後篇 舞踏会にて

 晩餐会の会場は、外とは別世界のきらびやかさだった。


 テーブルには、豪華な料理や宝石みたいなお菓子がたくさん並んでいる。会場には、うっとりするような音楽が絶え間なく流れていた。


 すべてがきらきら輝いてみえる。そんな中で、とりどりに美しく着飾った男女が、手に――きっとアルコールやレモネードなどが入った――グラスを持って、談笑している姿がそこここにあった。


 そっとホールへ忍び込んだアリシアは、なるべく目立たないよう壁際を移動して、バルコニーへつながる大きな窓のそばで立ち止まった。そこから、ルキノを探すように、こっそりとあたりをうかがうように見回してみる。


「あ、いたわ……ルカ兄さま」


 比較的すぐにルキノ姿を見つけることが出来たのは、彼が、会場でも目立って華やかでにぎやかな人だかりの中に属していたからだった。きっと、今日が社交界デビューとなるルキノは、話題の中心だったりするのだろう。


 紺青の夜空のようなシックなスーツ、それからジレ。いつもとすこしだけちがう雰囲気のルキノは、その場の誰よりもまばゆくみえた。


 まわりにいるのは同年代の青年貴族たちが多いだろうか。ルキノはほがらかに笑いながら、彼らと会話を弾ませているようだ。彼らのそばには幾人かの令嬢たちも集まっていた。


 アリシアはしばらく、その姿を離れたところから眺めやっていた。なんだかルキノが遠い存在に――物理的な距離のはなしではなくて――なってしまったような気がして、すこしだけさびしさが込み上げた。


 そのとき、ふと、ルキノが顔を上げる。


 はしばみ色の瞳が真っ直ぐにアリシアのほうをみた。


 彼の眼差しがっきりとこちらを捉えたのがわかって、どうしよう、と、アリシアは焦った。でも、いまさら逃げるわけにもいかない。そんなことをしたら、きっと、ルキノに怪しまれてしまうに違いなかった。


 真っ直ぐにこちらをとらえるルキノの視線に射すくめられたように動けずにいると、やがて、ルキノのほうが動いた。隣の青年にひとこと、ふたこと声をかけたかと思うと、そのまま人だかりから離れて、アリシアのほうへとやって来る。


「音楽が変わった。――俺と一曲、踊っていただけますか、レディ」


 アリシアのかたわらまで来ると、ルキノは優雅に腰を折って、礼をひとつ、にこやかに華やかに笑ってそう言った。


 こちらの意志をうかがうように、彼の手が目の前に差し出される。


 戸惑いながらも、アリシアはそのてのひらのうえに、自分の手指の先をそっと載せた。


「はい……よろこんで」


 言葉とはうらはらにためらいいつつそう答えた途端、ぐっと引きよせられて、気づけばホールの中央のほうへと導かれている。


 ざわ、と、まわりからさざめきが起こり、波紋のようにホール中へ広がっていった。みんながアリシアとルキノのほうを見ている。そのたくさんの視線を意識すると、アリシアは緊張でどうにかなってしまいそうだった。


 うまく踊れるだろうか。アリシアが一瞬にしてアクアマリンの瞳に不安を浮かべると、それに気づいたのだろう、ルキノが目をすがめてささやいた。


「大丈夫、俺に任せて」


 その言葉の通りだった。ルキノのリードに身を預けて、アリシアは、くるくると華麗にステップを踏むことができた。たのしい。自然に笑顔が浮かぶ。ルキノとアリシアの動きは、とても、ぴったりとしていた。だから、そのうちに、ついついダンスに夢中になってしまっていた。


 だって、十一歳のちいさなアリシアでは、こうはいかないのだ。


 将来のパートナーとして一緒にダンスの練習をしたことだってあったけれども、身長の差はどうにもならなくて、どうしたってさまにはならなかった。そのうちにルキノは、に、と、人の悪い笑みを浮かべると、ひょい、と、アリシアを軽々と抱きあげてしまったりもしたのだ。


 まるで高い高いでもされるように持ち上げられて、その場でくるくると回って、くつくつ、と、喉の奥でからかうように笑ったルキノに、アリシアは、む、と、くちびるを結んで、眉をひそめているしかなかったのだ。


 でも、いまは違った。ふたりは、周囲の人たちが思わず見惚みとれてしまうような、素敵なダンスを踊ることが出来ていた。


 たのしい。たのしい。


 そして、ルキノもまた、たのしそうだった。はしばみ色の瞳にやさしげな色を浮かべ、アリシアを見詰めて踊る。


 音楽がひと段落すると、ルキノはアリシアから手を離し、紳士の礼をした。アリシアも、ドレスの裾を優雅に摘まんで、淑女の礼をした。


 ほう、と、誰かがもらした思わずのようなひそやかな嘆息が聴こえる。アリシアが戸惑っていると、ルキノがやさしく笑った。


「みんなあなたと踊りたいみたいだ。次を狙って、様子をうかがってるな」


 続けて、こそ、と、アリシアにささやきかけてくる。アリシアは、え、と、思った。


 どうしよう、と、助けをもとめるように、ルキノを上目遣いに見上げる。ルキノ以外と踊るなんて考えたこともなくて、どうしていいか、アリシアは困ってしまった。


「こっち」


 すると、こちらの困惑を読んだかのように、ルキノがアリシアの手を引いた。


 そのままホールを出る。


 それどころか、侯爵家の屋敷の建物からも出てしまって、庭の片隅の、薔薇ばら灌木かんぼくが茂るあたりでルキノはようやく立ち止まった。


 そして、アリシアを振り返る。


「素敵なレディ。さっきは楽しいダンスをありがとう。――また、会えるかな」


 ルキノはアリシアを軽く引き寄せるようにすると、間近からアリシアの瞳をのぞきこんだ。こちらのプラチナ・ブロンドの髪をひとすじ、指ですくって、くるり、と、もてあそぶ。


