はや・おと―年の差婚約者がハイスペックすぎるので早くオトナになりたいんです!―

豆渓ありさ

前篇 不思議なリップ

「なに、これ……」


 アリシアはつぶやいた。


 目の前の鏡の中には、すらりと長い手足をした、十七、八歳くらいのかわいらしい女の子が映っているのだ。


 誰なの、と、アリシアはおもう。


 でも、その少女には、たしかにアリシアの面影だってあった。


 陽の光を受けて透けるように輝くプラチナ・ブロンド。淡いアクアマリンの瞳。


 それに何よりも、着ている衣服が、アリシアが身にまとっていたものと同じなのだ。


「あたし、もしかして、おっきくなってる……?」


 青い瞳を大きくみはって鏡をまじまじとのぞき込み、アリシアは信じられない思いで言った。どうして、と、思いながら、くちびるにそっと触れる。


 おとなっぽくなりたくて塗ってみた、華やかなコーラル・ピンクの口紅リップ。きっと、これのせいなのにちがいない。


 アリシアは手の中にある、街で買ったばかりの一本のリップを見つめた。



 アリシア・フォン・シュタイアは、シュタイア伯爵家の一人娘で、現在十一歳になる少女だ。


 父のシュタイア伯爵は皇都の屋敷と領地の邸宅とを行ったり来たりしながら生活しているが、アリシアは貴族の子弟が通う学校への通学のため、普段は皇都にある屋敷で暮らしていた。


「おはよう、リーシャ。今日も相変わらずちっちゃいな」


 せっかく櫛で整えたばかりのアリシアのプラチナ・ブロンドを、ぐしゃぐしゃ、と、無遠慮に撫でるのは、ルキノ・ツィ・ランディヴルク。次期ランディヴルク辺境伯だった。


 アリシアとルキノとは、アリシアが七歳、ルキノが十四歳の時に――父親同士が無二の親友だからという理由で――婚約した仲だった。つまりルキアは、アリシアの未来の旦那様である。


 あれから四年がたち、十八歳になったルキノは、いまやすらりと背も伸び、すっかり大人という感じだ。今年、貴族学校を卒業した後は、領地経営を学ぶために皇都とランディブルク辺境伯領との往復生活をはじめるのだと聴いていた。


 やさしい亜麻あま色の髪。はしばみ色の瞳。文武両道で、やさしくて、恰好よくて、ルキノは貴族学校でもみんなの憧れの的だ。


 社交会デビューを心待ちにしているご婦人方、ご令嬢方も多いのだ、と、アリシアは父伯爵からも聴かされていた。


 でも、と、アリシアはおもう。


 ルキノがやさしいなんて、うそだ。みんなだまされている。きっと外面がいいだけだ、と、時々、アリシアは心の底からそう思った。


 その証拠に、学校へ行くためアリシアを迎えにくるルキノは、いつもきまって、ちいさなリーシャ、と、アリシアをからかうではないか。気にしているのを知っているくせに、と、アリシアは今日もルキノの意地悪にぷくりと頬をふくらませた。


「ルカ兄さまったら、ひどい。ちっちゃいって言わないでよ」


「だって事実だろ?」


「そうだけど……」


「まあいい、行こう」


 ルキノは肩を竦めて、まだぶすくれているアリシアを馬に乗せる。自分もまたがって、手綱を取る。いつも通りの通学風景だった。


 馬をるルキノの顔を、ちら、と、アリシアはこっそりのぞくように見上げてみる。


 凛々りりしい眉、涼しげな目許めもと、通った鼻筋、いつもちょっとだけ口角の上がった口許、細いあご


 恰好いいな、と、思う。ドキドキしてしまう。


 でも、それが、アリシアにはすこし口惜くやしい。だって知っているからだ。アリシアはルキノの婚約者だけれど、ルキノはアリシアのことを、きっと妹みたいにしか思ってはいなかった。


「ねえ、ルカ兄さま」


「ん?」


「兄さま、今夜、ドナス侯爵家の晩餐ばんさん会にお招きされてるってほんと?」


「まあ……招待自体は、ランディヴルク辺境伯家てのものだけどな。今晩は俺が行くよ。十八歳せいじんだし、おかしくないだろ?」


「そうよね……」


「まだちっちゃなリーシャには縁のないはなしだけどな」


 からかうようなルキノの言葉に、アリシアはむっと押し黙った。


 でも、そのあとで、そっと溜め息をつく。


 そう、アリシアがいまいちばん気にしているのは、そのことなのだった。


 ルキノは先頃、十八歳の誕生日を迎えていた。ロインセイン帝国では十八歳が成人年齢で、以降、大人として扱われるようになる。貴族の子弟が本格的、日常的に社交の場に顔を出すようになるのも、その年齢からだった。


