第2話 鉛色とカエル色
慣れない仕事で夜更かししたにも関わらず、目覚めはそこそこ良かった。
夕べは原付デリバリーマニュアルのダメ出し作業を、日付が変わる少し前に切り上げて店を出た。
深夜のハンバーガーショップで、小熊以外唯一の客だった桜色のカーディガンの少女は、小熊がトレイを持って席を立つと、一瞬視線をこちらに向けたが、すぐに視線をタブレットに戻す。
同じフロアに居合わせただけの客。当然挨拶の類をすることなく店を出た小熊は、先ほどより少し強くなった雨足にやや閉口しながら、トレンチコートを着てカブ90に乗り帰路についた。
ギリギリ零時を過ぎる前に木造平屋の自宅に着いた小熊は、カブを庭に置かれたスチール製のコンテナに仕舞い、施錠した。
明日も大学まで行く用でカブを使うし、そういう時は出し入れしやすい縁側にカブを駐めることが多かったが、雨の夜というのは色々な作業の音が雨音で隠され、痕跡も雨で洗い流されるのでバイクの盗難リスクが晴天時より上がることは知っていた。何より大事なカブが雨晒しになるのはあまり気分がよくない。
家に入りトレンチコートを脱いだ小熊は、ハンガーに架けたコートを風通しのいいキッチンとリビングの間に吊り、シャワーを浴びた後、夕飯をやや手抜きの豆腐とワカメの入った味噌煮込みうどんで済ませ、明日の講義の準備をして眠りについた。
まだマニュアル監修の仕事は残っていたが、提出日までにはまだ余裕があるし、夜更かしをする義理も無い。
翌朝、豊作ラジオという名のついた吊り下げ式のラジオでNHK-FMを流しながら、バターを塗った四枚切りのトーストと半熟卵、長野黒姫の知人が送ってくれた鰊の燻製、英国風の朝食をミルクティでしめくくった小熊は、夕べの霧雨がまだ止んでない鉛色を眺めながら、昨日干しておいたトレンチコートに袖を通し、明るい黄緑色のコンテナからカブを出した。
小熊のカブの保管場所であり、整備スペースで部品倉庫でもある奥行40フィートのJR貨物コンテナ。このコンテナが敷地内に置かれていることは、小熊がこの木造平屋の賃貸を決めた大きな理由だった。カブを盗難から守れて雨に濡れず整備が出来て、何よりバイク仲間が羨ましがる。
庭にコンテナを置きたいと言うバイク乗りは小熊の知り合いの中にも何人か居たが、家族の圧力や搬入、設置コストを考えると普通の物置より高価だという理由で諦めている。
寒さで手がかじがんだ時や手袋を着けている時にも確実に操作できるドアハンドルを操作しながら、小熊はもう一つこのコンテナのいいところに気づいた。
かつてはJRの貨物列車で使われていたというカエル色のコンテナは、雨によく似合う。
雨足は夕べより強くなっていた。
豪雨時の防水透湿性に優れているが着脱が面倒なゴアテックスのレインウェアを着ず、やや生乾きのトレンチコートを着てきたことを後悔し始めた頃に、カブで十分ほどの距離の大学キャンパスに到着した。
バイクに乗って走ってると、雨は上からだけでなく前からも降る。雨の時にも優れた性能を発揮するカブのウインドシールドのおかげで全身ズブ濡れにはならなかったが、袖や裾からは水が滴っている。
どこかにコートを干すにせよ、講義が終わる頃までに乾くかどうか、大学の棟全体が雨と、雨具や傘を持ちこんだ大学生のせいで湿気の濃い空気になっている。
講堂の隅にある上着掛けにコートを架けるが、他の架けられたコートやジャンパー、ケープも雨に濡れている。
将来自分がサラリーマンになった時に、勤務時間終了までデスクの前に座り続ける忍耐力を養う以外なんの役にも立たない人文学の講義を終えた小熊は、あることを思い出しコート架けのコートを掴み、講堂を出た。
相変わらず振り続ける雨の中、一度駐輪場に駐めてあるカブの所に寄った小熊は、カブのリアボックスからブッシュハットと言われる木綿布の丸縁帽子を取り出して被り、トレンチコートの襟を立てて大学敷地の奥へと歩き出した。
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