独特のあどけなさが戻ってくると、笑顔も見られるようになった。

「これなら、彼女も立ち直って生きていけるだろう」

 と考えた。

 悲惨な事件の中で、唯一の「荒れ地に咲いた一輪の可憐な花」に思えてならなかったのだ。

 子供も、最初は変わり果てた母親を見て、近寄りがたいと思っていたが、あどけなさが戻ってくると、

「母ちゃん」

 と言って、なついているのを見ると、事件が起こる前の穏やかな生活が見て取れるようだった。

 それだけに、犯人を見つけることのできない自分たちに憤りを感じ、悔しい思いが湧き上がった。それはきっと自分たちだけではなく、彼女の両親も同じあったに違いない。

 事件の捜査本部は、三か月もすればなくなっていた。もちろん、まったく捜査しないわけではなかったが、何も発見されなければ捜査のしようもなく、このままでは迷宮入りは免れなかった。

 しかし、事件はそれから半年もしないうちに、急転直下の結果を迎えた。まったく想像もしていなかった結末に、誰もが信じられなかったに違いない。

 あれは、事件のあった街から三十キロくらい離れた都市にある大学生が起こした事件だった。

 ある廃工場があったのだが、実は彼らはそこを根城にして、少し危ない活動をしていた。三人のうちの一人がチンピラのような感じで、地元のやくざと繋がっていた。

 覚醒剤の売買に関わっていたのだが、自分もやっていて、もちろん、仲間の二人も引き込んでいた。

 事件が起こる少し前から、覚せい剤を使っての暴行も平気で行うようになっていて、彼らの暴走はとどまるところを知らなかった。

 ただ、河原の事件の時は、まだ覚醒剤に手を出しているわけではなかった。その証拠に、暴行された女性は注射されていたわけではなかったからだ。

 しかし、この時の暴行が、彼らの暴走のきっかけになったことは確かだった。戻ってきてからの彼らは、恐怖感に襲われていた。

 その場の雰囲気で女を襲ってしまい、急いでキャンプを畳んで戻ってきたのだ。あれからどうなったのか、まったく知らない。恐怖に駆られるのも当然のことだろう。

「おい、どうしよう」

 と一人が言い始めると。元々その場の雰囲気に流されただけの三人だったので、それぞれに気を張っていても、一人が弱気になると、全員に伝染する。

「どうしようっていっても、やっちまったことはどうしようもないじゃないか」

 大変な事件を平気な顔でやったくせに、本当は皆臆病者だった。

 そんな中でも自称「リーダー」だと思っているやつは、何とかしないといけないと思った。

 そこまではいいのだが、しょせんサル知恵しか浮かんでこない。浮かんできたのが最悪の考えだった。

 最近仲良くなった人に、二人には言わずに、相談してしまったのだ。それが組の下っ端のやつで、彼にとっては、この連中を利用しない手はないと思った。運び屋などになる連中を探していたからだ。やつらはそんな彼にまんまと引っかかってしまった。

 臆病者に覚せい剤を渡すと、当然現実逃避に掛かるのは当然のこと、彼らはすぐに中毒になった。

 そして、元々が猜疑心の塊のような連中だったのだろう。次第にいつもつるんでいる後の二人が信じられなくなってくる。それは後の二人も同じことで、その感情を覚醒剤が、文字通り「覚醒」させたのだ。

――誰かが警察に自首でもしたら、大変なことになる。あいつらは、気が弱いから、自首しかねない――

 と、自分のことを棚に上げて、そんな猜疑心に駆られてくるのだった。

「俺たち、これからどうなるんだろうな?」

 三人の中で一番気が弱そうな男が一人、口を開いた。

 残りの二人も、いや、口を開いた男も、

――三人のうちの誰かが、そのことを口にするのではないか?