 アリシアより一足はやく成人おとなになったルキノは、これから社交の場で――年若い貴族の子弟の多くがそうであるように――恋の駆け引きを楽しんだりするようになるのだろうか。


 アリシアはルキノの婚約者だけれど、結婚はアリシアが成人してからになるから、まだだいぶ先のことだった。それまでの間に、ルキノは恋人をつくるのかもしれない。もしかしたらその恋人との結婚を望むようになって、アリシアとの婚約を破棄しようとする日だって、絶対に来ないとも言い切れない。


 ちいさくて、七歳も年下で、妹みたいな存在でしかないアリシアよりも、ずっとずっと魅力的な女性に、ルキノが出逢ってしまったらどうしよう。心を奪われてしまったら、どうしよう。


 そう思うと、アリシアの胸はしくしくと痛み、なんだか苦しくなってしまうのだった。


「あたしも晩餐会に行けたらいいのに」


 アリシアがくちびるを尖らせて不満をもらすと、はは、と、ルキノは軽く笑った。


「まだまだ早いよ、おちびちゃん」


 そうして、アリシアの頭をまた無遠慮に撫でたのだった。



 ルキノとそんな遣り取りをしたのが今朝のことだ。


 貴族学校からの下校は――終業の時間がちがうので――ルキノとは別々である。シュタイア家の使用人が迎えに来てくれての帰り道、アリシアは今日は街にある、いろいろなお店が並んでいる通りに立ち寄った。


 そうだ、お化粧品を買ってみよう、と、そんなことを思い立ったのは、ルキノに小さな子供扱いされたのが――いつものこととはいえ、ルキノが初めて本格的に晩餐会に出掛けていくのだという今日この日に限っては――いっそうに口惜くやしくて、悲しかったからだ。


「あたしだって、大人っぽいメイクをしたら、ちょっとくらい淑女レディらしくみえるようになるんだから!」


 そう意気込んでいたアリシアは、異国風のローブをまとった、目をみはるほどうつくしい女性から、一本の口紅リップを購入したのだ。これをひと塗りすればたちまち大人に変身できる、と、薦められたリップは、華やかできれいなコーラル・ピンクのそれだった。


 はじめて手にしたリップに、アリシアの胸は高鳴った。


 家に帰ってさっそく鏡の前に座り、アリシアはリップを塗ってみた。


 すると、どうだろう。


 アリシアのまわりには急に、ぽわん、ぽわわん、と、光のあわのようなものが次々と浮かび上がった。それがふくらみ、やがてアリシアの身体ぜんぶを包み込んだかと思うと、全身がほんのりと熱くなった。


 そして、いったん真っ白に染まった視界の中で、きらきらと光彩がはじけた瞬間、鏡に映っていたのは、十七、八歳の――すなわち、ルキノと同じ年頃に成長した――アリシアだったというわけである。


 もちろん、びっくりした。


 なにこれ信じられない、と、思った。


 でも、ためしにリップを拭いてみるとアリシアの身体は元に戻って、だからアリシアは、この驚くべき出来事は、不思議なリップのもたらした奇蹟にちがいないと確信した。


「これがあれば……あたしだって、晩餐会にいけるわ」


 なんといっても、リップを塗ればアリシアは、妙齢の令嬢の姿になっているのである。


 たとえば母のクローゼットから華やかな夜会用ドレスを拝借して、もっとちゃんとお化粧をして、それから憧れのハイヒールだっていて、今夜はこっそりドナス侯爵家で行われる晩餐会をのぞきに行ってみようか。シュタイア伯爵家にもきっと招待状が届いているから、それを持っていけば、追い返されるようなことはないに違いない。


「ひと晩くらい……きっとだいじょうぶよね」


 王侯貴族たち集まる、きらびやかな社交の場。ものすごく小さい頃、父に連れられて出かけて行ったことが、一度だけある。ほんの、ぼんやりとした記憶だ。


 ひとりで平気かしら、と、そんな不安はあるけれども、でもアリシアの中ではその気持ちよりも、ルキノがそんな社交の場でいったいどんな振る舞いをしているのかを見たい、と、そんな想いのほうが上回った。


 アリシアは、うん、と、ひとつうなずくと、必要なものをそろえるべく、さっそく自室を出たのだった。

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