「あ、の……」


 アリシアは言葉を探しあぐんだ。はいと言うのも違う気がするし、かといって、いいえといえば嘘をつくようでためらわれた。


 黙っていると、そのうちに、ほおにそっとてのひらを添えられた。はしばみ色の瞳がアリシアをじっと見詰めている。


 親指の腹でくちびるをなぞられて、吐息がまざるほどの距離にルキノの顔が近づいてきて、アリシアは思わずぎゅっと目を瞑っていた。


 キス、される。


 そう思った瞬間、いやだな、と、反射的に思っていた。


 ルキノとのキスが嫌なのではない。いまルキノがキスをしようとしている相手は、ルキノにとっては、アリシアではない女性なのだ。自分ではない誰かに彼がくちづけを贈ろうとしていることが、すごくすごく嫌だった。


 胸が苦しい。


 瞼が、じん、と、熱くて、アリシアは泣いてしまいそうだった。


 そのとき、くちびるが触れあうほんの手前で、ルキノが、ふ、と、わらった。


「――おい、俺のおちびちゃんリトル・レディ


 そう呼びかけてくる。


「どうやって化けたか知らんが、こんなふうに連れ出されて、俺以外の男にくちびるでも奪われたらどうするつもりだったんだ? ん?」


 そう言われ、アリシアはぱっと目を見開いた。


 まじまじと相手を見ると、ルキノは、に、と、片方の口の端を持ち上げて、意地悪げに笑んでいる。


「どう、して……?」


 いまのアリシアは、十一歳のアリシアとはまるでちがう、大人の姿をしているのだ。


 それなのになぜいとも容易たやすく正体を見破れたのか、と、目を丸くして問うていた。


「あ? 俺にお前がわからないわけがないだろうが、リーシャ」


 ルキノはてらいなくそう言った。


 アリシアは今度は別の意味で泣きたいきもちになった。


 否、もう、ぽろぽろと泣いてしまっている。込み上げるのは、ほっと安心したような、でも、すこしだけ腹立たしいような感情だった。


「……泣くなよ」


 ルキノが困ったように言って頭を掻く。


「ルカ兄さまが悪いの! あたし以外の女性ひとと楽しそうに踊って、あたし以外の女性ひとにキスなんかしようとして……!!」


 アリシアはうつむいて訴える。


「ってか、お前だってわかってたし。なんなら、キスはまだしてないし」


「でも」


 アリシアが言い募ろうとすると、ルキノは、ふう、と、呆れたような溜め息を吐いた。そして、わずかに苦笑する。


「ほら、もう泣くなって。俺はお前以外とはなるべく踊らないし、お前以外にキスしたりしないからさ。お前がおっきくなるまで、ちゃんと待っててやるよ」


 言いながら、ルキノはふところから手巾ハンカチを取り出して、アリシアの涙をいてくれる。


「口紅もとっちまえ。お前にはまだ早いよ。――ま、似合ってはいるけどな」


 そう言って、コーラル・ピンクのリップもきれいさっぱりぬぐってしまった。


 その途端、アリシアの身体はきらきらとした光の泡に包まれて、一瞬ののちには、もとのちいさなアリシアの姿になっている。


「あ、もどった。――ってか、どういうことなんだ、これ?」


 身体が小さくなったせいでドレスの右肩がずり落ちそうになっているのを、ルキノはさりげなく直してくれた。ついでに自分の上着をアリシアに着せかけてくれながら、不審げに、怪訝けげんそうに、はしばみ色の目を瞬いている。


「わかんない。でも、不思議なリップを買って、たぶんそのせいみたいなの」


 アリシアはちいさく首を振りながらそれだけを答えた。ルキノは、ふうん、と、詰まらなさそうに頷いた。


「ねえ、ルカ兄さま」


 しばらくしてから、アリシアはおずおずとルキノを呼んだ。


「さっきの……ほんとう?」


 相手に抱き上げられながら、うかがうように訊ねてみる。


「さっきのって?」


「だから……あたしが大人になるまで、ちゃんと待っててくれるって」


「そりゃあ、婚約者だからな。でも、そのかわり、その頃になったら俺をおじさん扱いするとかはやめろよな」


「え?」


「だってさ、お前が十八歳、麗しの淑女レディになる頃には、俺はもう二十五歳なんだからさ」


 くすん、と、肩をすくめつつ、ルキノはそんな軽口をたたいた。


 きょとん、と、一瞬、目をみはって、それからアリシアは、くす、と、笑ってしまう。


 もしかしてルキノだってすこしは年齢差を気にしていたのだろうか。不安だったのは自分だけではなかったのかもしれない、と、思うと、急にきもちが軽くなったような気がした。


「もちろんよ」


 アリシアは春先に可憐かれんな花のつぼみがほころぶときみたいに笑った。


「そりゃあ、よかった」


 ルキノは苦笑するみたいにちいさく笑んで、それから、抱き上げたアリシアのふっくらした頬に、ちゅ、と、ちいさなくちづけをくれた。

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はや・おと―年の差婚約者がハイスペックすぎるので早くオトナになりたいんです!― 豆渓ありさ @aoi_tsuki

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