スーパーカブ9

トネ コーケン

第1話 雨

 今年の梅雨入りは、去年より少し早かった。

 六月の頭に台風並みの大雨が降ったのを機に、関東の梅雨入り宣言が気象庁より発表されたが、初盤の大雨で天の水瓶の残量が心細くなったのか、ここ数日は小雨が降ったり止んだりの日々が続いている。

 通学やバイトのみならず、日常の生活や趣味にもスーパーカブを使っている小熊にとって、バイクでの行動がいささが制限される雨はまことに憂鬱なものだったが、バイクに対応したレインウェアのおかげで、何とか小熊とカブの生活は滞りなく機能していた。


 その日の小熊は、霧雨と小雨の間くらいの空模様の中、自宅からカブで十分ほどの距離にあるハンバーガーショップに向かっていた。

 時刻は夜から深夜にさしかかろうという頃。スーパーやファミリーレストランは閉店している。濡れたアスファルトは街灯や車のヘッドライトを反射していて、その中に夜中で灯りの点いた一般家庭の窓が見える。

 一家団欒というには少々遅い時間の窓明かりの中に、テレビを見ながら会話を楽しんでいるらしき家族の姿が見えた。

 一人暮らしの自分には縁の無い人々の営みを見せられた小熊は、カブのスロットルを回し目的地へと急いだ。

 

 小熊がバイクを駐めたのは大学の近隣にある店だった。幹線道路のロードサイド沿いに店を構える大手チェーン系のファストフードレストラン。

 通行人。あるいはバイク泥棒の視線を避けられる店の裏手に駐輪場がある構造を気に入っていて、これまで何度か利用していた。

 店に入り、夜の遅い時間だからか他に客の姿が見当たらないレジカウンターに向かう。

「いらっしゃいませ」

 深夜勤務で退屈そうだった店員が、小熊に笑顔を見せる。

「ホットコーヒーとアップルパイ、二階席に居るから持って来て頂けますか」

 小熊は以前このハンバーガー・チェーンで催されたイベントで、急遽必要になったコスチュームのバイク便輸送を引き受けたことがあった。その報酬と次の仕事の打ち合わせをこの店で行った時に、小熊がチェーンの重役と対等に話し、急送費を値切ろうとする重役に自分の要求を明確に告げる姿を店員に見られて以来、この店は小熊にとても丁寧な接客をしてくれる。それはありがたくもあり、店に無名の一利用者では無く特別な客として認識されるのは、少し煩わしくもある。


 店員は二階席と聞いて、一瞬少し複雑そうな顔を窺わせたが、すぐに愛想のいい態度に切り替えて「かしこまりした」と一礼する。

 大窓越しに行き交う人を眺められる構造で、多人数用のソファ席が多いため、食事よりお喋り目的の騒がしい客の多い一階席に比べ、夜間は空いていることも多くBGMの音量も静かな二階席への階段を、勝手知った様子で昇ろうとする小熊に店員は言い添えた。

「ごゆっくりお過ごしください。何か困ったことがあったらすぐにお伝えください」

 コーヒー一杯飲むくらいで困り事が起きるとは思えないし、店の周辺も強盗と警官の撃ち合いでも始まるほど治安が悪いとは思えない。小熊は適当に聞き流して二階へと向かった。


 少人数向けの客席が規格的に並べられた二階席は、とても静かな空間だった。

 小熊が外部の人間に見せられない大学の論文や仕事の書類を広げる時によく利用している、二階最奥の席に落ちつこうとすると、薄暗い席には先客が居た。

 席についていた客は、まだ少女といってもいい外見の若い女性だった。

 服装は濃茶色の地味なジャージ上下に桜色の手編みらしきカーディガンで、分厚いレンズの眼鏡をかけている。全体が地味な印象だからか。あまり似合わむカーディガンの色が反射し、褐色の長い髪までピンク色がかって見える、目を伏して手元のタブレットを見ているからか、視線が鋭いようには見えない。どうやら店内の治安を悪くする類の人間では無いらしい。


テーブルの上にはホットコーヒー一つだけで、ハンバーガーやサイドメニューの類は見当たらない。人目につかぬ最奥の席に居る彼女にお気に入りの場所を奪われた小熊は、とりあえず二階フロア内でピンクのカーディガンの少女と対角線上の位置にある、窓際の四人席に落ち着いた。

 ここに来るまでに振られた小雨のせいで水玉模様になった紺色のトレンチコートを脱ぎ、ハンガーに架けた頃、店員が小熊のコーヒーとアップルパイを届けに来た。


 コーヒーの盆を持った店員は、テーブルにiPadとワイヤレスキーボードを広げている小熊に話しかけた。

「お仕事ですか?」

 世間話が苦手な小熊は、店頭に並べられた配達用の原付を窓越しに指差しながら言う

「あんたんとこの重役に、デリバリー業務マニュアルの精査と監修を頼まれたんですよ」

 店員はにこやかに答える。

「小熊さんなら我々店員を危険に晒すマニュアルは作らないでしょう、何かありましたらすぐにお呼びください」

 小熊には店員の態度より、店の奥に居るピンクのカーディガンの客をチラチラ見る視線のほうが気になった。

 店員が去ったので、小熊はまだ熱いコーヒーの香りだけ楽しみ、意識を目の前のiPadに切り替えた。

 ろくな研修もせず、原付免許保持者にはいきなり配達業務をやらせるマニュアルに真っ先に赤いチェックを入れ、近隣にある府中運転免許試験場や各教習所で行っている原付バイク安全講習を受講させるべきと書き添えた。


 どうやら相応の報酬が出る美味しいバイトだと思っていたが、意外と時間がかかる仕事になるらしい。

 小熊が在籍しているバイク便会社P.A.S.S.の社長。能率と合理性の権化のような葦裳社長は、なぜこんな仕事を自分に押し付けたんだろうか。きっと大学生でヒマな身だということを考慮して選任されたんだろう。

iPadの画面を見続けて少々疲れた小熊は、窓越しに外の風景を見る。ロードサイドの店舗は流れる車くらいしか見る物が無いが、幹線道路を挟んだ向かい側には、灯りを点す居酒屋がある。


 店の窓には、騒がしそうな酔客の姿が見える。この時だけは高い視力に産んでくれた母親に感謝した。

 小熊はコーヒーを一口飲み、店内を見回した。居るのは自分とカーディガンの少女だけ。向かいの店には、仕事後に一緒に飲みに行く友人に恵まれた奴ら、ここに居るのは一人で居るほうが居心地がいい自分と、おそらく同じであろうカーディガンの少女。


 小熊は自分が孤独な人間だとは思って居なかった。高校時代には友人といえる同級生が居たし、今もバイト先には同じバイク乗り同士、気の合う仲間が何人も居て、大学にはあれを友達とは到底認めたくないが、サークル仲間が居る。

 でも、今の小熊には友達が居ない。

 それが何か問題あることなのか、小熊は少し考えたが、特に実害を及ぼす要素は無いことに気づく。


 あまり気分の良くない考え事をするより、今は友達とかいう基準が不定形のものよりずっと頼りになる金銭をもたらしてくれる作業に思考を集中すべく、マニュアルの検証作業を再開した。

 ファイルの余白に孤独、と打ち込みすぐに消した。

 孤独なんてものは、知覚できる苦痛の無いもの。日々悩み事を探している暇人の悩みでしかない。今の自分には孤独になる暇は無い。

 小熊は自らが孤独の端境に居ることに気づいていなかった。

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