 ということを危惧していた。

 一番気が弱いその男は、開けてはいけない「パンドラの匣」を開けてしまったのだ。

「どうなるって、このまま隠し通すしかないだろう」

 やってしまったその時は、皆が皆気が動転していたので、

「よく、あの場面が収まったな」

 と思うほど、一触即発だった。

 しかし、今は少し落ち着いているので、冷静な判断ができるはずだった。捜査の手が伸びてきていないので、本来なら、ここで騒ぎ立てる必要などないのに、動いてしまうと、せっかくの膠着状態が、動いてしまう。

 彼らにとっていい方向に向かうはずもない。動けば動くほど、彼らの気持ちは猜疑心が強くなる。しかし、猜疑心の強い人間ほど、じっとしていると不安に駆られるものだ。

 三人のうちの一人でも違っていれば、少しは救いだったのだろうが、三人が三人とも同じような性格だったので、話し合っても、結論が出るわけでもなく、一人で考えていても同じことにしかならない。

 それでも三人で話をしている方がいい考えが浮かぶはずだと思っていた三人は、三人で考えていても先に進まないことへの憤りから、動かなくてもいいのに、動いてしまう。

 お互いに動くものだから、相手がその場所にいるはずだと思っているところにじっとしていない。その思いが猜疑心をさらに強める。相手が離れていくのをどうしても避けなければいけないと皆が思うと、相手を拘束しようとして、三すくみの状態が生まれてしまう。

 そうなると、収拾はつかない。

 自分が気になっているやつしか見えていない。三人いるのだから、あと二人を気にしなければいけないのに、怪しいと思い込んでしまったやつしか、見えていない。そう思うと、今までそこにいたはずの相手が目の前から消えてしまったことで、衝動的に自分の後ろが気になってしまう。すると、後ろに立って、自分を殺そうと付け狙っている男が、今にも斧を振り下ろそうとしているのに気づくと、その場で目が覚めてしまった。

「夢だったんだ」

 ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、そんな夢を見た時点で、猜疑心はハッキリと形になって現れたことを知った。

 もう現実の世界でも、自分が怪しいと思っているやつに殺されるという意識が離れなくなる。その男ばかり気にして、

「殺される前に、殺すしかない」

 と思うと、隙を見つけて、殺そうという思いだけが支配するようになる。

 しかし、実際に自分を狙っているのは、もう一人の男だった。そのため、後ろに立たれても、その気配を感じない。自分が気になっている男しか、気配を感じようとしないからだ。

 それだけ、恐怖に駆られているのだ。

 相手を殺す前に、自分が殺される。

 その事実を知った時は、時すでに遅い。しかし、執念で自分の狙った相手も殺してしまう。

 三人が三人とも、猜疑心がもとで同じ現象に陥っていた。三人が三人を三すくみで殺し合う。

 三人の死体が廃工場から発見された時、

「どうやら、仲間割れから殺し合ったんだな」

 と、初動捜査の刑事は呟いた。

 そして、三人とも覚醒剤が身体から検出されたことで、

「お互いに薬の効果で、幻覚を見たのか、殺し合うことになった」

 という結論を得た。

 こうなると、被疑者死亡で、書類送検することになったが、結局、なぜ彼らがこんなことになったのか、本当の原因について警察は深く探ろうとはしなかった。

 したがって、犯人が死んでしまったことで、あの時の暴行事件も、同時に本当の迷宮入りが確定してしまった。もし、このことを知っている人がいるとすれば、

「神も仏もない」

 と思うことだろう。

 だが、三人には確かに、「死」という最悪の結末が訪れたことで、天誅が下ったと言えなくもない。ただ、この時の三人の死が原因で、死ななくてもいいと思われた人が、突然死んでしまうことになるのだ。

「突然、死にたくなった」

 この思いは、殺されても報われることのなかった女性のやりきれない強い気持ちが、三人の死という女性にとっても最悪のシナリオに、不思議な力を与えたのかも知れない。

 本来なら誰も入り込んではいけない領域だったはずの樹海に、その思いは共鳴し、死にたいと思っていない人を巻き込んでしまうような、邪悪な思いが渦巻くようになってしまったのだ。

 迷宮入りとなったせいで、女性が襲われた事件と、廃工場での男たちの死はまったくの無関係となると思われた。

 しかし、廃工場で死体が発見された数日後に、今度はその廃工場の近くにある公園で、暴行されて記憶を失った母親が自殺しているのが見つかった。

「なぜだ? 事件から半年も経っているのに、何をいまさら自殺する必要があるというのだ?」

 自殺に対して遺書があり、その内容を見ると、

「恥辱に耐えられない」

 と書かれていた。

 彼女は記憶を失い、自殺など思いつくほどの知恵もないだろうと思われていただけに、最初は警察もよく分からないという見解だったが、

「記憶を取り戻したんじゃないか?」

 なるほど、記憶が戻ったのであれば、自分が受けた恥辱に苛まれ、自殺を思い立っても無理もないというものだ。この半年間、記憶のない時間が続いていたので、今記憶が戻ったのだとすれば、彼女にとって、あの忌まわしい記憶は、

