6 - 2 響野
無藤家は燃えた。
響野の想像通り、無藤明星の両親と祖母は『農作業に出る』という理由で、初子が絹代に変貌する時間帯は家を離れていた。
初子は、渋谷で発見された赤ん坊の遺棄という罪に問われて警察に連れて行かれた。無藤家に火を放ったのは市岡稟市だが、彼がどのように放火をしたのかを知るものはおらず、稟市は偶然居合わせた弁護士ということで大した罪にも問われず響野とヒサシと合流した。
市岡稟市は狐の神社の人間だ。彼が狐火を扱って化け物を燃やすということを、警察は知らない。
無藤明星は姿を消した。
逃げたわけではない。まるで最初からそこにいなかったかのように、消え去ってしまった。無藤家やその周囲の人間たちも「明星なんて名前は知らない、心当たりもない」と口を合わせて言った。初子は遠縁の親戚ということになっていた。初子の中からも無藤明星の存在は抜け落ちていた。
「知ってたんです」
無藤絹子だけが、そう言った。
「本当は私と明星が子どもを作って、その子を井戸に沈めなきゃいけないって。そういうしきたりだって。でも、怖くて」
七花を抱く絹子は、震える声で言った。
「そうしたら、初子さんが、来て」
初子が来てしばらく経って、七花が「きぬよちゃんがいる」と言うようになった。眠っているあいだに口から髪の毛を吐くようになったのもその頃だ。初子は七花が吐く美しい髪の毛を使って小物を作り、インターネットを介して売るようになった。何を作っても高く売れた。絹代と呼ばれていた神だか化け物だかの恩恵だと明星は言った。絹子には七花を取り戻すことができなかった。恐ろしくて逃げた。
「初子さんに七花を押し付けて、自分だけ、外で」
七花のことは諦めようと思った。諦めきれなかった。
「教えて、弁護士さん。明星はいったい、何だったの」
問いかけに、稟市は答えなかった。
答えを持っていないのだと、響野は思った。
東京に戻る。猫田を殺したのはやはり五橋典子ということになっていた。だが、五橋、猫田ともに精神錯乱状態にあったということで、警察の捜査は行き詰まっていた。五橋の弁護は市岡稟市が行うことになった。友人の櫟曜子には何も悪いことが起きていなくて、安堵した。編集長の草凪が退院した。死ななくて良かった。響野と草凪の職場復帰は同じぐらいのタイミングだった。喫煙所で煙草を吸っていたら、非喫煙者であるはずの草凪が唐突に現れた。
「あのさ」
草凪は、大変気まずい顔で口を開いた。
「おまえ、見たか? 編集部に送られてきてた」
「さあ」
響野は短く応じた。
「分かんないです。でもあのビル、なんか壊れたらしいですね」
「ああ……」
草凪はすぐに喫煙所を去って行った。響野は無藤初子と無藤明星、そして死んだ灰沖国広のことを考える。灰沖国広から、もっときちんと証言を取っておけば良かったのだろうか。それであれば、展開は少しは違ったのだろうか。
無藤絹子は地元を離れたらしい。市岡稟市から聞いた。
「八面六臂の活躍ですね」
「もっとだよ。ただの弁護士だぞ俺は」
七花が髪の毛を吐くこともなくなったという。無藤絹代が今どこでどのように生活しているのかを、響野は聞かなかった。
「ヒサシ、無事ですか」
「元気だよ。もう、つるぎのことも見えないらしい」
「そうですか」
髪の毛の海。そこに立っていた『つるぎおねえちゃん』。
幻だったのか。それとも。
「なんか……なんだったんすかね」
市岡稟市の法律事務所で、響野憲造は呟いた。
「何が?」
「全部」
「全部ね」
煙草に火を点けながら、市岡稟市は溜息を吐く。
「俺言っただろ。あの世から送られてきた手紙だって」
「ああ、あの読者投稿」
「あれは、あの井戸。井戸ん中の赤ん坊が送ってきたんだと思ってるよ、俺は」
「……」
「もうやめてくれって。そういう悲鳴だったんじゃないかな」
S県から東京に戻り、響野はまず例のビルに関係して取材した相手の無事を確かめて回った。幸いにも灰沖国広以外に死者は出ておらず、直近まで病院に入院していた者や、髪の毛を吐くという症状が出ていた者も、皆無事に生きていた。
「赤ちゃんの死体」
「屍蝋になって綺麗に残ってたっていう、な」
「ほんとに、初子さんの……」
「そっちはもう警察の仕事だ。俺たちにできることはほぼない」
「……っすね」
そうだ。稟市の言う通りだ。
「響野くん」
「はい」
「誠実でありなさいよ。俺から言えるのはそれだけ」
「……はい」
横浜の秋は元気だろうか。木端はどうしているだろう。探偵の間宮は。女たちに随分と振り回されたが、女たちに力も借りた。秋が女性かどうかは未だに分からないままだが。
「真面目にやるっす」
「うん」
それじゃあ、と頭を下げて、法律事務所の来客用ソファから腰を上げた。
外は良く晴れていた。久しぶりに、もう何年も顔を合わせていない実母と継父、それに血の繋がらない姉たちのことを考えた。
他人の話だ。
友人の清一と、それに曜子と、近いうちに食事でもしよう。何を見たのか、何が起きていたのか、語れる範囲で語ることにしよう。
遠くから、赤ん坊の泣く声が聞こえてきた、ような気がした。
全部、気のせいだ。
おしまい
つながれぬまま 大塚 @bnnnnnz
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