第3話 洗濯機
大学敷地内に木々を植樹され、人工的に作られたビオトープ的な森の奥に、小熊の目指す場所はあった。
大学棟やサークル棟に出入りする人たちから姿を隠すように存在するプレハブ二階建て。
小熊が伝え聞いた話によると、このプレハブは、大学としては比較的新しいこの公立大学が建築された時に建てられた建築、土木作業員用の宿舎で、取り壊しの作業、あるいはそれに必要な人員と予算の編成を施工者が忘れたのか、解体されることなく残されたプレハブを現在占拠している人間は、建築会社の資産であり所有物、本来なら建材として解体され別の工事現場で再び宿舎や事務所の用途に供するであろうプレハブを、騙し取りに等しい方法で窃取し、大学サークル部の別棟として登録させたらしい。
つまり、所有も納税も、維持コストの支払いすらしていない。
噂に専ら真実味を持たせているのは、その噂の主の人格と行状だが、正直なところ他の大学在籍者よりもその人物の近くに居る小熊も、それぐらいのことはやりかねないと思った。
プレハブの前にカブを駐めた小熊はドアチャイムらしき物の見当たらないプレハブ一階のドアを、ノックの類をすることなく開けた。
事務所として使われているプレハブではよく見かけるアルミ製の引き戸で、桟のレールに全く歪みが無いのか開閉は滑らかだが、銀行の金庫室のような重厚さが掌に伝わってくる。摺りガラス風の加工が施されたポリカーボネイトのガラスは、京極夏彦の文庫本ほどの厚さがあった。
これでもプレハブ二階にある部室のドアほど分厚くない、小熊は将来、自分の住む木造平屋や鉄筋の大学棟が崩壊するほどの大災害が起きたらここに逃げ込もうと思った。
室内はこのプレハブを占拠している大学サークル、節約研究会の所有する大学内外の不用品で埋め尽くされていた。
殺人現場から貰ってきたという冷蔵庫、監察医務院から貰って来たという死体から剥ぎ取った高級時計、持ち主に内緒で家人に処分されたという金属製モデルガン、それらの物々の間に、小熊がここに来た目的の物があった。
斜めドラムの洗濯乾燥機。まだ新しい国産の上位機種だが、どうやら衣類の洗濯とは別の使途に使われた結果、当局に押収され、最近になって押収品の放出で落札されて来たらしい。
よほど縁起の悪い事に使われたのか、官公庁のオークションに根を張っている中古品買取業者が誰も入札したがらなかったという洗濯機を開けた小熊が、着ていたずぶ濡れのトレンチコートを脱いでいたところ、部屋の奥から声がした。
「お洗濯ですか? 小熊さん」
若草色のワンピースを着た小柄な少女、小熊と同じくこの大学の一年に在籍する、節約研究会、通称セッケンのサークル部員、春目が姿を現した。
「洗濯するならこの洗剤を使うといいですよ」
春目が差し出した手漉き再生紙で作られた紙箱の中身は粉石鹸。あらゆる不穏な金儲けに手を染めている節約研究会の表向きの活動である、自家製石鹸の制作活動の中で作られ、活動実績を作り大学から予算をせしめる為に文化祭でも頒布されているが、評判は悪くないらしい。
小熊は自分のトレンチコートの入った洗濯乾燥機を指しながら答えた。
「乾かすだけだから」
春目は洗濯乾燥機に洗剤を入れ、勝手に操作しながら言う。
「そのコート、ちゃんと洗ったほうがいいですよ、雑巾を着てるみたいです」
大きなお世話だと小熊は思った。トラディショナルなトレンチコートやダスターコートを下ろした時は、わざと車の整備や野外活動に使って汚れさせてから着るという、英国式のお洒落を知らないらしい。
それは知り合いのブリティシュ・ライフスタイル愛好家からの受け売りだが、通販のカタログに載っているような下ろしたてのトレンチコートより、自分の生活に合わせてほどよく汚れたコートを着た姿は嫌いじゃない。少なくともモデルに着せて撮るだけの日本の通販カタログではなく、映画のシーン映像がよく使われる海外のカタログでは、俳優や女優はほどよく汚れたコートを着ている。
レインコート姿で有名な「刑事コロンボ」でピーター・フォークが着ていたバーバリーのレインコートは、新品を鍋で煮るなどして汚し、くたびれさせていて、ハンフリー・ボガードのトレンチコートも、砂漠の砂をこすりつけて風格を出したらしい。
小熊は自分がそれらの映画スターのような器量に恵まれているとは思っていなかったが、少なくとも新品のコートを着るほどお上品な人間では無いと思っている。
春目は洗濯乾燥機の中で回り始めたコートを満足気に眺めながら言う。
「うちの洗剤は凄くよく汚れが落ちるんですよ」
春目の着ている麻のワンピースは、こまめに洗われているらしく汚れは見当たらない。以前聞いたことがあるが、春目は洗濯だけでなく、皿洗いや風呂、洗髪や掃除までこのセッケン自家製の粉石鹸で済ませているらしい。
高校の頃に災害で親を亡くした彼女は、自治体の怠慢のせいで貧困の限りを尽くし、その金銭状態は今もさほど変わっていない。
とりあえず今のところは、石鹸がいい仕事をしているらしき春目の肌は赤子のように滑らかで、褐色の髪もふんわりをしていていい匂いがする。
小熊は仕事先で手入れのいい犬にじゃれつかれた時のことを思い出した。
春目がいきなり来た自分の洗濯を手伝ってくれるのは、自分にこの部室に長居して貰いたいからだということは小熊にもわかっていた。小熊はもとよりこのサークルに出入りしているだけで、部員というわけでは無い、今まで何度か行われた勧誘については、主にこのサークルで部長を務める人間の人格が信用できないという理由で固辞している。
プレハブの外から雨音が聞こえる中、洗濯機の回る静かな音が響く。
自分のうちにある洗濯機とはえらい違いだと思った。
確かあの洗濯機も小熊がここで貰った物で、千葉のタコ漁師が廃業するので貰って来たという今時珍しい二層式洗濯機は、回すたび機関銃のような音を立てる。
今まである旧家の取り壊しで貰ってきた桐箪笥の修理をしていたという春目は、一休みすることにしたのか小熊の傍を離れようとしない。それとも、雨という天気は人を淋しく、人恋しくさせるのかもしれない。
元より無口な春目は、さっきから洗濯機が回る様を黙ってずっと見つめている。心理学の講義で聞いたことがあるが、洗濯機の回る音と言うのは子供が母胎内で羊水に浸かっている時に聞く音に似ていて、人を落ち着かせる効果があるらしい。
正直その話を聞いた時、小熊は半信半疑だった。小熊の母が妊娠中に機関銃を撃ちまくったなんて話は聞いたことが無い。
音楽ひとつかけぬプレハブの一室で、間が持たなくなった小熊は春目に聞いてみた。
「私とあなたって、友達かな?」
それまで洗濯機の回る音に耳を傾けていた春目は、信じられないものを見る目で小熊を見た。
しばらく目を見開いて小熊を見ていた春目は、なにかとても怖い物に出くわしたかのように両手を前につきだしながら後ずさりし、首を激しく左右に振った。
以前小熊がこのサークルから勧誘を受けた時、売り物として溜めこんだ不用品を何でも持って行っていいという権利を得たが
セッケンにはまだ、自分の物には出来ない資産があるらしい。
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