「昨日のこと」

 ということになるのだ。

 警察の間では、そう思うことで、納得する人が多かったが、先輩刑事の方は、どうにも納得がいかなかった。

「先輩、何か腑に落ちないようですね」

「ああ」

 若手刑事からそう言われて、訝しそうな表情になっていた。

「何を考えているんですか?」

「俺には二つの理由から、この自殺を普通には納得できないんだ」

「どういうことですか?」

「まず一つは、この人には子供がいるんだろう? しかもお父さんがいなくて、自分で育てている子供だ」

「ええ」

「そんな子供を一人残して、簡単に自殺をしようと思うものなのか?」

「ええ、それは僕も考えましたけど、記憶を失っている期間が半年間あって、急に思い出したことで、忌まわしい思いが一番に来てしまった。それにより、記憶が戻ったとしても、意識の中は異常な状態のままだったら、突発的に自殺を思い立っても、無理もないんじゃないですか?」

「確かにその通りで、俺もそう思ったんだが、それにしては遺書まで残しているんだぞ。突発的だと言えるのか?」

「そうですね、遺書に関しては納得できないところがありますね。じゃあ、もう一つはなんですか?」

「自殺した場所だよ。どうしてわざわざ自宅から離れたあの場所を選んだのかと思ってね。確かに自殺する場所を選ぶのは、なるべく家から遠いところで死にたいと思ったとしても無理もないとは思うけど、あの奥さんと自殺した場所に何か関連性は見つかったのかい?」

「いいえ、何も見つかっていません」

「そうだろう。以前住んでいたとか、知り合いや親せきがいるわけでもない。あの場所にどんな意味があるのかというのを考えると、どうにも気になるんだよ」

「そうですね。でも、さっきからの先輩の表情は少し変ですよ。確かにやりきれない事件の結末だけど、先輩には、何か他に考えていることがあるような気がしているのは、気のせいでしょうか?」

「気のせいではないさ。俺は、ここの管轄の事件を少し探してみたんだ。すると数日前に、この近くの廃工場で、三人の男たちが、お互いを殺し合ったというこちらも不思議な事件があったんだ」

「その事件と奥さんの自殺が何か結びついていると?」

「ああ、そうだ。そして、俺はそのことを考えていると、奥さんが本当に自殺しようと思って自殺したのかどうか、そのあたりも気になってきた」

「でも、先輩はさっき、遺書があったことを指摘したではないですか。遺書があったんだから、自殺に疑問を持つというのは、矛盾していませんか?」

「そうだな。矛盾しているかも知れない。しかし、この事件は矛盾が多すぎるような気がする。不思議なことや理解不能なことは、ことごとく、この事件の矛盾を引っ張り出しているように思えてならないんだ」

 どんなにここで話をしても、すでに奥さんの事件は、「自殺」で片づけられていて、暴行事件の方も捜査本部が閉鎖されたこともあって、廃工場で死んだ三人が関係しているという意見は、机上の空論でしかなかった。

 さらに現実的に考えにくいことも多いので、誰も信じてはくれないだろう。実際に暴行事件と自殺に関わっている二人でも、決定的な矛盾を突き崩すことはできない。それに廃工場での事件は完全に管轄外なのだ。よほどこの二つを結びつける証拠でも見つからないと何もできないのだ。二人はやりきれない気持ちを抱きつつ、警察の限界を感じずにはいられなかった。

 ちょうどその頃から、廃工場の近くで自殺者が多発していた。

 その共通点は、そのほとんどが若い女性で、自殺の原因については、納得のいかないものも多かった。

 中には腕に注射の跡がある人もいた。

 地元署の刑事の間で次のような会話があった。

「覚醒剤か?」

「そのようですね」

「同僚の話によれば、たまにテンションが高いこともあるが、いつもは暗い性格だったという意見が多かったようです。まだ完全な常習者ということでもなかったようなので、覚醒剤による副作用で、自殺しようと思ったとも考えにくいですね」

「例の廃工場の連中は、全員覚醒剤中毒だったわけだろう? そのせいでお互いに殺し合ったということだが」

「やつらが何か絡んでいるのは間違いないようですが、今のところ証拠がありません」

「しかし、自殺が流行するというのも物騒になったものだな」

「はい、この間、そこの公園で自殺した女性は、本当に関係ないんですかね?」

「半年前に暴行されて記憶を失っていたという女性だろう? 気の毒には思うけど、管轄も違うし、証拠もないので、捜査のしようがないよな」

「ええ」

「可哀そうだが、迷宮入りかも知れないな。俺たちの方もそうならないように、しっかり捜査しないとな」

「はい」

 と言って、捜査は継続されたが、決定的な証拠は見つからない。

 三人の家をがさ入れしても、やつらが立ち入りそうなところ、さらには組事務所をがさ入れしたが、結局何も見つからなかった。彼らのようば臆病者は、猜疑心と恐怖に苛まれるようになると、証拠を隠滅したのかも知れない。

 そこに組が絡んでいるとすると、証拠隠滅には、抜かりはないだろう。覚醒剤の売買には欠かせない連中だったということもあるのだろうが、組としては、自分たちに火の粉が降りかかる前に処分したとも考えられる。

 ひょっとすると、三人が殺し合わなければ、組の方としても、彼らが少しでも役に立たなくなったりしたり、警察の捜査に触れそうになった場合は、速やかに処分されることは決定していたのかも知れない。

 警察の捜査力には、やはり限界があった。事件は結局迷宮入りとなり、どの事件も解決に至らなかった。すべての事件は単独とされ、自殺者は、原因不明の人が多かった。

 ほとんどの人は状況としては普通の自殺であった。死体に不審な点がある変死でもない限り、解剖されることはない。

 実は、彼女たちは皆暴行を受けていた。暴行を受けてはいたが、その場で自殺をしたというわけではなく、皆警察に訴えることもなく、しばらくは生きていた。

「ずっと暗かった」

 というのは、当然のことであるが、暴行に味をしめた三人は、犯行を薬の力を借りることで、自分たちの臆病を覆い隠していた。

 暴行した相手を殺すところまではさすがにできなかった。覆面をして相手に分からないようにしていたし、こちらは三人、相手は怖くて訴えることもできないだろうと、最後には恫喝もしていた。

 それでも、最後の方は相手の女性に覚醒剤を注射することで、口を塞ごうとも考えた。薬の売買にも利用できるので、一石二鳥だった。

 彼らとしては、組の中ではこれからだったはずだ。

 それなのに、殺し合った時は、河原で襲った女のことで皆が皆疑心暗鬼に陥り、極度の恐怖を煽っていたのだ。

「あの女の怨念だ」

 そう言いながら、仲間を殺そうと狂気の形相で殺し合う三人。この世の地獄だったに違いない。

 しかし、この男たちのやったことは、まったく許されることではない。怨念が渦巻いていたと言っても過言ではない。

 自分はまだ若い頃だったので、先輩刑事の意見を聞いて納得はできたが、それが警察組織の中では、何ら役に立たないということをその時初めて思い知らされた。

――いずれ自分が捜査の中心に立った時、できるだけ真実に近づいて、上を納得させられるような刑事になるぞ――

 と思うようになっていた。

 それから月日は流れ、今に至っているのだが、

――あれから何年経ったんだろう?

 と思うと、最初に河原で自殺した女性の子供がどうなったのか、今になって気になっていた。

 あの頃は先輩は気にしていたようだが、新人だった自分にはどうすることもできなかったので、気にしても仕方がないと思っていた。

――気にしたって僕には何もしてやれないんだ。気にするだけ自分が虚しい思いをするだけだ――

 と感じた。

 そう、あれから月日は流れ、十五年が経った。あの時の少年はすでに二十歳を越えているはずだった。

 一つだけ気になっていたことがあったのだが、それは自殺した母親はライラックの花が好きだと言っていた。

 敦の自殺した近くに、ライラックの花束が添えられていたのは、敦が死んでから初七日が済んでからのことだった。その花を誰が備えたのは、誰も見た人はいないのだが、最初に添えられるようになってから、それから定期的に添えられるようになった。

 この二つの結びつきは誰も知らない。ただ、一人だけ知っている人はいた。しかし、その人がこの話でどのような影響を及ぼすのか、誰も知らなかったのだ……。

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